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東京帝国女学院 四季の情話

冬はつとめて。

作者: 真野真名




 早朝の空気が、鼻の奥を刺すように冷たい。

 藤己澄子ふじき すみこは、まだ白む前の寄宿舎の廊下を、足音を忍ばせて歩いていた。


 誰もいない校舎の朝。

 硝子窓の向こうに、わずかに雪がちらついている。

 吐く息が白くなるたび、なんだか自分が物語の登場人物になったような気がする。


「冬はつとめて、か……」

 彼女は小声でつぶやいた。


 この冬は、今までとは少し違う。


 戦争が、本格的に重たくなってきたのだ。



 東京帝国女学院の二年生ともなると、勉学よりも「お国のため」が何より優先される。

 配給の手伝い、慰問袋の縫製、兵器工場での勤労奉仕。

 それが日常になっていた。


 だが澄子は、どこか浮いていた。


 なぜなら、彼女は「文学少女」だからである。

 真面目に針を持っていても、ふと糸の先を見て「運命の糸」とか「恋の綾」などと書き出してしまう。

 同じ班の友人・千代などは、そのたびに呆れ顔をする。


「澄子、また空想してるんでしょう?」

「してませんわ。ただ、糸が語りかけてくるのです」

「糸は、しゃべらないわよ」

「いいえ。愛の言葉をそっと」

「うわ、出た文学病!」


 笑い声が響く。

 だが、その笑いも、去年のような軽さはなくなっていた。



 寄宿舎の暖房はすでに絶たれて久しい。

 朝は氷のような水で顔を洗い、夜は毛布にくるまって震える。

 それでも澄子は、枕元に小さなノートを置き、毎晩ペンを走らせた。


 題して『冬のつとめ帖』。

 その日の出来事、夢、そして……勇太郎への想い。


 そう、あの大村勇太郎一等兵だ。


 満洲から戻ってきたという知らせを最後に、しばらく音沙汰がない。

 東京に戻ると書いてあったのに、どこでどうしているのか分からなかった。


「無事でいらっしゃるといいのですけれど……」


 便箋にそう書いては破り、また書いては破る。

 戦時下の東京では、手紙ひとつ出すにも神経を使う。

 郵便は検閲され、相手の所在が分からなければ戻ってくる。


 それでも澄子は、手紙を書き続けた。

 まるで祈るように。



 十二月のある日。

 授業が終わると、澄子たちは防火訓練の手伝いに駆り出された。


「女子も立派な国民です!」

 指導係の婦人が鼻息荒く言う。


 バケツを持って走り、砂をかけ、ホースを空に向ける。

 実際に火があるわけではないが、みんな真剣だ。


 澄子は、砂をまいているうちに、ふとその中に小石を見つけた。

 小石一つにも名前をつけたくなるのが、彼女の悪い癖だ。


 「あなたは、戦火の中の小さな勇士ですね」


「何しゃべってるの!」

 背後から千代が怒鳴る。

「砂場に恋文書いてる暇ないの!」


「ち、違いますわ!」


 ……だが、否定すればするほど怪しく見えるのが、世の常である。



 寄宿舎に戻ると、机の上に一通の封筒が置かれていた。

 見慣れた筆跡。


「大村勇太郎……!」


 澄子は胸の高鳴りを抑えながら封を切った。



 藤己澄子殿

 ご無沙汰しております。

 このたび、関東管区の通信中隊に転属となりました。

 近いうち、東京にも立ち寄れるかもしれません。

 寒さ厳しき折、風邪など召されぬよう。

 ──馬の尻は、いまや雪化粧であります。



 最後の一行で、澄子は声を上げて笑った。

「まあ! 相変わらず……!」


 千代と愛子が駆け寄る。

「なに? まさか“馬の尻”の人?」

「そうですのよ! あの方、東京に!」


 愛子がうっとりとした目をする。

「再会、ね。映画みたい」

 千代は肩をすくめた。

「戦争中に恋してる場合かしら」

「千代、恋は季節を選ばないのです」

「はいはい、出ました文学少女」



 数日後、東京駅。


 澄子は胸をどきどきさせながら、構内をきょろきょろ見回していた。

 汽車の蒸気が白くたちこめ、冬の空気と混じり合う。


「藤己さん?」


 振り向くと、軍服の青年が立っていた。

 目じりに少し笑い皺がある。

 あの、手紙の中の勇太郎だ。


「ご無沙汰しております」

「まあ……本当に!」


 その瞬間、澄子の中で時間が少し止まった。


 この秋、上野で見た夕暮れがふっと蘇る。

 そして今度は、冬の朝の冷気の中で、また二人は出会ったのだ。



 カフェに入り、コーヒーを頼む。

 (今や貴重品だったが、勇太郎が軍票で奢ってくれた)


「戦は、いかがですか?」

「ぼちぼちです。相変わらず馬と通信機と格闘してます」

「馬の尻は健在?」

「はい、今年は霜焼け気味で」


 二人は声を出して笑った。


 だが、笑いが静まると、勇太郎の顔が少し曇った。

「藤己さん……もし、また出征になっても、笑っていてくださいね」

「……ええ」

「あなたの笑い声、手紙で読むと元気になるんです」


 澄子は頷いた。

 彼の言葉を、胸の奥にしっかりと刻むように。



 年が明けた。

 東京には警報のサイレンが鳴る日が増えた。

 夜空を見上げると、灯火管制の中で月だけがぽっかり浮かんでいる。


 “夏は夜。月のころはさらなり”


 澄子は、あの頃の一文を思い出す。


 あの夏も、あの秋も、結局こうして過ぎていく。

 戦争という大きな波の中で、人の心だけが季節を覚えているのだ。



 冬の終わり、澄子は三年生に進級する準備をしていた。

 机の引き出しから、古い手紙を一枚ずつ取り出して並べる。

 便箋の折り目が少し黄ばんでいる。

 けれど、文字はまだ生きていた。


 “銀杏の葉も、少しは黄葉しているでしょうか”

 “栗まんじゅうをお送りします”

 “馬の尻も相変わらず”


 読み返すたび、涙がこみあげるのに、不思議と悲しくなかった。

 それは、まるで過ぎ去った季節のアルバムのようだった。



 夜明け前、寄宿舎の屋根に雪が積もっていた。

 澄子はこっそり外に出て、白い息を吐いた。


 空が少しずつ明るくなっていく。

 寒さで頬が痛い。

 けれど、心はなぜか温かかった。


 彼女はノートを開き、最後の一行を書いた。


 冬はつとめて。

 明け方の空は冷たく、けれど、光が生まれる。

 人の世も、きっと同じだと信じる。


 ページを閉じた。


 その瞬間、遠くで汽笛が鳴った。

 列車の音。

 どこかへ向かう誰かを乗せ、また新しい季節が始まろうとしていた。



 この冬ののち、澄子は三年生になる。

 戦争はさらに厳しく、街は空襲の影に覆われていく。


 それでも彼女は、笑いながら言うだろう。


「秋は夕暮れ、冬はつとめて。

 そして、いつかまた──春はあけぼの、ですわね」




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