第3章 下
リスカ表現あり。
誤字、脱字がございましたら、お教え戴ければ嬉しいです。
ー口論ー
一年の月日はノロノロと過ぎて行った。
隆一朗は近頃では、瑞基が家に居る時だけ家の中で自由にする日々を過ごしていた。
隆一朗は風呂から上がると伸び放題の髪をタオルで拭きながら瑞基に言った。
「瑞基、ボクの記憶が正しければ森さんとキミの赤ちゃんができたって聞いたと思うんだけど。」
ソファーに座り雑誌を見ていた瑞基は雑誌から眼を離さずに言った。
「そのことに付いては話したく無い。」
「じゃあ、事実なんだ。
赤ちゃんは生まれたの?」
瑞基は雑誌を閉じて、隆一朗を睨んだ。
「話したく無いって言ったよ。」
「キミがそんな態度をとるってことは森さんと何かあったんだね。」
瑞基は雑誌をソファーに叩きつけるように置いて隆一朗を睨んで言った。
「それも話したく無い!」
「瑞基、ボクにかまけて森さんを蔑ろにしてないよね。」
「オレはオレなりに努力したよ!
でも、森さんは勝手に堕胎しちゃったんだ。」
隆一朗の顔色が変わった。
「堕胎したって、どう云うこと?」
「知らないよ。
オレも何が何だか解らない。
突然呼び出されたと思ったら、いきなり堕胎したって言われたんだ。
後は何言われたか憶えて無い。」
「そんなことも解らないの?
森さんはキミに失望したんだよ。
どうして、彼女をもっと捕まえてあげなかったの。」
「さっきも言ったよ!
オレなりに努力したって!
オレに完璧求められても困る。
あの時は隆一朗の禁断症状が一番酷い時でオレも余裕なかったんだよ。」
「でも、キミは彼女を支えるべきだった。
ボクのことを放っておいてでも。」
「無理言うなよ。
あの状態で、どうして隆一朗を無視しろって言うんだよ!」
隆一朗は声を荒げた。
「でも、キミのその優柔不断な態度が彼女を傷付けたんじゃないのか!
そして、大切な命が闇に葬られたんだ!」
瑞基は立ち上がった。
「オレはあの時、手一杯だった!
隆一朗は自分が彼女の子供を守れなかったから、過剰反応してオレに絡んでるんじゃないの!」
隆一朗はつかつかと瑞基に近付くと瑞基の頬を平手打ちした。
瑞基は頬を押さえ、言った。
「ごめん、言い過ぎた。」
隆一朗は黙って自分の部屋に戻って行った。
隆一朗はベッドに座ると両手で髪を掻き上げ項垂れた。
暫くしてドアがノックされた。
「隆一朗、さっきはごめん。
オレ大学行ってくる。」
瑞基が出て行く音が聞こえた。
隆一朗はベッドに寝転がった。
頭の中で瑞基の言葉が何度も繰り返された。
「隆一朗は自分が彼女の子供を守れなかったから………………………。」
隆一朗は振り払おうと寝返りを打った。
隆一朗のスマホが鳴った。
画面を見ると非通知だった。
隆一朗は嫌な予感がした。
画面に触れスマホに耳をあてた。
「隆一朗、久し振り。
瑞基にあんな偉そうなことキミはいえるの?
彼女と子供を殺した癖に。
瑞基を失って苦しめばいい。」
通話は切れた。
隆一朗は車のキーを握って部屋を飛び出した。
その頃、瑞基は自分が隆一朗を傷付ける言葉を言ってしまったことに強いショックを受けていた。
『隆一朗の絶対禁句だったのに、どうしてあんなこと……………。
絶対触れちゃいけないことなのは解ってた筈なのに。』
瑞基は立ち止まって、俯いたまま動けないでいた。
ハッとして顔を上げて見た道路の向こう側の歩道に隆一朗の姿を認めた。
満身創痍の瑞基は引き寄せられる様に隆一朗を求めて道路を渡り始めた。
反対車線からトラックが迫っていた。
隆一朗は二車線の道路を次々と他の車を抜きながら瑞基の姿を求めて車を走らせていた。
瑞基の姿を認めた時、トラックが眼に入った。
瑞基は何故か、それに気付いていないようだった。
隆一朗はアクセルを思い切り踏み込んだ。
トラックの運転手は電話に気を取られ瑞基に気付いていない。
隆一朗は瑞基とすれ違うタイミングでハンドルを切りブレーキを踏んだ。
トラックの運転手は、いきなり現れた白い車に驚いてハンドルを切り急ブレーキをふんだが間に合わず、隆一朗の車の後部に激突した。
ぶつかった衝撃でトラックは止まったが、隆一朗の車は物凄い摩擦音と共にスピンして歩道に乗り上げた。
瑞基は眼の前で何が起こったのか解らず、周りを見回した。
トラックの運転手が降りて来て、何かがなっていた。
車体がぐしゃぐしゃに潰れた隆一朗の車が眼に入った。
エアーバッグが膨らんだ運転席にぐったりした隆一朗の姿を認めた。
瑞基は無意識に叫んでいた。
「隆一朗ーーーーーーっ!!」
反対車線は何事も無かった様に車が流れていたが、こちら側では多くの車が通行できずに止まり、事故を見ようと車から降りる者、警察に電話する者、スマホで撮影する者も居た。
救急治療室に運ばれた隆一朗を、瑞基は椅子に座り膝に肘をついて項垂れて待っていた。
瑞基は後悔しても、しつくせなかった。
治療室から、治療にあたった医師が出て来て瑞基に説明した。
「レントゲンを見ても異常は認められなかったのですが、一応様子を見る為、明日まで入院して貰います。」
瑞基は安堵の余り身体を折って膝に手をついた。
治療室の扉が開くと、治療台から起き上がっている隆一朗が見えた。
瑞基は駆け寄った。
瑞基に気付くと隆一朗は安心したように笑って言った。
「キミに怪我が無くて良かった。」
「自分が死ぬとこだったのに第一声がそれかよ。」
「ボク、悪運が強いんだね。
首がちょっと痛むだけ。
でも、これじゃ、ライヴでヘドバンできない。」
「そっちの心配?
オレ、絶対寿命が十年は縮んだよ。
あんなむちゃするなんて正気の沙汰とは思えないよ。」
瑞基は少し責める口調で言った。
「ちょっとやり過ぎたね。」
「隆一朗……………………。」
瑞基は隆一朗に抱きついた。
「莫迦だよ。
死んだらどうすんだよ。
車の中でぐったりする隆一朗見て、心臓止まるかと思った。」
隆一朗は瑞基の頭を撫でた。
「命掛けで守ってくれて有り難う。
それなのにオレ、酷いこと言った。」
隆一朗は、瑞基の髪に頬摺りして言った。
「ボクも感情的になり過ぎた。
今夜、一人になって反省するよ。」
「一人?」
瑞基は隆一朗の顔を見た。
「オレ、今夜隆一朗の傍離れないよ。」
「キミも疲れてる。
帰って、休んだ方がいい。」
「やだ、絶対隆一朗の傍に居る。」
「いいよ、一人になりたいんだ。」
「駄目、絶対傍に居る。」
通り過ぎようとした看護師が言った。
「当病院は完全看護なので心配いりませんよ。」
隆一朗はクスッと笑った。
「……………だって。」
「看護師さん、実は彼は酷い鬱病でオレが傍に居ないと眠れないんだ。
オレ居ないと、いつ自殺するか解んないよ。」
看護師は驚いて言った。
「そう云うことなら、病棟に連絡しておきます。」
「……………だって。」
瑞基は勝ち誇った顔を隆一朗に向けた。
「瑞基。」
隆一朗は瑞基を睨み付けた。
「キミのその癖、どうにかならないの?」
「なんのこと?」
瑞基はしらばっくれた。
外科病棟の病室が何処も満員で、隆一朗は個室に入れられ、瑞基は喜んだ。
「キスなら思う存分できそうだ。」
「病院で何考え……………………」
瑞基は言い終わる前に隆一朗に口付けた。
隆一朗は眼を閉じ瑞基の髪に手を滑らせて応えた。
「本当は愛し合いたいくらい隆一朗が欲しいんだ。
オレ偉い、キスで我慢してるんだから。」
「それ、偉いの?」
「ねえ、おかしいんだ。
あの事故の前にオレ、隆一朗が向こう側の歩道を歩いてるのみたんだ。」
「単純に見間違いじゃない?」
「そんな筈無い。
オレが隆一朗見間違えるなんてあり得ないよ。」
「でも、ボクは車に乗ってたよ。」
「どうして、車に乗ってたの?
だって、今まで何があっても部屋から出なかったのに。」
「謝ろうと思ったんだ。
それでキミを追い駆けたらキミがぼんやり車道を渡ってるのが見えた。」
「そうなの?」
「そう。」
「隆一朗、一度冗談でオレの首絞めたことあったよね。
あの時もおかしかった。
隆一朗はオレの首絞めてるのに、鍵開ける音がしてリヴィングから隆一朗の声が聞こえたの憶えてる。
オレ、あの時絶対隆一朗の手首の血を触ったよ。
血の匂いしてたもん、感触まだ憶えてる。」
瑞基は自分の手を見た。
「ボクに首絞められて、気が動転してたんじゃない?」
「あの時の隆一朗、隆一朗じゃ無いみたいだった。
凄く冷たい眼でオレを見て言ったの憶えてる?
オレが死ねば総て丸く収まるって言った。
あんな冗談、隆一朗らしくないよ。
絶対、変だ。」
「結局キミは何が言いたいの?」
隆一朗は眉をしかめた。
「解んない。
解んないけど、凄く変だ。」
「あの時、ボクは麻薬打たれておかしくなってた。
言動が変でも、不思議は無いよ。」
「その麻薬、隆一朗に打ったのは誰?
オレ、そいつ殺してやりたいよ。」
「彼は、もう居ないと思うよ。
最後に薬売って貰った時に、逃げた方がいいって忠告したから。」
「なんで隆一朗はそう、お人好しなんだよ。
そんな奴捕まればいいんだ。」
瑞基は忌々しそうに言った。
「そうしたら、ボクの手も後ろに回るよ。
それでバンドのメンバーや事務所、ボクと交流のある関係者に迷惑がかかってしまうのを避けたかったんだ。」
「今薬売って貰ったって言ったよね、その薬は?」
「もう、止めようって決心してたからトイレに全部流した。」
瑞基は安心して溜め息をついた。
「オレ、どんだけ心配したか。」
瑞基は隆一朗の肩に額をあてた。
「ごめん、キミに一番負担を掛けたのに。」
隆一朗は瑞基の背中に腕を回した。
「森さんとのことも、申し訳無いと思ってる。」
瑞基は俯いたまま言った。
「それはいいよ。
本当は森さんに言われたこと憶えてる。
結局オレは隆一朗だけが大切だって言われたんだ。
でも、その通りなんだ。
森さんを大切に思っているけど、オレの中で森さんはいつも隆一朗の次だった。
自分でも、どうしようもないほど。」
「残念だよ。
瑞基の子供の顔見たかった。
ボクにそんなこと言う資格は無いけれど。
それでも、キミと森さんが幸せになってくれればと心から願っていたんだ。」
雨が降りだした。
また彼らに、梅雨の季節が訪れようとしていた。
ー傷痕ー
隆一朗は病院から帰ると食卓に座って考え込んでいた。
「どうしたの?」
瑞基が訊いた。
「仕事に復帰したいけど、周りに酷い迷惑を掛けたから。」
「仕方ないよ。
好きでそうなった訳じゃ無いんだから。」
「だけど、そう簡単に許される事では無いよね。
みんな、どうしていたんだろう?」
「魁威さんに相談してみたら?」
隆一朗は俯いて組んだ手に額を載せた。
「一人で悩んでも、どうしようも無い事ってあるよ。
魁威さんなら、今のみんなの事情知ってるし、隆一朗の事情も解ってるから。」
「魁威にも随分迷惑かけた。」
「でも隆一朗の意思でそうなった訳じゃ無いよ。」
「とにかく、みんなに謝らなくちゃ。」
瑞基は後ろから隆一朗の肩を抱いた。
「隆一朗………………。」
瑞基は隆一朗の首に口唇を這わせた。
「オレもこの一年お預け食ってて、そうとう隆一朗に飢えてるんだけど。」
「瑞基、今はそう云う気分にはなれないよ。」
隆一朗が振り返ると瑞基は口付けた。
甘えるように瑞基は舌を絡ませてきた。
隆一朗は次第に抵抗力を奪われ、瑞基の背中に手を這わせた。
瑞基は隆一朗をお姫様抱っこした。
「隆一朗、凄く体重落ちた。
めっちゃ軽くなったよ。」
「瑞基、このお姫様抱っこどうにかならない?
女性にはロマンかも知れないけど、男のボクには屈辱だよ。」
「そうなの?
オレにもロマンだよ。
愛する人を抱き上げられるって幸せ。」
瑞基は隆一朗の身体をベッドに降ろすと隆一朗の服を脱がせ始めた。
隆一朗の裸を見た瑞基は思わず言った。
「あーあ、ガリガリ。」
「瑞基、萎えた。」
「ごめん、ほんとに痛々しいくらい痩せたから。
こんなんで仕事こなせるの?」
「瑞基はどうなの。
ボクの心配して痩せたように見えるけど。」
隆一朗は瑞基が着ているシャツを剥ぎ取った。
隆一朗の眼が大きく見開かれた。
「どうしたの?
この肩の傷痕。」
隆一朗は瑞基の肩に触れた。
瑞基は自分の肩を見た。
「ああこれ、何でも無いよ。」
「何でも無いって傷じゃ無いよね。
噛み付かれた痕みたいだ。」
「気にしなくていいよ。
隆一朗、憶えて無いだろ?」
隆一朗は眼を見開き、問うように瑞基を見た。
「ボクが?
ボクがやったの?」
「オレ、あの時、相当な隆一朗莫迦だって自分で思った。
口を血塗れにして一瞬笑った隆一朗見て、綺麗だって見とれてたんだから。」
瑞基は笑った。
「ボク、そんなに酷い状態だったんだ。」
隆一朗は瞳を震わせた。
「隆一朗が悪い訳じゃ無いよ。
隆一朗は見ない方がいいって言ったのに、オレが我慢できなかったんだ。」
「ボクは、そんなキミになんて謝ればいい?」
瑞基は黙って隆一朗の髪を撫でた。
「瑞基、答えて。
ボクはキミにどう許しを乞えばいい?」
「オレは隆一朗の傍に居られれば、それでいいよ。」
隆一朗は瞳を震わせ、瑞基を見詰めた。
そして、瑞基に深く口付けた。
ー謝罪ー
玄関のチャイムが鳴った。
瑞基がドアを開けると魁威と麗畏、樹良とマネージャーの木村氏が何年振りかで揃って、アパートに訪れた。
隆一朗はリヴィングに立って彼らを待っていた。
「隆一朗!」
麗畏と樹良が駆け寄って隆一朗に抱き付いた。
「今まで何処に居たんだよ。」
隆一朗は戸惑った。
隆一朗はもっと冷たい反応に覚悟を決めていたからだ。
四十代半ばの木村氏が言った。
「そんなに辛かったなら相談してくれれば良かったのに。」
隆一朗は何が何だか訳が解らなかった。
「都会の人混みで、人間関係に一人で悩んで抱え込むなら一言、言って欲しかったよ。
失踪する前に。」
隆一朗は魁威を見た。
魁威は笑ってウィンクして見せた。
隆一朗は取り敢えず、失踪していたことを真摯に謝った。
魁威が言った。
「隆一朗は昔から莫迦真面目な奴だったから、必ず帰って来ると信じてたよ。」
樹良が言った。
「俺もそう思ったから諦めずに隆一朗が帰って来るの待ってたよ。
「俺もな。」
麗畏が言った。
「事務所には俺達も一緒に謝ってやるから。」
「みんな、本当に申し訳ありませんでした。
そして有り難う。」
隆一朗は深く頭を下げた。
ー衝撃ー
仕事に復帰した隆一朗は水を得た魚のように仕事に熱中した。
立ち消えになっていたアルバム制作、イヴェント、ツアーを精力的にこなす内に季節は冬を迎えていた。
雑誌用の写真撮影する隆一朗に瑞基から着信が来ていた。
休憩の時間にかけ直した。
「どうしたの、仕事中に珍しいね。」
「事故った。」
「え?」
「バイト行く途中で車と接触して脚、骨折しちゃったんだ。」
「大丈夫なの?」
「めっちゃ痛い。」
「今抜けることできないから、終わったら行くよ。
何処の病院?」
「隆一朗が入院した病院。」
「何を持って行ったらいい?」
「取り敢えず下着とタオルと歯ブラシくらいでいいんじゃないかなあ。」
「解ったよ。
じゃあ、後で。」
隆一朗は通話を切ると、一つの事が気掛かりだった。
それは、もう一人の藤岡聖詞が関与して起きた事故ではないのか。
また、新たな思惑を始めようとしているのかも知れないと云うことだった。
仕事が終わると隆一朗は一端アパートに帰り、瑞基が言っていた物をバッグに詰めると病院に急いだ。
四階のナースステーションで部屋の番号を聞くと瑞基の居る病室に行った。
部屋は二人部屋だったがもう一つのベッドは空いていた。
隆一朗の姿を見ると、点滴しながら上半身を起こして、瑞基は安心したように笑った。
「どう?」
「痛い。」
瑞基は眉間に皺を寄せて言った。
隆一朗は点滴の袋を見ながら言った。
「これ、痛みどめも入ってるだろ?」
「でも痛い。」
「他に怪我は無いの?」
「腕、擦りむいた。」
瑞基は肘を上げて絆創膏の上からラップのような物を貼って手当てされた場所を見せた。
「隆一朗、今日オレのバイト先の近く来た?」
「行って無いよ。」
隆一朗は首を振った。
「じゃあ、あれ隆一朗じゃ無かったのかなあ。」
隆一朗に不安がよぎった。
「隆一朗見かけてそれで、慌てて道路渡ろうとして、やっちゃった。」
瑞基は苦笑いした。
「瑞基、ボクを見掛ける度に車に轢かれてたら、命が幾つあっても足りないよ。」
瑞基は上目遣いで隆一朗を見た。
「うん、気を付ける。
母さんにも連絡したから来てくれると思うんだけど。」
「それは良かった。
ボクじゃ、こう云う時、役に立たないから。」
隆一朗は据え付けの収納棚に持って来た荷物をしまい始めた。
「何か欲しい物ある?
下のコンビニで買って来るよ。」
「そうだなあ、隆一朗のキス。」
隆一朗は脱力した。
「瑞基、こんな状態だよ。」
「でも、して。」
隆一朗は瑞基に近付くと口唇を重ねた。
瑞基は甘えるように舌を絡ませてきた。
隆一朗と瑞基は互いの背中に手を這わせた。
「何をしてるの?」
振り返ると驚きに眼を見開いた綾子が入り口に立っていた。
「母さん…………………。」
瑞基と隆一朗は時間が止まったように身動きできなかった。
「あなたたち、何をしていたの?
こんな、こんなことって………………。」
綾子は両手を頬にあて酷く動揺していた。
「ごめん、母さん。
オレ、隆一朗を愛してるんだ。」
瑞基が思い切ったように言った。
「何を莫迦なこと言ってるの?
男同士でしかも……………。
隆一朗さん、あなた知ってるんじゃなかったの?」
隆一朗は綾子に問うような顔を向けた。
「あなた、瑞基が弟だと云うことを知ってたんじゃなかったの?」
隆一朗は意外な言葉に大きく眼を見開いた。
「なに言ってるの、母さん。
オレが隆一朗の弟だったら、隆一朗はオレの兄貴じゃん。」
瑞基は笑った。
「そうよ。
あなたたちは、お父さんは異うけど、れっきとした兄弟なのよ。」
隆一朗は言葉を失った。
「そんなこと言ったら母さんは父さんと結婚する前に隆一朗の親父さんと結婚してたことになるじゃん。」
「それは、私の姉。
瑞基の本当の母親は私の姉なのよ。」
綾子は両手を握り合わせながら言った。
「冗談キツイって。
母さんは隆一朗とオレを引き離そうとして、そんな作り話してるんだろ?」
「嘘じゃ無いの。
一生言うまいと思っていたのに。
あなたたちが、そんな関係になっていたなんて。」
綾子は落ち着き無い様子で握った手を擦り合わせた。
隆一朗は綾子の様子を見て、それが真実である事を認めなければならないと悟った。
隆一朗は病室を飛び出した。
「ほらあ、隆一朗本気にしちゃったじゃないかあ。
隆一朗繊細なんだよ、なんて言い訳するんだよ。」
「本当なのよ、瑞基!
あなたは私達の本当の子供じゃないのよ!」
瑞基は真剣な綾子の表情に、それが事実である事を認めなければならなかった。
「嘘だ。
冗談だっていってよ!」
「本当なのよ!」
瑞基は床に座り込んで泣く綾子を呆然と見詰めた。
綾子は落ち着くと語りだした。
「私の姉と云う人は綺麗で優しい人だったけど、男の人に愛されていないと安心できない人だった。
愛されたいと云う欲求に素直過ぎる人だったの。
藤岡真聖さんと出逢って結婚したけれど、いつもこぼしてた。
あの人は私を愛していないのかも知れないって。
そしてたった四年で、当時三才になったばかりの聖詞くんと、真聖さんの前妻の子供だった聖流くんを置いて失踪してしまった。
それから三年くらいして、生まれたばかりの瑞基を突然連れてきて、新しい恋をしたと言ってあなたを私に押し付けて行方知れずになった。
それから、どうしたのか知らないけど。
私とお父さんは一生あなたにそれを隠そうと決めて自分達の子供として育ててきたの。
私とお父さんは、あなたに惜しみ無い愛情を注いで来たつもりよ。」
瑞基はその話をBGMでも聞くようにぼんやりと聞いていた。
隆一朗は非常階段を駆け上がり、冬の冷たい風が吹きすさぶ屋上にでた。
金網に手を掛け、隆一朗は項垂れた。
「まさか、キミと瑞基が兄弟だったなんてね。」
声に振り返ると、もう一人の藤岡聖詞が立っていた。
隆一朗は睨み付けた。
「面白い展開だよね。
もう愛し合う訳にはいかないね。
血を分けた兄弟なんだから。」
「キミがボクの前に姿を現したと云うことは、ボクの余命もそれほど長く無いと云うことだよね。
つまり、キミも焦ってる訳だ。」
「なんとでも………………。
ボクは瑞基を葬ることを諦めて無いからね。
せいぜい弟を守るんだね。」
もう一人の藤岡聖詞は煙になって消えた。
ー逃避ー
隆一朗は病院の非常階段に腰掛け、肘を膝に掛け指を組んだまま俯き、時が経つのも忘れて考え込んでいた。
瑞基は面会時間が終わり綾子がホテルに帰った後、実の親だと思っていた両親がそうでは無いと云う事実、愛する隆一朗が実の兄であると云う事実に打ちのめされていた。
消灯時間が過ぎ、病室は暗闇に包まれた。
入り口から廊下の明かりが無機質に差し込んでいる。
瑞基は眠ることもできず、上半身で寝返りを繰り返していた。
入り口の明かりが一瞬陰って何かが瑞基に覆い被さり口唇に触れた。
瑞基には直ぐに解った。
隆一朗の口唇だった。
隆一朗は優しく瑞基に口付けていた。
『隆一朗………………。』
瑞基は口付けてる一瞬だけ現実を忘れた。
口唇を離すと瑞基は隆一朗にしがみついた。
瑞基は泣いていた。
「オレ、これから何を信じて生きればいいのか解らないんだ。」
隆一朗は優しく瑞基を抱き締めた。
「瑞基、何も変わらないよ。
何も変わってない。
愛してる。」
「でも、オレたち兄弟なんだよ。」
「でもボクはキミを愛することを止めることはできないよ。
今更、弟として見るなんてできない。」
「オレもそうだよ。」
「じゃあ、何も変わってないよ。」
「変だよ。
一番そう云うことに拘るのが隆一朗なのに。」
「拘っても、どうしようも無い事もあるよ。
この気持ちは、今更変えろと言われても変えられない。
それはキミのご両親も同じだと思うよ。」
「オレだけ、あの家で他人だったんだ。」
「それは違うと思う。
キミが知ったと云うだけで、あの家族はキミの家族である事は何も変わってない。
キミがご両親とお姉さんを愛してることも、ご両親とお姉さんがキミを愛してることも、何も変わってないよ。」
「隆一朗………………。」
瑞基は隆一朗の胸に顔を押し付けた。
「キミを拐っていい?」
瑞基は隆一朗の以外な言葉に驚いて顔を上げた。
「拐うって?」
「とにかく早く怪我を治して、ここを退院しよう。
誰もボク達が兄弟だって知らない処で一緒に暮らすんだ。」
「隆一朗からそんな言葉が出るなんて信じられないよ。
だって、絶対隆一朗はまた、オレの前から居なくなるって思ってたから。」
「ボクの為に何もかもすてられる?」
「いつも、言ってるよ。
オレは隆一朗以外、何も要らない。」
「それを聞いて安心したよ。」
隆一朗はそっと瑞基の口唇に指先で触れた。
「愛してるよ、瑞基。」
隆一朗は瑞基に甘く、とろけるような口付けをした。
隆一朗はベッドに入って瑞基の肩を抱いて話していた。
瑞基が言った。
「そう言えば、高校で変な噂立った時、母さんが学校に呼ばれたんだ。
担任に、オレが知り合いの処から通ってるって言った時、母さんが毅然とした態度で絶対的に信頼できる人に預けてるって言ったんだよね。
ちょっと、引っ掛かってたんだ、一度しか逢って無い隆一朗をどうしてそこまで信頼できるって言い切ったのか。
兄貴なんだもん、そりゃあ信頼できるよね。」
瑞基は哀しげに笑った。
「隆一朗、お母さんのことは?」
「父はボクの母について話すことは一切無くて、ボクはボクで訊くことができなかった。
聖流から、優しい人だったとは聞いている。
でも、ボクらが眠った後よく泣いていたそうだよ。」
「母さんが言うには、オレらの母親って云う人は愛されたいって欲求に素直な人だったって。
でも、どうなのかな。
新しい愛を見つける度に子供捨てられるって、ちょっと理解できない。」
「そうだね。」
「今は、何処でどうしているのか解らないらしい。
オレを母さんたちに押し付けてそのまま、所在を断ったって言うから。
オレ、最悪だよ。
親父が誰なねかさえ解らないんだから。」
「瑞基………………。」
隆一朗は毛布の中の瑞基の手を握った。
「愛されたいって欲求を満たしてくれる人に出逢ったのかな。」
「ボク達に、もしかしたら他にも父親の違う兄弟がいるかもね。」
「うへえ、考えたく無いよ。」
瑞基は隆一朗の顔を見た。
「ねえ、拐うって何処行くの?」
「キミが退院したらパスポート発行して貰う手続きしようって思ってる。」
「パスポート?
ってことは海外?
大丈夫なの?
この間の事故で散財したよね。」
「大丈夫、保険会社の人が上手く交渉してくれたから。
警察には随分怒られたけど、何考えてるんだって。」
隆一朗は笑った。
瑞基は隆一朗の頭に頭を寄せた。
「ごめん、新車がたったの一年で廃車になっちゃった。」
「いいよ、キミが無事なら。」
隆一朗笑って瑞基を見た。
「もう、オレ心配しなくていいんだ。
隆一朗がオレの前から居なくなるって。」
隆一朗は黙って眼を閉じ、瑞基の頭に頬摺りした。
「兄弟でしかも同性と愛し合うなんて、まともな人間のすることじゃないでしょ。
帰って来なさい、こっちの大学通うの。
とにかく、隆一朗さんとは別れなさい。」
綾子はリンゴの皮を剥きながら言った。
瑞基は綾子の顔を見詰めた。
とても、話を聞き入れては貰えそうも無い。
「ここを退院するまで待ってよ。
それから、冷静になって考えるから。」
「お父さんのお世話があるから、私は明日帰るけど。
隆一朗さんがあんな、いい加減な人だとは思わなかった。
そんな如何わしいことができるなんてね。
人は見かけに依らないのね。」
「母さん、隆一朗をそんな風に悪く言わないでよ。
仮にもオレの血を分けた兄貴だよ。」
綾子は黙った。
退院すると隆一朗と瑞基は、その足で事前に揃えておいた書類を持ってパスポート申請の手続きをした。
二人は逃避する為の準備を着々と進めた。
ーパリー
飛行機で十二時間かけてパリに着いた。
汽車でコンコルド駅に降り、コンコルド広場の近くにあるホテルにチェックインし、ベージュを基調としたアールデコ調の部屋に落ち着いた。
車椅子の瑞基が言った。
「隆一朗、よくフランス語話せるよね。」
「飛行機の中でひたすらフランス語聞き捲って、フランス語が嫌いになりそうになった。」
隆一朗は苦笑いした。
瑞基は笑った。
「とにかく、発音の仕方さえ解れば、これで何とかなるかなって。」
隆一朗は「観光簡単フランス語会話」と云う本を振って見せた。
「でも、甘かったかもね。」
隆一朗は笑った。
「空港でも駅でも、さっきのチェックインの時もめちゃくちゃ苦労してたよね。」
瑞基は笑いながら窓の外を見た。
「屋根しか見えないね。」
「もっとロケーションのいい部屋の方が良かったね。
予約する時、もっと良く話しておけば良かった。」
「別にいいよ、オレ隆一朗と一緒なら何処でも楽園だから。」
隆一朗は車椅子の背凭れ越しに瑞基の肩を抱いた。
「オレらの街よか暖かいね。」
「北に位置してるのにね。」
隆一朗は旅行鞄からモスグリーンのブランケットを取り出すと瑞基の膝に掛けた。
「これでも寒いかも。」
「有名な通りだから、毛布くらい売ってる店あるんじゃない?」
「どうだろう?
シャネルとかの本場だろ、ボクのポケットマネーじゃ買えないかも。」
隆一朗は笑った。
隆一朗は瑞基の首にもふもふのグレイのマフラーを巻いた。
隆一朗と瑞基は冬のシャンゼリゼ通りへと繰り出した。
冬のパリらしい、どんよりと曇った空と歩道に枝を伸ばした街路樹の下を隆一朗は瑞基が乗る車椅子を押した。
「ねえ、あれってパン屋だよね。
隆一朗、あそこでクロワッサン買える?」
「うーん、チャレンジあるのみだね。」
隆一朗と瑞基はパン屋に入った。
パンの良い香りに包まれた。
邪魔にならないスペースに瑞基を置くと三十代くらいの男の店員に話し掛けた。
「パルドン、ジュヴードレアシュテ…………………。」
瑞基は四苦八苦しながらフランス語でクロワッサンを買おうとする隆一朗を面白がって見ていた。
「メルスィ。」
隆一朗はクロワッサンの入った包みを胸のあたりに掲げ、瑞基に微笑んだ。
「買えた!」
隆一朗は瑞基の膝に包みを置くと車椅子の手摺りに手をついて、項垂れた。
「ご苦労さん。
会話する度に命削ってるよね。」
瑞基は笑った。
「発音も危ないけど、ヒアリングはもっと危ない。
外国人だと思って、ゆっくり話しては貰えるんだけどね。」
隆一朗は瑞基の車椅子を押してパン屋を出た。
冷たい空気が独特の異国の香りで包んだ。
「向こう側に凱旋門がある筈なんだけど。」
隆一朗ははしゃいで瑞基の車椅子を押して走り出した。
瑞基は隆一朗が苦労して買ったクロワッサンをぱくついた。
瑞基がクロワッサンを頭上に掲げると隆一朗はそれに噛みついた。
二人は異国の解放感にはしゃいだ。
途中で凱旋門が四キロ先にあることに気付いた。
はしゃぎ過ぎて、既に隆一朗は汗だくになってバテていた。
車椅子に座っていた瑞基は寒さに震え、既にお尻も痛くなっていた。
二人はげっそりしてタクシーを拾い、ホテル引き返し、ホテルの部屋に戻ると疲れきって、隆一朗と瑞基は死んだように眠った。
次の日タクシーに乗った瑞基と隆一朗は運転手にメモを見せた。
「|アセットアドレス、スィルヴープレ《このメモの住所に行って下さい。》」
どうやら、通じたようで二十分ほどで一軒の民家の前で止まった。
荷物をおろして、瑞基を車椅子に乗せると呼び鈴を鳴らした。
室内から軽快な足音が近付き、扉が開かれた。
「ようこそ、パリへ!」
ニコルは隆一朗に抱きついた。
そして早口のフランス語で捲し立てた。
「ニコル!
ニコル、フランス語は止めて。
トラウマになるくらい親しんだから。」
「あらあ。」
ニコルは眼を丸くした。
「隆一朗、フランス語でノイローゼ寸前なんだ。」
瑞基が言うとニコルはエントランスから降りて瑞基の手を取った。
瑞基は少し驚いた。
「瑞基も来てくれたのね、嬉しい。
隆一朗は私と飲むと、いつもあなたの事を惚気るのよ。」
「へーえ。」
瑞基は隆一朗をからかうように見た。
隆一朗は困った顔でニコルを見た。
ニコルがフランス人の母と日本人の父を紹介すると、瑞基と隆一朗は二人と握手を交わした。
「久し振りに日本人に逢えて嬉しいよ。」
ニコルパパが言った。
「冬のパリも素敵よ、ゆっくり楽しんで行って下さいね。」
ニコルママがたどたどしい日本語で言った。
ニコルが言った。
「ゆっくりして行けるんでしょう?
なんなら、パリを案内するよ。」
「できれば、早く落ち着きたいんだ。
長旅で疲れてるし。」
「そう、残念ねえ。
パリの外れに私が子供の頃住んでた旧家があるの。
車も用意した。
せめて、今夜だけでもご飯一緒に食べましょう。
私も腕を振るうから。」
「有り難う、ニコル。
キミには心から感謝してる。」
「あら、私を振ったの今頃後悔しても遅いんだよ。」
ニコルは笑った。
夕食はフランスの一般的家庭料理、キャロット・ラペ、タルティフレット、オニオングラタンスープ、ブフ・ブルギニヨン、キッシュ・ロレーヌ、デザートにイルフロタンを楽しんだ。
夕食の後、瑞基と隆一朗、ニコルの三人は暖炉の前に陣取り雑談を交わした。
「私、瑞基と隆一朗の馴れ初め聞きたい。」
「馴れ初め?
そんなこと聞いても楽しく無いと思うよ。」
「いいの、聞きたい。
瑞基、話して。」
「え、オレ?」
瑞基は上を向いて暫く考えてから隆一朗を見た。
隆一朗はニコニコしながら、余計なこと言うなオーラを出していた。
瑞基は身震いした。
ニコルは期待満々で瑞基を見詰めていた。
「オレが家出して隆一朗の家に転がり込んだんだ。」
「それだけ?」
「うん。」
ニコルは拍子抜けした。
「つまんない。」
「だから、楽しく無いって言ったよ。」
隆一朗は笑った。
隆一朗が暖炉の横に立て掛けてあったアコースティックギターを手に取り、チューニングを合わせると「マドモアゼルドゥパリ」を弾き出した。
ニコルは笑顔で歌い始めた。
エディット・ピアフの「ルシェルドゥパリ」。
ドアーズの「ピープルアーストレンジ」。
ヴェルヴェット アンダーグラウンドの「ホワイトライトホワイトヒート」。
ニコの「イットハズノットテイクンロング」。
ジャニス・ジョプリンの「チープスリル」。
ローリング ストーンズの「ギミーシェルター」。
ニルヴァーナの「スメルライクティーンスピリット」まで飛び出した。
隆一朗は次々と曲をギターで弾き、ニコルは歌った。
瑞基はそんな二人を尊敬の眼差しで見詰め、一曲終わる度に惜しみ無い拍手を送った。
楽しい時は終わり、隆一朗と瑞基はニコルが用意した車に荷物を積み乗り込んだ。
「気を付けて。」
ニコルはいつまでも見送った。
隆一朗はニコルの書いた地図を頼りに夜道を走らせた。
ー二人暮らしー
家はかなり街外れにあった。
辺りに民家は疎らで、広い庭に車を止めた。
瑞基は隆一朗の肩に掴まりながらケンケンでテラスに上がり家の中に入った。
スイッチに触れると、シャンデリアが部屋を明るく照らし、白い布で覆われた家具が浮き上がった。
隆一朗はソファーとおぼしき家具の布を取ると、瑞基を座らせた。
「凄く大きいよね。
日本の住宅事情が侘しく感じるね。」
瑞基は室内を見回して言った。
隆一朗は室内をあちこち見て回ると言った。
「こっちは寝室みたい。
今日はもう休もう。
明日、掃除して住みやすくするよ。
薪って外にあるのかなあ。」
隆一朗は外を気にして言った。
隆一朗は車から荷物を運び入れると、家の傍の物置の横に積み上げられた薪を何本か持ってきて暖炉に火を点けた。
「明日はここから少し行った処に市場があるみたいだから、食材を調達に行かなくちゃ。」
「隆一朗、ごめん。
オレ、何もできなくて。」
瑞基は申し訳なさそうに言った。
「治ったら、濃き使うから安心して。」
隆一朗は笑った。
おそらくニコルの両親の寝室なのか、ダブルベッドが置かれた寝室で二人はベッドに潜り、話していた。
「瑞基、後悔してない?」
「どうして?」
「こんな見も知らない街でボクと二人きりだよ。」
「オレとしては望む処だよ。」
瑞基は起き上がると、隆一朗の首から指輪の鎖を外して指輪を隆一朗の左手の薬指に嵌めた。
隆一朗もそれに倣って瑞基の左手の薬指に指輪を嵌めた。
隆一朗は微笑んで瑞基の頬に指をなぞらえた。
瑞基はその指に頬摺りした。
兄弟と知っても、それを真実として受け入れることができなかった。
どうしても抑えることはできない。
触れ合うだけで、もっと触れ合いたいと思ってしまう。
口付けたいと思ってしまう。
肌を重ね合わせたいと求め合ってしまう。
どれほど背徳の罪悪感に苛まれようとも、愛し合いたいと求め合ってしまう。
二人は手を重ね合わせ指を絡めた。
口唇を愛撫しあった。
それだけで、身体が熱く火照る。
互いの背中に手を這わせ、ゆっくりと愛撫を繰り返した。
長く深いキスを繰り返し、瑞基は喘ぎながら隆一朗の髪に指を埋もれさせ隆一朗の髪に口付けた。
隆一朗は呼吸を乱して瑞基の首にキスを繰り返し、二人はベッドに倒れ込んだ。
溶け合う様に抱き合い、絡み合った。
二人は兄弟であると云う真実を振り払うように夢中で愛し合った。
朝早く隆一朗は市場まで行き、食料を調達した。
帰っても、疲れているのか瑞基はまだ眠っていた。
隆一朗はキッチンに立って、朝食の支度を始めた。
瑞基は眼が覚めるとベッドに隆一朗が居ないので、服に着替えると車椅子で隆一朗を探した。
「隆一朗?」
キッチンから水の流れる音がして隆一朗が姿を現したので瑞基は安堵した。
「隆一朗に時差ぼけって言葉ないの?」
「さあ、自然と眼が覚めたから。」
隆一朗は拳を口にあて、かるい咳をした。
「風邪?」
「どうかな、別に身体が怠いとかは無いけど。
今、カナッペ作ってるんだ。
もう少しで、できるから待ってて。」
瑞基はその間、車椅子を操作しながら家具に掛かった白い布を剥ぎ取り畳んだ。
隆一朗は寝室のクローゼットから毛布を何枚か持って来ると暖炉の傍のソファーの前に敷いた。
隆一朗は満足気に敷かれた毛布を見て腰に手をあて言った。
「こんなに広いとかえって落ち着かないね。
ここで食べない?
あ、テレビつけないで、フランス語はもう沢山。」
そう言いながらキッチンへ行った。
瑞基はクスッと笑った。
隆一朗はお盆のような大皿に色とりどりのカナッペを載せて、それをソファーの上に置くと床に敷いた毛布の上に胡座をかいて座った。
「隆一朗の料理なんて、すっごい久し振り。
今思い出すと懐かしいよ、毒々しいミートパスタとか、赤ワイン入りの凄い色の野菜の煮付けとか。」
「なんなら、作る?」
「いや、遠慮しとく。
あれはほんと、いつも衝撃だったから。」
隆一朗は咳をした。
「やっぱ、風邪ぎみだよ。
あったかくしなきゃ。」
「そうだね。」
隆一朗は腰に毛布をあてると端を膝の上に掛けた。
瑞基は食べるのを止めて言った。
「どうして、こんな事になっちゃったんだろう。
なんだか、凄く遠くへ来てしまった。
どうして、あの隆一朗のアパートでずっと二人で暮らすことができなかったんだろう。
そしたら、オレ達が兄弟…………………」
隆一朗が瑞基の口に人差し指を立てた。
「それ、禁句ね。」
瑞基は隆一朗の顔を見詰めた。
「隆一朗が傍に居るならいいや。」
「申し訳ないと思ってる。
ボクの我が儘で瑞基の総てを奪ってしまった。」
「オレはそんな風に思ってないよ。
ずっと言ってる、隆一朗以外何も要らないって。」
「本当は、その言葉に甘えちゃいけないのにね。
ボクもどうかしてる。」
隆一朗は遠くを見ていた。
「隆一朗!」
瑞基は隆一朗の手を掴んだ。
「どうかした?」
隆一朗は不思議そうに瑞基を見た。
瑞基は不安な顔で言った。
「いま、隆一朗がそのまま消えちゃう気がした。」
隆一朗は笑って言った。
「瑞基、疲れてるね。
これ食べ終わったら、ゆっくり休むといいよ。」
瑞基は掴んだ手を離すことができなかった。
「傍に居てよ、オレが安心するまで。」
「いいよ。
時間なら沢山ある。」
隆一朗は瑞基の手を握った。
「隆一朗だって、オレと一緒に居る事を選んで総てを失くしたよ。」
「ボクに失くすものって瑞基しか無いよ。
いま、冷静になって考えると、結局ボクは瑞基を振り回してただけだった気がするよ。」
「オレはそう思って無いけど、でも、結果的にオレはそれで色んな事を得たよ。
辛いこと、いっぱいあったけど、それでも隆一朗と離れる以上の辛いことは無かった。」
「そう、ボクは瑞基に徒にエゴを強いてただけだった。」
隆一朗は握っている瑞基の手に力を込めた。
「ボクが一番キミに愛されてることに甘えてたんだ。
離れる度、心の何処かでキミが追い掛けてくれるのを待ってた気がする。
瑞基が居なければ、ボク自身自分をどうコントロールしていいのかさえ解らなかった。
瑞基を一番必要としていたのはボクだったのに。」
「どうしたの?
懺悔?」
「そう、懺悔。
莫迦な話だけど、こうして自分の気持ちに正直になって初めて自分が見えて来た。」
隆一朗は車椅子に座る瑞基の膝に頭を載せた。
「こんなにも一緒に居るだけで満たされていたのに。」
「隆一朗…………………。」
瑞基は隆一朗の頭に手を置いて髪を撫でた。
隆一朗は眼を閉じて言った。
「愛してる。
どうしようも無いほど。」
瑞基は隆一朗の髪を撫で続けた。
部屋の掃除が終わると二人は裸になって風呂に入った。
瑞基がシャワーの下で壁に凭れて立つと隆一朗は瑞基の身体を洗い始めた。
「隆一朗に身体洗って貰うの二度目だね。」
「そうだね。
あの時は面白かった、寝てるところに水掛けたら瑞基が奇声あげて立ち上がって。」
「酷いよね。
オレ何事かと思ったよ。」
「あの後服のまま、くたくたになるまでお湯掛け合ったよね。
凄く楽しかった。」
「あの後確か、朝まで喧嘩したんだよ。
隆一朗も凄いムキになってさ。」
「キミ、ピーマンの話まで持ち出して。」
「そうそう、その日の晩御飯が毒々しいミートパスタでさあ。
隆一朗、意地になってピーマン食わし捲るから、オレ今ピーマン食えるようになっちゃった。」
隆一朗は笑った。
「そう言えばそうだね。」
洗い終わると瑞基はバスタブに腰掛け隆一朗が洗い終わるのを待った。
瑞基は泡が隆一朗の白い肌を滑り落ちるのに見とれていた。
「瑞基、そんなことしてたら風邪ひくよ。」
「隆一朗に見とれていた。」
「莫迦だね。」
隆一朗は笑って、中指と親指で瑞基にお湯を飛ばした。
「夜は何にしようか。」
ソファーに座り、手を後ろについて両足をのばしながら隆一朗は天井を見て言った。
「えーと、何があるの?」
瑞基は車椅子を前後させながら言った。
「何が有ったかなあ。」
隆一朗はキッチンに行った。
瑞基はその後に付いて車椅子のタイヤを押した。
「できれば日本食がいいな。」
「日本食ねえ。
お蕎麦は?」
「蕎麦なんて売ってたの?!」
瑞基は眼を丸くした。
「まさか。
持って来たんだよ。」
「ワイン入りの蕎麦とか言わないよね。」
瑞基は怪訝な顔を隆一朗に向けた。
「よく解ったね。」
「え。」
「冗談だよ、醤油もみりんも持って来たよ。」
「随分用意がいいよね。
何処行くのも身一つで動く人が。」
「色々持って来たよ。
お米とか梅干しとか漬物とか……………。
日本の食材売ってる店もあるらしいから、そう云う不便は無くて住むんじゃないかな。」
「へーえ。
じゃ、蕎麦がいい。」
隆一朗は大きな鍋にお湯を沸かし始めた。
夕食が済むと瑞基は食器洗いを手伝った。
隆一朗が洗った食器や鍋を拭いてしまった。
「ねえ、いっそベッドのマットレス、暖炉の前に置かない?
あそこが一番落ち着くよ。」
「そう言えば、昔読んだフランスの小説に浴槽で暮らす男の話があったね。」
「浴槽で?」
「もう内容なんて憶えてないけど、食事も睡眠も浴槽でとる生活を何年も続けるんだ。」
「フランス人て発想が変わってるね。」
「ボクも、そう思った。」
隆一朗は瑞基を見て笑った。
隆一朗はダブルベッドのマットレスをズルズルと引き摺って暖炉の前に置くと毛布を掛けた。
隆一朗はまた咳込んだ。
「隆一朗……………。」
瑞基は心配そうに隆一朗を見た。
隆一朗は何でも無いよと言うように肩を竦めた。
「この発想って、ちょっと小説的かもね。
居住区域がここだけ。
こんなに広いのに。」
隆一朗は瑞基を居住スペースに座らせると瑞基の前に胡座をかいて座り、タバコに火を点けた。
「そう言えば、こんな小説もあったよ。
言葉が話せない、知恵遅れの少女がテーブルの下で自分の世界を作って遊ぶんだ。」
「誰の小説?」
「池田満寿夫。」
「誰、それ。」
「エロティシズムで、世界的に有名な芸術家だよ。」
「エロいんだ。」
「うん、凄く。
池田満寿夫は小説や映画の監督としても成功を修めた人だけど、もともとは油絵の画家志望だったんだ。
彼は油絵でも成功しようと思った矢先に亡くなった。
消えるように死にたいと言っていたように突然、脳卒中で亡くなったんだって。
人って、死に方を撰べるのかな?」
瑞基の顔が曇った。
「やだな、そんな縁起の悪い話。
だって出逢った頃、隆一朗は凄く死ぬことに拘ってた。」
「拘ってた訳じゃ無いよ。
逃げてたんだ、ただ逃げたかった。
でも、できなかった。」
隆一朗は吸っていたタバコを揉み消した。
「オレ哀しかったよ。
あんな哀しい思いしたの、生まれて初めてだった。」
「彼女を失った時、何度も死のうとした。
でも、死ねなくて、苦しくてまた死のうと繰り返した。
聖流がキレて、病院でボクを殴った。
眼にいっぱい涙を溜めて、罪の意識があるなら生きて苦しめって言われた。
初めてだった、あんな哀しい眼をした聖流を見るの。」
「その話、聖流さんに聞いたことある。
そんな残酷な言葉でしか聖詞を繋ぎ留めることができなかったって、とても辛そうだった。」
隆一朗は俯いて眼を閉じた。
「初めてだよね、隆一朗がその頃の話するの。」
隆一朗は瑞基を見詰めて言った。
「瑞基が居てくれたから、割り切ることができた。
キミの明るい笑顔を見るたびに、いつの間にか夢も見なくなって、気付いたらキミを愛することに夢中になってた。」
「オレのファーストキス奪った時、オレを誰だと思ったの?」
「それが、本当に憶えてないんだ。」
隆一朗は肩を竦めた。
「本当に憶えてないの?
こんな風にしたんだよ。」
瑞基は隆一朗の口唇に、何度も愛撫して浅く口付けてそっと舌を侵入させた。
それから、甘く舌を絡ませた。
瑞基が口唇を離すと、隆一朗は眼を開け驚いた顔を瑞基に向けた。
「高一のキミに?」
「うん、衝撃だった。
で、もう一度してって言ったら、してくれた。
こんな風に……………。」
瑞基は熱烈なキスをした。
「オレ、おもいっきし勃っちゃった。」
瑞基は笑った。
隆一朗は頭を抱えこんだ。
「責任感じるよ。」
「今更遅い。」
瑞基は手をついて隆一朗に口付けた。
隆一朗は瑞基の髪に指を埋もれさせて受け応えた。
瑞基が口付けで隆一朗を押し倒すと隆一朗は瑞基の身体に指を這わせながら背中に腕を回した。
瑞基は隆一朗のシャツのボタンを外しながら愛撫を肌に這わせた。
隆一朗は仰け反って呼吸を乱した。
「愛してる。」
瑞基が囁くように言った。
「瑞基………………。」
口唇と舌の淡い感触を長い間楽しむと、愛の深さを伝え合うように深く口付けて抱き締め合った。
隆一朗は指先を瑞基の敏感な場所に這わせながら、瑞基の白いセーターを脱がせた。
ー隆一朗と聖詞ー*
毛布に埋もれ二人は満たされて抱き合い眠っていた。
ふと、隆一朗は眼が覚めた。
服を着ると裏庭に出た。
家の陰からもう一人の藤岡聖詞が姿を現した。
「そろそろ現れる頃だと思ってた。」
「お待ち戴けて光栄だよ。
何処に逃げてもボクには関係無いのに。」
「逃げた訳じゃ無い。
瑞基をキミから守る為だよ。
随分、見境が無くなって来たみたいだから。」
「そんな悠長なこと言ってていいの?
キミはもうすぐ死ぬんだよ。」
「それはキミも一緒だよ、ボクが死ねばキミも消滅する。」
隆一朗は咳込んだ。
「最後の瞬間までボクは諦めないよ。」
「それはボクも同じだよ。」
隆一朗は言った。
聖詞は煙になった。
「隆一朗?」
瑞基が隆一朗を求めて硝子のドアを開けた。
「隆一朗、話し声が聞こえたけど誰と話してたの?」
隆一朗は振り返ると笑って言った。
「独り言。」
「こんな処で?」
「雪が降りそうだなと思って。」
隆一朗は夜空を見上げた。
「風邪酷くなるよ。
早く戻った方がいいよ。」
「そうだね。」
隆一朗はドアを閉めると、瑞基の車椅子を押した。
瑞基は心配そうに言った。
「寒くなかったの?」
「少し。」
「駄目じゃん。
思い出した、オレ風邪薬持って来たよ。」
「顆粒のは飲みたく無いなあ。」
「贅沢言わないの。」
瑞基はバッグから薬を出すとキッチンに行って水をグラスに汲んで隆一朗に差し出した。
「飲むの?」
隆一朗は嫌そうな顔をして薬と水を受け取った。
「酷くなったらどうするの。」
瑞基は隆一朗を見据えた。
隆一朗は仕方無く従った。
「不味い。」
隆一朗は舌を出して眉間に皺を寄せた。
瑞基は隆一朗の額に手をあてた。
「熱あるじゃん!」
「そお?」
隆一朗は自分の額に手をあてた。
「確かにちょっと熱っぽいかも。」
「体力がある内にベッド元に戻してよ。
ちゃんと休んだ方がいい。」
隆一朗は瑞基の勢いに押されてマットレスをベッドに戻した。
瑞基が車椅子を操作しながらシーツと毛布を整えた。
「今日からマッパで寝るの禁止。
オレのパジャマ貸すから、それ着て寝て。」
「大袈裟だなあ。」
隆一朗は渡された瑞基のパジャマに着替えた。
「はい、ベッドに入って、今日はもう寝て。」
「はいはい。」
隆一朗は従って、ベッドに入った。
瑞基は満足気に隆一朗の傍に車椅子を近付けて、隆一朗が眠るまで見守った。
ー風邪ー
隆一朗の熱は、更に上がった。
触る度に熱くなる隆一朗の身体に瑞基は困惑した。
何重にも重ねたビニール袋に冷蔵庫の氷を入れて冷やすが効き目は無かった。
「大丈夫だよ。
こんな風邪、直ぐ治るから。」
熱で眼を潤ませ隆一朗は笑った。
だが、隆一朗の熱は薬を飲んだ後のほんの数時間は下がるが暫くするとまた上がり、気付けば薬も無くなり、瑞基は途方に暮れるしか無かった。
三日もすると食欲も無くなり、隆一朗は眼に見えて弱って行った。
「病院に連れて行きたいよ。」
「大丈夫、その内治るから。」
隆一朗は頑として病院へ行くことを拒んだ。
心配そうに自分を見詰める瑞基に隆一朗は言った。
「ねえ、あの時は感情的になってキミを責めたけど、後になって冷静になって考えたら、森さんがキミの赤ちゃんを堕胎するとは思えないんだ。」
「今それって、話さなきゃなんない?」
隆一朗は瑞基の手を握った。
「大事なことだよ。
森さんは何処かでキミの赤ちゃんを生んでくれてるんじゃないかな。」
「どうして……………?」
「森さんて云う女性が平気で一つの命を殺してしまうとは思えない。
ましてや心から愛するキミの赤ちゃんを堕胎すなんて考えられない。」
「じゃああの時、どうしてあんなこと…………………。」
「それはボクにも解らないけど。
今度もし、森さんに逢うことがあったら、今度こそ彼女の為に生きて欲しいよ。」
瑞基は隆一朗を見詰めた。
「どうして、そんなこと今言うの?」
瑞基は不安な顔をして言った。
「隆一朗、ここでオレとずっと暮らすんだよね。」
隆一朗は哀しげな笑みを浮かべ、眼を閉じた。
「少し、眠るよ。」
日が経つごとに隆一朗は更に弱って行った。
瑞基は必死で考えた。
どうすれば隆一朗を病院に連れて行けるか。
しかし、この見知らぬフランスの地で救急車を呼ぶ手立てすら解らなかった。
呼べたとしても瑞基は全くフランス語が話せない上に、この家の住所すら解らない。
隆一朗のスマホを調べるが、何故かニコルの連絡先が無かった。
何とか隆一朗を車に乗せて病院を探すか。
だが瑞基は車の運転ができなかった。
瑞基は不安に駆られながら、ただ弱って行く隆一朗を見守ることしかできなかった。
いつかしたように口移しで水を飲ませると、隆一朗は力無い笑みを浮かべた。
「有り難う。」
もう、声すらまともに出ない。
「お願いだよ、良くなって。
怖いよ。
隆一朗、せめてお粥だけでも少しでいいから食べて。」
「大丈夫………………。
キミだけは守るから。」
そう言うと隆一朗はまた眠った。
「オレを置いて行かないで。」
瑞基は隆一朗の手を握って泣いた。
ー最期ー
今では、隆一朗は一日の大半を眠っていた。
瑞基は時々、隆一朗が死んでしまっているのではないかと、心臓の音を確かめた。
弱々しい鼓動に、また涙が流れた。
その頃には、瑞基は隆一朗の傍から一瞬も離れることができなかった。
気を抜いたら、この弱々しい鼓動が止まってしまいそうで怖くて離れることができなかったのだ。
隆一朗はこの時、既に気力だけで生きていた。
隆一朗は聖詞が瑞基を奪いに現れるのを、最後の力を温存しながら、耳の神経を研ぎ澄まし待っていた。
何かが音を潜ませて近付いて来るのを感じて隆一朗は眼を開いた。
戸口に人影がぼんやりと見えた。
それはゆっくりと近付いて来る。
瑞基は気付いていない。
隆一朗は言った。
「瑞基………キス………………して…………。」
瑞基は溢れる涙を拭って、口唇を隆一朗の乾燥した口唇に押し当てた。
聖詞は持っていたナイフを頭上に掲げ、じりじりと瑞基に近付いて来た。
隆一朗は薄眼でその様子を窺っていた。
聖詞は立ち止まりナイフを振り上げた。
ナイフは勢い良く瑞基の背中目掛けて振り下ろされた。
だが、ナイフが貫いたのは瑞基の心臓では無く、隆一朗の手のひらだった。
隆一朗は聖詞を見て、眼で笑って見せた。
隆一朗は静かに眼を閉じた。
『キミと過ごした日々は忘れない………………。』
ナイフが貫いた隆一朗の手は力尽きて堕ちた。
その瞬間、聖詞は頭に手をあて仰け反ってもがき、苦しそうな表情を浮かべ隆一朗を睨みながら、色彩を失い消滅した。
「隆一朗……………?」
瑞基は口唇を離すと、隆一朗の鼻先に耳を寄せた。
「隆一朗、呼吸するの忘れてるよ。
ちゃんと呼吸しなきゃ。
隆一朗!
呼吸してよ!」
しかし、隆一朗は眼を閉じたまま反応することは無かった。
瑞基は隆一朗を呆然と見詰めた。
もうこの肉体に隆一朗は居ないのだ。
隆一朗の人格、癖、表情、心情、温もり、総てを失くした脱け殻だった。
そこにはもう、隆一朗は居ないのだ。
「い……………やだよ…………………………。
起きてよ。
隆一朗。
置いて逝かないでよ。
一人にしないでよ!
オレを置いて逝かないで!
隆一朗!
隆一朗!
隆一朗ーーーーっ!!」
瑞基は隆一朗にしがみついた。
「逝かないで!
お願いだよ!
オレを置いて逝かないで!」
瑞基は喉が張り裂けそうなほど泣き叫んだ。
「お願いだから、オレも連れて行って!
一人にしないでーーーーーーっ!!」
隆一朗は眠る様に安らかな表情を浮かべ二度と瑞基に笑い掛けることは無かった。
ー瑞基ー
ニコルは隆一朗と瑞基が居る筈の自分の旧家のリヴィングに居た。
ニコルは一週間前に隆一朗から電話を貰っていた。
「一週間してボクから連絡が来なかったら、こっちに来て欲しいんだ。
瑞基を頼むよ。」
そう言って通話は切れた。
ニコルは頭を傾げたが言われた通り一週間後に旧家を訪れたのだ。
全く生活の余韻も無く、冷えきった家に誰かの居る気配も無かった。
「隆一朗!
瑞基!」
呼んでみるが物音一つしない。
寝室を覗いてみると車椅子の瑞基がこちらに背を向けベッドに眠る隆一朗の手を握りしめていた。
「瑞基、隆一朗どうかしたの?」
瑞基は少しこちらに顔を傾けると隆一朗の手を置いて枕もとに転がっていたビニール袋を手に取り膝に置いて、車椅子を操作してこちらを向いた。
「隆一朗、風邪をひいて熱が下がらないんだ。」
瑞基は血塗れの手をしていた。
隆一朗を見ると手にナイフが突き刺さっていた。
「瑞基、隆一朗に何をしたの?」
瑞基は答えずキッチンに行った。
ニコルは隆一朗に近付いた。
見ただけで隆一朗が、普通の状態では無い事が直ぐ解った。
「瑞基!」
ニコルは瑞基の居るキッチンへ行った。
瑞基はビニール袋に氷を入れていた。
ニコルは瑞基に近寄ると車椅子をこちらに向けて言った。
「瑞基、隆一朗はどうしたの?」
瑞基はぼんやりと定まらない眼をニコルに向けた。
まともな状態では無かった。
ニコルは瑞基の肩を掴んで揺すった。
「瑞基!
しっかりしなさい!」
瑞基の眼から涙が溢れた。
「隆一朗が……………
隆一朗が……………………
あああああーーーーーーーーーーーーっ!!」
瑞基は頭を掻きむしる様に掴むと叫んだ。
「瑞基……………………………。」
ニコルは立ち尽くした。
ー自殺ー
瑞基は東京のアパートの隆一朗の部屋に居た。
車椅子に座り、ぼんやりとベッドを見ていた。
喪服姿の魁威は隆一朗の部屋のドアを閉めると綾子に向かって首を振った。
綾子は孝久に支えられて、やっと立っていた。
瑞基はニコルに連れられ隆一朗の遺体と共に帰国した。
瑞基の精神状態は常軌を逸していた。
隆一朗の遺体をお棺に収める時、瑞基は一緒に入ると言って泣き喚きお棺にしがみついて離れようとしなかった。
魁威と樹良、麗畏の三人がかりでやっと瑞基をお棺から引き離した。
引き離した後も瑞基の興奮状態は治まらず、泣き喚き続けるので仕方無く瑞基は葬儀の間、隆一朗の部屋で魁威に付き添われた。
落ち着いてからも、魁威が何を言おうと瑞基は反応せず、ぼんやりと隆一朗のベッドを見ているだけだった。
葬儀の後、隆一朗の遺骨と遺影は真聖が大事に抱えて帰って行った。
孝久が言った。
「一度神経科に診せた方がいいかも知れないな。」
綾子は泣き崩れた。
「どうして、こんなことに…………………。」
魁威が言った。
「とにかく、暫くは眼を離さない方がいいですよ。
隆一朗にとっても瑞基は総てだった。
そして、瑞基にとっても隆一朗は総てだったんです。」
綾子は突かれたように叫んだ。
「でも、あの二人は兄弟だったのよ!
兄弟なのにどうして!」
魁威は眉をしかめて言った。
「でも、二人はそれを知らずに巡り逢ってしまったんです。
そして、お互いをとても必要としていたんです。
本当にとても………………………………。
兄弟と知ってもどうすることもできず、追い詰められて逃避行しなければならないほど。」
魁威の眼から涙が零れた。
綾子は暫く瑞基とアパートに留まり瑞基の様子をみることになった。
何を言っても瑞基はこのアパートを離れることを受け入れなかったからだ。
瑞基は一日の殆どを隆一朗の部屋で過ごした。
綾子は時々、隆一朗のベッドに伏しては泣いている瑞基を見かけた。
食材が底を尽いたので綾子は仕方無く近くのスーパーに買い物に出掛けた。
帰ると家中、苦いコロンの香りが鼻を突いた。
廊下に瑞基の車椅子が置いてあったので瑞基は風呂に入っているようだった。
綾子はオーバーを脱ぐと夕食の支度に取り掛かった。
いつまでも瑞基が風呂から上がって来ないので心配になり様子を見に行った。
ドアをノックして声を掛けたが返事は無かった。
「瑞基?」
そろそろとドアを開くと降り注ぐシャワーの下で、瑞基は白いシャツとズボン姿で脚を伸ばして座り、壁に凭れ眠る様に首を傾げ手首から血を流していた。
反対の手には隆一朗の手に突き刺さっていたナイフが握られていた。
「瑞基!」
慌てて瑞基に飛び付き頬を軽く叩いた。
だが、瑞基は反応しなかった。
「瑞基ーーーーーーっ!!」
綾子は瑞基を抱き締めて叫んだ。
骨折した時に入院していた病院の集中治療室で瑞基は眼が覚めた。
「看護婦さん!」
傍で見守っていた綾子が叫んだ。
看護婦が入って来て脈と血圧を計り医師を呼びに行った。
「瑞基、どうしてあんな莫迦なことしたの。」
綾子は責めるように言った。
瑞基は顔を背けた。
背けた先に輸血の袋が見えた。
「こんなの無駄なのに。」
医師が来ると瑞基の脈を診たり、経過を記した書類を見たりして言った。
「戻ってくれて良かった。」
医師はほっとした笑顔を見せた。
綾子は廊下に呼ばれた。
医師は言った。
「繰り返す可能性があります。
心療内科に掛かることをお勧めします。」
綾子は落ち着きなく手をこすり合わせた。
瑞基は一週間ほどで退院した。
アパートに帰ると瑞基は隆一朗の部屋に入るとドアを閉めて綾子を遮断した。
入院中に心療内科に掛かったが、瑞基は一言も話さず担当医師もお手上げだった。
ー新たな命ー
瑞基は、隆一朗と云う存在を失くした時から、この世界で自分が存在する意味を失くしていた。
瑞基の手首に隆一朗と同じ傷が刻まれた。
瑞基は手首に巻かれた包帯を見ながら、彼女を失った時の隆一朗の苦しみを思い出していた。
『隆一朗はもっと辛かったんだ。
でも隆一朗、オレも凄く辛いよ。
お願いだからオレを連れに来て。』
瑞基はベッドに伏して泣いていた。
チャイムが聞こえた。
「まあ、可愛い。」
玄関から綾子の黄色い声が聞こえた。
暫くして部屋のドアがノックされた。
瑞基は無視した。
少しして、もう一度ノックされた。
「瑞基君、入っていいですか?
森詩織です。」
瑞基は思わずドアを振り返った。
ドアが恐る恐る開かれた。
すっかり大人くさくなった森詩織が立っていた。
「森さん………………。」
「隆一朗さんの訃報を知ったの。
どうしても瑞基君が心配で来てしまった。」
森詩織は申し訳無さそうに言った。
「あの時は酷いこと言ってごめんなさい。」
瑞基は顔を背け俯いた。
「今のオレを森さんには見られたく無いよ。」
「もしボクが瑞基と離れることがあったら瑞基を支えて欲しいって隆一朗さんに言われたことがあるの。」
瑞基は大きく眼を見開いた。
「隆一朗が?」
瑞基は森詩織を振り返り見詰めた。
「瑞基君が変な噂でバスケの選手をおろされた時に、まだ高校生だったワタシに深々と頭を下げて。
だから、ワタシは心に決めてた、瑞基君が隆一朗さんと離れることがあったら、何があろうと支えようって。
今がその時かなって、逢いに来た。」
「隆一朗……………………。」
瑞基の眼から涙が溢れた。
赤ん坊の泣く声がした。
綾子が赤ん坊を揺すりながら現れた。
「オムツかしらねえ。」
「おいで、隆一朗。」
森詩織は赤ん坊を綾子から抱き上げた。
瑞基は驚いて赤ん坊を見詰めた。
「隆一朗って。」
森詩織は赤ん坊をあやしながら言った。
「瑞基君が一番口にする名前にしたかったの。」
「じゃあ、その子は……………?」
「勿論、瑞基君の子でしゅよ、ねえ隆一朗。」
綾子は仰天した。
「瑞基の子?」
「隆一朗、パパにご挨拶は?
瑞基君、抱いてあげてくれる?」
瑞基は車椅子のタイヤを押して赤ん坊の傍に寄った。
森詩織が赤ん坊を差し出すと、瑞基は恐る恐るぎこちない手つきで赤ん坊を抱いた。
「一才になったの。」
淡いブルーのベビー服を着た小さな隆一朗は、瑞基の腕の中で小さな手足をバタバタと元気良く動かしていた。
その感触は小さいのに力強く生命力に溢れていた。
その様子を森詩織の陰から覗き込むように見ていた綾子が言った。
「新米パパはダッコが下手でしゅねえ。」
瑞基は森詩織を見上げて言った。
「どうして堕胎したなんて嘘言って去ったの?」
「つわりが辛くて瑞基君に電話した時、叫び声が聞こえて、瑞基君、隆一朗さんの名前呼んで通話を切ったの。
その前にワタシのアパートで、人一倍責任感の強い隆一朗さんが仕事バックレたって聞いたから、きっと隆一朗さんに大変なことが起きてるんだって思った。
どう頑張ってもワタシは隆一朗さんに勝てないのは解ってた。
だから、あの時言った言葉は本音なの。
いい意味でも悪い意味でも。
でも、瑞基君の負担にはなりたくなかった。
それはワタシの意地だった。
ワタシは美裕ちゃんの言う通り、どこまでも都合のいい女なのね。
だから、実家に帰って一人で瑞基君の子を育てようって心に決めたの。」
「森さん…………………。
オレ、なんて言って謝ればいいんだろう。」
「謝って欲しくて来たんじゃ無いよ。
瑞基君を支えたくて来たの。
隆一朗さんを失った瑞基君の空白をワタシ一人が埋められないのは解ってる。
でも、今は隆一朗がその分を埋めてくれるって思ってる。
もしできたら、隆一朗を池旗隆一朗にしてあげて欲しい。
認知されて無いから隆一朗は非嫡出子なの。」
「オレにそんな資格があるの?
ずっと森さんをないがしろにして来たんだよ。
チビ隆一朗のことも……………。」
森詩織は哀しげに笑った。
「でも、瑞基君にしかできないことだよ。」
瑞基は小さな隆一朗を見詰めた。
小さな隆一朗は眼を開け、じっと瑞基を見ていた。
その眼はとても澄んでいて、この世の醜さに染められない、本当に純粋で無垢な輝きを放っていた。
瑞基の中で小さな灯火が灯り始めた。
瑞基は隆一朗の言葉を思い出していた。
感情的になった隆一朗は言った。
「そんなことも解らないの?
森さんはキミに失望したんだよ。
どうして、もっと彼女を捕まえててあげなかったの。」
「キミのその優柔不断な態度が彼女を傷付けたんじゃないのか!」
思えば瑞基に対して、こんなにも感情的な言葉を隆一朗が言ったのは、その時が最初で最後だった。
瑞基は眼を閉じて言った。
「森さん、言葉で謝っても許されないような事をずっとオレは森さんにしてきたんだ。
それでも、森さんはオレを支えに来てくれたの?」
瑞基は小さな隆一朗の手のひらを指で触れた。
小さな隆一朗は瑞基の指を握った。
柔らかい温もりが瑞基の指を心地よい力で包んだ。
森詩織は言った。
「隆一朗には瑞基君が必要なの。
瑞基君に隆一朗を愛して欲しい。」
瑞基は森詩織を見詰めた。
森詩織は問うような表情を瑞基に向けていた。
瑞基は眼を伏せて言った。
「オレ、隆一朗に言われてるんだ。
もう一度森さんに逢うことがあったら、今度こそ森さんの為に生きて欲しいって。
オレの中の隆一朗は消えない、それでも、オレにこのチビ隆一朗の父親になることは許されていいことなんだろうか。」
瑞基は森詩織を見上げた。
森詩織は屈むと瑞基に優しい笑顔を向けた。
森詩織の頬に涙がつたった。
「その言葉をずっと待ってた。
何年もずっと……………。」
瑞基は片手で森詩織の手を握った。
「隆一朗、チビ隆一朗に逢うのをとても楽しみにしてたんだ………。
きっと凄く喜んでくれたよ。
オレと森さんが幸せになるのを心から願ってくれてたから。」
瑞基は小さな隆一朗の頭にそっと頬摺りした。
柔らかな髪が瑞基の頬をくすぐった。
暖かな匂いがした。
瑞基の腕の中で、小さな隆一朗はいつの間にか、安らかな顔で眠っていた。
それはまるで、瑞基が誰なのかを知っているかのように。
第三章 fin
ここまで読んで戴き本当に有り難うございます。
あと、残す処、終章のみとなりました。
ここまで長かったです。
400字詰め原稿用紙で570ページ、15万文字。
よく、マンガのプロットは書いてましたが、小説と云う形では初めてで、しかもめちゃ長編。
そして、投稿。
怖いもの知らずって恐ろしい。
読んで下さった皆様、本当に有り難うございます。
最後までお付き合い戴ければ幸いです。