第10話 神にでも祈ってみるか?
セラは気付けば城壁の縁に立っていた。
下げた両腕を小さく広げ溢れる感情に任せ魔力を絞り出す。この感情、この感覚には覚えがあった。脳裏に過るのは、劫火に包まれた愛する故郷。
今、彼女を動かしているのは憤怒であり、行使しようとしているのは殺意であった。
白く淡い輝きを発し出す身体。ゆっくりと両手を空に掲げると、放たれた魔力は一瞬の内に天を覆い氷の刃を生み出した。重たい冷気が戦場を包み込み、陽の光は歪に乱れ降り注ぐ。
様子に気付いた魔導士達が彼女に向け杖を構えるが、それをソリアが制した。彼等ではこのエルフの途方もない魔法を防ぐこともできなければ、彼女を止めることも不可能であると理解していた。
少し離れた所で頭上を仰ぐヴァローダも、険しい表情を浮かべている。
氷結系の魔法。それも稀に見る強大な魔力。かつて奴隷商館のオーナーであるアシモフから聞いた話は真であった。
「フフフ……。成程。これは凄い。傭兵の大部隊が壊滅させられたのもこれなら理解できる」
「……今すぐ彼らを止めてください。さもなくば、落とします」
彼女が初めて見せる明確な殺意と冷徹な眼差しに、不肖の皇子は悦喜に頬を緩ませる。
「落とせばいい。果たして何人死ぬかな?」
「……」
この男は脅しに屈しない。それどころか良い見世物だと言わんばかりにグラスを口に運ぶ。自分の行いを、人の死を酒の肴にしようとしてるその姿に激しい嫌悪が込み上げた。
眼下の傭兵や魔族は我先にと逃げ惑う。しかし平原の果てまで敷き詰められた氷の刃から逃げ切れる時間も無く、またあまりにも巨大なそれを防ぐ盾も無かった。
「そこまでです!!」
セラが叫ぶ。
「今すぐ戦いを止めなさい!さもなくば私が相手です!」
しかしその声にエルバンもマルドムも従う気配を見せない。それどころかマルドムは喉を鳴らし、嘲りをフードの下から覗かせた。
「……」
ジルは徐に立ち上がり、見上げる。空を覆い尽くす氷の刃とそれを操るセラの姿に嘆息が漏れ、そして溜息が漏れた。
「止めるのはキミだ、セラ」
枯れた声で彼女にそう告げる。鎧の下の顔は穏やかで、そして少し寂しげであった。
まさかジルに制止されるとは思っていなかった。セラは目を細め奥歯を噛み締める。
「俺は言ったはずだ、セラ。キミは戦わなくていいって。その魔法も、戦う為に練習した訳じゃないだろう?」
「……で、でも……!」
「今すぐその魔法を消すんだ。これは命令だ。セラ」
「う……」
確かにこの魔法を撃てば戦局を覆すことができるかもしれない。
彼女がこの魔法をどこまで操れているかは知らないが、あの氷の刃を単純に落下させるだけでも大混乱を招くことは出来るだろう。それはジルにも降り注ぐ諸刃の剣だが、上手くいけばエルバンもマルドムも仕留められるかもしれない。
しかし、ジルはそれを拒んだ。彼女を修羅の道に引き入れてはならぬという固い意志がそこにはあった。
セラは以前、自身の魔法によって多くの命を殺めてしまっており、それは今でも彼女の心を蝕んでいる。もう二度と誰かを殺めさせるような、傷付けさせるようなことがあってはならない。
ジルはその考えの下、彼女に戦いの為の魔法の使用を禁じていた。それが例え自分の為だったとしても。
「セラ、悪かった。俺が弱いばかりに、キミに無理をさせてしまった。本当に申し訳なく思う」
でも。と、ジルは続ける。
「もう大丈夫だ。何も心配しなくていい。俺は今からキミを救いに行くよ。キミが俺を信じてくれるなら、その魔法を消してくれ。信じられないなら、そのまま落としてくれ」
「……」
卑怯だ。彼女は心の中でそう罵った。
信じたい。誰よりもジルの事を信じたい。だが、この状況を覆す策があるとも思えない。この絶望的な状況を打破し得る術があるとは思えない。
感情の暴走の果てに顕現したこの魔法を消してしまえば、二度と自分の意志で生み出すことは出来ないかもしれない。
「セラ」
「……はい」
混迷の中、はっきりと耳に届いたその声は彼女を導いた。その声に籠められた想いに、セラは従った。
セラは下唇を噛み、涙を流しながら掲げた手を降ろす。彼女を取り巻いていた冷気がそよ風に掻き消されると同時に、空を覆っていた氷の刃も霧散した。
その瞬間、セラは蹲り嗚咽を漏らす。咄嗟に魔法を使ってしまったことによりトラウマが雪崩の如く彼女の脳裏を覆い尽くしていた。
何事も無かったかのように涼やかな晴天が顔を覗かせる。
「素晴らしい。主人が奴隷を思いやる美しい愛の姿。実に感動的なショウであった」
細く長い手で音の無い拍手を向けるマルドム。
その乾いた称賛にジルは乾いた笑みで応えた。
「で?どうしようと言うのだ?見栄を張った代償は、あまりにも大きいぞ?」
マルドムが構え、エルバンが周りを取り囲む。ジルには最早メイスを持ち上げる力も残されてはいなかった。
セラが、張り裂けそうな胸を必死に抑える。ソリアは来るべき歓喜の刻に向け唇を舐めながら立ち上がる。
終わりだ。眺めていたほぼ全ての者がそう悟った。
「もう策もあるまい。どうする?神にでも祈ってみるか?」
マルドムのそれはただの軽口だった。しかし、ジルはその言葉に口元を緩め、答える。
「そうするさ」
と。
そしてジルは唱えた。自身が忌み嫌う、あの言葉を。
「『インガレオ』」
マルドムは見た。ジルを護っていた鎧がひとりでに消えて行くのを。
鎧を形成していた魔力の塊は燃え尽きた灰のように宙へ散ってゆく。
諦めたか。そう思ったのも束の間、マルドムの背筋が凍り付く。彼は見た。鎧の下から覗く、紅く染まった男の姿を。
レッドデビル。その言葉が脳裏を過った瞬間、マルドムの腹は貫かれていた……。




