第3話 偽善者
優しさに対し、彼女はあまりにも猜疑的だった。
自らに向けられる優しさは全て醜悪な欲望が前提。そんな戒めが彼女の思考に深く突き刺さっていた。
どんな甘言であろうと心の障壁を突破することは叶わず、安っぽい慈愛に対して頑なな拒絶を以て応えた。その堅牢な砦は、鈍の偽善を尽く砕き、その仮面の裏の下卑た情欲を露にしてきた。
誰だってそうだという彼女の思想は今も変わらない。それ故に、彼女は苛立っていた。このジルという飼い主が未だに本性を現さず、自らに対し見え透いた偽善を向け続けているこの現状に。
彼は常に優しかった。どんなに無礼な行いやどんなに卑劣な物言いをしても、彼は彼自身を戒めこそすれ、彼女に対し文句の一つも漏らさず不快の欠片も見せなかった。
それが、彼女には堪らなかった。許せなかった。だから、彼女は行動を起こすことにした。
ククルがこの屋敷にやってきて八日目の夜の出来事。
特に計画していたわけではない。明細化された考えがあったわけでもない。ストレスからの衝動による自棄、それが最たる行動原理であった。
「……」
どれぐらい夜に浸っていたのだろうか。正確な時間は分からないが、少なくとも普通の人間ならとうに夢の世界を漂っている時間帯であるという確信はあった。
ベッドと化粧棚の隙間から這い出ると、裸足のまま部屋から出る。屋敷の中に灯りは無く、廊下の先は闇に染まっていた。蒸し暑い夜だったが、背筋に悪寒が走った。
音を立てないよう扉を閉め、壁に手を当て探るように歩き出す。幸いにもエントランスホールと階段は月明りに照らされていた。
裸足が床を打つ音すら煩わしく感じる静寂の中、ククルは台所へ向かい調理器具の並べられた棚の中から一本のナイフを取り出す。何の変哲もないただの果物ナイフだが、とりあえず鋭利な物であればこの際何でも良かった。
抜き身のナイフを片手に再度階段を上り、自分たちの部屋がある方角とは反対へ歩を進める。目当ての部屋の前に立つと、静かに扉の取っ手に手を掛ける。扉はすんなりと開いた。
そこは、ジルの部屋。実はこの屋敷に来て初めて足を踏み入れる。
広いのは広いが、必要最低限の物しか置いていない。金持ちにしてはなんとも味気ない質素なベッドの上では、ブランケットもかけず寝息を立てている一人の男が。
仰向けの姿勢で両手は腹の上に置かれ、想像していたよりも綺麗な寝相をしていた。
「……」
右手に握るナイフに力が籠る。勢いに任せてここに来たものの、この後どうするか具体的なプランを持っていなかったククル。取り敢えずこの男を起こそうと一歩、部屋に足を踏み入れた。
「まだ夜だよ」
「……!」
ククルの足が止まる。音は立てていなかったが、しかし部屋の主は目を覚ましていた。身動きの取れない静寂の後、ジルは気だるそうに鼻息を漏らすと上半身を起こし、枕元のランプを灯した。
扉の前で佇む少女の負の感情のみが込められた視線を受け、困ったような笑みを零す。
「ほんの少しの殺意や鉄の匂いですぐ目が覚めちゃうんだよ。戦争の後遺症ってやつ、なんだろうね」
「……」
「闇討ちしようとしてたんだろうけど……ごめんね?っていうか、そんなに嫌だった?頭撫でられたの……」
彼女が自分に刃をつき立てようとする理由が先日の頭撫でにあると思う程度には、あの行為が不埒なものだったと彼は学んでいた。
「あれは、その、ねぇ?良かれと思ってというか、喜ぶと思ってというか、そういう変な、邪な気持ちがあった訳じゃなくて……。あ、いや、全く魅力に感じてなかったとかそういう訳でもなくてね……」
情けない声で放たれる歯切れの悪い言い訳の羅列に神経を逆撫でされたククルは、自分が何故ここに来たのかを再度認識する。
「アンタ、レッドデビルなんでしょ。噂は聞いてる。いつまで善人の皮を被ってるつもり?」
ああ、そっちか。ジルはどことなく安堵したような、肩透かしを食らったような面持ちでベッドから降り、部屋の隅に置いてあるテーブルとイスを部屋の中心に。
ククルを招くも、彼女は反応を示さなかった。
「噂、噂ねぇ……」
溜息混じりに椅子に腰を下ろすジル。どんな噂か聞く気すら起きなかった。
「なるほどね。で、俺の本性を暴く為にそんなものまで持って来たと。いやぁ、随分と嘗められたもんだなぁ」
ククルの返事は無い。意図的に黙っているというよりは、言いたいことがあっても感情の激流に邪魔されて言葉として纏まらないといった感じか。
「ここに来てからずっとそうだけど、キミはワザと俺に嫌われるように行動してるよね?俺にどうしてほしいんだい?怒れば良いのかい?襲えば良いのかい?乱暴に扱えば納得してくれるのかい?」
薄っすらとしたランプの灯に照らされた男の顔は、本当に困惑しているようだった。皮肉や諦念ではなく、素直な疑問がその情けなく垂れた眉から伺えた。
「それがお望みならそうするさ。でも、悪いけどそれは俺の本心ではないよ」
皮膚がナイフの柄を擦る音が耳に障る。
「人の優しさを素直に受け入れてみなよ。少しは気が楽になると思うよ」
「何を解ったように」
「解るさ。俺も同じだったからね。キミのように人を疑い、人の厚意を頭ごなしに否定していた。でも、ある日それが間違いだと理解して受け入れるようにしたら、割と気が楽になった。意固地は損だよ」
お前のことなど知ったことか。そんな言葉が部屋に轟きそうなククルの剣幕。
「結果的に上手くいった奴が無責任にほざく軽い言葉だ。誰もがそうであるかのように押し付ける傲慢に満ちた綺麗事だ。ただ運が良かっただけなのに、それを自分の行動の結果だと過信した奴の言葉だ」
彼女がここまで喋ったのは初めてのことだった。ジルは驚いたように瞼を開くが、乾いた笑みを浮かべ答える。
「そう、俺は運が良かった。運良く『善い人』に出会えたお陰で救われた。俺はその人に助けてもらったお陰で今、こうしてここに居られる。俺は運と他力によって成り立っている存在だ。そして、キミもそう。俺と出会った。運良くね」
「不運よ。この上なく」
「俺がそうはさせない。キミも、キミの言う結果的に上手くいった側に来れる筈なんだ。俺もその為なら何だってやるよ。命だって掛けていい」
ジルの言葉に、ククルは表情を歪ませながら嘲笑を吐いた。
「心の性欲の捌け口に私を利用しないでもらえる?本当に気持ち悪い。身勝手な偽善を押し付けて自慰行為に浸ってるだけじゃない。何だかんだ言って自分が気持ち良くなりたいから善人ぶってるだけ。所詮、アンタも自分を善人だと思い込んでるただの偽善者ね」
「そんなの当たり前だろ」
顔には笑みが浮かんでいるが、声は沈んでいた。
「俺がやっている事は全て俺の為だ。セラに、カリナに、ナナに。そしてキミに優しくしているのも結局は自分の為だ。何だってそうさ。誰だってそうさ。完全に誰かの為に存在する完璧な善なんてあるもんか。みんな、全てあらゆる行為の終着点は自分の為に決まってる。今更諭されるまでもない」
無駄に広かった筈の部屋が、やけに狭く感じる。
それに、と、男は言う。
「善人だと思い込んでいるだって?冗談キツいぞ。俺が自分の欲の為だけに何人殺してきたと思ってるんだ。どれだけ他人の人生を奪ってきたと思ってるんだ。仮に俺が善人なら、今頃天国は足の踏み場も無いだろうさ」
でも、と続ける。
「善人でありたいという気持ちは持ち続けているよ。それもまた身勝手だろうけど、俺がそうしたいんだから仕方ない。だから俺はキミに優しくし続けるよ。そして、幸せにしてみせる。もちろん俺の為にね。だからキミも諦めて、さっさと幸せになろうよ、ククル。……いや、ちょっとこの言い方は怖いかもだけど、まぁ、うん。そんな感じだから。今後ともよろしく」
「……認めない。私はお前を、認めない」
「そうか。それは残念。なら認めてもらえるよう頑張るよ。で、俺の本性についてだけど、満足したかな?これ以上は何も出ないと思うよ?」
「お前の言葉を信用するとでも?」
「好きにしなよ。どちらにせよ、俺はキミが望むような人間ではないことは確かだね」
まだお話しするかい?ジルのその問いに、ククルは踵を返した。
「ナイフ、ちゃんと仕舞っておいてね?」
返事は無い。と言うより、既にククルは部屋から姿を消していた。苛立たしそうな足音に、ジルも肘を突き苦笑を浮かべる。
すっかり覚めてしまった頭で思案に耽っていた最中、開きっ放しの扉が叩かれた。見れば、寝間着姿のセラが物憂げな微笑を浮かべ立っていた。
彼女が部屋の外で聞き耳を立てていたことは、ジルも気付いていた。
「俺は偽善者らしい。手厳しいね。セラもそう思うかい?」
「ククルさんには、そう見えているみたいですね」
それは彼にとって納得に足る答えだったようだ。ジルは足を組み、椅子に深く背を預ける。
「眠れなくなっちゃったよ。紅茶、飲みたいな」
「ご一緒してもよろしいですか?」
「是非」
その後、麗しい従者とのティータイムを楽しむと、ジルは再び浅い眠りにつくのであった。




