助けてシスター
小国同士の小競り合いが絶えず続いていた大陸。数年前にはレギンドの大戦という大陸全土を巻き込んだ大戦争が勃発し、そして現在、戦勝者である帝国が大陸を強烈に支配していた。
辛く険しく、救いの無い時代に人々の心は荒み切っていた。
そんな人々の御心に光を差すべく、今日も彼女は聖職者としての正装に身を包み、救いの扉を開く。
彼女の名はコルア・テメット。レムメルの町の端にある小さな教会で、日々神に祈りを捧げる修道女である。
まだ陽も昇らぬ時分から彼女の一日は始まる。教会の裏にある井戸から汲み上げた冷水を、聖職者と呼称するにはあまりにも情欲的な肢体に容赦無く浴びせ眠気を飛ばす。
今日もまた清々しい朝を迎えられた事を神に感謝し、風邪を引かぬよう直ぐに身体に付いた珠のような水滴を拭き取る。
「おはようございます。今日も良いお天気ですね!」
庭の小鳥達と挨拶を交わし、教会の清掃を始めるコルア。また胸が大きくなったせいなのか、身体を動かす度に黒い修道着の下から身体のラインが浮き彫りになり、見る者の情欲を誘った。
そして、最低限の仕事を終えた彼女は教会の隅にある小部屋へと移る。そこは、この町のお悩み相談所。
悩める子羊達を導く為にと彼女が用意した部屋であった。
「さて、と……」
水差しをテーブルに置き、大きなお尻を小さな椅子に収める。この部屋に居る時は相当喋る事になる為、口を潤す水分の確保は必須なのだ。
彼女はカウンターに置いてあった魔具を作動させる。魔力を注ぐと、薄氷のような壁が現れた。
これはコルアと相談者を護る為の魔法の壁だ。相手から自分の姿は見えないが、自分からは相手の姿が見えるようになっている。
(よし!今日も頑張りますよ!)
そして今日も、弱々しいノックの音と共に救いの扉は開かれる。彼女は溢れんばかりの温もりを胸に抱き、子羊を迎え入れた。
「あ、ども……。御無沙汰してます……」
現れたのは、漆黒の鎧に身を包む一人の大男。見間違うはずも無いその姿は正しく、レッドデビルであった。
(え、ええええええええ!?ま、また!?また来たの!?嘘でしょう!?)
弱き者どころか世界でも上位の強者であり、子羊どころか悪魔であり、救いを求めるのは寧ろ自分の方であった。
「すいません。以前にもここで相談させてもらった者なんですが……。その、奴隷ハーレムを作りたいとか、女性への耐性を着けたいとか……。覚えてますかね?」
「……えぇ。勿論覚えています」
覚えていてくれた。その事実にジルの顔が暗い鎧の下で明るくなる。しかし、彼女にとっては忘れようにも忘れられない事件である。
喉から飛び出してきそうな心臓を必死で抑え込み、下品と思いつつも水差しに直接口を付け喉に流し込む。嫌な動悸に、普段の柔和な表情からは想像できない剣幕を浮かべるコルア。
「シスターに言われた通りにしたら上手くいきまして、その節は本当にありがとうございます」
「いえいえ。私はお礼を言われるようなことは何も……」
未だに声が震えるコルア。
前回の一件で慣れたと思っていたのだが、いざこうして再び向かい合うとその全方向から圧し潰してくるような威圧感に呼吸を忘れてしまう。
「おかげでおしりも触れました。感無量です。貴女が居なければきっと僕は永遠におしりを触ることが出来なかったと思います。本当にありがとうございます」
「い、いえいえ。お役に立てたのであれば私も嬉しいです……」
彼女の笑みは引き攣っていた。しかし、相変わらず見た目に反して低姿勢な彼の姿にコルアの緊張も少し解れていく。
「それで、本日はどのようなご相談でしょうか?」
一つ大きく息を吐き、今できる精一杯の笑みを浮かべ、問う。せっかく浮かべた笑顔を相手に見られることは無いが、し表情と声は密接に絡み合っている事を彼女は熟知していた。
「え~と、そうですね……」
もじもじと肩を揺らし恥ずかしそうに言い淀んでいる姿に、コルアは形容し難い不安を抱く。見てはならないモノを見ているような、そんな気分。
「き、キスの仕方を、教えて欲しいんですが……」
コルアは眉間に深い谷を刻み両手で顔を覆う。心の中で神に救いを求めるが、神は無慈悲である。
自分はとんでもない深淵を見せられているのではないか。そんな救いの無い絶望感に苛まされる。
今にも逃げ出したい気持ちであった。と言うかもう席を立っていた。が、彼女の内に秘めた使命が彼女の足を止めていた。
この男は自分を頼っているのだ。恐らくは、と言うか間違いなく誰にも言えない悩みをこうして自分に打ち明けているのだ。自分ならこの苦悩から解き放ってくれる、そう信じて……。
「こほん……。キスというのは、その、せ、接吻のことでしょうか?」
「そうです。《《チュウ》》です」
コルアの頭の中で何かが弾けた。
彼女が黙っているのを良い事に、レッドデビルは勝手に事情を説明する。
何でも最近、恋心と劣情を抱く相手と良い感じの雰囲気になり、その場の勢いでキスをしようとしたのだが、結局口ではなく頬にしてしまったとか。
単純に口にする勇気が出なかったのもあるのだが、それ以上にもし自分のキスが下手で相手に嫌な思いをされたら、という不安があったらしい。要するに彼の相談は『上手でさり気ないキスの仕方』。である。
教えを乞う相手を完全に間違えているだろう。淑女は青ざめた微笑みを浮かべながら心の中で泣き叫ぶ。
彼女はキスどころか、異性と手を繋いだことすら経験が無い。
「あの……。やはり難しい相談でしたかね……」
カウンターに両肘を突き、顔の前で祈るように手を組むその姿。コルアの聖職者としての本能が刺激された。
悪魔が祈る。そんなこの世の最たる矛盾のような光景に、コルアは素直な笑みを零した。
「そうですね……。では……」
そして彼女は彼を導く。それは以前彼にしたアドバイスと同じく、今は亡きセクハラ神父の経験談を参考にしながら……。
―――
「な、成程……。流石はシスター……。道が開けた気がします」
「それは良かった……。神の御加護を……」
満足気に力強く頷くレッドデビルに対し、コルアは椅子の上で天井を眺めていた。何とか納得してもらえたことに安堵すると共に、俗物的な相談にシスターが答えを授けてくれたなどと口外されぬことをひたすら祈っていた。
汗で前髪は乱れ、手足をだらしなく放り投げた姿に普段の静謐さは欠片も窺えない。それ程までに激しい闘いであった。
「あ、すいません。実はもう一つ助言をいただきたい事がありまして……」
神よ、今、御許へ参ります。コルアは涙を流し、静かに手を合わせた。
しかし、彼の口から出て来た悩みを聞き、コルアの表情は急に凛と染まる。
それは、彼自身の評判についての悩みであった。
とある相手に自分に関する嘘の情報を流され、そのせいで自分だけでなく傍に居る者にまで悪影響が出ている。彼女達は気にしないと言ってくれてはいるが、それでもやはり気分は良い物ではなく、その嘘を暴き、真実を喧伝すべきか迷っている。
それが彼の悩みであった。
(やはりあの噂は嘘だったのですね……)
彼女の脳裏に浮かぶのは、数週間前に帝国が発行した新聞の見出し。レッドデビルが帝国を襲撃したという噂は風のように大陸を駆け巡っていた。
が、コルアは帝国に否定的な心情を抱いている人間の一人であり、今回の事件も帝国の主張は殆ど信用していなかったのだが、当事者の口からその事実を耳にし確信に変わる。
彼が嘘をついている可能性は微塵も感じなかった。このような秘匿性の高い場所で自分が誰かも分かっていない相手にわざわざ内容をぼかした嘘を吐いても何のメリットも無い。
「……心労、お察しします。勝手な噂が自らの知らぬところで独り歩きするのは不快で不安ですよね。解ります」
「解るんですか?」
「ええ。偽善者だの、裏では子供の奴隷を密売しているだの、身体を売って信徒を増やしているだの、私も色々と言われてきましたから」
だが、それは仕方の無い事なのだとコルアは告げる。
「人は誰からも好かれることは決してありません。誰からも信用されることも決してありません。必ず誰かから嫌われ、妬まれ、蔑まれます。ですが、それとは逆にあなたを信じ、あなたを敬い、あなたに厚意を寄せてくださる方が必ず居ます。わざわざ悪い部分に目を向けるのではなく、先ずは良い部分に目を向けそれを大事にするのがよろしいかと思います」
シスターの言葉に、以前レムメルの通りでパンを渡してくれた女性が脳裏を過る。
「一方向の噂程度で誰かを評価し決め付けるような方は所詮はその程度であり、あなたにとって無価値な方です。無視しましょう。そんな方の為に心を病む必要などありません」
特大のブーメランが胸を貫く感覚。激しい罪悪感が彼女を襲うが、しかし目の前の子羊は感謝のあまり声を震わせ堅く手を合わせた。
「シスター……。貴女に相談して本当に良かった!心の霧が晴れた気がします!」
「それは良かった。ただ、その噂のせいで看過できない程の実害を被るようであれば真実の喧伝は必要かと思います。新聞を発行したり、噂を流したり。なるべく平和的な方法が良いですね」
「まぁそれはそうですよね。平和的かぁ……。あ、そうだ!この教会って毎日たくさん人が来ますよね?それならば、シスターに事実を喧伝していただければ少しは悪評も収まるのではないでしょうか?」
とんでもない提案にコルアの尻が跳ねる。
「わ、私は神に仕える身でして、誰かを贔屓することは出来ないのです……。申し訳ございません」
「なるほど……。無理言ってすいません。シスターって、大変なんですね~……」
言い訳として成立していないがそれでも納得する鎧の大男の単純な思考に安堵する。
正直、大したアドバイスも出来なければまともな提案も出せた気がしない。だが悪魔と呼ばれる男は全身で喜びを表現しながら、何度も何度も見えない相手に頭を下げ、嬉々として立ち去って行った。
かくして、荒々しく閉じられた扉の音と共に一人目の相談が終わりを告げた。
「…………」
コルアは静かに立ち上がる。脇に置いていた水差しの中身は既に空。急いでお花を摘みに行く必要があった。
その際、彼女は相談所の扉に掛けられた看板をひっくり返す。『CLOSE』の文字が静かに揺れた。
その日、レムメルの町では『教会の相談所が予告無く閉鎖されていた』と小さな噂が流れる事となったのだが、コルアは気にしない事にした。




