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落ちこぼれ魔法使い令嬢、最強悪魔使いの花嫁に選ばれる

作者: 百鬼清風

 王立魔法学院の講堂には、華やかなドレスや礼装に身を包んだ生徒たちが集まり、最後の晴れ舞台を迎えていた。壇上では教師が一人ずつ名前を呼び、卒業証書を手渡していく。呼ばれた者は誇らしげに胸を張り、友人や家族の拍手に包まれていった。

 

 だが、その喧騒の片隅に座る少女は、ひっそりと肩をすくめていた。


 ――私は、落ちこぼれ。


 誰も隣に座ろうとしない空席に囲まれたまま、アリア・フェルネは自嘲気味に笑う。実技試験はいつも最下位。魔法理論の授業では、答えを間違えるたびに笑い声が飛んだ。やがて「魔力ゼロの落ちこぼれ」と呼ばれるのが日常になった。


「……あと十名で終了だな」

 教官の声が遠く聞こえる。壇上で笑顔を浮かべる同級生たちを、アリアはぼんやりと眺めた。彼らはきっと、すぐに就職が決まるだろう。貴族家に仕える魔法使い、王国直属の研究員、あるいは冒険者として華々しく活躍する者もいるかもしれない。


 けれど、自分は。


 進路希望の欄に書いた「家庭教師」さえも、魔力の乏しさを理由に断られた。卒業後はどうなるのか、誰にもわからない。


「次、アリア・フェルネ」


 名を呼ばれた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。拍手は……なかった。壇上に向かう彼女を待つのは、嘲るような視線と、ひそひそと囁く声。


「まだ学院にいたんだ」

「落ちこぼれが卒業? 奇跡だな」


 アリアはうつむきながら証書を受け取った。教師は儀礼的に笑みを浮かべたが、同情すら感じられるその眼差しに、余計に惨めさが募った。


 卒業式は滞りなく終わり、華やかな祝賀会が始まった。煌びやかなシャンデリアの下、仲間同士で杯を交わし、未来を語り合う。アリアは居場所を見つけられず、会場の隅でただグラスの水を握りしめていた。


 ――帰ろう。誰にも気づかれないうちに。


 そう思った矢先、会場の扉が大きく開いた。冷たい風が吹き込み、ざわめきが広がる。


「な、なんだ!?」

「黒衣の男だ……!」


 全員の視線が一点に注がれた。そこに立っていたのは、漆黒のマントをまとい、長身に鋭い眼差しを宿した男。肩から垂れる銀髪が月光のように輝き、ただそこにいるだけで周囲の空気を支配していた。


「……ライザード・ヴェイル」


 誰かが震える声で名を呼んだ瞬間、会場がざわめきに包まれる。王国最強の悪魔使い。その名を知らぬ者はいない。


「なぜ彼が学院に?」

「卒業式に呼ばれてもいないはず……」


 ライザードは群衆を一瞥し、壇上の教師を無視してずかずかと進んだ。その視線がやがて、隅にいたアリアに向けられる。


「……っ!?」


 鋭い金の瞳と目が合った瞬間、心臓が跳ねた。何の縁もないはずなのに、どうして彼が自分を――。


 静まり返った会場で、ライザードは迷いなく言い放った。


「――アリア・フェルネ。お前を迎えに来た」


 空気が凍りつく。


「な、何を……?」

「落ちこぼれを指名だと!?」

「冗談だろう!」


 同級生たちの嘲笑と怒声が飛び交う。だがライザードは一歩も引かず、冷然と告げた。


「俺の悪魔は、お前にしか懐かない」


 その瞬間、会場の隅に黒い影が立ち上がった。

 それは一人の青年の姿をした悪魔――黒翼を持つカイムだった。鋭い眼差しを放ちながらも、彼はアリアの前に跪き、恭しく手を取った。


「……契約者よ。ここにいたのだな」


 ざわめきが悲鳴に変わる。


「悪魔が……! しかも自ら跪いただと!?」

「ありえない……落ちこぼれの手に従うなんて!」


 アリアは震える声でつぶやく。

「……わ、わたしに……?」


 カイムは淡々と告げた。

「お前の魔力の響きは、俺たちにとって唯一無二。偽りではない」


 ライザードは周囲を黙殺し、アリアの肩に手を置いた。

「来い。お前をここに埋もれさせはしない」


 反論も、逃げる余地もなかった。

 アリアの平凡で惨めな日常は、その瞬間終わりを告げたのだった。


 アリアが学院を去ったのは、卒業式の日の夜だった。

 人々の視線とざわめきを背に、ライザードとともに黒馬車へと乗り込む。窓の外に映るのは、煌びやかな祝宴の灯。だがその光は彼女にとって、もう縁のないものになっていた。


 ガタン、と揺れる馬車の中で、アリアは膝の上に置いた両手を強く握りしめる。


「……なぜ、私を?」

 問いかけても、隣に座るライザードは目を閉じたまま答えない。無口で、石像のように動かない。沈黙に耐えかね、アリアは小さく吐息を漏らした。


(やっぱり間違いだったのでは……。私なんかを選ぶなんて)


 だが次の瞬間、膝に触れる冷たい感触に思わず声を飲む。

 影のように現れた悪魔――カイムが、当然のように彼女の傍らに腰を下ろしていた。


「……驚くな。契約者の側にいるのは当然だろう」

「け、契約者って……私のこと?」

「他の誰でもない」


 その断言に、アリアは言葉を失った。落ちこぼれと呼ばれ続けた自分が、唯一無二の存在だと言われるなど、信じられるはずがない。


 やがて馬車が止まり、アリアが外に降り立ったとき、思わず息をのんだ。

 眼前に広がるのは鬱蒼とした森、その奥に佇む巨大な館だった。黒い石造りの外壁に絡まる蔦。窓には淡く赤い灯が瞬き、まるで生き物のようにこちらを見下ろしている。


「ここが……」

「ヴェイルの館だ」


 ライザードの低い声に促され、アリアは重厚な扉を押し開けた。


 館の中は薄暗く、冷たい空気に満ちていた。だが不思議と嫌悪感はなく、むしろ身体の奥が震えるような感覚があった。廊下に並ぶ燭台の炎が揺れ、奥から低い唸り声が聞こえてくる。


「……お客様、ですか?」


 廊下の影から現れたのは、小柄な少女の姿だった。白いドレスに大きなリボン。だがその背には蝙蝠のような翼があり、瞳は赤く輝いていた。


「わぁ、本当に来たんだ! 人間の花嫁候補!」

「は、花嫁!?」

「私はリリィ! よろしくね!」


 彼女――小悪魔のリリィは、アリアの手を無邪気に握りしめる。その温かさに拍子抜けし、思わず微笑んでしまった。


 だが次の瞬間。


「何だ、この人間は」

 低く唸る声が響く。振り返ると、廊下の奥から獣のような巨体が現れた。鋭い牙と黄金の瞳を持つ悪魔――バルドだ。

「ひ弱な人間が俺たちの主の隣に立つなど、ありえん」

「ま、待って……私は無理やり連れてこられて――」

「言い訳か。なら、試してやろう」


 バルドが爪を振り上げる。思わず身をすくめたアリアを、カイムが庇った。鋭い金属音が響き、爪と剣がぶつかり合う。


「やめろ、バルド。こいつは主が選んだ」

「だが俺は認めん!」


 二人の睨み合いが火花を散らす。だが、そこで割って入ったのは意外にもリリィだった。


「バルド! この人、私の作ったお菓子を『美味しい』って言ってくれたよ!」

「……なに?」

「だから悪い人じゃない! それに、きっとあなたのお肉料理だって褒めてくれる!」


 無邪気な声に、バルドは鼻を鳴らすと一歩退いた。

「……ふん。せめて飯の味で判断してやる」


 緊張が解け、アリアは胸をなでおろした。


 その夜。

 与えられた部屋で眠ろうとしても、アリアはなかなか眠れなかった。館全体に漂う悪魔の気配が、恐怖よりも不思議なざわめきを胸に与える。


 ドアの外で足音が止まる。そっと開けると、そこに立っていたのはライザードだった。


「……眠れぬか」

「……はい」

「悪魔の気配に慣れていないのだろう。だが心配するな。ここでは誰もお前を害さない」


 彼の声は低く、冷たいのに、不思議と安心感を与える。

「眠れるまで、ここにいよう」


 ぶっきらぼうにそう言って壁にもたれる彼の姿を見て、アリアの胸が少し温かくなる。


 学院で孤独だった自分が、こんなふうに誰かに気遣われる日が来るとは思わなかった。

 瞼が重くなり、やがて彼女は深い眠りに落ちていった。


 翌朝、アリアは館の広間に呼び出された。重厚な机の上には黒い石板が置かれ、赤い光が脈打っている。


「これは……?」

「悪魔との共鳴を測る石板だ」


 ライザードは簡潔に説明した。人間の魔力を触れさせれば、悪魔がその響きを感知し、契約の適性があるかどうかがわかるのだという。学院では何度試しても石板は沈黙した。だから彼女は落ちこぼれと呼ばれたのだ。


「やってみろ」


 言われるままにアリアが石板に触れると、周囲の空気が一瞬ざわついた。だが光は弱々しく揺れるだけで、すぐに消えてしまった。


「やっぱり……私には無理です」

 肩を落とす彼女に、バルドが鼻で笑う。

「見ろ、主。こいつはやはり役立たずだ」

「そうだね。こんな人間、花嫁にする価値なんて――」

 冷たい声で言い放ったのは、壁際に立っていた女悪魔セラだった。透き通るような白い肌に長い銀髪。だがその瞳は氷のように冷たく、アリアを刺す。


「私は認めない。悪魔の力を借りなければ立つこともできない人間など、不要だ」


 その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。アリアは必死にこらえたが、目頭が熱くなった。


 沈黙の中、ライザードが一歩近づいた。

「泣くな」

「……でも……私、本当に何も……」

「いいや」

 彼の声は低く、強く響いた。

「俺はお前を選んだ。お前にしかできないことがある」


 アリアは顔を上げた。金色の瞳が真っ直ぐに射抜く。その眼差しに、不思議と心が揺さぶられる。


「……どうして、そんなふうに」

「理由は必要か?」


 言葉はぶっきらぼうだが、そこには確かな信頼が宿っていた。


 リリィがそっとアリアの手を握る。

「ねえ、大丈夫だよ。私、アリアの声、ちゃんと聞こえるもん」


 その瞬間、石板が再び光を放った。淡い青の光が揺れ、広間を包み込む。驚いたようにセラが振り返る。


「……ばかな。今のは……」

「共鳴、ですか?」アリアは戸惑いながらつぶやいた。


 セラの瞳に一瞬、氷の膜が割れるような揺らぎが走る。

「……人間風情に、私の心が……届いた?」


 広間に沈黙が落ちる。ライザードは満足そうに目を細めた。

「見ただろう。これが、こいつの力だ」


 アリアはまだ信じられなかった。だが確かに、誰にもできなかったことを、自分は成し遂げたのだ。


 その夜。アリアは与えられた部屋で、窓の外を見つめていた。森の向こうに月が浮かび、館の屋根に影を落としている。


(あの人はどうして……あんなにも私を信じてくれるのだろう)


 すると、不意に扉がノックされた。開けると、皿を持ったライザードが立っていた。


「……食べていないだろう」

「え……」

「リリィが作ったスープだ。口に合うかは知らんが、温かいうちに食え」


 皿を机に置くと、彼は背を向けようとする。思わずアリアは呼び止めた。

「あの……どうして、そんなに気にかけてくれるんですか?」


 ライザードはしばし沈黙した。振り返った表情は、どこか不器用で照れくさそうだった。

「……俺は口下手だ。だが一度選んだ者を、裏切る気はない」


 その言葉に胸が熱くなる。今まで誰からも信じられなかった自分を、彼は当たり前のように受け入れている。


 アリアは震える声で答えた。

「……ありがとうございます」


 不器用な優しさが、確かに胸の奥に届いていた。


 館での生活に、アリアは少しずつ慣れてきていた。

 リリィと料理をしたり、バルドに振り回されたり、セラに冷たくあしらわれたり――波乱は多いが、学院時代の孤独とは違って、そこには確かな居場所があった。


 そんなある日、ライザードが王都に向かうと告げた。館に残されるのは不安だったが、アリアは同行を望んだ。学院を去ってから初めて、王都に足を踏み入れる。


 石畳の大通りには華やかな人々の往来。商人の声、馬車の音。だがその賑わいの中で、アリアは不安を隠せなかった。学院で浴びせられた冷笑を思い出してしまう。


 その悪い予感は的中した。


「まあ、これはこれは――落ちこぼれのアリアじゃありませんの」


 鋭く響いた声に振り返ると、豪奢なドレスに身を包んだ金髪の令嬢が立っていた。かつて学院で常に成績上位を誇り、教師や同級生からも絶賛されていた少女。エレナ・グランベール。


「……エレナ」

 アリアの喉がひとりでに震えた。


 彼女は唇を歪め、あからさまな嘲笑を浮かべる。

「聞きましたわよ。最強の悪魔使い様が、あなたなんかを花嫁に選んだとか」

「……っ」

「落ちこぼれが悪魔使いの妻候補ですって? お笑いですわ。学院でも一番の出来損ないだったじゃありませんか」


 周囲の人々がざわつく。通行人たちは面白がるように立ち止まり、耳を傾けていた。アリアの心臓は強く打ち、視線が痛い。


 エレナはさらに畳み掛ける。

「あなたを学院から遠ざけたのも、当然のこと。……あら、ご存じなかったかしら?」


 アリアは目を見開いた。

「どういう……こと?」


 エレナは扇子を広げ、愉快そうに笑った。

「あなたの“奇妙な魔力”は、悪魔にとって特別だと噂されていましたの。上層部は恐れたのです。もし本当に悪魔を呼び寄せる力を持っているなら、王国にとって危険な存在になるかもしれない。だから“落ちこぼれ”の烙印を押して潰したのですよ」


 全身から血の気が引く感覚がした。学院での嘲笑や冷遇が、ただの無能扱いではなく、意図的に仕組まれていたものだと知ったからだ。


 エレナは満足げにアリアを見下ろす。

「そんな存在が、悪魔使いの隣に並ぶ? 笑わせないで」


 そのとき、アリアの袖を小さな手が強く引いた。

 振り返ると、リリィが大きな瞳でエレナを睨んでいた。


「アリアを悪く言わないで!」

「……小悪魔?」

「この人は、私の契約者なの! 私が選んだんだから!」


 甲高い声が街に響き渡る。

 一瞬、時が止まったように周囲が静まり返った。


「悪魔が……人間を庇った……?」

「ありえない……!」


 通行人の誰かがつぶやき、どよめきが広がる。悪魔は人間を利用するもの、主従であっても庇うことはありえない――それが常識だったからだ。


 エレナの表情が引きつる。

「馬鹿な……悪魔が、落ちこぼれを認めるなんて……」


 リリィは小さな身体でアリアを覆うように立ちふさがり、真剣な声で叫んだ。

「アリアは落ちこぼれなんかじゃない! 私にとって、たった一人の契約者なんだから!」


 その姿に、アリアの目に涙が滲む。誰も信じてくれなかった自分を、今、悪魔が全力で守ってくれている。


 震える声で、彼女は言った。

「……ありがとう、リリィ」


 その言葉に、リリィはにっこりと笑った。


 周囲の視線は、もはや嘲笑ではなかった。驚愕と困惑、そしてわずかな敬意が混じっていた。


 エレナは唇を噛みしめると、足音も荒くその場を去った。


 残されたアリアは、まだ胸の鼓動が激しく収まらなかった。けれど、その手を握る小さな温もりが、確かな勇気を与えてくれていた。


 それは嵐の夜だった。館の外では雷鳴がとどろき、窓硝子が激しく揺れていた。


 アリアは食堂でリリィと共に夕食を片づけていた。バルドが昼間に獲ってきた獣肉を焼き、ぎこちないながらも彼女が味付けをした料理は意外にも評判が良かった。大きな声で「まあ食えなくはないな!」と笑うバルドの姿に、少しずつ心を通わせられている気がして、アリアは胸を温めていた。


 だがその平穏は、雷鳴と共に唐突に打ち砕かれる。


 轟音が館全体を揺らし、棚に並んだ皿が落ちて粉々に砕けた。リリィが小さく悲鳴を上げ、アリアも思わず床に手をつく。


「な、なに!? 地震……?」

「違う!」


 廊下の奥から駆け込んできたのはカイムだった。翼を広げ、剣を抜き放ち、険しい表情を浮かべている。

「バルドが……制御を失った!」


 その瞬間、獣の咆哮が館を揺るがした。


 石壁が砕け、巨大な影が食堂の壁を突き破って現れる。漆黒の毛並みに黄金の瞳――館の番人たるバルドだった。だがその眼は理性を失い、血のように濁った光を宿していた。


 牙を剥き出しにして突進する巨体。机が木っ端みじんに吹き飛び、床石が割れ、粉塵が舞い上がる。


「バルド! やめて!」

 リリィが必死に叫ぶが、暴走した心には届かない。


 アリアは全身の血が凍るような恐怖を感じた。学院で学んだ“悪魔暴走”――力が制御を失い、災厄と化した存在。討伐以外に道はないと教えられてきた。

(そんな……このままじゃ……)


 カイムが剣で爪を受け止め、火花が散る。セラも氷の刃を放って応戦した。だが暴走したバルドの力は凄まじく、二人の攻撃すら押し返してしまう。


「このままでは館ごと崩壊する……!」

 セラの冷静な声が響く。

「主が戻る前に、処理するしかない」


「待って!」


 アリアは声を張り上げた。恐怖で足は震えていた。それでも叫ばずにはいられなかった。

「バルドを……殺さないで!」


 カイムが鋭く振り返る。

「無茶を言うな! お前が巻き込まれる!」

「でも……」アリアは必死に言葉を探す。「あの時、私の料理を食べて……笑ってくれた。『まあ食えなくはない』って! あれは……私を受け入れてくれた証拠でしょう!?」


 涙が滲む。学院では誰にも認められなかった自分を、たとえ不器用でも、確かに受け入れてくれた。その瞬間を、絶対に見失いたくなかった。


 アリアは一歩前に踏み出し、暴走するバルドの眼前に立った。


「お願い……聞いて! あなたは本当は優しい。館を守って、仲間を守るために戦ってきた。私は知ってる……!」


 胸に手を当てる。心臓が強く脈打ち、その鼓動が全身に響く。学院で異常とされた“魔力の響き”が、今は熱を持って流れ出した。


 アリアは必死に呼びかけ続ける。

「あなたは怖くなんかない。優しいところ、私はちゃんと知ってる! だから……帰ってきて!」


 雷鳴が轟く中、黄金の瞳が揺らいだ。

 獣のような咆哮が震え、空気が一瞬止まる。


「……ア……リア……?」


 かすれた声が確かに聞こえた。


 カイムが驚愕に目を見開き、セラの表情からも氷のような冷徹さが崩れた。

「人間の声で……暴走が……」


 巨体がゆっくりと膝をつき、牙を鳴らしながらも、理性が戻っていく。館を震わせた魔力の暴風が次第に収まり、ただの重苦しい息遣いだけが残った。


 アリアはその場に崩れ落ち、涙が頬を伝う。

「よかった……本当に、よかった……」


 沈黙ののち、バルドは低い声を絞り出した。

「……弱き者よ」

 アリアは顔を上げる。

「俺は……お前に借りができた」


 その巨体が、静かに頭を垂れた。獣のような悪魔が、人間の少女に頭を下げる――信じがたい光景に、カイムもセラも言葉を失った。


 アリア自身も、胸の鼓動が止まらない。けれど確かに今、悪魔の心に自分の声が届いたのだ。


 彼女は震える手で涙を拭い、深く息を吸い込む。


 ――私は、悪魔と人をつなぐことができる。


 恐怖に押し潰されそうになりながらも、確かに自分はそれをやり遂げたのだ。

 館に再び静けさが訪れたとき、アリアの胸には小さな誇りが芽生えていた。


 その夜は、不自然なほど静かだった。

 昼間の暴走事件で疲れたのか、バルドは大人しく眠り、セラも魔力の調整に籠もっていた。館の中には嵐の後のような緊張感が残り、アリアは胸騒ぎを覚えていた。


 リリィが彼女の腕にしがみつく。

「ねえ、アリア……なんだか嫌な感じがする」

「私も。……雷より怖い予感」


 その言葉が終わるより早く、窓硝子が割れた。闇を裂いて黒ずくめの影が飛び込む。金属の刃が月明かりを受けてきらめき、冷たい殺意が走った。


「暗殺者……!」


 アリアは息を呑む。背中に冷たい汗が流れる。学院時代に噂で聞いた、上層部直属の“処理部隊”。危険と判断された存在を秘密裏に葬る役目を負う者たち。


「標的は女だ! 一撃で仕留めろ!」


 叫びと同時に刃が振り下ろされる。


 だが次の瞬間、黒翼が舞い散った。カイムが割って入り、剣で刃を弾き飛ばした。

「ふざけるな……俺の契約者を殺す気か!」


 さらに獣の咆哮が館を揺らす。バルドが壁を突き破って飛び出し、牙で暗殺者を薙ぎ払う。リリィも小さな炎を放ち、敵の足を止めた。セラは氷の鎖を繰り出し、侵入者を拘束する。


 それでも数は多かった。闇に紛れて次々と影が現れ、館は修羅場と化した。


 アリアは必死に身を低くしたが、標的にされているのは明らかに自分だった。刃が迫るたびに悪魔たちが守ってくれる。だがその光景が逆に胸を締めつけた。


(また……守られてるだけ……! 私、何もできない……!)


 恐怖と悔しさが混じり合い、喉の奥が焼ける。


 そのとき、リリィが苦しげな声を上げた。

「アリア、私……もう少しで魔力が尽きちゃう……!」


 小さな身体が震えている。暗殺者の刃が迫り、今にもリリィを貫かんとしていた。


「やめてっ!」


 アリアの叫びが、館に響いた。

「もう……守られるだけじゃ嫌! 私だって、戦いたい!」


 胸の奥が熱く燃え上がり、リリィの手を強く握る。次の瞬間、二人の魔力が共鳴し、眩い光が溢れた。


「アリア……これ……!」

「行こう、リリィ!」


 青白い光が小悪魔の翼を包み込み、倍以上に膨れ上がる。炎が渦を巻き、迫る暗殺者たちを焼き払った。


「ぐあっ……!」

「な、なんだこの力は……!?」


 暗殺者たちが悲鳴を上げ、次々と倒れていく。小悪魔の力を増幅した共鳴の魔力――それは彼らの想定をはるかに超えていた。


 息を切らしながらも、アリアは立ち尽くしていた。自分の手が震えているのは恐怖ではなく、確かな力を振るった実感のせいだった。


 倒れた敵の中を、血に濡れた影が歩み寄る。ライザードだった。肩口を切られ、赤い血が滲んでいた。


「……アリア」


 彼はふらつきながらもアリアを抱き寄せた。血の匂いが濃く、胸が痛む。


「あなた……怪我が……」

「構わん。それより……よくやった」


 低く、不器用な声が耳元に届く。

「お前は……もう、ただ守られる存在じゃない」


 アリアの胸に熱いものが込み上げ、涙が頬を伝った。

 嵐のような夜に、彼女は確かに一歩を踏み出したのだ。


 館を襲った暗殺者たちは退けられたが、代償は小さくなかった。壁は崩れ、床は血に染まり、何よりライザードの肩から流れる血が止まらなかった。


「ライザード! しっかりして!」

 アリアは必死に彼を支えた。だが彼は苦痛を堪えるように片手で押しとどめ、低く言った。

「心配するな。致命傷ではない」


 その声は不器用なほど落ち着いていた。けれどアリアの胸は張り裂けそうで、震える手が止まらなかった。


 暗殺者の死体を片づけるバルド、氷の鎖で残敵を封じ込めるセラ、疲れ切ったリリィ。館の空気は、まだ戦いの緊張を引きずっていた。


 そんな中で、ライザードがゆっくりと立ち上がった。金色の瞳がアリアを見据える。


「アリア」


 その名を呼ぶ声に、彼女の心臓が跳ねる。


「俺は今夜、確信した。お前は俺の悪魔をも、そして俺自身をも救った」

「……私が……?」

「そうだ。俺の悪魔は、お前にしか懐かない」


 彼は深く息を吐き、血に濡れた手で彼女の肩に触れた。


「だから――俺の花嫁になれ」


 その瞬間、館に沈黙が落ちた。


 アリアの目が大きく見開かれる。言葉は理解できても、心が追いつかない。


「わ、私なんかが……落ちこぼれの私が、あなたの……」


 ライザードは首を横に振る。

「落ちこぼれ? くだらん。俺にとっては唯一無二だ」


 胸の奥に熱が広がり、涙があふれる。


 彼女は震える声で答えた。

「……私、落ちこぼれでもいい。学院で笑われた私でもいい……」

 息を呑み、真っ直ぐに彼を見つめる。

「それでも――あなたが選んでくれるなら。私はあなたの隣にいたい!」


 涙が頬を伝う。けれどそれは悲しみではなく、確かな喜びだった。


 その時、リリィがぱっと両手を叩いた。

「やったぁ! アリアが花嫁だ!」

 カイムは眉をひそめつつも口元に微笑を浮かべ、セラは驚いた表情のまま小さく頷いた。バルドは豪快に笑い、天井が揺れるほどの声を上げた。

「ははは! これでやっと、俺たちの“主の妻”が決まったな!」


 祝福の声が館に広がる。


 そして儀式の準備が始まった。


 大広間に古の魔法陣が描かれ、燭台に炎が灯される。悪魔たちがそれぞれの位置に立ち、アリアとライザードを中心に囲む。


「契約の儀式だ」ライザードが説明する。「人と悪魔使いが真に結ばれるとき、互いの魂を刻む印を交わす」


 アリアは深呼吸し、彼の差し出した手を取った。冷たいはずの手は、今は不思議と温かい。


 光が溢れ、魔法陣が輝く。リリィが先陣を切り、カイムとセラ、バルドがそれぞれ祝詞を紡ぐ。


「人と悪魔をつなぐ者に、祝福を」


 その声が重なり合い、やがて館全体に響き渡った。


 光が収まったとき、アリアの手の甲には淡い紋章が刻まれていた。ライザードの手にも同じ紋が浮かび上がっている。


「これで……」

「お前は俺の花嫁だ」


 ライザードの言葉に、アリアの胸がいっぱいになる。涙を拭い、彼の胸に顔を埋める。


 館に集う悪魔たちは、それぞれの仕方で祝福を示した。リリィは抱きつき、カイムは静かに頷き、セラは氷の瞳を緩め、バルドは大声で「宴だ!」と叫んだ。


 こうしてアリアは――最強の悪魔使いの花嫁として、新たな道を歩み始めたのだった。


 数日後、王都にて。

 館での襲撃事件はすぐに国王の耳に届いた。学院上層部が密かに暗殺者を放った事実は大問題となり、裁きを受けることになった。だがその裏で――人々の関心をさらったのは、ただひとりの少女だった。


「悪魔の暴走を鎮め、暗殺者を撃退した人間がいるらしい」

「落ちこぼれと呼ばれていた学院生が……?」

「今や『悪魔と人をつなぐ者』として認められたのだと」


 街中に噂が広がり、誰もがその名を囁いた。アリア・フェルネ。かつて学院で笑われた少女の名を。


 やがて王宮から正式な召喚が下された。ライザードと共に玉座の間に立ったアリアは、震える膝を必死に抑えながら頭を垂れた。


 国王は重々しく告げる。

「アリア・フェルネ。そなたの力は確かに人と悪魔を結んだ。我らはそなたを王国の守護者のひとりとして認める」


 高らかに宣言されたその言葉に、アリアの胸が熱くなる。学院では落ちこぼれと呼ばれ、未来などないと思っていた自分が――今は王国に必要とされている。


 だがその場には、彼女を嘲笑った学院の人々もいた。


 壇の下でエレナ・グランベールが青ざめた顔で立ち尽くしている。アリアを「落ちこぼれ」と呼び、貶め続けたかつてのライバル。

 彼女は唇を噛みしめ、そして力なくうなだれた。


「……敗北を、認めざるを得ませんわ」


 その呟きは小さな声だったが、確かにアリアの耳に届いた。

 アリアは一瞬だけ彼女を見つめ、静かに視線を外した。もはや復讐も侮蔑もいらない。ただ、自分の道を歩むだけでいい。


 王宮での式典を終え、館へ戻る頃には夕暮れが迫っていた。


 オレンジ色に染まる空の下、食堂には長い食卓が用意されていた。料理の皿が並び、燭台の炎が柔らかく揺れる。

 そこには人と悪魔が肩を並べて座っていた。


 バルドが肉の塊を豪快に噛み砕き、リリィがパンをちぎってアリアの皿に置く。セラは静かにワインを口に運び、カイムはぶっきらぼうに「味は悪くない」と呟く。

 かつて学院で孤独だった自分が、今はこんなにも温かい席に座っている。アリアは胸がいっぱいになった。


 そのとき、隣に座るライザードが不器用に口を開いた。

「……アリア」

「はい?」

「俺にとって……お前は、光だ」


 短い言葉だった。けれど彼にとって、それは何よりも重く、真実の想いだった。


 アリアの目から、自然と涙があふれる。

「……はい。私も、あなたの隣にいられることが幸せです」


 言葉にならない感情が胸を満たし、彼女はただ笑みを浮かべた。


 笑い声が食卓に満ち、悪魔と人間が共に杯を掲げる。その光景は、誰もが想像すらしなかった未来だった。


 ――「落ちこぼれ」と呼ばれた少女は、今や最強悪魔使いの花嫁となり、人と悪魔をつなぐ架け橋となった。


 夕陽の光が館を包み込み、新たな時代の始まりを告げていた。

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