第4話 闇夜に駆ける
ナナの羽は根元の肉ごと抉り落されてはいるが応急処置は完了しており、意識は無いようだが呼吸はしていた。
ジルに気付いたカリナは涙を流しながら彼に抱き着き、一層の嗚咽を漏らす。ジルは慌てて鎧を解除し優しく抱き止めるも、その際にカリナの顔に乾いた血が付着しているのが見えた。
「……誰にやられた」
今にも身体を引き裂き暴力を撒き散らさんとする憤怒を堪えながら、ジルは問う。
カリナは断片的に何が起きたのかを伝えた。突如として帝国の人間が現れた事。セラが連れ去られたこと。止めようとしたナナが羽を切られ、自分も助けようと跳びかかったが呆気なくやられてしまったことを
その説明に、背後で立ち竦んでいたミスラが補足を入れた。何故このような事件が起きてしまったのかを経緯を含め声を震わせながら説明した。
マルドムに脅されていたこと。彼の命に背けば自分が奴隷として売り飛ばされてしまうだけでなくギルドも潰されてしまう為、協力せざるを得なかった事を赦しを乞うように説明した。
彼女はジルに殺される覚悟であった。それだけの事をしたという自負はあった。
が、ジルは彼女に手を下すことは無かった。
「悪い。気付いてやれなかった。辛い思いをさせた。申し訳ない」
それは、セラが去り際に自分に向けた言葉と、感情と瓜二つであった。ミスラは再び嗚咽を漏らし、その場に崩れ落ちる。自傷行動に駆り立てられてしまいそうな罪悪感が彼女の胸を握り潰そうとしていた。
「ミスラ、キミは悪くない。巻き込んだのは俺で、悪いのは帝国だ。だから気に病まないでくれ。キミが無事で、何よりだ」
今、誰よりも感情に身を任せてしまいたいはずの男から出た気遣いに、ミスラはただ何度も首を横に振るしかなかった。
「……ソリアか」
以前、セラを購入した際に商館の主人のアシモフから聞いた事がある。オズガルド第三帝国の皇子ソリアがセラを狙っていたのだと。
だが、まさかこのような行為に及ぼうとは思いもしなかった。他人の奴隷を略奪する行為は重罪に当たるが、秩序と法を重んずる国の頂点にはその理が及ばないらしい。
何とも美しい秩序だ。ジルは心の中で唾を吐く。
「ジル様……」
耳を垂らし泣きじゃくるカリナが腕の中から震えた声で呼び掛けてくる。下唇を噛み締め、ジルの衣服を力の限り握り締め、潤い歪んだ大きな瞳を向けてくる。
言えなかった。セラを助けてほしいと訴える事は出来なかった。
それはつまり、帝国と戦え、と同義であったからだ。そしてその意思を解っていたからこそ、ジルは彼女の無言の訴えに対し柔らかな笑みを浮かべ、静かに頷いた。
カリナは糸が切れたように全身が弛緩し、腕にかかる重みが増す。
「疲れてたんだろうな。よく頑張ったね」
カリナを抱きかかえ自分のベッドに連れて行く。ナナも同じようにカリナの隣に寝かせると、ジルの表情が一気に険しくなった。眉間には深い溝が刻まれ、全身から熱と魔力が漏れ出ている。
羽虫の羽ばたき程度の刺激でさえ大爆発を起こしかねない火薬。ミスラから見たジルのイメージがそうであった。
「だ、ダメだよ、ジルさん。ダメ、だよ……」
ジルの意図を察し口にするが、男は部屋の外に向かって歩き出した。ミスラは足をもつれさせながら慌てて後を追う。
「帝国は、もうずっと前から迎え撃つ準備をしてるんだよ?勝てる筈が無いよ」
「勝つ必要は無い。セラを取り戻せればそれで良い」
足早に階段を降りて行く。
「で、でも、仮に奇跡的に取り戻せたとしても、どうせその後また帝国が追って来るに決まってる。逃げられないよ」
「だったら、もう二度と俺に手を出そうと思えなくなるまで徹底的に痛め付けてやるまでだ。俺のモノに手を出したらどうなるか、骨の髄まで叩き込んでやる」
食糧庫の奥にある隠し扉を開く。狭い部屋の正面の壁にはジルの身長程はある巨大で黒々としたメイスが掛けられていた。ジルはそれを手に取り、ベルトで背中に固定する。
「せ、せめて準備を。仲間や傭兵を集めて作戦を練ってから……」
「そんな時間は無い。今こうしている間にもセラがどんな目に遭っているか分からない」
玄関の扉を開く。陽は沈みかかり夜の帳が下りようとしていた。
ジルの屋敷から第三帝国までは馬車でどんなに急いでも丸一日掛かる。更に悪い事に夜は魔物の活動が活発になる為、町を行き来する馬車は殆ど動いていない。手配したとしてもやってくるのは明日だ。移動手段は無きに等しい。
ミスラはそう指摘するが、ジルは当然のように『走るさ』と答えた。
馬車で一日掛かる距離を走って移動など考えられる事ではない。もし仮に出来たとしても帝国に着く頃には疲弊し切っているだろう。とてもセラを取り戻すどころの話ではない。
そして彼女は確信していた。ジルが敗れる事を。だからこそ止めたかった。それは、彼が愛する女性の願いでもあったからだ。
「待って、ジルさん。これ、読んで」
今にも駆けだしそうな勢いのジルの前に立ち塞がり、折りたたまれた一枚の紙を取り出しジルに渡す。
「これは?」
「セラさんの、書置き……」
それを聞いた途端、奪う様に紙を受け取る。そこにはジルに対しての感謝の言葉、カリナやナナへの気遣い、ミスラを責めないでやって欲しいという旨。
そして、自分が大人しく連行されれば今後一切ジルとその家族に手を出さないという条件が存在する前提を踏まえ、自分を助けに来ないで欲しいという願いが記されていた。
「奴隷が主人に命令するな」
ジルはその書置きを読み終えてすぐ、手の平で握り潰し煮え滾る魔力で消滅させた。
彼は大きな手を目の前の友人の肩に乗せ、言う。
「留守は任せた」
と。
何一つ変わらない信頼の証明だった。そして、どうあっても彼は止まらないのだという事をミスラは悟った。
「『インガレオ』……」
彼女の口から出てきたのは祈りの言葉。安全に、生きて還って来れる為のおまじない。
「言ったろ?俺、その言葉嫌いなんだよ」
しかしジルは満足そうに微笑み、次の瞬間には姿を消していた。
闇夜を切り裂き、悪魔が駆ける。
全身を焼き尽くす憤怒に身を任せ、一心不乱に突き進む。
そして世界は再び、レッドデビルを知ることになるのであった。




