第3章 上
リスカ表現有り。
NL表現有り。
薬物表現有り。
誤字、脱字お気付きの時はお知らせ戴ければ嬉しいです。
ー彼氏ー
『ダミアのサンブル ディマンシュ。
何処だろうこんな哀しい曲をかけるなんて。
聖流の家からの帰り道、瑞基と飴色に輝く夜明けを歩いた。
もうすぐ見えて来る。
瑞基が待っている、ボクの部屋で。』
♪私は、いつか日曜に死のう
苦しさに耐えかねたら
あんたが戻って来るとき
私はもう逝ってしまっているだろう
ろうそくが燃えているだろう
激しい希望のように
そしてあんたの方へと、自然に、
私の眼が見開かれているだろう
怖がらないで、恋人よ(私の眼を)
もしその眼が見られなくても
愛していた
命よりもあんたを愛していたと
暗い日曜日……………………
『瑞基、ボクは戻ったよ。
愛するキミのもとへと…………………。』
隆一朗はドアを開けた。
瑞基はベッドに居た。
ベッドから上半身を垂らして、こちらを見ていた。
手首から血を流し、瑞基はこと切れていた。
「瑞基ーーーーーーーーーぃっ!!
どうして!
瑞基!」
「隆一朗!
起きろ!」
隆一朗は混乱していた。
視界が開けると心配そうに覗き込む魁威の顔が見えた。
「魁威、瑞基が!」
隆一朗は魁威の腕を掴んだ。
「大丈夫だよ、瑞基は俺たちの街で元気にしてるよ。」
魁威は宥めるように言った。
隆一朗は両手で顔を覆った。
「大丈夫か?
瑞基は自殺するような、たまじゃ無いよ。
大丈夫だよ。」
「ごめん。」
「謝るくらいなら瑞基に逢ってやればいいんだ。」
隆一朗は落ち着くのを待ってから答えた。
「それはできないよ。」
「頑固なんだよ、隆一朗は。」
「逢ったら、もう二度と離せなくなる。」
「莫迦だよ。
最近、食欲も落ちてるし、寝る度にこんな調子で、ろくに眠れて無いだろ。
その内、身体壊すぞ。」
隆一朗はそれには答えずタバコに火を点けた。
隆一朗が去った後、瑞基はバスケ部を退部した。
放課後、教師をとっ捕まえては教科の質問をする瑞基の姿がよく見かけられるようになった。
それは自習の時間に起きた。
二、三人で雑談をしていた男子生徒が大声で笑ったかと思うと、突然、声だかに言い出した。
「やってられないよなあ、空気が悪いんだよ、クラスにホモがいるとさ。」
かつては同じバスケ部の連中だった。
明らかに瑞基への当て付けである。
瑞基は聞こえない振りをして教科書に集中した。
「やっばさあ、噂って本当なんじゃねえの。
あっさりバスケ部辞めちまうあたり、認めたのと一緒だよな。」
「そうそう、気持ち悪くて練習になんてならなかったから、せいせいしたけどね。」
クラス中の視線が瑞基に集中した。
瑞基と仲のいいクラスメイトが怒りを露わにして言った。
「お前ら煩い、瑞基が下ろされても選手に選ばれなった腹いせかよ。」
「ああ?
お前になんの関係があるんだよ。」
「みっともねえんだよ、集団でなかったら瑞基に何も言えない癖に。」
「お前も、こいつと出来てんじゃねえの?」
「ふざけるな!!」
瑞基は教科書を机に叩きつけて立ち上がるとバスケ部の連中に鋭い一瞥をくれた。
バスケ部の面子は一瞬引いた。
瑞基は黙って鞄に教材をしまい込むと教室を出ようとした。
誰かが机を叩いて大きな音をたてた。
「人の彼氏、ホモ呼ばわりしないで!!」
クラス中の視線がそっちに注目した。
森詩織だった。
驚いたのは瑞基だった。
森詩織は教科書を鞄にしまうと瑞基の腕を引いた。
「行こう、瑞基君。」
瑞基は引きずられるようにして森詩織と教室を出た。
玄関で靴を履き替えると森詩織はまた瑞基の腕を引いて歩きだした。
「森さん、ちょっと待って。」
森詩織はハッとして瑞基を振り返った。
「ごめんなさい、勝手なこと公言しちゃって。」
「それはいいよ、でも森さんまで教室出ちゃったら困らない?」
「大丈夫、どうせ自習だし。
この後の授業のは美裕ちゃんにノート見せて貰うから。」
森詩織は笑って見せた。
「森さん、あんなこと言っちゃっていいの?
みんな、きっと誤解してるよ。」
「瑞基君は嫌?」
「それは無いけど、森さんに迷惑掛けちゃうよ。」
「じゃあ、決まり!
瑞基君は今日からワタシの彼氏です。」
森詩織は嬉しそうに笑った。
「オレ、森さんにあんな酷いことしたのに、そんな資格無いよ。」
「ワタシ言ったよ、諦めの凄く悪い女だって。
こんなチャンス見逃す手は無い!」
森詩織は両手を握って軽く膝を曲げた。
「森さん……………。」
「ワタシね、隆一朗さんが瑞基君のキスで意識を取り戻したの見た時から解ってた。
瑞基君と隆一朗さんはワタシが想像もできないくらい深い処で繋がってるんだって。
じゃなきゃ、あんな奇跡起こらない。
でも、ワタシも瑞基君が好きなの。
自分でも解ってる、二人に割って入る隙間は無いんだって。
それでも、この好きって気持ちはどうしようもなくて、沢山泣いたけどそれでも諦められないの。
だから、やっぱり瑞基君を好きでいようって決めたの。
自分でいっぱい悩んで決めたことだから後悔は無いよ。」
「ごめん、オレ、そんなに森さんのこと苦しめても、何もしてあげられない…………………。」
「これからして貰うから。
彼氏宣言した以上、瑞基君には彼氏を演じて貰います。」
「それでもオレ、隆一朗を………………」
森詩織は言葉を遮った。
「夢を見せて!
嘘でもいいよ、夢が見たいの。
今だけワタシを見てる振りでいい。」
「森さん…………………。」
瑞基はどう答えるべきか困惑していた。
「さあ、学校サボっちゃったし、どうしようか?
やっぱりお付き合いしてるんだから、コース的にはおデートだよね。
クレープ食べに行こう!
ほら、いつか瑞基君がライヴチケット売ってくれた通りの。
あそこのクレープ美味しいんだよ。」
森詩織は笑顔を向けて瑞基の手を引いた。
瑞基は引かれるまま森詩織に付いて行った。
その日以来、瑞基の傍らにはいつも森詩織の姿があった。
やがて噂はなりを潜め、誰も口にする者は居なくなった。
ーライヴー
イヴェントライヴ、初ワンマンライヴ、初ワンマンツアーとバートリーは良いスタッフにも恵まれ着実に力を付けて行った。
それに反比例して隆一朗は弱って行った。
ライヴの後に倒れて病院に運ばれ点滴をうつと云うことも珍しくなかった。
魁威は隆一朗に内緒で瑞基と頻繁に連絡を取り合っていた。
魁威は弱る隆一朗をただ見守ることしかできないことに困惑していた。
「瑞基、一度こっちに来れないか?」
「どうしたの?」
「ずっと黙ってたけど隆一朗、あんまり調子良くないんだ。」
「また、眠れなくなったの?」
「よく解るなあ。」
「前に居なくなった時もそうだったから。
食欲も落ちて終いに風邪こじらせて肺炎おこしたん
だ。」
「そうだったんだ。
来れない?」
「きっと隆一朗は死んでも逢ってくれないと思う。」
「そこを何とかならないか?
あのままじゃマジで死ぬよ。」
「今度、大きなライヴハウスでワンマンやるよね、チケット送って。
客として行けば隆一朗も文句は言えないだろ。」
「なるほど、ナイスアイデア瑞基。
瑞基の元気な姿見れば、隆一朗も少しは安心するだろ。」
魁威との通話を切った瑞基はまた、参考書片手に勉強を始めた。
隆一朗が帰って来ると魁威はマンガを読んでいた。
隆一朗は着替えるとウィスキーをボトルごと煽った。
「隆一朗、最近飲み過ぎだって。」
「そお?」
「明らかに飲む量増えてるよ。
今だって誰かと飲んできたんだろ?」
「ボクのエネルギー源。」
隆一朗はボトルを揺らして笑って見せた。
「飯、ちゃんと食べたか?」
「最近魁威、ボクの保護者みたいだよ。」
「俺は昔から隆一朗の保護者みたいなもんだろ?
だから俺は隆一朗とシェアしたんだから。」
「そうだね。」
隆一朗は八畳ほどのリヴィングの床にボトルを置いて、胡座をかいて座るとギターを弾き始めた。
四百人ほど入るハコはほぼ満員だった。
ステージに魁威、麗畏、隆一朗、樹良の順に上がった。
隆一朗がピックを弦にこすり付け激しいストロークを入れると共に演奏が始まった。
オーディエンス達は色とりどりの髪を揺らしヘドバンしている。
その中に一人だけ、突っ立ったまま隆一朗を見詰める者が居るのに隆一朗は気が付いた。
瑞基だった。
隆一朗は一瞬、幻影を見ているのかと自分の眼を疑った。
だが、ステージを降りれば手の届く場所に瑞基は確かに居たのだ。
瑞基は満面の笑みで、隆一朗に手を振った。
瑞基が今できる精一杯のメッセージだった。
『オレは元気にしているよ。』
隆一朗は曲が終わると次の曲が始まる合間に人差し指と中指に挟んだピックを瑞基目掛けて放った。
瑞基はそれを上手くキャッチした。
隆一朗の胸に瑞基の指輪が銀色に輝き揺れていた。
その日、隆一朗は心からライヴを楽しんだ。
次の日の夜、魁威から瑞基に電話があった。
「有り難うな、瑞基。」
「うん、チケットほんとサンキュー。
オレも隆一朗に逢えて嬉しかった。」
「あの莫迦、ライヴで暴れ過ぎてあの後病院送りになったんだ。」
「え、大丈夫だったの?」
「いつものことだよ。
よほど嬉しかったんだろうね、あんなにライヴ楽しんでる隆一朗、久々に見た。
今日はまともに食事して、今飲みに行ってるよ。
なんで、あんなに意地張ってるんだか。」
「それ聞いて安心したよ。」
「どうした、瑞基?」
瑞基は泣いていた。
「うん、もっと隆一朗に逢いたくなって。」
「済まない、辛くさせたか。」
「大丈夫。」
「手の掛かる奴だよな。」
「ほんとにね。」
「あ、帰って来たみたいだ、またな。」
通話が切れると瑞基は参考書の上に伏した。
「隆一朗に逢いたい。……………………。」
瑞基は眺めながらピックを指で弄んだ。
瑞基は奮起するように溜め息をつくとまた参考書片手に勉強を始めた。
ー再会ー
隆一朗が瑞基のもとを去って一年以上の月日が経っていた。
受験真っ只中だった。
教室で面談があって瑞基は担任と話していた。
「池旗、前にも訊いたけど、どうしてこんな偏差値の高い大学にしたんだ?」
「どうしても行きたくて。」
「二年の時から成績上げて来たが、どうかな、可能性は五分五分って処だな。」
「そうですか。」
瑞基は落胆の色を隠せなかった。
「滑り止めなら多分大丈夫だろう。
まあ、最後まで足掻くんだな。」
もう、形振り構っている余裕は無かった。
瑞基はバイトを辞め受験勉強に集中した。
三月も下旬になると空気が緩み春の兆しがあちこちで見られた。
行き交う人の服の色が明るくなり、民家の庭に小さな花をみかけるようになった。
隆一朗達は久し振りに四人集まって小さなバーで飲んでいた。
魁威が頻りに入り口を気にしているのが隆一朗は気になった。
「魁威、どうしたの?
誰かと待ち合わせ?」
「ああ、ちょっとここ入りくんでるから解るかなあって、心配で。
そろそろ来てもいい頃なんだけど。」
入り口から長身の、茶髪に黒いメッシュを入れ、毛先をはねさせた若い男が入って来た。
「あ、来た来た。」
魁威に安心と期待に満ちた表情が浮かんだ。
長身の男は黒いパーカーにジーンズと云うラフな格好で親指をジーンズのポケットに入れ、店内を見回していた。
魁威が手を振って呼んだ。
「こっちこっち!」
振り返った男の顔を見て隆一朗は全身が硬直するのを感じるほど驚いた。
瑞基だった。
隆一朗は無意識に立ち上がった。
「どうして、キミがここに居るの?」
「隆一朗、久し振り。」
瑞基はまるで、近所の知り合いにでも挨拶するような気軽さで手を上げた。
「どうして。」
「こっちに引っ越して来たからに決まってるでしょ。」
「引っ越しって……………………。」
「オレ、こっちの大学受験したんだ。
見事合格。」
瑞基は親指を立てた。
「はい、おめでとうは?」
隆一朗は言葉が出なかった。
「ちゃんと踏まえたよ、親も納得してるし。
礼金敷金がめちゃ高いって泣いてたけど。」
瑞基は笑った。
「何か文句ある?」
隆一朗は何かを言おうとしたが言葉が見つからなかった。
「無いよ。」
隆一朗は座り込んだ。
「ほらほら、隆一朗席開けて。」
瑞基は隆一朗の隣に陣取った。
「今日はオレのお祝いしてくれるんだよね。」
狐に摘ままれたような顔をしていた樹良と麗畏が突かれたように笑って言った。
「取り敢えず瑞基、おめでとう。」
「すげえな、瑞基の行動力。」
隆一朗は悪戯っぽく魁威を睨んだ。
「魁威のお膳立て?」
「俺は、ここに瑞基を呼んだだけだよ。」
魁威は満足そうに笑った。
瑞基は隆一朗を自分のアパートに招待した。
瑞基の部屋を見た隆一朗は驚いた。
「全部持って来たの?」
「うん、隆一朗の部屋にあった物一つ残らず持って来た。
あの大量のぬいぐるみもね。」
瑞基は笑った。
「家賃は隆一朗と折半するってことで両親には納得して貰ってるから。」
隆一朗は額に手を当て、首を振った。
「全く、キミって人は…………………。」
隆一朗は改めて瑞基の強引さに呆れた。
入り口に本棚が在った。
その向かいは壁になっていて壁の向こう側がキッチンになっていた。
食卓があって、その先にソファーが置かれていた。
奥の、窓の傍にグランドピアノが狭い部屋に不釣り合いに置かれていた。
「ほら、聖流さんのピアノ。
オレは何も切り捨てるなんてできないから。」
隆一朗は近寄るとピアノに触れた。
「有り難う、瑞基。」
瑞基はピアノを撫でる隆一朗を後ろから抱き締めた。
「ねえ、キスしていい?」
「どうして訊くの?」
「だってずっと離れてたから、なんだか隆一朗は前の隆一朗じゃない感じがして。」
「ボクは何も変わって無いよ、むしろ変わったのはキミじゃない?
あんなに勉強、苦手だったのに。」
「うん、オレ死ぬほど勉強した。
隆一朗をこの手の中に取り戻す為に必死で頑張ったよ。
隆一朗を納得させるには、こうするしか方法が無いって思ったから。」
隆一朗は瑞基の項に手を伸ばして瑞基に口付けた。
「何も変わって無いよ、キミを愛してることも、必要としていることも。」
隆一朗は向き直ると瑞基の首に腕を回して口付けた。
「また、身長伸びたんじゃない?」
「うん、とうとう隆一朗の身長越しちゃったね。
でも、もう止まったんじゃないかなあ。
食べる量、減って来たもん。」
瑞基は眼を閉じ口付けると隆一朗の背中に手を這わせた。
二人の呼吸が乱れ、瑞基は隆一朗のシャツのボタンを外して胸に口付けた。
ピアノの上に隆一朗の腕を押さえつけてシャツから露になった隆一朗の白い肌に、まるで花びらにでも接吻するように口唇を這わせた。
隆一朗の呼吸は荒く乱れ、声が漏れた。
隆一朗と瑞基は離れていた時を取り戻すように何度も求め合った。
二人は隆一朗の部屋と称された部屋のセミダブルのベッドで、隆一朗は仰向けに寝る瑞基の腕を枕に、頭を寄せ合って話していた。
「受験はオレにとって賭けだったよ。
こっちの大学に受かれば隆一朗とまた一緒に暮らせる。
で、滑り止めに受けた大学に通うことになっても取り敢えずは逢いに行く事はできるようになるだろうけど、オレはどうしても隆一朗と一緒に暮らせるようになりたかった。
だから、合格した時の達成感が半端なかったよ。
オレ、隆一朗に逢わなかったらどんななってただろうな。
きっと、つまんない男になってたんだろうな。
だから、隆一朗には感謝してる。」
「なに?
改まって。」
「だって、たった三年で、自分でもすげえ変わったって思うもん。」
「見た目もね。
出会った頃は凄くチビだった。」
「二十センチ伸びたよ。
って言うけど、隆一朗一七八センチあんじゃん。
オレ、あの頃一六二、三センチくらいしかなかったし。」
「あの頃ボクは、罪の意識だけで生きてた。
キミがそこから救い出してくれた。」
「オレ何もしてないよ。
ただ傍に居たいって、それに従ってただけたもん。」
「ボクも何もしてない。
ただ、悪戯に泣かせてばかりだった。」
「そう云う言い方すると、オレが凄い泣き虫みたいじゃん。」
「違うの?」
「違うよ、でも隆一朗が絡むと、どうしようもないことに泣くことしかできなかっただけだよ。」
「じゃあ、そう云うことにしておくよ。」
隆一朗は笑った。
「ねえ隆一朗、家を飛び出す前に夢とか無かったの?」
「んんー、孤児院開きたかった。」
「孤児院?
どうしてまた孤児院?」
「何故かな、愛に飢えてる子達に愛してるって言いたかった。」
「ふーん、いつか実現できるといいね。」
「どうかな、ああ云うことって難しいんじゃないかな。」
「でも、夢って大事じゃない?
孤児院開くことできたら、オレ子供達にバスケ教える。」
「じゃあ、ボクはピアノとギターを教えるよ。」
「オレの夢はずっと変わらない。
いつまでも隆一朗の傍に居ること。
その為なら、オレはなんでもする。」
「出会った時から、瑞基はずっとそうだった。」
「うん、それがオレの信念でもあるから。」
瑞基は上半身を隆一朗に向けた。
「隆一朗がまたオレのもとから居なくなってもオレ、奈落の底まででも隆一朗を追い駆ける。」
瑞基は隆一朗に口付け、隆一朗の身体に触れた。
「もうワンラウンド、いくつもり?」
「一年以上も隆一朗不足で、オレ死にそうだったんだよ。
まだまだ足りない。」
ー絵画ー
隆一朗が瑞基のアパートで共に暮らすようになって数日経った頃、隆一朗に大きな荷物が届いた。
差出人の名前を見て隆一朗は驚愕した。
差出人は藤岡沙夜子。
隆一朗は荷物を開けないでいた。
それに気付いた瑞基が荷物を見て言った。
「誰だろうね、嫌がらせみたいだ。
死んだ人の名前使うなんて。」
隆一朗には送り人に心当たりが在った。
『おそらく、彼だ。
もう一人の藤岡聖詞。』
瑞基は荷物を開いた。
茶色の包みを破り捨てると、中から額縁に入った油絵が姿を現した。
「これ、聖流さんとあの美少年じゃ………………。」
炎に包まれた中に、背を向けた全裸の金髪の少年と長髪の男が向かい合って立っていた。
隆一朗は軽い眩暈を感じて額を押さえた。
「隆一朗。」
瑞基が隆一朗の身体を支えた。
「大丈夫。」
「誰が描いたんだろう?」
差出人の住所は都内だった。
『でたらめだろうか、それとも………………。』
隆一朗は取り敢えずその絵を自分の部屋の壁に立て掛けた。
ベッドに腰掛け指を組んだ手を口元にあてたまま、絵を見詰めた。
『こんなものを送りつけて彼は何をしようとしている。』
ーニコルー
上京して二年の月日が流れた。
その頃にはバートリーの知名度も定着し、大きなホールをソールドアウトし、インディーズチャートを賑わすようになっていた。
それは近くのバーで久し振りに麗畏と飲んでいる時だった。
一組の男女が店に入って来た。
二人は暫くカウンターで雑談交わしながら飲んでいたが、男の方が時計を見て二言三言交わすと店を出て行った。
麗畏が隆一朗に近付いて声を潜めて言った。
「ねえ、あの人ってニコルじゃないかなあ。」
「ニコル?」
「隆一朗、知らないの?
インディーズ界のカリスマ。」
「ふーん。」
会話が聞こえたのか女は振り返り隆一朗達を見た。
長いブロンドとスラリとした肢体、妖艶なラピスラズリのような藍の瞳をしていた。
濃いワインレッドのカットソーに黒のパンツと云うラフな格好の彼女は隆一朗に眼を止め飲んでいたグラスを手に隆一朗達に近付いて来た。
「ご一緒して構わない?」
低いハスキーな声が魅力的な女性だった。
「どうぞ。」
隆一朗は空いた席に手を差して言った。
ニコルは隆一朗の前に座った。
それは麗畏の隣だったので麗畏は至極緊張した様子だった。
「バンド関係の方?」
「ええ。」
「私もそうなの。」
ニコルはフランス人と日本人のハーフで独特な音楽スタイルで、かつてベルベットアンダーグラウンドに、アンディー・ウォホールの紹介で一時期参加していたニコの再来と言われる女性ヴォーカリストだった。
『確かに独特の雰囲気を持った女性だな。』
隆一朗はそう思いながらタバコに火を点けようとしてニコルに訊いた。
「構いませんか?」
「どうぞ。」
ニコルは微笑んだ。
三人は暫く聴いている音楽などの話をして過ごした。
ニコルが突然言った。
「隆一朗のお部屋が見てみたい。」
隆一朗は突然の申し出に軽く驚いたが吸っていたタバコを揉み消ししながら言った。
「構いませんが、何の変哲も無い狭いアパートですよ。」
「いいの。」
ニコルは微笑んだ。
麗畏とはバーの前で別れ、隆一朗とニコルは並んで歩き始めた。
「随分、色んなジャンルを聴くのね。」
「ある女性の影響です。」
「家は近くなの?」
「ええ。」
部屋のドアを開けると、いつものように瑞基が飛んできた。
「お帰り、隆一朗。」
「バイトは終わったの?」
「うん。」
隆一朗の陰のニコルに気付くと瑞基は少し戸惑って会釈した。
「どうぞ。」
隆一朗はニコルに入るように促した。
ニコルは部屋に入ると興味深そうに室内を見回した。
自分の部屋から財布を持って出てきた瑞基が言った。
「オレ、ちょっと出掛けて来る。」
「瑞基、夕食は?」
隆一朗が声を掛けた。
「食べた。」
「あまり遅くならない様にね。」
「解ったあ。」
瑞基が出て行くとニコルは隆一朗を振り返り言った。
「本当に飾り気の無い人。」
「ボクに何を期待してたんですか?」
「勿論、セックスよ。」
「それは、あなたも気付いていたでしょう。」
「そう、まるで私に興味を示して無かった。
だから、興味を持った。
あなたのような人好きよ。
私を愛してみない?」
「残念ですがボクにはとても愛し合っている恋人がいるから。」
「さっきの彼?」
「ええ。」
「随分はっきりしてる。
隠そうともしない。」
ニコルは食卓の椅子に腰掛けた。
「彼はボクの総てだから。」
「同性愛の友人は沢山いるけどあなた達は彼らと雰囲気が違う。」
ニコルは暫く隆一朗を見詰めると言った。
「いいわ。
あなたとはいい友達になれそう。
今度、機会が在ったら一緒に仕事してみたい。」
「それは歓迎します。」
「残念、私はかなり本気で落とすつもりでいたけど。
こんなふられ方したの初めて。」
「ごめんなさい。」
ニコルは笑った。
「おかしな人。」
後にニコルと隆一朗の友情は再会するごとに深まり、ニコルは自分のアルバムに隆一朗を起用し、隆一朗の作曲とギターの才能を広く知らしめることになる。
ニコルがタクシーを拾って帰って行くのを見送った後、隆一朗は瑞基を迎えに行った。
思った通り瑞基は近くの公園のブランコに座りタバコを吸っていた。
「瑞基、隠れて喫煙してたんだ。」
「げっ、見つかった。」
「身体に悪いよ。」
「そう云う自分だって十六の頃から吸ってたって魁威さんから聞いたよ。」
「魁威はボクの悪行を瑞基に話し過ぎるね。」
「さっきの女性は?」
「帰ったよ。」
隆一朗は瑞基の隣のブランコに腰掛けた。
「こんな気を使うこと無いのに。」
「だって、あんなキレイな人だったから。
それに初めてじゃない、隆一朗が女性を家に連れて来るなんて。」
「確かに魅力的な人だけど。
もしかして何か誤解した?」
「うん。」
「キミが居るのに、わざわざ浮気相手を連れて来るような酷い男なんだ、ボクは。」
「そんな風に思った訳じゃないよ。」
「だいたいボク不能だよ。
それはキミが一番よく知ってることだろ。」
「あ。」
「女性が絡むと随分弱気にかるんだね。」
「だって、女の人には敵わない気がして。」
「関係無いよ。
さあ、帰ろ。」
隆一朗は立ち上がった。
瑞基もそれに従った。
「どうして、ここだって解ったの?」
「この公園、似てるよね。」
隆一朗は胸の指輪を摘まみあげ微笑んだ。
「覚えててくれたんだ。」
「瑞基との思い出は何一つ忘れたりしないよ。」
瑞基は嬉しそうに笑った。
「帰ったら、隠れて喫煙してたお仕置きだね。」
「ええーーーっ!」
ー媚態ー
瑞基はアパートから割りと近くにあるレンタルヴィデオ店でアルバイトを始めて二年になる。
季節は巡り上京した瑞基に二度目の春が訪れていた。
返却されたDVDを棚に戻していると不意に声を掛けられ、瑞基は振り返った。
少し大人っぽくなった森詩織が立っていた。
「森さん!」
「瑞基君、こんばんは。」
森詩織は満面の笑みで瑞基を見詰めた。
「どうして?
旅行何か?」
「ワタシ、短大を出た後、ここの近くにある小さな建築会社の事務に勤めたの。」
「そうなんだ。
嬉しいよ、こんな処で森さんに逢えるなんて。
少し待ってくれる?」
瑞基は腕時計を見て言った。
「後、二十分くらいで上がれるから。」
「じゃあ、何か映画でも借りようかな。」
瑞基が仕事から上がる頃、森詩織はDVDを借りていた。
二人は何処へ行くともなく、ふらぶらと歩いて近況を話していたが森詩織が言った。
「この近くのアパートに住んでるの。
お茶でもいかが?」
「いいの?」
「歓迎します。」
森詩織は以前と変わらない笑顔を瑞基に向けた。
アパートは瑞基のアパートとそれほど距離の無い場所にあった。
小さな一間の部屋は女の子らしい清潔感と可愛らしさで溢れていた。
森詩織は小さなテーブルの横に可愛らしいキャラクターの付いた座布団を置いて瑞基に勧めた。
「可愛い部屋、オレと隆一朗の部屋とは大違いだね。」
瑞基は部屋を見回して言った。
「瑞基君、コーヒーでいいのかな、インスタントだけど。」
「お構い無く。」
「じゃ、コーヒーね。」
森詩織はコーヒーを瑞基の前に置くとベッドが邪魔なので瑞基と直角の位置に座った。
「ねえ、さっき何借りたの?」
瑞基が訊いた。
「エドワード・シザーハンズ。」
「ジョニーデップの出世作だね。
随分古い映画だね。」
「大好きなの。
童話みたいで。」
「うん、童話みたいだよね。」
瑞基はコーヒーを啜った。
「高校の時、森さんには随分たすけられたよね。
あの時は有り難う。」
森詩織は幸せそうに言った。
「夢みたいだった。
瑞基君の彼女でいられて。
美祐ちゃん達には、そんな都合のいい女でどうするの、ってよく怒られたけど。」
森詩織は笑った。
「都合のいい………………。
そうだよね、オレ自分のことで手一杯で森さんのこと、ないがしろにしてたと思うよ。」
瑞基は俯いた。
「いいの、ワタシが自分で決めたことだから。」
「そうは行かないよ、オレも少しは反省しなきゃ。」
「本当はね、瑞基君の後を追って来たんだよ。」
「え?」
「少しでも瑞基君の近くに居たくて、瑞基君の近くにアパート見つけたの。
アルバイトの場所も前から知ってたけど、やっと今日声を掛けることできた。」
森詩織は哀しげに笑った。
「森さん………………。」
森詩織の哀しい笑顔が瑞基の胸を突き刺した。
「ごめんね、森さんの気持ちに応えられなくて。」
「瑞基君は自分に正直なだけだよ。
でもね………………………。」
森詩織は少し迷ってから言った。
「今だけ、ワタシのわがままきいて。
今だけ、ワタシの恋人でいて。」
「え?」
瑞基は言葉の意味が解らなかった。
「ワタシ、ずっと決めてたの。
初めての人は瑞基君て…………。」
森詩織は必死な面持ちで、半ば訴える様に言った。
瑞基は驚き戸惑った。
「オレ、そんなこと……………………
できないよ…………………。」
「瑞基君らしい……………………。
だから好きなのにね。
でも、今はその瑞基君らしいのが憎らしい。」
森詩織は眼を伏せた。
瑞基は言葉を失くしていた。
居心地の悪い空気が流れた。
瑞基は徐に口を開いた。
「森さん、もっと自分大事にしてあげなよ。
これから、いくらだってオレよかいい男に巡り逢うよ。
今そんなことしたら、その時にきっと後悔するよ。」
「最もらしいこと言わないで。
そんなことができるなら、もうとっくにしてる。
どんなに辛くても、どんなに寂しくても諦められなくて、どうしても瑞基君を想ってしまう。
瑞基君が隆一朗さんを求めてしまうみたいに。」
そう言って瑞基を見詰める森詩織の眼は、涙が溢れ、かつて見たことも無いほど哀しく、瑞基の胸を抉った。
隆一朗を求めて止まない気持ちなら痛いほど理解できた。
瑞基は思わず森詩織を抱き締めた。
「ごめん、ごめんね。
オレ、森さんに甘えてた。」
瑞基の腕の中で森詩織は身を固くして、震える小さな声で言った。
「お願い、願いを叶えて。
今だけ、ワタシだけの瑞基君でいて。」
森詩織は濡れた瞳で瑞基を見上げた。
森詩織の精一杯の媚態だった。
『オレもこんなに哀しい眼で隆一朗をみてたんだろうか。』
瑞基は自分が森詩織をこんな哀しい顔をする女性にしてしまったのだと思うといたたまれなかった。
瑞基の中で高校の頃の森詩織が傍らで笑っていた。
その陰でどれほど多くの涙を流して来たのかと、そう思うだけで、これ以上拒絶することができなかった。
瑞基は優しく森詩織の口唇に口唇を押し当てた。
森詩織はぎこちない手つきで瑞基の背中に腕を回した。
瑞基はゆっくりと森詩織の身体を押し倒して、浅いキスを繰り返した。
「怖くない?」
「瑞基君だから怖く無い。」
瑞基は流れる森詩織の涙を指で拭うと濡れた頬に愛撫した。
その頃隆一朗は食卓の椅子に座り、スマホを前に指を組んだまま、帰りの遅い瑞基の連絡を待っていた。
瑞基が連絡も無くこんなにも遅くなることなど、今まで一度も無かった。
隆一朗は空が白むまで待ち続けた。
ー険悪ー
隆一朗は焦っていた。
時間は既に、その日のライヴのリハーサルが始まっていたからだ。
それでも瑞基からは何の連絡も無く、一向に帰ってくる気配が無かった。
『彼がまた瑞基に何かを仕掛けて来たのだろうか。』
だが、瑞基は昼を過ぎた頃にひょっこり帰って来た。
隆一朗は安堵して出掛けようとした。
「夕べ、どうしたのか訊かないの?」
「今夜、ゆっくり聞くよ。」
「森さんとセックスしてたんだ。」
隆一朗のドアを開けようとした手が止まった。
隆一朗は何も言わず出て行こうとした。
「どうして、何も言わないんだよ。」
「それはキミの判断でしたことだよ、ボクがとやかく言うことじゃない。」
隆一朗は瑞基を見ずに言った。
そして部屋を出て行った。
「どうしたんだろうね、隆一朗。
いつもと全然気迫が違うから、なんだか怖かったよ。」
ライヴが終わってバックステージに降りて来た魁威に麗畏が振った。
「あれは、瑞基と何かあったんじゃないか?
何かをぶつけてる感じだった。」
帰りの車の中でも隆一朗は黙々と運転し、メンバー達の雑談にも一切加わらなかった。
隆一朗が帰ると瑞基は帰っていたが自分の部屋から出ては来なかった。
隆一朗はキッチンからグラスに氷を入れ、ウィスキーを取ると自分の部屋に入って行った。
暫くしてドアがノックされた。
「どうぞ。」
瑞基が遠慮がちにドアを開け覗き込んだ。
「なに遠慮してるの?」
「怒ってない?」
「何に怒るの?」
「森さんとエッチしちゃったこと。」
「キミはこれから、どうするつもりでいるの?」
「これからどうするって………………………。」
「まさか、このままボクと暮らし続けるつもりじゃないよね。」
「どう云う意味?」
「キミがボクと離れて辛かった時、傍で支えてくれたのは森さんだったよね。
キミが森さんを受け入れたのなら、森さんに誠実であるべきだろ?
森さんの気持ち考えたらボクはもう、キミとは居られない。」
「どうして!
やっと隆一朗と落ち着いて暮らせるようになったのに。」
「キミは何がしたいの。
とにかくボクは出て行くよ。」
隆一朗は次の日の朝出て行った。
ー桐生ー
ある日、取り敢えずホテル暮らしをする隆一朗のスマホに一本の非通知の着信があった。
隆一朗が出ると神経質そうな若い男の声で、送った油絵の事で話がしたいと言って来た。
「キミは誰?」
「あなたは知っているでしょう。」
その答えは明らかに実態を得たもう一人の藤岡聖詞と逢っていたことを意味していた。
「何処に行けばキミに逢えるの?」
「それもあなたは知っている筈です。」
「差出人の住所に訪ねればキミに逢えるの?」
「おかしな人だなあ、自分で言い出したことなのに。」
「何時に行けば逢えるの?」
「それも知っているのに………………。
金曜の夜はいつも家で絵を描いてます。」
次の日は丁度金曜日だった。
夜のスケジュールは空いている筈だった。
「明日の七時頃、逢いに行くけど構わない?」
「構いません。」
「じゃ、明日の七時に。」
『彼はボクに、何をさせたいんだろう。』
次の日の夜、雑誌のインタビューを終わらせるた隆一朗は適当なカフェで軽い夕食を済ませて時間を潰し、タクシーを拾い書き留めてあった住所に向かった。
降ろされた場所は古ぼけたアパートが在った。
部屋番号を確かめると表札を見た。
表札にはローマ字で桐生と書いてあった。
隆一朗は呼び鈴を鳴らした。
ドアが開くと濃いテレピン油の匂いが鼻を突いた。
中から、痩せ細った神経質そうな二十二、三くらいの男が出てきた。
「お待ちしてました。」
男は中に入るようにドアのノブに手を掛けたまま身体を横にして隆一朗を通した。
部屋に入ると家具らしい家具も無くそこいらじゅうに絵の描かれたカンバスが置かれ、隅には布団が畳んで置いてあった。
どうやら桐生は画家のようだ。
部屋の中央にはイーゼルに描きかけの絵とその傍らには絵の具やらを載せた小さなテーブルが置いてあった。
その傍に二脚の椅子があって、片方を桐生は隆一朗に勧めた。
隆一朗はそれに従った。
「話したくなったら、電話で送った絵の話がしたいと言えば逢いに行きって言ったのはあなたですよ。」
「どうして、今頃話す気になったの?」
桐生は隆一朗を感慨深げに大きな三白眼で見詰めた。
「不思議な人ですね。
以前逢った時は近寄り難い、とても冷たい眼をしていたのに、今日のあなたはとても暖かい眼をして表情が豊かだ。」
画家らしい洞察力だった。
「それに相変わらず美しい。」
「それでキミはどうして、あの絵を描いたの?」
「まあ、ゆっくりお茶でも飲みながら話しましょう。」
桐生は狭い台所でお湯を沸かし始めた。
「キミは聖流と央を知っているの?」
「知ってますよ。
央とは一時期暮らしてたこともあった。
勿論、恋人として。」
「央って子はどう云う子だったの?」
「お金持ちだけど不満だらけの子だった。
親も自分も嫌いだった。」
桐生はインスタントコーヒーを淹れて隆一朗に渡した。
隆一朗は礼を言うと、話の続きを求めて桐生を見詰めた。
「何もかも持っていたけど、何も持っていない、それが央だった。
物質的には恵まれていたけど彼はそれが欲しかった訳じゃなく、彼が求めていたのは、もっと精神的なものでした。
それは、誰も彼に与えられなかった、聖流さんが現れるまでは。
聖流さんは央に興味を持っていたみたいだけど、それで央に媚びるような態度を一切取らなかった。
それが央を聖流さんへと惹き付けて行った。
お蔭で僕は央に捨てられましたけどね。」
桐生は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「央はその日、W市の別荘へ聖流さんと行くから僕に同行しろと言って来た。
何故そうしたのか今となっては訊くべき人が死んでしまっているので、知る術はあるませんが。
央は自分に時間が無いことを知っていた。
彼、白血病だったんです。」
「白血病?」
隆一朗は聖流が死ぬ何日か前に白血病で死んだ同級生の話をしていたことを思い出していた。
「央はその日、何処から手に入れたのか強い睡眠薬を聖流さんの飲んでいたお酒に混ぜて飲ませた。
央は眠る聖流さんをずっと飽きもせず見詰めてた。
何時間も。
それから家中にガソリンを撒いて僕に出て行くように言った。
でも僕は窓から、央がこれから何をしようとしているのか見届けようと思ってた。
聖流さんが眼を覚ますと、央はガソリンに火を点けた。
そして何か話してたみたいだけど僕の処からは何も聞こえなかった。
央はナイフを持って聖流さんに突進して行った。
聖流さんは、それを避けることもできたのに、そうしなかった。
聖流さんはさされたまま央を抱き締めた。
央に激しく口付けた。
そして、燃え盛る炎の中で聖流さんの血に塗れながら二人は愛し合い始めた。」
隆一朗はそこまで聞くと意識が遠くなるのを感じた。
コーヒーカップが床に堕ちて濃い茶色の液体を撒いた。
隆一朗は気を失い椅子から崩れ落ちた。
どれくらい時が経ったのか、隆一朗は腕にチクリと刺さる痛みで眼を覚ました。
眼を開けると桐生が隆一朗の腕に注射器で何かを打っていた。
「何を打ったの?」
桐生は笑って言った。
「ビタミン剤ですよ。」
次第に隆一朗は心地好い爽快感に包まれた。
それは恐れるものも、不可能なことも無い、解放感に満ちていた。
隆一朗のスマホが鳴った。
隆一朗は起き上がって電話に出た。
「そんな処で麻薬に酔いしれてていいの?
ボクは気付いたんだ。
瑞基が死ねばキミを最高の絶望に陥れることができる。」
隆一朗は部屋を飛び出した。
大きな通りに出るとタクシーを拾いアパートに急いだ。
その頃、バイトを終えて帰った瑞基は自分の部屋でベッドに転がり長いこと、隆一朗の言葉を考えていた。
不意に部屋のドアがゆっくりと開いた。
瑞基は起き上がってそちらを、期待を込めて見詰めた。
隆一朗が姿を現した。
瑞基は笑顔で隆一朗を見詰めた。
「帰って来てくれたんだ。」
隆一朗は冷たく瑞基を見詰めた。
「やっぱりまだ怒ってるよね。
軽率だったって自分でも思うよ。
隆一朗の言う通りだ。
でも、オレどうしたらいいんだろう?
オレ、どうしても隆一朗と離れたくないよ。
でも、森さんにも誠実でいたい。」
「簡単だよ。」
隆一朗は瑞基に近付きながら言った。
「キミが死ねば、総て丸く収まる。」
隆一朗は瑞基に飛び付くと瑞基の首を絞めた。
「どう…………して……………………?」
瑞基は必死に隆一朗の手を振りほどこうと、隆一朗の手首を掴んだ。
ぬるっとした感触がした。
血の匂いがした。
呼吸ができなかった。
苦しくて気を抜くと意識が飛びそうになる。
玄関から鍵をあける音がした。
「瑞基!!」
隆一朗の叫ぶ声がした。
瑞基の首を絞める隆一朗はシニカルな笑みを残し粒子の霧になって消えた。
隆一朗が飛び込んで来た。
瑞基はぐったりとベッドに倒れていた。
隆一朗は瑞基を抱き起こすと瑞基の頬を軽く叩いて、身体を揺すった。
「瑞基、瑞基!」
瑞基は激しく咳き込んだ。
隆一朗はその場にへたり込んだ。
瑞基は呼吸が落ち着くと隆一朗を怯えるような眼で見た。
「そんなに……………オレが許せ………………なかった…………………………?」
隆一朗は横たわる瑞基の胸に頭を垂れた。
「瑞基…………ごめん……………………ごめ………………。」
「隆一朗………………………。」
瑞基は隆一朗の肩に手を置いた。
隆一朗はその手を握り締めると額にあてた。
「どうしたの?
なんの冗談?」
不思議そうに自分を見詰める瑞基を見て隆一朗は次第に冷静さを取り戻した。
「そうだね。
冗談が過ぎたね。」
「冗談なの?
オレ、マジで殺されるかって思った。」
瑞基は半ば怒るように言った。
「隆一朗、手首!」
瑞基は、起き上がると隆一朗の腕を掴んで手首を見た。
隆一朗の手首には傷を隠すブレスレットが白い光沢を放っていた。
「あれ?
さっき怪我してたよね?
オレ、血に触ったよ。」
瑞基は自分の手のひらを見た。
血など何処にも無かった。
「へんなの。」
隆一朗は、自分の手を不思議そうに見る瑞基を抱き締めた。
「どうしたの?
今日の隆一朗、ホント変だよ。」
「うん、自分でも変だと思うよ。」
ー新車ー
「瑞基、来て!
見せたい物があるんだ。」
隆一朗は玄関から瑞基を呼んだ。
「何、何?」
瑞基は玄関に立っている隆一朗に駆け寄った。
隆一朗は瑞基の手を引いて玄関を出るとエレベーターに乗った。
地下の駐車場に降りると白いセダンの前で立ち止まった。
「この車がどうかしたの?」
「買ったんだ。」
「隆一朗が?」
「うん。」
「金欲、物欲に全く無縁な隆一朗が?」
瑞基は、完全に隆一朗をからかっていた。
「人を仙人みたいに言わないでよ。」
隆一朗はムッとした。
瑞基は車の周りを一回りして言った。
「しかし、随分思い切ったね。
これ、新車でしょ?
もしかして、キャッシュで?」
「そう。
これで、瑞基の送り迎えしようと思って。」
「どっか、遠出するとかじゃなくて、送り迎えなんだ。」
「うん。
何処かへ行きたいなら連れて行くけど。」
「遠慮しとく。
オレ、まだ命惜しいもん。」
「なに、それ。」
「人気の無い道路に出た途端、メーター振り切るまでスピード出されたら、命幾つあっても足りないもん。」
「言われてみれば、ボクスピード狂だったね。」
「ほんと天然だよね、隆一朗は。」
瑞基は笑った。
隆一朗は、その日から時間が合う時に瑞基の送り迎えをするようになった。
ー禁断症状ー
梅雨の季節だった。
隆一朗はニコルとバーのカウンターで飲んでいた。
「私、しばらくフランスに帰ろうって思うんだ。」
突然、ニコルが言った。
「フランスに?」
「ホームシック。
丁度、契約も切れるし。」
ニコルは笑った。
「そうなんだ。
残念だな、寂しくなる。」
「隆一朗も来ない?
瑞基連れて。」
「それはちょっと、今の状態だと無理かな。」
「その内来て、歓迎するから。」
「有り難う。」
「そう言えば、隆一朗ってどうして音楽するようになったの?」
「んー、気が付いてたらしてた。
多分、父のDNAだと思う。
父はクラシックが好きだから。」
「わお、素敵。
うちの父は大の演歌好き。
どうして、フランス人のママンと結婚して私みたいな音楽する娘が生まれたか謎よ。」
隆一朗は笑った。
「風変わりな音楽よね。」
「ニコの再来って、呼ばれるの気に入ってないの?」
「いいえ、光栄だと思ってる。
でも、彼女を越える音楽がしたい。」
「キミならできるよ。」
「有り難う。
隆一朗、以前色んなジャンル聴くのねって訊いたら、ある女性の影響って言ってたね、誰?」
隆一朗は少し間を置いて答えた。
「父の三人目の妻、そしてボクの恋人だった人だよ。
そう思ってたのはボクだけだったけど。」
「複雑そうね。
ごめんなさい、いけないこと訊いた。」
「大丈夫、今のボクには瑞基が居てくれるから。」
「あら、また惚気?」
「ボク、そんなにニコルに惚気てる?」
隆一朗は頬杖をついてニコルを見た。
「妬けるくらいには。」
ニコルは悪戯っぽい笑みを向けた。
隆一朗は笑った。
急に隆一朗の笑顔が曇った。
「ごめん、急用を思い出した。」
「大丈夫?
顔色悪いよ。」
「フランスへはいつ?」
「来月。」
「見送りに行けるといいな。」
隆一朗はストゥールから降りて握手を求めた。
その手が微かに震えていた。
ニコルもストゥールから降り、深い藍の瞳で隆一朗を見詰めた。
「隆一朗、困ったことがあったら私が付いてる。」
ニコルは隆一朗の手を力強く握り、バグした。
「有り難う。」
隆一朗は急いでバーを出た。
雨の中を、メインストリートまで出るとタクシーを拾った。
玄関のドアを開いた桐生は隆一朗を見て、満面の笑顔になった。
「あなたに薬を打って良かった。
薬が切れる度にこうして逢いに来てくれる。」
ー瑞基の苦悩ー
魁威から久し振りに電話がかかってきた。
「瑞基、そっちで何かあったのか?」
瑞基はその問いに心辺りがあった。
「もしかして、隆一朗のこと?」
「最近、やたら苛ついてるんだ。」
「うん、凄く怒りっぽい時がある。」
「そうかあ、瑞基の前でもそうなんだ。
最近、激痩せしたよな。
食欲無いのか?」
「うん、夜も眠らないんだ。」
「もしかしたら、麻薬に手を出したかも知れない。
メジャーミュージシャンの知り合いにやっぱり薬に手を出した人がいて、今の隆一朗と同じ症状だったんだ。
その人は警察に捕まったけど。」
瑞基は頭を鈍器で殴られたような気がした。
「麻薬……………?
隆一朗はそんな弱い人間じゃないよ。」
「俺もそう思いたい。
でも、今の隆一朗が尋常じゃ無いのは事実だ。」
瑞基は暫く考えてから言った。
「解ったよ。
注意して見てみる。」
「何か解ったら、知らせて。」
「解ったよ。」
魁威からの通話を切り、隆一朗が帰って来ると同時に瑞基のスマホが鳴った。
瑞基がでると森詩織だった。
「どうしたの?」
瑞基の部屋の入り口に凭れて、こっちを見ている隆一朗に眼をやった。
「瑞基君、どうしよう。
来ないの。」
「来ないって?」
「もしかしたら、できちゃったかも。」
「え?」
「妊娠してしまったかも知れない。」
「妊娠?」
隆一朗と瑞基は顔を見合わせた。
瑞基は驚きの余り言葉が出なかった。
「瑞基君?」
「ごめん、びっくりしちゃって。」
「明日、病院に行って確かめて来る。」
「オレも行く、何時に行ったらいいかな?」
「九時頃に……………。」
「解った、明日九時に迎えに行くよ。」
「じゃ、待ってます。」
「明日。」
瑞基は放心状態で突っ立ったまま動けずにいた。
「森さん?」
隆一朗が訊いた。
瑞基は振り返った。
「うん。」
「妊娠て?」
「まだ、解らないけど、明日病院へ行くことになってる。」
「そう……………。」
隆一朗は自分の部屋に入って行った。
瑞基がノックした。
「どうぞ。」
瑞基が部屋に入って来るとベッドに座る隆一朗は瑞基に手を伸ばした。
瑞基は隆一朗の隣に座った。
エミール・ガレを模作したようなスタンドの明かりだけの、薄暗い部屋の中で抱き合いながら口唇を重ね、ベッドに倒れ込んだ。
深い口付けを繰り返し瑞基は隆一朗の身体を撫でながら身体を重ねた。
ここは搭の中だった。
誰にも見つからないように息を潜め愛し合う隆一朗と瑞基の禁断の背徳を隠す隠れ家。
瑞基は乱れた呼吸にかぶりを振り、仰け反り掠れた声をあげた。
やがて隆一朗の口の中で瑞基は果てた。
二人はベッドの中で抱き合って、温もりと肌の触れあう感触を楽しんだ。
「瑞基にお願いがあるんだ。」
「え、なに?」
「ボクを縛って欲しいんだ。」
「え、隆一朗そう云う趣味あったんだ。」
隆一朗は思い切り冷めた眼で瑞基を見詰めた。
「はいはい、違うのね。」
「薬を身体から抜きたいんだ。」
瑞基は哀しい眼を隆一朗に向けた。
「間違ってて欲しいって思ってた。」
「気付いてたんだ。」
「魁威さんが教えてくれた。」
「魁威が?
彼には何もかもお見通しなんだね。」
隆一朗は笑った。
「周りの人達には凄く迷惑を掛けるけど、このままでいる訳には行かない。
周りの人達には、ボクは失踪したとでも言って。
一年はボクが何を言っても監禁して欲しい。」
「どうして、麻薬なんか………………。」
「ボクの意思では無いとだけ言っておくよ。」
その夜、静かに寝息を立てる隆一朗を抱きながら瑞基は朝まで眠ることができなかった。
次の朝、瑞基は隆一朗の身体にバスタオルを巻き付けその上からガムテープを何重にも巻き付けた。
後ろに回した手首にもタオルを巻いた上からガムテープを巻き付け、ベッドに固定した。
「本当にいいの?」
「仕方ないよ。
ボクがどうなっても決してボクを自由にしないで。
とにかく縛ったまま放っておいて。
キミは普通通りに生活していて欲しい。」
「オレにそんなことできるか自信ないよ。」
「でも、キミにしか頼めないんだ。」
隆一朗の眼は真剣だった。
瑞基は従うしか無かった。
「オレ、森さんを病院に連れて行かなきゃ。
何かしておいて欲しいこと無い?」
「特に無いよ。
森さんにも申し訳ないよ、こんな大変な時に。」
俯く隆一朗の後ろ姿を見ながら瑞基は部屋を出た。
森詩織はノースリーブの淡いピンクのワンピースを着て瑞基と歩いていた。
瑞基は一生懸命、森詩織の身体を気遣って腕を組み、手を握りあって歩調を合わせた。
瑞基は内心、途方に暮れていた。
個人で開業する小さな産婦人科で診て貰った。
三十代前半の女医は言った。
「おめでとうございます。
十二週目に入ってます。
母子手帳を発行して貰って、この次から持って来て下さい。」
森詩織が立ち止まった。
俯いて言った。
「瑞基君、堕胎してもいいよ。」
瑞基は突かれた様に森詩織を見た。
「駄目だよ、そんなの!」
瑞基は森詩織に向き直って言った。
「オレたちの大事な命だよ!」
森詩織は泣き出した。
瑞基は森詩織の身体を包むように抱き締め髪に顔をうずめた。
「ごめんね。
オレ頼り無くて。
こんなの初めてで、正直戸惑ってる。
どうしていいか、解んなくて。」
「違うの、今瑞基君オレたちの大事なって言ってくれたから嬉しくて………………。」
「え?」
「オレたちの大事な命だよって……………。」
瑞基は優しく森詩織の背中を撫でた。
「とにかく、籍だけでもいれなくちゃ。
ごめんね、今は一緒に暮らすことできないんだ、隆…………。
何でも無い、ほんとごめん、オレ精一杯森さんを支えるよ。
森さんがオレを支えてくれたみたいに。」
帰ると隆一朗はぼんやりと窓を見上げていた。
瑞基に気付くと笑顔で言った。
「お帰り、どうだった?」
「十二週目に入ってるって。」
「そう………………。
瑞基の子供が生まれるんだ。
楽しみだよ。
早く逢ってみたい。」
隆一朗は嬉しそうに言った。
「入籍しようと思ってる。」
「ごめん、ボクのせいで迷惑かける。
こんな大切な時に。」
瑞基は次の日、大学の帰り、本屋に寄って妊娠、出産の本を漁った。
解り易そうなものを何冊かセレクトして購入した。
その日はバイトが休みだったので、その足で森詩織のアパートを訪れた。
森詩織は瑞基を見ると安心しきった笑みを浮かべ瑞基を部屋に入れた。
「コーヒー淹れるね。」
「そんなに動いて大丈夫なの?」
「可笑しい、まるで重病人みたい。
動かないと出産の時に必要な体力無くなっちゃう。
明日からは仕事にも行こうって思ってる。」
「そうなんだ。
オレも勉強しようと思って、見て。」
瑞基は大量に買った本を見せた。
「こんなに買っちゃった。」
森詩織は余りの量に笑った。
「男の子かなあ、女の子かなあ。」
瑞基は森詩織のまだぺたんこなお腹をしみじみ眺めた。
「どっちでもいいよ。
元気に生まれてくれたら。」
「そうだね、でも名前どうしよう?」
「もう、瑞基君は気が早いよ。
生まれるまで、まだ七ヶ月もあるのに。」
森詩織は笑った。
「七ヶ月、と言うとうまれるのは冬かあ。」
突然、瑞基の着信が鳴った。
画面を見ると、魁威だった。
「どうしたの?」
「瑞基、隆一朗知らないか?
電話掛けても出ないし、レコーディングの打ち合わせがあるのに、あいつ姿を現さないんだ。」
「隆一朗なら、夕べから帰って無いんだ。
オレも心配してるけど、オレが掛けても出なくて。」
「あの莫迦、いったい何考えてるんだ。
解った、悪かったな。」
通話を切ると森詩織が訊いた。
「隆一朗さん、どうしたの?」
「何でも無いよ。
仕事バックレたみたい。」
瑞基は笑った。
『あの、責任感の強い人が………………?』
森詩織は腑に落ちなかった。
瑞基が帰ると、隆一朗は呼吸を乱し震えていた。
「隆一朗!」
瑞基が隆一朗に近付こうとすると隆一朗は叫んだ。
「来るな!!」
隆一朗は苦しそうに声を震わせ言った。
「見ない方がいい。
部屋を出て。」
瑞基は動くことができなかった。
「行って!」
瑞基は仕方無く部屋を出た。
隆一朗の部屋のドアの前で瑞基は膝をかかえ、一晩中そうしていた。
日を負うごとに隆一朗の苦しみ方は壮絶になって行った。
時々、叫び声が聞こえた。
瑞基は耐えきれず部屋に入った。
隆一朗の姿を見た瑞基はどうすることもできず、立ち尽くした。
血管の中を小さな虫が這い回る、言い様の無い苦痛が隆一朗を激しく苦しめていた。
幻覚と幻影が隆一朗を絶え間無く襲った。
確かに見るべきでは無かった。
底無しの哀しみが瑞基の中で破裂する。
瑞基は隆一朗に駆け寄って痙攣したように俯き身体をこわばらせる隆一朗を抱き締めた。
「隆一朗……………隆一朗………………………。」
瑞基の眼から涙が溢れた。
突然、瑞基の肩に激痛が走った。
隆一朗が瑞基の肩に噛み付いていた。
血が溢れた。
瑞基は隆一朗から飛び退いた。
口を血塗れにした隆一朗は瑞基を見て一瞬笑った。
麻薬は確かに悪魔の薬だった。
瑞基のスマホの着信が鳴った。
瑞基は立ち上がると部屋を出てドアを閉めた。
スマホの画面を見ると森詩織からだった。
瑞基は眼を閉じて深呼吸してから画面に触れた。
隆一朗に噛まれた肩が酷く痛んで、出血する肩を押さえながらスマホに耳を当てた。
「瑞基君?」
「どうしたの?」
「つわりが始まったの。
凄く辛…………………」
隆一朗の壮絶な叫びが部屋中に轟いた。
「隆一朗!」
瑞基は反射的に隆一朗の部屋の方を見た。
「ごめん、後で掛け直すよ。」
瑞基は通話を切ると隆一朗の部屋に駆け込んだ。
隆一朗は気を失っていた。
瑞基は隆一朗をタオルケットで包む様に掛け、項垂れた隆一朗を抱き締めた。
涙が溢れて止まらなかった。
チャイムが鳴った。
瑞基は涙を拭いながら玄関へ行き覗き穴を覗いた。
魁威だった。
瑞基はチェーンを掛けたままドアを開いた。
「瑞基、隆一朗はここに居るんだろ?」
魁威は静かに言った。
「魁威さん。」
瑞基はチェーンを外して魁威を入れた。
「どうした?
酷い怪我じゃないか。」
瑞基の血塗れの肩を見た魁威は言った。
瑞基は魁威を見て気が緩み、涙が零れた。
「いったい、何があったんだ?」
「隆一朗が薬を抜くからって…………………。」
それ以上言葉を続けることができなかった。
「隆一朗は?」
「部屋に。
今、気を失ってる。」
魁威は隆一朗の部屋を覗くとドアを閉めた。
瑞基は隆一朗のスマホの着信履歴を調べ始めた。
「何してる。」
「着信調べれば、薬売ってる奴が解るかも知れない。
薬さえあれば、隆一朗は苦しまなくて済むんだ。」
魁威は瑞基からスマホを取り上げた。
「莫迦言うな。
そんなことしたら確実に隆一朗の命を縮めることになる。
それに、隆一朗がそんな事して喜ぶか?」
瑞基は崩れる様に床にへたりこみ両手を額にあてた。
「あんなボロボロの隆一朗見てられないよ。」
瑞基は床に手をついて泣いた。
魁威は瑞基の背中に手をあて言った。
「とにかく、傷の手当てしよう。」
魁威は瑞基の肩に厚く折ったガーゼを当てると医療用テープで固定した。
「随分、思い切り噛んだもんだな。
医者、行った方がいい。
着替えろ、外出るぞ。」
瑞基は突かれた様に言った。
「駄目だよ、隆一朗が……………。」
「どうせ、傍に居たって何もできないんだ。
瑞基には気分転換が必要だと思うよ。」
瑞基は暫く考えたが、魁威に従うことにした。
魁威は車で瑞基をファーストフード店に連れて行った。
「とにかく、食べた方がいい。
奢ってやるから好きな物、頼みな。」
「オレ、今何も喉通らないよ。」
「そんなやわな事でどうする。
先は長いんだぞ。
長期戦に備えて食べておいた方がいい。」
瑞基は取り敢えずハンバーガーとポテトとジュースのセットを頼んだ。
待っている間、キビキビ動く店員をぼんやり眺めた。
テーブルに着くと魁威が言った。
「とにかく食べな。
元気でるから。」
明るい店内と活気に満ちた空間は、今の瑞基を癒した。
瑞基はコーラを口に付けた。
甘い炭酸がしみた。
瑞基は食べ始めた。
魁威が言った。
「俺も時間が空いたら様子見に行くから。」
染み入る言葉だった。
瑞基には余りに過酷過ぎる現実だった。
瑞基は持っていたハンバーガーをテーブルに置くと、流れる涙を指で拭った。
ー破局ー
森詩織から呼び出され瑞基は、いつか隆一朗に喫煙している処を見つかった公園に居た。
森詩織は白いブラウスに白いセミタイトのスカート姿で現れた。
「この間はごめん、オレ……………」
言い終わる前に森詩織が切り出した。
「赤ちゃん、堕胎したの。」
瑞基は驚いて言った。
「どうして、そんな勝手なこと!」
森詩織は厳しい顔で言った。
「瑞基君が大切なのは、結局隆一朗さんだけなの。
責任感だけで入籍されても嬉しく無い。」
「責任感だけじゃ無い!
ちゃんと森さんも愛してるよ!」
「も?
ワタシはついでに愛されてるの?」
瑞基は言葉を失った。
「瑞基君はいつもワタシに残酷なの。
無責任な優しさでワタシに喜びを与えて、結局最後には隆一朗さんを選ぶの。
安心して、もう瑞基君とワタシを繋ぐ赤ちゃんは居なくなった。
ワタシはここから居なくなる。
思う存分隆一朗さんと愛し合えばいい。」
森詩織は踵を返すと呆然と立ち尽くす瑞基を置いて去って行った。
ここまで読んで戴き有り難うございます。
娘のスマホを借り、老眼鏡をかけてスマホに書き写しているのですが、体力の限界を感じています。
10日単位でと思ってましたが、今回少し早くできました。
後、残す処、第三章下と終章のみとなりました。
肩凝りと戦いながら頑張りたいと思っております。
ずっと応援、協力を惜しむ事なくしてくれた娘たちに感謝です。
ここまでお付き合いして戴いた皆様も本当に有り難うございます。
後少し、最後までお付き合い戴ければ幸せです。