行方
人生で初めて小説というものを書いてみました。普段本は読まないのですが、コロナ期間を使って何か始めてみようと思い立って書きました。改善した方がいい点がありましたら些細なことでもコメントしてくださると幸いです。
1
「やめておけ。『状況は改善された』なんて言う奴らのことは信じるな。貧困が見えないのは、ただ隠されているからだ。」
クリスはグラスをぎゅっと握りしめて、必死で訴えかけた。
「そんなことはない。お前の兄の会社だって倒産寸前まで追い詰められたのに、あのアベのなんちゃらとかいうやつで立て直したじゃないか。今は少し浮かれすぎだが。」
「お前の給料が上がって、業界の思惑通りにものを買わされて満たされた気持ちになった所で、それは相対的な幸福だよ。他人より少し金をもらっていい生活をしたところで何になる。兄貴は何もわかっちゃいない。」
「何が悪い。それが幸せだよ。それが正解だ。」
「わかったよ。だがな、気をつけろ。父親ヅラしてお前の肩を叩き『もう声を上げる必要は無いんだ。戦争は終わったんだよ。』なんて擦り寄ってくるやつがいたらすぐに逃げるんだ。」
彼の言葉には諦念が混じっていて、それは彼の持つチェイサーにも淡く映し出されていた。
「お前の長ったら」チッ
イヤホンから嫌な音がした。仕事終わりに好きなドラマを一話見てから帰るのが男の日課で、唯一の楽しみだ。大学の友人に勧められて見たのが始まりだったが、半年もしないうちに見ないと気がすまなくなった。入社から五年、初めての出勤で着たスーツは汚れ、タバコの匂いが深くしみ込んで使えなくなった。
男は充電の切れた携帯をしまい、アイスコーヒーを買うついでに、時計が見える自動販売機の前のベンチにゆっくりと腰を掛けた。男の席からは時計が見えないのだ。
「先輩、今日飲み行きませんか?」
「うん、いいよ。その代わり奢ってよ?」
「もちろんです。今日給料日ですから。」
デスクに座ったままの女に見えるように、若い男は自慢げにズボンのポケットに手を当ててみせた。二人が帰ると、オフィスには男一人になった。時計は既に二二時を回っている。
内ポケットから型の潰れたタバコを取り出したが、中身は空だった。周りを見渡してから、男は重い腰を上げて帰り支度を始めた。
外は小雨だった。途中で曲がった歪な形をしたビニール傘を苦労して開いた。錆びた匂いが指にこびりつく。くすんだビニールが雨を弾いては、男の周りにボタボタと重たい水滴を落としていく。
いつもの帰り道は、傘を持たずに慌てる人やビルの下で雨宿りをする人で溢れていた。 歩道の端を歩いていると、向かいから一組の男女が駆けてきた。二人は浴衣姿で、男は女に傘を差し、女は携帯に必死に何かを打ち込んでいた。何か調べ物をしているようだ。若いってのはいいなと思った。
雨はじっとりと男の服を濡らし、湿気が肌にぞわぞわと巻きついていった。路傍の植木は、雨をしのごうと肩を寄せ合っていた。
中学生くらいの三人の子供とすれ違った。子供はどうも苦手だ。どうやら模試の結果について罵り合っていて、三人を躱すようにわざわざ端に寄って彼らが過ぎるのを待った。
「三一番お願いします。……いや、ウィンストンの青ね。」
コンビニでタバコを買うと、店から出てすぐに火をつけ、男はまた歩き出した。
総武線の高架下の手前まで来たところで、肩のあたりに強い衝撃を受け、男は一瞬バランスを崩した。誰に押されたのかはすぐにわかった。すぐ後ろを歩いていた女だった。タバコを吸いながら邪険な顔をして、男を追い抜いていく。
「おいあんた!」
女を呼び止めようとしたが、女は無視して高架下に雑然と敷かれたダンボールに寝そべり始めた。六〇歳くらいだろう。女は酷く痩せている。よく見ると服は男用のもので、かなり傷んでいるようだった。男は足を止め、女を避けるように脇の細い道へ進んだ。
いつもと違う帰り道には、新鮮なようで、言い知れぬ不安を孕んだような空気が漂っていた。こじんまりとした住宅街の間に今にも潰れそうな古いバーを見つけた。saucerという店だった。傘を再び苦労して畳むと、店の小さいドアをくぐった。
「いらっしゃいませ」
中には豊かな顎髭をたくわえた老爺がいた。店内はマイルス・デイヴィスの『So what』が流れていて、客は男の他にいなかった。トイレの上には看板がかかっていて、それを見て思わず笑ってしまった。
ルール1 マスターに嘘をついてはいけない。
ルール2 もし嘘をついてしまった場合、ルール1を参照する。
マスターも男に微笑みを向けた。
「変わった看板でしょう?」
「えぇ。スコッチでおすすめのものを頂けますか?」
「畏まりました。」
男はマスターに人の本性を見透かすような不気味さを感じていた。
「マスターは不思議な人ですね。」
「よく言われますよ。」マスターは優しく言った。
マスターは気さくな人でもあった。時間を忘れてマスターと他愛のない話をしていた。すっかり日をまたいでしまったようだ。男はあまり自分から話をしないが、この日は違った。楽しい時間だった。仕事帰りにどつかれたホームレスの話もした。男は、一瞬マスターが何か言いたげな顔をしたのに気づいた。
「何か?」
マスターはなんとも歯切れの悪い口調で言った。
「いやぁ、あなたとそのホームレス。何が違うんです?」
男は驚いたが、同時にどきりともした。しばらく黙り込み、深刻そうな顔をして、グラスの氷を回した。回る氷を見ながら、あれも違うこれも違うと適当な言葉を探していた。
「年かな。」
それが精一杯の答えだった。カウンターの上にタバコを置き、会計を済ませた。
「ルールは守るよ。」
そう言って男は店を出た。
2
「いつだって世の中は自分じゃどうしようもない力に押し流されるしか道はない。自分じゃないんだ。自分は誰なんだって思うんだ。他人から認識されることでしか存在出来ないのに、その他人が俺を食らって空っぽにしちまうんだよ。」
カラスはカウンターの角を爪でカリカリと削りながら言った。
「面白いことを言うね。」マスターはニヒルな笑みを浮かべて言った。
「悲しいんだ。一人になると、時間がすぎる度に不安が増していく。最近しょっちゅう今死んだらどうなるのか考える。ぐるぐると考えを巡らしている時間が増えたよ。」
カラスは続けた。
「俺が死んだら、俺だったものの腐臭に隣の住人が気づいて、警察が来るだろ。一通り運び終わった後に部屋の契約は切れて、床の腐食を取り除く業者がやってくる。そうしたらもう元通りだ。あいつらは俺がいたことなんて覚えてないような顔をしてまた起きてくる。ただそれだけなんだ。」
カラスの手は震えていた。マスターは特別にハイボールをサービスした。
「君がどう生きようが私は構わないが、私はもっと楽しく生きようとしたいね。それが一番じゃないか。」
カラスはハイボールを一口飲んで、不満げな表情を浮かべた。
「いいかい? 君が理不尽な仕打ちを受けて心が廃れてしまったとしても、それは些末な問題だよ。滝が当然のように次々と水を送り出すように、人には常に理不尽が降り掛かってくる。それに意味は無いんだよ。例えば、君がカラスと呼ばれているのはなぜだい?」
「覚えてないな。気づいたらそう呼ばれていたんだ。」
俯くカラスに、マスターは出来る限り優しい口調で言った。
「そうだ。世の中のたいていのことには意味が伴っていない。だから楽しくするんだ。どうせ意味が無いなら楽しく生きた方が得した気持ちになるだろう? 私はいつもそうやって考えているんだ。」
カラスは涙を浮かべながら、自分がこれまで失ったものを考えた。大切な人達との時間、抱いた夢、愛する妻。カラスはいつも苦しんでいた。決められた道の中でどうしたら自分でいられるのか模索しては、その途方のなさに絶望していた。
ありがとう、とだけ言って店を後にした。錆びて歪んだ傘を無理やり開いた。店に入る時より弱くなった雨だが、カラスの不安を洗い落とすには十分だった。水滴が混じった、ヒヤリとした気持ちのいい風がカラスの頬を撫ぜていく。頬の怪我をしたところがヒリヒリと痛んだ。
少し歩いたところで、陰気な男とすれ違った。男は肩をすぼめて、何かに怯えるように歩いていた。男のタバコのツンとした匂いが鼻を刺す。
「おいあんた!」
驚いて振り返ると、男が痩せた老婆に何かぶつぶつと小言を後ろから浴びせていた。
陰気なのは俺も同じだが、あそこまで腐っちゃたまらんな、と小さく呟いた。
前から来る雨を傘を斜めにして避けながらコンビニに入った。
「ウィンストンの青を一つ。」
3
アスファルトを蹴り出す度に浴衣に雨水がかかった。
「ダメだ……繋がらない。」
理子は息を荒くしながら走り続けた。明夫という男とのトーク画面は理子からの発信で埋まっていた。もう何回かけたのかもわからない。
「いい加減教えてくれよ。理子のお父さんがどうしたんだよ。」
一五分はずっとこんな状態で走り続けている。酔いはすっかり覚めてしまった。颯太はずぶ濡れになりながら、一人夢中で走る理子に傘を差し続けていた。
「お父さんが死んじゃうかもしれないの! じっとしてられる訳ないでしょ!」
どういうことだ。状況を呑み込めていない颯太を置いて、理子は向かいの人を押しのけながら強引に進んでいく。
「説明してくれ! 一回落ち着こう。」
嫌がる理子を無理やり抑えて、屋根のある路地裏に入った。店の壁に寄りかかって、ぐっしょりと濡れた髪をかきあげながら息を整えた。
「急に走り出してどうしたんだよ。あと、お父さんが死んじゃうかもしれないってどういうことなのか教えてくれ。何があったんだ。」
理子は座り込んで、乱れた息のまま話した。
「自傷癖があるの。私のお父さん。タバコ吸ってるんだけど、タバコの火を肌につけたり、壁を思いっきり殴ったり、頭ぶつけたりしてわざと怪我して帰ってくるの。しょっちゅうよ。」
理子は時々深く息を吸って、颯太に自分が混乱している理由を打ち明けた。
理子と理子の母親は、明夫の自傷行為を止めようとしていたこと。死のうとは思っていない、と毎回退けられていたこと。たった今「ずっと元気でいてください。」と連絡がきたこと。
こちらを見上げた理子の目は充血していて、声も震えていた。颯太は隣に座って理子の肩を抱いた。
「私それでどうしたらいいのかわからなくなって……」
「うん。」
「お父さんの仕事場ここら辺だから、気づいたら走ってたの。もうどうせ近くにいないのに。」
理子は縮こまって、それ以上何も話さなくなった。
颯太は立ち上がって、理子の頭を撫でた。
「俺探してくるよ。理子のお父さんには一回しか会ったことないけど、顔わかるからさ。心配しなくてもちゃんと見つけてくるから。少しだけここで待ってて。」
一度しまった傘を開いて、返事も聞かずに走り出した。場所の目星なんてついているわけがない。そもそも土地勘もない。颯太はそんなことおかまいなしに、とにかく自分の持てる限りの速さで走った。闇雲に人をかき分けながら。どこに理子を残してきたのかも、もうわからなかった。
薄暗い細道に入ったところで、黒のMS-8を見つけた。明夫の車だった。信号で止まっているようだ。少し遠いが走れば間に合うかもしれない。傘も手放して夢中で走った。
「いた……。やっと見つけた。見つけたぞ、理子。」
しかし、その瞬間、信号は青に変わり、車はぐんぐんと速度を上げて颯太を突き放していく。
「おい! 待ってくれ! おい!」
颯太の声は雨とエンジンの音に吸い込まれていった。倒れるように尻をついた。ただ茫然と車が消えた方を見つめているしかできなかった。
颯太は、自分の付近だけあまり濡れていないことに気づいた。地面が乾くほど長くここに停めていたらしい。この近くに用があったんだろう。しかし、そばにあるのはsaucerという名前の看板のバーだけだった。
とりあえずバーの入口の前で雨宿りをして、理子に電話をかけた。
4
カラスはタバコを吸いながら今来た道を戻った。店の前に車を停めてある。黒のMS-8。結婚してすぐにローンを組んで買った車だ。カラスの妻はきれい好きで、中古の古汚い車は好まなかった。車内は妻を助手席に乗せなくなってから、すっかりタバコ臭くなった。前回洗車したのはいつだったか。カラスは、薄汚れた車に乗り込んだ。凹んだままのマフラーが目印だったが、今は運転席の前の紫のコルチカムになった。花を置くと見た目だけでもましになるという娘のアイディアだ。
吸い殻をぐりぐりと灰皿に押し付けながら、ラジオをかけた。シティーポップの軽やかなリズムがカラスの思い出を揺り動かす。最近は八〇年代に流行ったような曲調がまた流行しているようだ。
「お聴きいただいたのは、Suchmosより「808」でした。オザケンこと、小沢健二に影響された少年たちが、今こうやって時代の先陣をきって活躍しています。後藤さん、我々の世代はやっぱりこういう曲には馴染みがありますよね。」
ラジオのMCが言った。
「そうだね。僕も若い頃はよくディスコなんかに行ってたんだけど、あの頃に聴いていたのと似てるよね。」
後藤が言った。
「今の時代こういうアクティブな若い子がいるのは、おじさんとしては嬉しいものです。今の若い子は、自分にはできっこないとか言って、自分の可能性を無理に縮めちゃうような子が多いですよね。おじさん達から見たら全然そんなことないんですけどね。」
「これは深刻な問題でね、僕の周りの若い子たちもそうなんだよ。若いからって変に謙遜してるんだけど、違うんだよ! 若いからやれるってんだよ! って言いたくなっちゃうよ。ははは。」
信号で止まっている間に、ナビをセットした。目的地は熱海の錦ヶ浦。熱海はカラスにとって思い出の場所だった。後にも先にも、たった一人の恋人との初デートも熱海だったし、プロポーズをしたのも熱海だ。熱海にいる時の彼女はいつもより眩しくて、素敵に見えた。熱海には必ず夏に行って、そして必ず熱海城に行った。
二人で歩いた熱海城までの道は、彼らにとっては特別なものだった。それはカラスの五感に強く刻まれていて、何年経っても写真のように鮮明に思い出せた。ケーブルカーで近くまで行った後、少しだけ坂を上る。その坂道は、山の神社の赤い鳥居から海に浮かぶサーフボードまで、熱海中を見渡せた。夏の気だるい蒸し暑さが手をつないで歩く二人の歩みを重くさせ、坂の下から伸びて先のほうだけ見えている樫木は青々とした葉を揺らし、賑やかな潮風が二人の背中をぐいぐいと押した。カラスが話をすると彼女は感心したり、笑ったりと大きくリアクションをした。カラスは人と話すのが苦手だったが、彼女は自分の話を楽しそうに聞くので二人の時はだいたいカラスが多く話した。
「熱海城って字面は重厚だけど、実物はハリボテみたいだよね。」
「だから好きなんでしょ?」彼女はカラスの顔を覗き込んでクスクスと笑った。
「まあね。不思議な魅力を感じるんだよ」カラスは言った。「それがなんなのかは、何回来てもわからないけど。時々無性に来たくなるんだ。」
「私はかわいくて好きだけどな。包丁で切ったら実はケーキでした! って言われても信じる。」
「希子らしいね。」
不思議と熱海城に言った記憶だけは時間によって廃ることはなかった。しかし、それも今ではシャボン玉のように弾けてしまった。跡形もなく、最初からなかったかのように。カラスは希子との記憶は自分のものではない気がしていた。それはあまりにも遠くて、本当は全く違う記憶のような感覚だったからだ。あの時のカラスたちは同じような場所を永遠とぐるぐる回っていて、そこで彼らは息を吸い、お互いを感じ取りあっていた。何度誕生日を祝いあっても、彼らにとってそれは何かをもたらすものではなかった。
「二二の次は何歳になるの? 二一かな。」希子はケーキを切り分けながら言った。
「もう一度二二歳なんじゃないかな。」
カラスは真面目にそう思った。自分たちには二三歳なんて似合わないと思った。それくらい不確かで、満たされていた。しかし、カラスは確かに年をとっていて、隣に希子はいなくなっていた。成人した娘もいるし、出世もした。彼の中の時間だけが止まっていた。
気づくと雨は止んでいた。カラスはしばらく車を走らせて、錦ヶ浦に着くと車を路肩に停めた。長く間運転していたので、休憩がてらそのままドラマを一本見た。
「あいつは俺たちを見捨てたんだ。証拠にあいつの食糧袋だけなくなってるじゃねえか。いい加減見切りをつけろ。」
クロは吐き捨てるように言った。
「そうだぞ、リュウ。いないものはいない。残ったやつらだけで手を取り合ってなんとか生きるしかないんだ。今はいなくなったやつのことなんて考える余裕はない。」
二人が説得してもリュウはうずくまったままだった。
「俺たちが何度も住処を変えて生き抜いているように、俺たち自身も何度も変わらなければいけないんだ。お前も早く大きくなれ。」
突然、ガサガサと目の前の雑草が音を立てて倒れた。
「まずい猫だ! 逃げろ!」
クロが察知して周りに促した。
ねずみの群れはワッと散らばって身を隠した。まわりより一回り小さいネズミが一匹逃げ遅れ、猫に捕まった。小さいねずみは涙を流しながら右の後ろ足から順に食われていった。
「胸糞悪いもん見ちゃったな。」
カラスは携帯を閉じた。ずっと前から毎日ドラマを見ていて少しは目利きが効くようになったが、久しぶりにハズレを引いたらしい。車を降りて崖から海を見下ろした。海は穏やかで、波がリズムよく崖を這い上った。カラスは一度車に戻って、運転席のコルチカムを崖まで持ってきた。手で土をほじくって穴を掘り、出来た穴にコルチカムを植えた。その後すぐに朝日が出て、雲の間から差した光が明るくコルチカムを照らした。
「俺がカラスってのは皮肉なもんだ。」
昨日と同じようにゆっくりと日は昇って、波は静かに揺れ続けた。