幼馴染に嫌われたい!
僕の家の隣には、一人の女の子がいた。
僕と同い年で、幼稚園も、学校も、ずっと同じところに通っていた。
彼女の見た目は少し地味だったけれど、客観的に言って、まあまあかわいいと言えた。
でも、僕は彼女があまり好きじゃなかった。
でも、彼女は僕のことが好きみたいだった。
これは困った。
だから、僕は彼女に嫌われることにした。
*
小学五年生の冬、家を出ると幼馴染が待っていて、何かもじもじしていた。無視して目の前を通ろうとしたが、ヒマワリみたいに首を回して僕を見るので、仕方なく用を訊ねた。
「あの これ よかったら……」
それはラッピングされた小さな箱だった。そのとき、僕は今日がバレンタインであることを思い出した。
「ああ くれるの?」
僕はその場で包みをびりびり破って、箱を開けた。中には不揃いな形をしたチョコレートがぎっしり詰まっていた。
「ご ごめんね もうちょっと綺麗にできるはずだったんだけど……」
彼女は恥ずかしそうに言った。うつむき加減に、僕の反応を上目遣いにうかがっていた。
「手作りなんだね けっこう手間がかかったんじゃない?」
「う うん!」
彼女は何が嬉しいのか、顔を上げて言った。
「そっか」
僕はチョコレートの詰まった箱を持つ手を、ひょいと放した。箱は地面でひっくり返り、まちまちな星型やハート型をしたチョコがあちこちに散らばった。
「え……?」
彼女は、最初はわけがわからないようだったが、すぐに涙ぐみ始めた。チョコレートはころころ転がって、側溝に落ちるものもあった。
「チョコが…… どうして…… 」
「嫌いなんだよね 甘いもの」
僕は足先に転がってきたチョコレートを踏み潰した。小石を踏んだような音がして、足の下でチョコが砕ける感覚が小気味よかった。
「そっか…… ごめんね 嫌いなのに こんなのあげちゃって…… うっ」
「じゃ 急いでるから」
彼女の声音が聞くに堪えなくなってきたので、僕は足早にその場を立ち去った。
学校に行く途中、朝食を食べていないことを思い出して、コンビニに寄ってバレンタインの売れ残りのチョコレートを買って食べた。
それはとてもおいしかった。
一か月後、今度は僕が彼女の家の前で待っていた。
彼女はいつまで経ってもさっぱり出てこず、本当に学校に行く気があるのか途中で疑ったが、遅刻寸前の時間になってようやく姿を見せた。
「あ……」
彼女は僕を見て意外そうな、しかし嬉しそうな顔をした。
「これ プレゼント」
僕は両手に抱えていたダンボールを彼女に渡した。
「えっ……?」
彼女は本当に驚いた様子だった。
「今日 ホワイトデイでしょ この前チョコを貰ったから お返し」
「あ ありがとう!」
「開けてごらん」
特にラッピングも何もされていなく、清涼飲料水のロゴが入った、スーパーで拾ってきただけのダンボールだったが、彼女はクリスマスのプレゼントを開けるような手付きで箱を開けた。
「――! いやっ……」
ゴキブリ、ムカデ、ゲジゲジ、カマドウマ、クモ、ヒル、ミミズ、ケムシ、ヤスデ、カメムシ、その他入れた僕でも覚えきれないほどたくさんの虫が、箱の中で蠢いていた。
「あれ 虫は嫌いだった?」
よっぽどショックだったのか、僕がそう訊いても彼女は何も答えようとしなかった。
「頑張って集めたんだけど…… 気に入らなかった?」
僕はしょげた声を出してみせた。すると彼女は慌てて首を振った。
「い いや そんなことないよ! ちょっと あの…… でも と とにかく ありがとう!」
「それはよかった ……おっと ごめんよ」
僕はそのダンボールに足でひっくり返した。彼女の足元にわさわさと虫たちが広がった。足を這い登るやつもいた。
「あっ あっ あああ……」
彼女は泣きそうな顔をしていた。
「あっ プレゼントが逃げちゃうよ 拾わないの? それとも やっぱりいらない?」
「い いいや……」
彼女は泣きながら、道路に逃げ出した虫たちを追いかけて拾い始めた。ちゃんと集めたのかどうか、途中で学校に行った僕にはわからなかった。
*
小学六年生のとき、修学旅行の班を決める時間があった。彼女は僕のほうをちらちら見ていたけれど、僕はさっさと別の人たちに声をかけた。
案の定、彼女は最後まで一人だった。これはいつものことなので、先生も慣れた様子で、さっさと適当な班に彼女を組み込んだ。
バスの席はくじ引きだったが、どういうわけか、僕と彼女はたまたま隣同士になってしまった。彼女が通路側で、僕が窓際だった。
当日、バスの中で彼女はしょっちゅう話しかけてきた。でもよく聞いていなかったので、何を話しているのかはわからなかった。
「ねえ お菓子あるんだけどさ 食べる?」
僕がそう言うと、彼女は目を輝かせてうなずいた。
「え……? う うん! 食べるたべる!」
別に変なものは入っていない、普通のお菓子だった。ポテトチップスを取り出して、彼女に渡した。
「……あの 食べないの?」
「いいよ 一人で全部食べてよ」
僕の見ている前で、彼女は嬉しそうにポテトチップスを食べた。
「まだあるよ ほら」
僕は他のポテトチップス、クラッカー、チョコレート、ポップコーン、せんべい、クッキー、ビスケットを次々取り出して、彼女に与えた。
最初は僕があげるものを喜んで食べていた彼女だったが、次第に食べる手が遅くなった。
それでも僕が勧めると、決して嫌とは言わずに受け取ったし、食べてと言えばその場で食べた。
「あ あの ごめんね でも 本当に…… もう…… うう」
彼女が気持ち悪そうにし始めたので、僕はもっとたくさんのお菓子を勧めた。
修学旅行用の小遣いも全部お菓子にしたから、土産は何も買えないけれど、別に構わなかった。
「これもあげる」
「ほら おいしいよ」
「食べてたべて」
「こっちはどうかな?」
「あれ いらないの? 喜んでくれると思ったんだけど……」
やがて、彼女は顔を真っ青にして、僕が話しかけても一言も喋らなくなった。
「大丈夫? 外の景色を見るといいんだよ ほら あれ見て!」
僕は窓のほうを向きざま、間違った振りをして、左肘を彼女のお腹にめり込ませた。
「……!! うえっ……」
たまらず、彼女は膝の上に今まで食べたものをぶちまけた。えづく声の大きさとびちゃびちゃと液体が床に垂れる音で、たちまちこのことはバス中に知れ渡った。
「うわっ 何やってんだよ……」
「ありえねー」
「ええ 大丈夫ぅ?」
「最悪なんだけど」
「ちっ 死ねよ……」
「気をつけろよマジでさあ!」
「おい窓開けろ窓」
「くさいよー」
涙でいっぱいの目で彼女は僕のほうを見上げたが、僕は無視して窓の外を見つめていた。
修学旅行はつまらなかった。
*
中学一年生のとき、彼女から誘いを受けたことがあった。
「映画のチケットが…… たまたま余って……」
まあ、ありがちなやつだ。
「日曜日? わかったよ 十二時ね」
僕は待ち合わせ場所には行かなかった。
でも彼女のことだから、きっと補導される時間まで僕を待ち続けたことだろう。
それからしばらくして、今度は僕が彼女を誘った。
「映画のチケットが…… たまたま余って……」
彼女が僕に言った文句と一言一句違わないものだったが、喜んで誘いに乗った。
「わかった 土曜日の十二時だよね 絶対行くよ!」
僕は待ち合わせ場所には行かなかった。
今度はどのくらい僕を待ったのだろう。
*
というようなことを繰り返しているうち、三年生になった。しかし相変わらず、彼女は僕に好意を寄せているようだった。
一、二度、直接ぶん殴って嫌いだと言ったこともあるが、それでも僕への態度が揺らぐことはなかった。
そこで、僕は一計を案じることにした。
放課後、僕の隣の席の女の子に声をかけた。
「ね 僕と付き合ってくれない?」
「嫌に決まってるじゃん いきなり何よ?」
「やっぱりだめか じゃ 他の人に頼むよ」
「あっさり引き下がりすぎでしょ…… それはそれでムカつくんだけど」
僕は彼女に事情を説明した。
「ああ…… あの地味な子? あんたに付きまとってるんだ いいじゃない 受け入れてあげなよ ぼっち同士お似合いじゃん?」
「冗談じゃない」
僕は憤った。
「ぜんぜん好きじゃない子となんで付き合わなきゃならないんだ」
「そのセリフ 私も言っていいよね?」
その子は呆れ顔をした。
「まあ…… でも いいよ ちょっと面白そうだし 一回だけね 一回だけ」
「恩に着るよ」
僕は感謝した。彼女はちょっとびっくりしたようにこちらを見た。
「本当にそんな言葉言う人いたんだ」
次の日の放課後、誰もいなくなった教室に僕ら二人だけが残っていた。
みんなの机はおおむね空っぽだったが、ただ一人、僕の幼馴染だけが、まだカバンもほったらかしにしたままだった。
「あいつはいじめられてるから 放課後は絡まれないうちに逃げて みんながいなくなるまでどこかで待ってるんだ」
僕は隣の席の子に説明した。
「で 戻ってきた彼女が 愛しの人が他の女子と喋ってるのを見て すっかり絶望して 諦めるってわけ?」
「うん そうだよ 完全無欠な作戦だろ?」
彼女はそう思わないらしかった。
「あのね…… 何年もあんたを追い回していたような子が そんなちょっとしたことで諦めると思う? いくらなんでも純情過ぎるでしょ」
僕はその言葉で不安になった。
確かに言われた通り、貰ったものをその場でぐちゃぐちゃにしても、ぶん殴っても、無視しても、いじめても、約束を破っても、嫌いだと言っても、彼女は僕のことを嫌いにならなかった。
廊下から足音が近づいてきた。僕は思考を切り上げて彼女に言った。
「ま でも 来ちゃったみたいだし じゃ 予定通りに……」
「そんなのよりさあ」
ぐっと彼女は僕に顔を近づけた。足音が近づく。彼女の腕が伸びて、僕を抱きしめる格好になった。さらに足音が大きくなる。
「ほら もっと顔近づけてよ……」
彼女が耳元で囁いた。
僕は言われたとおりにした。傍から見れば、コウノトリだって誤解しそうな眺めだったろう。
がらりと教室の扉が開いた。
「……え?」
幼馴染の呆然とした声が聞こえた。
気づいたふりをしたほうがいいのか、気づかないふりをしたほうがいいのか僕は迷ったが、決断する前に彼女は教室を飛び出して走り去ってしまった。
「どうよ? これで間違いなく嫌われたんじゃない」
顔を離した彼女が満足そうに言った。
「言っとくけど このことは誰にも言っちゃダメだからね ただの演技だから」
「わかってるって」
「じゃ また明日 バイバイ」
僕は本当に誰もいなくなった教室で、しばらく座っていた。
これであいつが諦めてくれるといいんだけど。
次の日、幼馴染は学校に来なかった。
その次の日も、次の日も、彼女はずっと来なかった。
*
クリスマスも間近になったある日、一人で家にいると、郵便ポストからことんという音がした。
取りに行ってみると、それはハガキだった。表には何も書かれていなかったが、裏面には見覚えのある字でこう書かれていた。
「突然ごめんなさい どうしても話したいことがあるので 家に来てくれませんか」
最後に彼女を見かけたのは、隣の席の子と共謀したあの放課後きりだった。もうすっかり諦めてくれたものと思っていたのだが。
他に用事もないので、僕はその招待に与ることにした。
「来てくれたんだ ……久しぶり」
玄関を開けて出迎えた彼女の姿は、あまり変わりないようだった。ちょっと目が落ち窪んでいるようにも見えたが、元からこうだったかもしれなかった。
「話したいことって何?」
「うん ……入ってくれる?」
僕は彼女の家に上がった。これが初めてのことだったのだが、だから何だという気持ちになった。
彼女は僕を二階に案内し、廊下の突き当りの部屋へと通した。どう見ても、そこは彼女の寝起きしている部屋に違いなかった。
部屋の中には椅子があって、天井から紐がぶら下がっていた。
「死ぬの?」
僕が訊ねると、彼女はうなずいた。
「ずっと もしかしたら…… って思ってたんだけど やっぱり あなたは わたしのことが嫌いみたいだし……」
何を今更、と言いたくなったが、黙って続きを聞くことにした。
「でも 一度だけでも喜んでほしくって ……色々考えて 一番わたしにされて嬉しいことは いなくなることかな…… って」
「まあ そうだね」
僕はうなずいた。彼女は微笑んだ。
「やったあ…… 今度は間違えなかったよ」
何のことだろうと僕は思った。でも、別に聞こうとも思わなかった。
「でね…… わがままなんだけど 最後に これを」
彼女は机の上に置かれていた箱を僕に差し出した。クリスマス用のラッピングがされていた。
「クリスマスプレゼント ……開けてくれる?」
僕はうなずいた。どうせ開けるんだから、別に中身だけ渡してくれりゃいいのにと思いながら。
中に入っていたのはマフラーだった。真紅の色合いで、丁寧に編まれたことが詳しくない僕にでもわかった。
「学校に行ってない間 ずっと編んでたの」
彼女はぽつぽつと言った。
「最初は変な形だったんだけど…… 最後にプレゼントするものだから 何度もほどいて 編んで またほどいて…… やっと昨日編み終わったんだ」
僕はしげしげとマフラーを見た。彼女が僕に渡そうとしたもののうち(一つも受け取らなかったが)、これは今までで一番出来が良かった。
「わたし 死ぬけど どうか そのマフラー 使ってくれないかな? お願い……」
彼女の瞳に静かに涙が溜まり、やがていっぱいになって一滴こぼれた。
「……わかった 約束するよ ありがとう」
僕はマフラーを首に巻いてみせた。彼女はとても満足した様子だった。
「ありがとう…… ありがとう……」
彼女はそう言うと椅子の上に立ち、紐に首を引っ掛けて飛んだ。
ごきっ、という嫌な音が聞こえた。
それを聞いた瞬間、僕はとっさに、ぶら下がる彼女を受け止めていた。そのまま紐から苦労しいしい外すとベッドに寝かせて、一階の電話で救急車を呼んだ。
運ばれるまで、僕は彼女の側にいた。
「……くん」
彼女が僕の名前を呼ぶのが聞こえたが、やがて意識を失くしたようで、目を閉じた。
*
まだ何とも判断つきかねるとのことだった。
彼女のお母さんが僕に話したところによれば、意識は確かにあるし、何とか話せもするものの、このまま一生寝たきりかどうか、それは医者にもわからないとのことだった。
お母さんは、僕に涙を流してお礼を言った。
僕が彼女の病室の場所を訊くと、喜んで教えてくれた。彼女も僕に会いたがっているとのことだった。
僕はお見舞いの品を用意すると、彼女の病室に入った。
彼女はベッドの上で、身動き一つ取れない様子だった。それでも、僕が来たことを見ると、嬉しそうに見えなくもない顔になった。
「あり……がとう」
彼女は僕にそう言った。
「何が?」
僕は訊ね返した。
「助けてくれた…… 最後の 最後で……」
「それは違うよ」
僕は首を振った。
「君がいなくなってくれれば喜ぶとは言ったけどね 別に死んでくれなくたっていいんだ ただ 目の前から消えてくれればいいんだよ」
僕の言葉で、不意に彼女の顔が歪んだ。
「あと これ 返すよ」
僕はポケットからぐしゃぐしゃになった毛糸を取り出し、彼女に見えるように側の机に置いた。
それは彼女が何ヶ月もかけて編み直したマフラーの、バラバラになった残骸だった。
「僕の用はこれだけ じゃ お大事にね」
「……くん ……」
涙を流れるままにして、懸命に僕の名前を何度も彼女は呼んだが、僕はそのまま病室を出た。
そして二度とそこに入ることはなかった。