第3話 言論の決着
思い出されるは、彼が全盛を奮った時の記憶。
バラドは目の前に立つ男の姿を目の当たりにし、不覚にも微かな高揚を覚えていた。
不遜な視線を向けてくる男の名は、ジル=リカルド。彼の服装は紛れも無くあの時のもの。レギンドの大戦において両軍から畏怖の念を籠め『悪魔』と呼ばれた男の戦闘装束であった。
憤怒に塗れていたバラドの心に僅かな清涼感が滴る。あの時の懐かしい香りが鼻を突くような気さえした。あの、喧騒と、汗と、血と、この世の地獄を煮詰めたような、あの臭い。
「惜しい」
意図せずして漏れたその言葉に対し、ジルは盾になるように従者達の前へ歩を進めると、否定的な感情を剝き出しにした視線をバラドに注ぐ。
バラドは気付いていた。あの時の、数日前にここへ訪れた時とはまるで違う。一つの意思に対し極限まで心を傾けた男の貌がそこにあった。
まるで巨大な岩石を糸一本で支えているような、あまりにも頼りなく、今にもはち切れそうな空間の中、セラは唾を喉に押し込む。
「随分と穏やかじゃないな。どういった了見だ?」
会話をするつもりはある。そう受け取ったバラドは臨戦態勢を僅かに解く。
「今更惚ける意味もあるまい。そこのサキュバスが我が同胞、ランドラドを殺害したことは知れている。俺を狙っていたその小娘から俺を護るために接触し、説得していたところを不意を突かれ殺害された。そう報告を受けている」
「バッ……!ふざっけっ!」
声を荒げたのはベッドで寝ていたククルだった。怒りに顔を歪ませ力の限りぶちまけようとするも、彼女の身体はそれを許してはくれなかった。
体中に脂汗を滲ませ苦悶するククルの背を、カリナが優しく撫でる。
「……お前、その報告を真に受けてるわけじゃないよな?」
「そう、報告を受けている」
「嘗めるなよ」
絞り出すような掠れた声には、明確な殺意が乗っていた。
「過程や動機に関しての真偽は不明だ。俺の機嫌を取ろうとする者の言葉など信用に値せん。だが、今最も重視すべきことは『結果』だ。俺の部下が、反乱軍の幹部であるランドラドが、貴様の所有物である奴隷に殺害された。それだけは確かで揺るぎない事実だ」
「証拠も無いのに随分な物言いだな。お前らが勝手に都合よく妄想してるだけじゃないのか?」
「嘗めるなよ」
今更な反論を仕向けるジルに対し、バラドは堅く拳を握る。分厚い皮膚が擦れ合う音が部屋に纏わり付いた。
「もう一度言う。そのサキュバスをこちらに渡せ。本来なら所有者である貴様にも報いを受けてもらうところだが、こちらの不手際が無かったとも言い切れない。よって、今回の件はそれで不問に処してやる」
「まるで譲歩してやっているとでも言いたげだな」
「その通りだ。今、俺は事の真偽や善悪で物事を語っているわけではない。力がある者が、その力を行使し、力で立場を決めているだけだ。力無きものは屈服しなければならない。選択権など有りはしない。ただそれだけの話だ」
バラドは目を細め、ベッドの上で藻掻く一匹のサキュバスを視界に捉える。
「これは俺からの最大限の温情だ。幹部は殺され、反乱軍は汚名を着せられ、士気は下がり、統率は乱れた。それに至る原因を生み出したモノを所有している貴様への咎を、ただそれだけで見過ごそうと言ってやっているのだ」
「原因?お前がそれを宣うのか?それを言うのなら、その原因を生み出したお前こそ諸悪の根源じゃないか。お前が過去に行ってきた因果が巡って来ただけの話だろう。お前に彼女の責を問う資格は無い」
「資格の有る無しの話ではない。俺は俺の心に従って行動しているに過ぎない。貴様らの価値観や考え方など、俺には無意味だ」
あまりの話の通じなさに、ジルは大きく肩を落とした。嘲笑にも自嘲にもとれる笑みが浮かぶ。
数日前の応接室でのやり取りと同じ。この男は対話をしに来ているのではない。自分の我を押し通そうとしているだけに過ぎなかった。
「俺とて貴様を手に掛けたくない。それは偽らざる本心だ。貴様のような男を失うのは我々にとって大きな損失だ。だからこその譲歩であるということも理解してもらいたい」
「傲慢もそこまでいくと嗤えるな。俺の中に、お前たちの為に存在するものなんて何一つ在りはしない。お前に捧げるものなんて何一つ在りはしない。お前なんかに俺の仲間を渡せるか。見逃してやるからさっさと出て行け」
傲慢と傲慢が火花を散らす。ジルは一歩も引き下がるつもりは無かった。ククルが帰ってきたあの瞬間から、彼の腹は決まっていた。
「……断る。と、言ったら……?」
再び臨戦態勢に入るバラド。彼から吹き出す途方も無い威圧感が熱を帯びた蒸気のように部屋に充満する。しかしそれはあくまでもジルの畏怖を引き出すための脅しであった。
彼の、彼自身に対する評価は決して間違っていなかった。ジルに対しての侮りは、彼の持つ力を考えれば決して批難されるようなものではなかった。
――そしてその傲りは、一瞬の隙を生む。
「――ッ!!?」
ジルの拳が、バラドの腹にめり込んだ。
超至近距離からの巨大な槍の投擲を思わせる衝撃がバラドの分厚い腹筋を貫く。彼の巨体は壁と床を軽々と打ち抜き、そのまま外の地面へと激突した。
轟音が、のどかな丘陵に響き渡る。
「……貴様……」
立ち昇る砂煙。崩れ落ちる木片。
受け身を取れなかったにも関わらず平然とした様子で抉れた地面から立ち上がるバラドを、景色の良くなった二階からジルが見下ろしていた。
「俺と、この俺と戦うと言うのか!?」
バラドの怒声に、ジルは眉間を深く刻み、応える。
「果て無き言論の決着は、何時だって闘争。そう宣ったのは、誰だったかな?」
その答えに一瞬目を見開くと、歯を剥き猟奇的な笑みを浮かべた。
「……成程。ならば、存分に語り合おう!」
凶鬼の咆哮が轟く。それはまるで、久しく出会わぬ『遊び相手』を得たような、そんな無邪気さを孕んでいた。




