11.新生活の日々
朔弥さんとの新生活は、驚くほど穏やかに、あっという間に数日が過ぎた。
初日からこの家は、まるで昔から住んでいたかのように馴染み、不自由も不安もなかった。
平日は朔弥さんはお仕事へ行く。
帰ってくるのは遅くなるかしらと思っていたけれど、夕食前、日の沈むころには帰ってきた。花江さんが「お帰りが早いですね」と言っていたので、今まではもっと遅かったそうだ。
朔弥さんは「新婚だから、早く帰れって言われてるんだ」と苦笑交じりに話していたけれど。――私としては、朔弥さんが早く帰ってきてくれる方が、嬉しいのでありがたい。
私はといえば、朝起きて、花江さんと一緒に朝ごはんの支度をし、朔弥さんを見送ってからは、軽く掃除を手伝い、あとは花江さんとテレビを見ながらお茶をしたり、絵を描いたりして過ごしていた。
花江さんはすごく過ごしやすい距離を保ってくれる人で、それが快適だった。
私が「すいません」と声をかけないかぎりは、必要以上に心配してくることもない。
実家では、お母さんがずっと私を見ていて、十分おきくらいに「大丈夫? しんどくない?」と、まるでタイマーのように声をかけてきた。それが当たり前だと思っていたけれど、この家に来て初めて気づいた。
激しい運動なんかはできないけれど、家の中の仕事程度であれば、特段の問題なく身体を動かせることに、私はこの家に来てから初めて知った。
木曜日、お母さんが家に来た。
私は週に1度、絵画教室に通っているため、その送迎に来てくれたのだ。
絵画教室のあと、家に寄ってリビングに来たお母さんは、お茶を飲みながら聞いた。
「凛、大丈夫? 困ったことはない? 疲れたらいつでも家に帰ってきても……」
「お母さん、別に、だいじょ」
その時、お茶を運んできた花江さんが、珍しく会話に割り込んできた。その声音に、思わずびくりとした。
「凜さんのお母様、凜さんは心配させないように、そう言っておられるのですが……たまにとても、苦しそうな顔をしていて……」
「そうなの?」
お母さんは、顔を青くして立ち上がった。
勢いで、卓上の紅茶がカチャンと音を立てて揺れたくらいだ。
「そんなことないわ……」
私も顔が青くなった。こんな様子だと、手を引っ張ってでも実家に連れて帰られそう……、そう思うと、心音が早くなって冷や汗が出てきて、胸の奥がざわつき、息が浅くなって、思わず机にうずくまった。――この病気の厄介さは、心の揺れがそのまま体を締めつけることだ。
「凜さん!?」
慌てたような声は、お母さんではなく花江さんだった。
「ちょっと、休みたいので、2階に行きます。ごめんね、お母さん」
お母さんにそう言って、花江さんに付き添ってもらって2階に上がる。
途中で、花江さんに言った。
「――花江さん、心配してくれて有難いのですが、私は、ここの家にいたいんです」
先ほどのお母さんへの言葉は、普段の花江さんからするとおかしな様子だった。
――心配してくれたのか、何か事情があったのか。
「――そうなんですね。すいません、出過ぎた言葉を……お母さまには、ご帰宅してもらいますね」
そう言って、花江さんは私を布団に横にすると、頭を下げて去って行った。
その日は、お母さんは帰って行ったけれど、夜電話があった。
私は「大丈夫よ」を繰り返し、何とか電話を切った。
これからしばらくは、毎日電話をしなければと思うと、心臓が重くなる感覚がした。
寝室で眠れずに目を開けていると、朔弥さんが部屋の端の布団の中から声をかけてくれた。
「――凛さん、大丈夫? 今日、体調を崩したと聞いたけど……」
「ちょっと、お母さんが家に来たんですけど、私のことをとても心配してしまって。実家に帰らないかと何度も言うので――有難いんですけどね……」
私は布団の中で丸まった。
「それは、申し訳ないな。週末、一緒に凜さんのご実家に行こうか」
朔弥さんは布団から起き上がって、そう言ってくれた。
***
翌日――金曜日の朝、朔弥さんを玄関で見送った。
朔弥さんは珍しく、朝寝坊をしてしまって、いつもはきっちり持って行く四角い茶色い皮の鞄を朝慌てたように詰めていた。そのうえ、玄関を出る時に、バッグを置いたまま、外に出ようとしていた。
「朔弥さん、バッグを忘れて……」
私はバッグを見た。中には何か硬いような、柔らかいような、不思議な感触の膨らみがあり、チャックは半端に開いていた。閉めようと指先を伸ばしかけた瞬間、私は息を止めた。 チャックの中には、肌色の柔らかな布地でできた、小さな足――まるで赤ちゃんの足のようなもの――が見えたのだ。
「急ぎますね」
朔弥さんはバッグを抱えて、走って玄関を出て行ってしまった。
はらりと、1枚の書類を残して。




