五 1000年の偉業
しかしようやくこの心に至り、問われるままに語ってみたのだが、
今度は伝えるということの難しさについて悩み考えることが多くなった、
心に問えと言うと誰の話も聞かず自分勝手なことをし始めるものがいた、
老人が話を聞きに行くと己の心に問うた結果なのですと言い放ったものや、
「寛容」について話したあるものは誰彼構わずに金を貸したが返すものが半分もいない、どうしてくれるのかと老人の家に怒鳴り込んでくることもあった、
中でも一番困ったことが木や何かで老人の像を彫り、それを拝みだすものが多くいたことである、これには老人もほとほと困り果てた。
熱心に通ってくる若者に
「実に人の心の迷いやすいことだ」とか
東にすむ聖人の言葉として「理解できぬものには伝えない方がいいことがある」というようなことを言いこぼした。
自分が心の「楽しみ」を得たことと彼の生活の安寧とはまた別の様であった。
やがて自分の生が長くないことを知ると彼はなるべく時間を作って話をしその態度は少し厳しさを増した、こうなっては1人でも2人でも正しく己の得たものを伝えたいと思ったからである。
死の間際一体幾人ほどに伝わったろうかと考えたが、それはやがてくる永遠の時間の楽しみにしようと瞼を閉じた。
彼を埋葬する際には多くの人が集まり野辺の美しい花が捧げられた。
彼の心がたった1人にでも伝わっていれば、それは1000年を越える偉業に違いない。
原稿用紙にすれば5枚程度の作品にするつもりがいつしか倍になり、書きたいこともまだまだあって続編も考えています。
ここに書かれている信仰とは作者である僕自身が考えるある一つの信仰へと至る道であり
既存の宗教を否定する奇譚の無い自分自身の宗教観やそれを書くにはあまりに理解の及んでいないと思われる個所もあるかとおもいますが自分としては以前から考えていた宗教間の争いや矛盾がなぜ起こるのか、信仰とは他人から与えられ教会で祈ることなのか、そういう疑問から発し現在時点の自分なりの考えを書けたと思っています。
遠慮なく、感想、批評、批判、文章について等遠慮のない意見がもらえれば幸いです。
推敲がいつまで経っても終わらず、考えていたよりも何倍もの時間が掛かってしまいました。
今後も随時大幅な加筆修正する場合があります。