〇精神性成人病
現代社会に蔓延している病の話
若い男性が帰宅すると、スーツを手早く部屋着に着替えてベッドに倒れ込む。気怠さと仕事への不満を抱えたまま残業も1時間追加されて、やっと帰って来た。寝転びながらスマホのゲームを開始する。今日はまだ、食事を作る気にもなれない。しかし外食にも飽きた。今は食欲も無いのでスマホゲームを軽く遊ぶ。
デイリーミッションを終わらせ、次のスマホゲームのデイリーミッションを開始する。他に二つほどゲームをしているが、飽きてきたのでログインボーナスだけ手に入れる。一通り終わると、鳩のマークをタップして見ず知らずの人たちの言葉を眺める。面白い漫画、格好の良い絵、誰かの批判、政治家やマスコミへの不満、猫の写真、国内の腐敗。情報は言葉と絵の形で視界に入り、流し読みをするだけでもかなりの量がある。
一通り最新まで目を通して時間を確認すると、帰宅してから2時間が経過していた。明日も仕事がある。気怠さが少しマシになったので、冷凍ご飯と冷凍したおかずを電子レンジで解凍する。休日のたびにある程度作り置きをしている。平日はそれを解凍して食べる事が増えてきた。
不味くはない、そこそこ美味しい料理を食べながらスマホで漫画を見る。のんびり食事をしていると2時間が経過していた。もうそろそろ寝ないといけない。食器を軽く水洗いをして風呂の準備を進める。お湯が入る音を聞きながら、また鳩のマークをタップして流し読みをする。風呂が沸いたので風呂に入り、体を大雑把に洗って風呂に浸かる。
「あぁ~」
無意味に声を出して寛ぐ。独り暮らしの利点は、自由だ。自由があるから辛い仕事にも耐えられる。好きな時間に食事をとり、好きな時間に風呂に入り、好きな時間に寝る。仕事以外は全て自由。だから金はあまりなくても、そこそこ幸せだ。貯金はほんの少しずつ貯まっていくから金銭面での不安も今のところはない。
真綿で首を絞められるようなストレスはあるが、それ以外は問題がない。ストレスにだけ目をつぶれば。
「それが出来たら苦労はしないんだって」
女性と違って結婚すれば良い、とはいかない。共働きであっても家族を、子供を養えるだけの収入は必須だ。婚活サイトを見ればわかる。自分の性格からしても結婚は無理だ。だからこの生活がずっと続く。定年退職までずっと続く。それまでの間、このストレスに耐え続けられるだろうか。無理なんじゃないだろうか。その思いが日に日に増えて行く。
「仕事、やめてぇ」
風呂から上がり歯磨きをしてベッドに寝転がる。スマホで鳩のマークをタップして、眠くなるまでぼーっと記事を眺めていたら、夜中の2時になっていた。さすがにこれ以上は無理だ。スマホを充電して、目を閉じる。
寝付くまで何度も寝転がりながら、特に将来への展望も不安もないまま、気づいたら寝入っていた。
一月後。ストレスチェックの結果が返ってきた。当たり前の様に真っ赤な最悪評価。同僚と真っ赤な評価を見せ合いながら笑い合う。不幸自慢、奴隷の鎖自慢。些細な自虐を楽しむ。自虐ついでに、メンタルヘルスへの診断を受けてみようと思った。メンタルヘルスへの診断自体がストレスになるのは、システム的におかしいとは思うけど。
診断を希望して一月後。休日に病院にやって来た。手続きをして、待合室で待って。呼ばれて。カウンセラーみたいな流れで会話をして。出てきた結論は、精神性疾患だった。
「精神性成人病?」
医者が言うには、最近になって精神疾患として認められるようになったという。肉体性成人病とは大雑把な説明をすると、糖質・脂質の取り過ぎによる病気だ。カロリー消費量に比べて摂取量が多いと、余った分が悪さをするのだという。つまりカロリー消費とカロリー補給のバランスが崩れると肉体性成人病になりやすいという。
対して精神性成人病は精神性ストレスと休息のバランスが崩れると起きやすい。精神性ストレスが高すぎると過労死や鬱病へと変化しやすいが、その逆の場合は精神性成人病になりやすい。
「精神性成人病って結局何なんですか?」
暗に遊び過ぎだと言われた気がして、言い方がきつくなる。医者はこういう反応に慣れているのだろう。まぁまぁ落ち着いてくださいと前置きをして話し始めた。
精神性成人病は心の脂肪が貯まることで様々な精神性症状が発生しやすくなる。主な症状は無気力、積極性の減少、娯楽などが楽しくなくなってくる、漫然と刺激を求めるなど。精神性成人病の厄介な所は、精神性ストレスは今までと同じように受けているため、精神性ストレスによる精神的余裕の減少や不快感、精神的ダメージは変化しないという点にある。
休息をしているのに精神性ストレスが溜まるため、さらなる休息を求めて趣味や娯楽への時間を増やす。しかし精神性ストレスを上手く消化できないため精神性ストレスは残り続ける。肉体性成人病で言うなら、疲れるまで運動するが体脂肪が減っていない様な状態だ。
「じゃあ何をしたらいいんですか」
医者は簡潔に答える。精神性ストレスは脳への負担であり、ゲームなどスマホを使った娯楽もまた脳への負担となるため、脳が休まらない。しかしゲームは楽しいからドーパミンが出て幸福感を味わい、あたかも精神性ストレスが減ったように感じる。だが脳への負担は減らないためゲームを辞めようとしない。その結果、心の脂肪が増える。つまり精神性成人病とは、ある種のドーパミン中毒である。
精神性成人病の治療には、ゲームなど脳に負担のかかる娯楽を一時的に停止し、脳を休める方向性で休息をとることだった。
家に帰った。ゲームを辞めれば精神性成人病が治るらしい。なるほど、簡単なんだろう。けれどゲームもなにかも娯楽を無くしたら、確実に仕事のストレスで頭がおかしくなる。
「脳を休める様にしたらいいんだろう。時間を減らせばいい」
太ったらダイエットをする、食事制限をする。それだけの話だ。だから、今日もスマホゲームのデイリーミッションを消化していった。
精神性成人病。その呼び名となった理由は、実に簡単な話。独り暮らしをした大人、あるいは親の教育が上手くいかず羽目を外しすぎてしまった子供に多く発症し、患者本人の努力で治療する事が稀であるからだ。大したことは無い。本当に危なくなったらしっかり対処する。肉体性成人病にかかった人のダイエット成功例が少ない事と同じ。精神性成人病にかかった人は、脳に負担のかかる娯楽をそう簡単に止められないのだ。
本当に危険な症状が発症するまで誰も気にも留めない。これもまた、精神性・肉体性成人病に共通している点である。