契約から始まった結婚生活がなぜか甘い
短編に挑戦してみました
よくある契約結婚ものです
設定はふんわり設定です
「という訳で、君と契約結婚をしたい」
私、フィオナ・カーターの結婚生活はそんな一言から始まった。
私の実家であるカーター子爵家は農業を主とする領地であるが、王都からかなり北に位置しており、寒さに厳しいその土地は豊かとは言えず家計は常に火の車。
のんびりな母と楽天家の父の間には長女である私とその下に妹と弟がそれぞれ二人ずついる。とにかく家計に関しては長女である私がなんとかしなくてはと15で働きに出た王都で、待遇の良さは王都イチと言われる騎士団の秘書官に就職することができたことは幸いだ。
そして配属された第三騎士団に勤めてから4年。婚約者もおらず、結婚もいつかできればいいかなくらいだった私がまさか契約結婚することになるとは、人生何が起きるかわからない。
そんな私の結婚相手だが、直属の上司でもある第三騎士団団長のヴィンセント・ファーガス。
25歳でありながら由緒ある伯爵家の当主でもある。2年前、23歳という若さで団長に就任したこのお方は、日に透けるような美しいプラチナブロンドの髪に深い海を思わせるようなインディゴブルーの瞳をお持ちで、街を歩けば誰もが振り返るような見目麗しい出で立ちをしている。騎士団では人にも自分にも厳しいことから鬼団長とも呼ばれているが、その実責任感が強く騎士団員からは慕われてもいる。
そんな人がなぜ私に契約結婚などというものを持ちかけたのか。家柄、見た目、立場、どれをとっても結婚相手に困ることなんてなさそうな団長だが、ひとつだけ王都中が知っているほどの有名な噂があった。
大の女嫌い。
女性をエスコートする姿も、一緒に歩いているところでさえも見たことがないとされる団長。
団長が第三騎士団にやってきて2年、ずっと同じ部屋で働いてきたがとにかく女性の近くに寄らない寄せ付けない姿をずっと見てきた。あながち噂は嘘ではないのだなと思ったものだ。そしてその対象はもちろん私も例外ではなかった。だが仕事上付き合いをしてきた2年で、私は団長にとって一番距離が近い女性となった。
それが団長が私を契約結婚の相手に選んだ理由だ。
だがこの女嫌いという噂、実は少し事実とは違う。契約時に団長が話してくれたのだが、団長は女嫌いではなく女性恐怖症だと言うのだ。つまり女性を寄せ付けない、ではなく女性に近寄れないが正解だった。
過去のトラウマからということらしいが、トラウマになるほどだからよほどのことがあったのだろう。繊細な話ではあるので苦手な女性の特徴くらいしか聞いてはいない。
そんな女性恐怖症の団長が、王家から婚姻の打診をされてしまい逃れらない状況になったため、考えついたのが一番身近にいる私との契約結婚というわけだ。
まあ、契約とはいえ婚姻ということで私も考えた。当初断るつもりではいたけど…………。うん、秘書官の給与の三倍出すと言われれば、ねえ? 了承するよね……。
だって、すぐ下の妹はもうすぐ16歳で成人を迎える。ドレスくらい仕立ててあげたい。その下の弟は15歳になるから王都にある学園に通わせてあげたいし。それにその下の二人にもこれから先不自由はさせたくない。
まあなんだかんだ言い訳たててるけど、お金よね。お金に目がくらんだのは事実です。
そんなこんなで始まった契約結婚ではあるのだけれど……。
気づけば一年経った。
この一年でまさかあの団長が……。
「あんっな、甘くなるだなんて聞いてないっ!」
結婚した当初から贈り物の数々。記念日でないときも花やアクセサリー、お菓子などなど。
それに、最初のうちは手に触れるのさえ緊張していた団長だが、エスコートの練習で寄り添ったり腰を抱くといった行為に慣れてきたと思ったら、そこからどんどん遠慮がなくなった。今では行ってきますやただいまの時のハグや額へのキスまでする始末。
何を隠そう今朝も玄関で見送る際に熱烈なハグと頬にキスを受けたところなのだ。確かに団長から聞いていた恐怖と感じる女性の特徴である、濃い化粧やきつい香水の匂い、それに媚びるような視線といったものは私とは無縁だ。化粧っ気なんてなく、香水もつけない。それに団長とは契約と割り切って今までやってきたのだから、媚びる視線とも無縁だ。
でもふとした瞬間に団長の甘い視線や思ったよりも柔らかい唇の感触などを思い出してしまって……。だめだ!
私は思わずソファに倒れこみ、クッションに顔を埋めた。
団長のあの態度は外出先での話なら、仲睦まじい夫婦を演じているのだろうと自分を納得させられるのに。いつからか部屋で二人でいるときも常に近くにいるようになって。二人でお茶をしたら、団長の膝に乗せられてお菓子を食べさせられるし、本を読んでいれば後ろから抱きしめられて私の肩に顔を埋めてきたり。
それにだ。
先日から、朝目が覚めたらなぜか隣に団長の寝顔……。心臓に悪い!
契約内容ではこの結婚は白い結婚。だから本当にただ同じベッドで眠っているだけ。でも、朝から少し寝ぼけた顔で無防備に笑いながら掠れた声で「おはよう」なんて言われたら。
あんな団長知らない……。鬼団長と第三騎士団で恐れらていた団長はどこにいった。結婚してほどなくして、団長の儚い笑顔や子犬のような仕草に私はこれまでどれほど抱きしめたくなったか。ああいう母性本能を擽られるの弱いのに。これでは団長への想いが……。
「ダメダメ! 本来ならこんな気持ち持っていはいけないんだから」
仕事に真摯に取り組む団長。自分にも他人にも厳しい団長。それはいつ命を落としてもおかしくない騎士団に身を置いているから。誰にも傷ついてほしくないからこそ団員に厳しく指導をする。自分の持っている全てを惜しみなく出して、団員を守っているのだ。そんなすごく優しい人なのだ。
そんな人に惹かれないはずがない。けれどもそれは女嫌いと思っていたあの頃から、私の密かな思いとしてずっと心のうちに隠してきた。契約の話を持ち掛けられた時も、嬉しさの反面怖かった。いつかこの蓋が開いて想いが溢れてしまいそうで。そしてそれは女性恐怖症だと聞いた今、もっときつく蓋を閉めてしまわないといけないと思った。好きになってしまったら……、団長が恐怖を抱く対象である媚をうる女性になってしまいかねない。そうはなりたくない。団長にとって私はそういう存在から遠い人物だと思われている。だから私に契約結婚を持ちかけたのだ。
それに、この契約には終わりがある。団長の親戚筋から後継者たる子を養子に迎えるまで。その後は私と離縁して、さらには慰謝料も支払ってくれる。
だから、これ以上望むものなんてない。
私は知らず知らず強くクッションを抱きしめていたことに気づく。
「先のことなんて気にしても仕方ない。よし! 団長が帰ってくるまで庭でも散歩に行こう!」
沈んだ気持ちを浮上させるため、努めて明るい声を出し部屋を出ようと扉を開けた瞬間、大きな声が耳に入る。
「お待ちください! 旦那さまからは何も伺っておりません。勝手に入られては困ります!」
「まあ! ヴィンセントは使用人にどんな教育をしているのかしら! わたくしはあの子の義母なのよ!!」
「な、何事……?」
聞こえた声は普段冷静な執事のラルフのものと、聞いたことのない女性の金切声。未だ争うような声は玄関のある階下から聞こえる。
「奥様! いけません。ここでお待ちを!」
そんな制止の声もあがるが、私は急いで階段を下りる。明らかに異様なこの状態を放っておけるわけがない。当主である団長が留守の間、女主人である私がここを守らなければならないのだから。それに先ほどの言葉……。
「何事です?」
エントラスに降りて呼吸を整えてそう声をかける。
「あら! あなたがヴィンセントの?」
振り返ったその女性。初めて見る顔だが、その女性は私を値踏みするかのように上から下までじっとりと眺めてくる。印象的なのは真っ赤な唇。そしてかなりきついオリエンタルな香水の匂い。真っ先に頭に浮かんだのは団長の恐怖を感じる女性の特徴。その全てを兼ね備えているのではと感じた。もちろんそんなこと決して顔には出さないが。
「フィオナ・ファーガスと申します。先ほど義母と聞こえましたが、もしかして……」
そう先ほどこの女性は「義母」だと言っていたのだ。だとするとこの女性は団長の……。
「ええ、わたくしはヴィンセントの義母であるサマンサよ」
サマンサ……。確か元の名前はサマンサ・ベンティ。ベンティ男爵家のご令嬢。団長のお父様である先代とは昔からの恋人だったが身分を理由に結婚を許してもらえず、先代が団長のお母様と結婚することになってもその関係はまだ続き、邸の離れにずっと住まわせていたと聞く。そして団長のお母様が亡くなってすぐに後妻となったと。
団長はあまり家族の話はしたがらないが、ファーガス家はこの国でも由緒ある伯爵家で、その手の噂話は私の耳にも入ってくる。
先代は団長に当主を譲ってからは王都から遠く離れた場所でサマンサと二人で暮らしているらしい。婚姻の挨拶も遠いから書面で、という先代からの要望で手紙のやりとりだけだった。
ちらりとラルフを見ると、申し訳なさそうにしながらも小さく頭を振った。
なるほど、招かざる客という訳だ。団長からだって来訪の話なんて聞いていない。
「遠いところ御足労いただきましたが、本日は何のおもてなしもできません。申し訳ございませんが、今日のところはお引き取りをお願いいたします」
私はできるだけ丁寧に言葉を選びながら頭を下げる。
「あなた! わたしくはあの子の、ここの当主の義母だと言ったでしょう! 義理とは言え母親であるわたくしを追い出そうと言うの!」
至近距離にいるというのに声量を間違えていないかしら、というくらいの声を出すサマンサ。
「前もって連絡を入れていただければこちらも精一杯のおもてなしをさせていただきますので」
頭を下げたままそれだけを言うと「フンッ」と鼻で笑われたような音がした。
「話にならないわ! ヴィンセントを呼んでちょうだい!」
「サマンサ様! 今日のところはお引き取りを」
私とサマンサの間にラルフが入ったことを察知し、私は頭を上げた。ラルフの様子にこの状況がこの家の、いや団長にとってとても良くないものだと感じ取る。
それに今、ラルフは「サマンサ様」と呼んでいた。団長のお父様と再婚したなら大奥様と呼ぶのが普通だ。ラルフがそんな単純な間違いを犯すとも思えないけど……。
「ヴィンセントはどこなの! 出しなさいっ!」
キインと耳を刺激する甲高い声。なぜかはわからないけど、私の中で警告音が鳴る。この人と団長を合わせてはいけない、と。
「旦那様はただいま留守でございます。どうかお引き取りをお願いいたします」
先ほどよりも強く抗議をするとサマンサの眉が吊り上がる。
「何様なの! あなたっ!」
ものすごい形相で私につかみかかろうとするのをラルフが体を張って止めてくれる。でも使用人であるラルフができるのはそこまでだ。貴族であるサマンサに手を触れることはできない。
もう少しで私にその手が届きそうになったが、私は一歩も譲るつもりはない。この家も使用人たちも私が守るべきものだ。そう覚悟してサマンサから目を離さずにいると。
「やめろっ!!」
大きな声がサマンサの後方から響く。
サマンサから視線を外して後方、玄関の方へ目をやるとものすごいスピードでこちらに向かってくる団長の姿。
そしてすぐさま私を背中に隠すようにしてサマンサと距離を取る。
「まあ! ヴィンセント!! 見ないうちに立派になって」
「名を呼ぶな! 私に近づくな!」
初めて聞く団長の大声に驚いて団長を見ると、その背中が、握りしめた拳が震えていることに気づく。
「フィオナ、大丈夫か?」
「え、ええ……」
震えていることもそうだが、気づかわしそうにこちらを見る団長の顔も青ざめていて、大丈夫か? とは団長に問いたい。
でも団長はすぐに顔をサマンサの方に向ける。
「父上には黙って出てきたのか……」
「セドリックったらひどいのよ。わたくしのことをずっと閉じ込めて。だから睡眠薬で眠らせて、やっと逃げてきたの」
セドリックとは団長のお父様で先代の名だ。
その先代に睡眠薬……?
あり得ない言葉に耳を疑う。
「ねぇ、ヴィンセント? わたくしのこと助けてくれるでしょ? もうセドリックの束縛にはうんざりなのよ」
「わ、私には関係ない! 先ほど通報もした。じきに衛兵がここにやってくる!」
猫なで声でこちらにすり寄ってくるサマンサから距離を取りながら団長が叫ぶように声をあげる。その言葉にサマンサの顔色が変わる。
「はあ!? 衛兵ってなんなのっ! わたくしにそんなことしたらセドリックが黙ってないんだから!」
もう言い分が滅茶苦茶だ。さきほど睡眠薬で眠らせたと言った人に助けを求めるような言葉。
「だったら帰ってくれ! そして二度とここには来るな」
「なんて言いぐさなの! 欠陥品のクセに!」
サマンサのその言葉に目の前の団長の背中がびくりと震えた。
「だん……」
「父親は病的なほどの束縛者で、あんたは男としての機能も果たさない欠陥品! とんだ異常親子だわ!」
明らかに様子のおかしい団長を呼ぶ私の声にサマンサのキンキン声が重なる。
団長の背中越しに見えるサマンサの顔は今や憎悪に歪んでいる。そんな顔で先代はもとより団長のことを貶める物言い。何をどうなったら団長が欠陥品なのかはわからないが、団長を悪く言っていることは事実。
もう我慢ならないと、団長の背中から前に出ようとしたところで聞こえたのは小さな声。それが団長の声だとわかるのに時間を要した。
「し、知られた……。僕が欠陥品だって……、フィオナに……」
ばっと団長を見ると、その顔色は青を通り越して白い。
一瞬で団長をこんな風にしたサマンサに言いようのない怒りが沸く。これほどまでに怒りを感じたことは初めてだ。
私は団長の前に立ち、先ほど団長が私にしたように背中に団長を庇う。
「お引き取りを! これ以上この家で勝手なことは許しません! たとえあなたが団長の……、ヴィンセントのお義母様だろうとも!!」
「何をっ!」
振り上げられた手が私に向かって下ろされようとした時、後ろからすごい勢いで引き寄せられぎゅっと抱きしめられた。
「フィオナっ!!」
「だ、団長……」
私を抱きしめる腕はまだ震えている。それなのに私を庇ってくれる団長に心が温かくなる。そんな団長だから、私だって全力で守りたいのだ。
私は団長の腕から抜け出そうとするも、団長の次の言葉に動きが止まる。
「こいつは僕の義母なんかじゃない。父上とは籍を入れていない」
籍を入れていない。それは先代の奥様でもなく、団長の義理の母親でもないと言う事。
ちょっと待って、そうなると話が全然違ってくる。
「旦那様のお母様であるセレナ様のご実家のメディス侯爵家がセレナ様亡き後、その方との婚姻は許さなかったのです」
ラルフがそう説明をしてくれる。
「黙れっ! 使用人風情がっ。それでもわたくしはセドリックに選ばれた! とんでもない性格でも、セドリックはこの伯爵家の先代であることに変わりはない!」
今度はラルフにくってかかるサマンサに、私は団長の腕から抜け出してサマンサの前に立つ。
「ベンティ男爵令嬢! これ以上うちの使用人に暴言を吐くことを禁じます! そして速やかにこの邸から出ていって、二度とこちらに来ることは許しません!!」
「な! 何様だ……」
「ファーガス伯爵夫人としての警告です。ベンティ男爵家にもこちらから抗議文を送らせていただきます」
先代と籍を入れていないのであれば、サマンサは未だベンティ男爵令嬢に過ぎない。契約とはいえ、伯爵夫人である私の方が身分は上だ。ここはもうとにかく毅然とした態度でいくのみ。
「サマンサ!!」
その声に目の前のサマンサがびくりと体を震わせた。どこか団長の声にも似ているが、もっと野太いその声の主は。
「せ、セドリック……」
「父上……」
玄関から現れたのは団長のお父様だ。絵姿でしか見たことはなかったが、雰囲気がどことなく団長に似ていた。
けれど、先代は団長や私には目もくれず、サマンサに近寄ると自然な動きでサマンサをその肩に担いだ。
「ヴィンセントに会うなと言ったはずだ。まだわからないようだな……。お前には私しかいないということを嫌というほど教え込む」
「い、嫌よっ! 離して! もう閉じ込められるのはたくさん!」
「邪魔したな」
それだけ言うと、まだギャーギャーいうサマンサを担いだまま邸から出て行った。
な、なんだったんだ……。
呆気に取られてしばらく玄関を眺めていたが、ハッと気づく。そんなことよりも団長だ。
「団長、大丈夫ですか?」
窺うように顔を見るとその顔色はまだ悪い。私は団長の手を引いて一番近くの応接室に入りソファへと座らせた。お茶を淹れてもらったあと、私はみんなを下がらせて二人にしてもらった。
「団長……?」
気遣うように団長の隣に腰を下ろすと、ゆっくりとうつろな目をこちらに向けてきた。その表情は今にも泣きそうだ。
「どうして団長なんて……。そうだよな……。こんな欠陥人間なんて、君にふさわしくない…………っ」
思わず出てしまっていた前の呼び名である「団長」がどうも気にかかっているようだ。団長からは結婚してすぐに名前で呼んでほしいと言われていたのに。私自身あまりの出来事で気が動転してつい呼び慣れた「団長」が出てしまったのだ。
「ヴィンス……」
団長の愛称で呼べば、団長もといヴィンスがこちらを窺うように見る。
騎士団で仕事をしているときは想像もできなかったヴィンスの弱弱しい姿。結婚してからというもの、ヴィンスからは庇護欲をそそられるような表情が垣間見れて正直きゅんが止まらなかった。こういう素を出してくれるところをたまらなく愛しく思ってしまうのだ。
「聡い君のことだ。もうわかっただろう? 僕の女性恐怖症はあの女からきている……」
ヴィンスへの想いが溢れそうになっている私には気づかない様子で、ぽつりぽつりと話し出すヴィンス。
昔からの恋人であった先代とサマンサ。その関係はヴィンスのお母様と結婚してからも続いていた。ずっとサマンサと離れで暮らしていた先代とは幼少期からあまり会うことはなかったとのこと。だから父子関係は希薄であったと。家族仲の良い私からしたら想像もつかないことだ。
そしてヴィンスのお母様が亡くなってからも先代は本邸に戻ることなくずっと離れにいた。それはサマンサの近くに使用人といえど男を近寄らせたくなかった先代が離れにサマンサを軟禁状態にしていたから。離れには最低限の女性の使用人がいるのみで、ヴィンスも13歳になるまでサマンサとは顔を合わせたこともなかったという。
「13歳になったとき、初めて庭であの女に会った。父上の知り合いだと言うその女から外に出られないから話し相手になってほしいと言われた。僕もその時は母上を亡くしてまだ1年ほどで寂しかったから引き受けたんだ。誰にも内緒にして欲しいと言われて、いつもこっそり庭に行って他愛ない話をしていた。けど、いつからかやけにボディタッチが増えて、マッサージとか色々理由をつけて体に触れてくるようになった。やめてくれと言ったら、急に豹変して僕を押し倒してきたんだ。その時の僕は13歳とはいえ、体も小さく非力で……、されるがまま服を脱がされて体中触れられた……。怖くて声が出なくて。覚えているのは赤く塗られた爪と唇に甘ったるい香水の匂い、そして熱を帯びた目をしながら鼻にかかった声で僕の名を呼ぶ声…………。僕は恐怖と気持ち悪さから体が硬直して動くことすらできなった。反応すらしない僕の身体を見て、あの女は欠陥品だと言いながらそれでもその行為をやめてくれなかった……」
「ヴィンス、もういいです」
あまりに辛そうな団長をこれ以上見ていられない。けれど、団長はゆっくりを首を振る。
「君には全部聞いてほしいんだ……。反応すらしないから最後までしていない。それでもどれくらいかはわからないけど、僕にとってはとてつもなく長い時間耐えるしかなくて」
最後までとか関係がない。ヴィンスにとってどれほどの恐怖だったのだろう。どれほど辛いことだったのだろう。
「その時、初めて父上に名前を呼ばれた。怒鳴り声だけどね。ようやく引き離された女を見たら、その横で僕を殺さんばかりの目で見ていた父上と目が合ったんだ。それでようやく悟った。その女が父上の相手、父上と一緒に母上を悲しませていた張本人なんだって」
「ヴィンス……」
どう声をかけていいかもわからず、今の話を聞いて触れることを躊躇っていた私の手をヴィンスがぎゅっと握ってきた。その様子に、私はヴィンスに触れてもいいのだとほっと安堵する。
「それからすぐに僕は騎士団に入れられた。僕としても願ってもないことだった。あれ以上あの家にいたくはなかったから。それからは必死だった。怖くて震えるしかできなった弱い自分を鍛えることしか考えなかった。でもどれだけ体が成長しても、どれだけ鍛えても、思い出しては眠れない日はあるし、女性が傍に来るだけで体が硬直してしまう……。それに、あの日以降僕は男性としての機能も失ったまま。だから僕はずっと欠陥品なんだ……」
「そんなこと……」
ない、と言おうとした私に力なく首を振るヴィンス。
「僕は君から母親になるチャンスを奪っている。君が子供好きなのも知っているのに。よく修道院に行って子供たちに勉強を教えたり遊んだり、そんな楽しそうな君を見ていたから……」
「それは……」
確かに、私は子供が好きだ。元々4人いる弟妹の面倒だって見てきた。それでも、結婚したら必ず子が設けられるとも限らない。子のいない家庭だって普通にあるのだ。
「君の幸せのためには僕との契約結婚を終わらせて、本当の夫婦になれる人と幸せな結婚をすることがいいことはわかっているんだ。……でも」
ヴィンスが顔を上げて私を抱きしめた。
「でも! 別れたくない……。僕はずっと君と一緒にいたいんだ」
震えながらそう訴えるヴィンスの背中に私もゆっくりと手を回す。ヴィンスのこの言い方だと私は自分の都合のいいように解釈をしてしまう。
ずっと一緒にいたい、なんて。私のことを好きだと言っているようで……。
「ヴィンス、その言い方だとまるで私のことを好きでいるような……」
「好きだよ! 大好きだ! フィオナのことがずっと特別で大事で、どうしようもないほど好きだ」
がばっと私から体を離して視線を合わせながらそう言い募るヴィンスに、私はじわじわと顔が熱くなるのを感じた。
好き……。ヴィンスが私を。
「初めて君を見た時からその凛とした佇まいにずっと目が離せなかった。一緒に仕事をしてその仕事ぶりはもちろん、はっきりと物をいうところや物怖じしないところ、そしてこの意思の強い濃いグリーンの瞳。君の全部に惹かれた。僕にはない強さを感じたから。それなのに、近づくと体はどうしても硬直してしまって……。でもどうしても君を手に入れたくて。本当の夫婦になれないのならせめて、と思って。あの日、僕は契約結婚なんてものを君に持ち掛けたんだ……」
「ヴィンス……」
「でも、そんなものは全部僕のわがままだった。それでもこの一年ずっと幸せで……。ずっとこんな日が続けばいいって。いつか君を自由にしないといけないとわかっていたのに……。ごめん、フィオナ。僕は君を自由に」
「ヴィンス!」
「は、はい!」
放っておけばどんどん話が進んでいきそうだと思った私はヴィンスの頬を両手で挟んで視線を合わせながら名を呼んだ。涙で濡れた瞳をじっと見つめるとじわじわとヴィンスの顔が赤くなって、頬に触れている手にもその熱を感じた。きっと私の顔も赤いはずだけれど、私の想いもちゃんと言葉にしないといけないと思った。
「ヴィンス、私はあなたをお慕いしております。ずっと前から。今もその気持ちは変わりません。いえ、その時よりもっと想いは大きくなっています」
深いブルーの瞳がこれでもかというほど開かれる。そして信じられないというように首を力なく振るヴィンス
「う、そだ……。だってそんなそぶり……」
「それは、ヴィンスにとって恐怖を感じる人になってしまうのが怖かったから。想いが溢れてあなたを媚を売るように見てしまったら、あなたに嫌われてしまうと。だから私はこの気持ちを隠してあなたの傍にいることを選んだのです」
「ふぃ、フィオナ……。ほ、ほんとに……?」
「こんな想いを抱えていますが、ヴィンスは私に触れられるのは平気ですか……? 今も怖くはないですか?」
「怖いなんて思ったことない。君だけだ……。触れたいと思うのも、触れて欲しいと思うのも」
頬から離そうとした私の手をぎゅっと握って、自らの頬をすりよせるヴィンスに、私はゆっくりと顔を近づけた。
「私のことを怖いと思ったら、嫌だと思ったら遠慮なく突き飛ばしてください」
「そんなこと……」
至近距離でヴィンスの深い海のような瞳を覗き込む。涙で濡れたそこに私の顔が映る。
頬に触れた手から団長の緊張を感じ取りつつ私はその綺麗な瞳に唇を寄せた。濡れた感触を唇から感じて、私は軽く音を立てながら離れる。瞳は閉じられ、長い睫毛がふるふると震えているのを見て6つも年上なのに可愛いと思ってしまった。
拒絶を感じることもなかったことに気をよくして今度は額に、頬に唇を寄せる。ヴィンスが出かける前に私にしていたことと同じように軽く触れるだけのキスを送る。
「ヴィンス、好きです。愛しています」
「フィオナ……。僕も好きだ……。愛している……」
その言葉を聞いて私はヴィンスの形の良い唇を指で撫でる。ぴくりと反応するも、ずっと目を閉じたままのヴィンスが愛しくて私はそこにも唇を寄せた。
柔らかく温かいヴィンスの唇に触れるだけのキスをしてゆっくりと顔を離すと、赤い顔をしてびっくりしたように目を見開くヴィンスに少し笑ってしまった。
「嫌ではないですか?」
私の言葉にぶんぶんと首を振るヴィンスに安堵していると、ヴィンスが突然私を膝の上に乗せてきた。ヴィンスに横抱きにされながら顔を固定されて、至近距離で私を見つめてくる。
「フィオナ……、もう一度……」
その言葉が終わらないうちに唇が触れ合う。ちゅっと音がして離れて、また触れて。何度も角度を変えてキスを交わした。
「フィオナ……」
熱を帯びた瞳に掠れた声。もう一度、と横抱きにされた私が少し体を動かした瞬間感じたのは…………熱。
それは私のお尻辺りに……。
そっとヴィンスを見上げると、ありえないほど真っ赤になって固まっていたが、私の視線に気づくと気まずそうに視線を彷徨わせた後私の肩に顔を埋めるように抱き着いてきた。
その熱がなにかわからないほど、私は子供ではない。何なら女性騎士から男性とのあれこれを聞いたりしていたから耳年増であることも自覚しているくらいだ。
そう、これはあれだ。ヴィンスは欠陥ではないということだ。
「ふぃ、フィオナ……。その、早急に契約内容を見直したい…………」
消え入りそうな声が耳元から聞こえて私は思わず笑ってしまう。
「見直し、でいいのですか?」
「破棄したい!!」
私の言葉にがばっと体を起こして答えるヴィンス。思っていた通りの答えにまたしても笑みがこぼれる。
「ふふ、はい」
「フィオナとは契約なんかじゃない、本当の夫婦になりたい。心も……体も結ばれたいっ!」
「私もです」
そう答えればヴィンスが嬉しそうな顔をして強く抱きしめてきた。未だ引く気配のないお尻辺りの熱には気づかないふりをして私もヴィンスの大きな背中に手を回した。
そうして、その日のうちに契約は破棄され、私たちが本物の夫婦になったことはいうまでもない。
久しぶりの新作です♪
初短編になります!
1万字ほどを目安にかき上げました
詰め込みすぎかなと思いつつ、削るとこ削って……
いやー、難しかったー
でも、またネタが見つかれば書きたいと思っています