第2章 下
長編。
若干薬物の表現有り。
誤字、脱字等、ございましたらお知らせ戴ければ嬉しいです。
ー帰館ー
エリザベータに帰ると、先に戻ることを瑞基が魁威に伝えてあったので麗畏と樹良が来て待っていた。
麗畏は隆一朗が入って来るなり首根っこに腕を回して隆一朗の頭を拳でぐりぐりした。
「心配させた罰だこの野郎。」
「痛いって、麗畏。」
そう言いながら隆一朗は笑っていた。
「あれ、どうした瑞基?
随分すっきりした顔してるね。」
魁威が言った。
「ふーん。」
魁威は意味ありげに笑みを浮かべ瑞基を見詰めた。
瑞基は狼狽した。
「何も無いよ、ほんとだってば、何も無かったよ!」
「ほんっと解り易いなあ。
全部顔にでてるって。」
「なになに?
何が出てるって?」
樹良が乗って来た。
「何も無いですって!
何もありませんでした!」
瑞基の顔が赤くなった。
樹良も瑞基の顔を覗き込んだ。
「何かあったんだ。
あれ、瑞基顔真っ赤だよ。」
「はいはい、何も無かったことにしておいてやるから、少し落ち着けって。」
魁威は瑞基の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「え?
え?
そうだったの?
俺だけ知らなかったの?」
麗畏は隆一朗の顔を見た。
「なんのこと?
ボクも聞いてないけど。」
隆一朗はきょとんとしている。
「隆一朗ーーぉ。」
瑞基は項垂れた。
「なんでオレ、こんな苦労してんの?」
「それは惚れた相手が悪かったんじゃない。」
魁威が笑うと皆笑った。
ここに居る誰にも偏見が無い訳では無い。
だが、ここに居る誰もが隆一朗を愛し、荒んでいる頃の隆一朗を知る彼らは、隆一朗が生きる為には性別を超えて、瑞基と云う存在が必要なのだと云うことを認めない訳には行かなかった。
アパートに帰ると隆一朗が玄関のドアを閉めた途端、瑞基は振り返って隆一朗の手首をドアに押し付けた。
「限界、もう我慢できない。」
そう言って隆一朗に口付けた。
隆一朗は受け応えるように眼を閉じた。
口唇を離すと隆一朗は言った。
「もう?
今朝、したばかりだよ。」
「だって、やっと想いが伝わったんだよ、もっと隆一朗に触れてたい。」
瑞基は俯き加減に隆一朗を上目遣いで見詰めた。
「せめて、ベッドまで我慢できない?」
「んーーーー、頑張る。」
部屋に入ると隆一朗は聖流のピアノを撫でながら奥に進んだ。
「瑞基ーぃ、この酷い状態、全く改善されなかったんだ。」
ゴミの散らばる部屋を見渡して溜め息をついた。
隆一朗はシャツの腕を捲りながらキッチンの引き出しを開けてゴミ袋を取り出した。
「ええっ、掃除始めちゃうのぉ。」
瑞基は大いに不満だった。
隆一朗が、
「おあずけ。」
と言うと、
「うーーーーぅ、ワン。」
瑞基は犬の真似をして吠えた。
瑞基はふてくされてベッドの上で胡座をかいてアプリゲームを始めた。
隆一朗はせわしなく部屋を片付けた。
「瑞基、せめてゴミくらいゴミ箱に捨てられない?」
「はい、ごめんなさい。」
瑞基は気の無い返事をした。
コンビニの弁当箱から零れた醤油のシミやジュースの溢した跡やらを雑巾で拭きながら瑞基に小言を言うと、瑞基は黙りこくっていた。
「瑞基?」
不眠不休で隆一朗の看病に疲れていた瑞基は胡座をかいたまま眠っていた。
隆一朗はくすっと笑うと掃除に精を出した。
隆一朗は押し入れからブランケットを出すと眠りこけている瑞基の身体を後ろから包み込むように掛け、瑞基の首に口付けた。
瑞基は敏感に声を漏らした。
「隆一朗?
掃除はもう終わったの?」
瑞基は寝ぼけながら言った。
「うたた寝なんかしたら風邪ひくよ。」
「大人しく待ってたご褒美にキスして。」
隆一朗は瑞基の頬を手で包むと口付けた。
永遠に続くかと思われるほどの長いキスに瑞基は喘いだ。
隆一朗は瑞基を押し倒すと言った。
「有り難う、ずっと眠らないで看病してくれた。
口移しには驚いたけど。」
「苦肉の策だよ、嫌だった?」
「ううん、嬉しかった。」
瑞基は隆一朗の身体を抱くと回転して隆一朗の上に重なった。
「こうしてるだけで、身体が熱くなっちゃう。」
「いかれてる。」
「うん、隆一朗にいかれてる。」
隆一朗は瑞基の首に腕をかけると口付けた。
瑞基は隆一朗の身体を優しく撫でた。
「ねえ、これってどう見てもアレの後だよね。」
麗畏は、覗き込んで言った。
「やっぱ、こうなっちゃったんだねー、この二人。」
樹良も覗き込んだ。
魁威はタバコに火を点けて言った。
「いいんじゃない、愛の形にも色々あるよ。」
隆一朗と瑞基は全裸で抱き合ったまま眠っていた。
隆一朗が眼を覚ました。
「どうしたの?
みんなお揃いで。」
「まだだったろ、快気祝い。」
魁威が言った。
「ほら、隆一朗の為にワインも用意してきたよ。」
樹良がボトルを見せた。
「瑞基の為にジュースもあるよ。」
麗畏が言った。
「ああ、有り難う。」
隆一朗が起き上がろうとすると瑞基は寝ぼけながら隆一朗の後頭部に手を添えて言った。
「身体離しちゃやだよ、隆一朗。」
隆一朗の首に口付けた。
魁威達はあらぬ方向に眼をやった。
「瑞基見られてるよ。」
「え?」
「おはよう、エロ瑞基。」
魁威が言った。
瑞基は魁威達を見ると激しく狼狽した。
「わっ、なんでみんな居るのお?!!」
「言い訳できないよ、瑞基。」
樹良が笑った。
瑞基は慌てて隆一朗から離れて頭まで毛布を被った。
「今頃、遅いって。」
麗畏も笑った。
魁威が言った。
「良かったな、瑞基。
やっと想いが通じて。」
「魁威さん、それ言っちゃう?」
瑞基は顔を半分出した。
隆一朗は素早く服を着るとグラスと氷を持って来て床に座った。
魁威達も車座になって座った。
「隆一朗と飲むの久し振りだね。」
「そうだね、瑞基が来てから付き合い悪くなったからなー、隆一朗。」
「仕方ないよ、隆一朗は瑞基の母業に忙しかったから。」
「母業?
なにそれ?」
隆一朗はボトルを注ぎながら魁威に訊いた。
「瑞基を更生させるのに真剣だったろ。
学校いかねえわ、万引きはするはで、なかなかの悪餓鬼だったからなあ。」
「魁威さん、それくらいで勘弁してよお。
オレ、今真面目だよ。」
瑞基はベッドに散らばった服を着ながら言った。
皆グラスを持つと魁威はグラスを掲げた。
「乾杯。」
「隆一朗、結婚おめでとー!」
隆一朗が飲んでいたワインを吹いた。
飛沫を避けて魁威達はグラスを死守した。
「何吹いてるんだよ、隆一朗。」
「樹良が結婚おめでとうなんて言うから。」
隆一朗はティッシュで口を拭いた。
「似たようなもんでしょ、一緒に暮らしてるんだし。」
樹良が言った。
魁威が瑞基に振った。
「手のかかる奥さんだけどねー。
なあ、瑞基。
浮浪癖があるから、迎えに行かないと、真っ直ぐ帰りやしない。」
「もっと言ってやってよ。
オレ、めっちゃ苦労してんの。」
「みんな、ボク達のことを肴に飲むのやめてよね。
それより、訊きたいことが在るんだけど。」
隆一朗の目付きが変わった。
「誰が瑞基をマルトのマスターに引き合わせたの?」
魁威は瑞基を見た。
「ごめん、口滑らせてバレちゃった。」
瑞基はベッドに座って、申し訳無さそうに上目遣いで言った。
「しょうがないなあ、自分で黙っててくれって言ったんだよ。」
「すみません、オレ隆一朗に隠し事できなくて。」
瑞基は頭を下げた。
「情け無い亭主だな。」
魁威は隆一朗を見て言った。
「あんまり、瑞基がしょげてるから三人で飲みに連れてったんだよ。」
「魁威は知ってるんだ、瑞基がマスターのオモチャにさりそうになったこと。」
「そんなこと、あったの?!!」
麗畏と樹良の顔色が変わった。
魁威が言った。
「相当、怒ってらっしゃるようだけど、瑞基をそこまで追い込んだのは隆一朗自身だよ。」
隆一朗は眼を伏せた。
暫く居心地の悪い沈黙が続いた。
「瑞基はいつも隆一朗に必死だよ。
もっと大事にしてやんなよ。」
「解ってる。」
魁威は表情を変えて声高に言った。
「まあ、でもあれは傑作だよな。
瑞基、危うくてごめにされそうになった時、マスターの股間にゲロったんだってさ。」
「瑞基、ナイスタイミング。」
瑞基は親指を立てた。
「だってさ、マスターのキス、めちゃくちゃ下手だし、気持ち悪いんだもん。」
「へーえ、少年喰いも大したこと無いんだな。
て云うことは、隆一朗はキス上手いんだ。」
「うん、めっちゃ上手い。
オレ、隆一朗のキスだけで三回はイケる自信ある。」
瑞基は元気にガッツポーズした。
「隆一朗もやりたい盛り抱えて大変だな。」
隆一朗は頭を抱え込んだ。
「瑞基、そんな告白しなくていいよ。」
「あれ、駄目?」
三人はこらえきれず、隆一朗から視線を外して笑った。
この後、瑞基と隆一朗のネタを肴に魁威達は朝まで飲み明かした。
ー愛してるー
隆一朗が眼を覚ますとナイトテーブルに置かれた時計は昼過ぎを指していた。
六歳年下の恋人は隆一朗の腕にしがみつくようにして眠っていた。
隆一朗は幸せだった。
隆一朗は愛おしい恋人の乱れた髪をそっと撫で、額に口付けると起こさないように、静かに腕を抜いた。
ここ数日ろくに眠っていない瑞基は小さな声は出したが起きはしなかった。
隆一朗は素早く服を着ると瑞基にメモを置いて出掛けた。
隆一朗が出掛けて二、三十分経ってから瑞基が眼を覚ました。
瑞基は隆一朗が居ないことに怯えた。
瑞基はベッドに座ると頭を垂れて指を組んだまま動けなかった。
隆一朗が帰ると瑞基は頭を垂れたままだった。
その苦悩に満ちたオーラを放出させている瑞基の姿を見て、隆一朗は自分がどれほど瑞基を傷付けたのかを思い知らされた。
「瑞基………………。」
瑞基は身体をびくっと震わせ顔をあげ、隆一朗を視界に認めると何事も無かったように笑顔を見せた。
「おかえり。」
「ただいま。」
隆一朗は瑞基の隣に座って買い物袋を床に置いた。
「またボクが何処かへ行ったって思った?」
「思った。
凄く怖かった。」
「どうすれば安心できる?
ボクはキミに何をあたえられるだろう。」
「ただ、傍に居たいだけなんだ。
ずっと終わりが来ないくらい長い時間を隆一朗と過ごしていたい。
それだけなんだ。」
「愛してる。
それだけじゃ何の保証にもならない?」
「あ、隆一朗初めて愛してるって言ってくれた。」
瑞基の顔が急に明るくなった。
「言ったこと無かった?」
「無いよ。
いま、初めて言ってくれた。
「あんまり当たり前のこと過ぎて意識したこと無かった。」
「そうなんだ。」
瑞基は嬉しそうに笑った。
『そう、この笑顔にどれほどボクは救われたろう。』
「お昼作るよ。」
隆一朗はゴボウと大根が飛び出した買い物袋を持ってキッチンに立った。
「わあ、久々の隆一朗の料理だーぁ。」
語尾が下がった。
「何そのテンションの下がり方は………………。」
瑞基は笑ってごまかした。
隆一朗は米を研ぎ始めた。
ベッドに凭れ、くわえタバコでギターを弾く隆一朗を瑞基はベッドの上に寝転がって見とれていた。
キッチンから不穏な匂いがしているが、瑞基はあえてその現実から逃避した。
「ねえ、お昼は何?」
「野菜の煮付けだけど。」
「見てなくていいの?」
「煮付けなんて小火で放っておけば勝手に味が染みるものだって、教えてくれたおばさんが言ってたけど。」
「ふーん。」
隆一朗はくわえタバコを指に挟むと慎重に灰皿に灰を落としながら言った。
「一年のブランクは侮れないね、指が上手く動かない。」
「でも、そういうのって身体が憶えてるものでしょ。
すぐ、勘が戻るものなんじゃないの?」
「そう願いたいけどね。」
瑞基は寝返りを打った。
「こんな、のんびりするのもいいね。
初めてじゃない、こんな風に二人でのんびりするの。」
「そうだね。
こんな穏やかな気分で過ごすってことがずっと無かった。」
瑞基は、多分そろは隆一朗が彼女の呪縛に囚われていたからだろうと思ったが口にはしなかった。
「そろそろ、いいんじゃないかな。」
隆一朗はギターを置くとキッチンへ行った。
「色が付いてるから、いいんじゃないかな。」
「隆一朗、そんな不穏なこと言わないでよ。」
皿に盛られた煮付けを見た瑞基に戦慄が走った。
「隆一朗、どう煮付けたらこんな不気味な色になるの?」
「ああ、赤ワインしか無かったから。」
「はあ?
どうして野菜の煮付けに赤ワインなの?」
「日本酒買うの忘れたから。」
瑞基は、テーブルに突っ伏した。
『このままオレ、普通の食生活に戻れ無かったらどうしよう。』
瑞基は真剣に悩んだ。
瑞基は恐る恐る煮付けを口に運んだ。
『やっぱりぃ。』
美味しくも無かったが不味くも無かった。
「隆一朗って、ある意味天才かもね。」
「そうお?」
瑞基のスマホが鳴った。
画面を見ると、母の綾子からだった。
「あれ、母さんだ。」
瑞基はスマホに耳をあてた。
「どうしたの?」
「どうしたの?はそっちでしょ。
また学校四日も無断欠席して、先生から電話あったよ。」
「ああごめん、隆一朗迎えにいってたんだ。
そしたら、隆一朗あっちで肺炎起こして、昨日帰って来たんだ。」
「それで、隆一朗さんは大丈夫なの?」
「うん、今元気に昼飯食ってる。
オレも隆一朗の看病で殆ど寝て無かったから今日は休んでた。」
「じゃあ、今は二人とも元気なのね。」
「うん、元気。」
「じゃあ、今夜こっち来れない?
隆一朗さんにも来て貰って、快気祝いってことも無いけど、たまには一緒にご飯食べましょ。」
「ちょっと待って。」
瑞基は隆一朗に訊いた。
「隆一朗、今夜晩飯一緒に食べないかだって。」
「ボクも?
迷惑じゃない?」
「母さんは隆一朗の快気祝いのつもりみたいだけど。」
「ボクの?」
隆一朗は笑顔で言った。
「喜んで。」
「大丈夫、隆一朗喜んでるよ。」
「良かった。
じゃ、今夜お鍋作って待ってるから。」
「うん、じゃあ今夜ね。」
瑞基は通話を切った。
「今夜は鍋だって。」
「家庭的な料理だね、楽しみだよ。」
ー家族ー
夕方、車を借りる為にエリザベータへ行った。
店に入ると魁威は暇そうにテーブルで漫画を読んでいた。
「おや、どうした?
二人して飯でも食いに来た?」
「どうしたの?
ガラガラじゃない。」
隆一朗は店内を見て言った。
「うちの看板男が入院したもんでね。
看板男目当てに来てた女性客の足が遠退いてこのざまだよ。」
「すげえ、隆一朗の効力。
そう言えば隆一朗が入院してから魁威さん一人で切り盛りしてたもんね。
そうかあ、みんな隆一朗目当てにきてたんだ。」
「ごめん、魁威にまで迷惑かけて。
とっくに新しいバイト雇ってるって思ってた。」
「バイト雇う余裕も無いって。
で、なに?」
「瑞基が里帰りするから、車かりようと思って。」
「キーなら、いつもの処に掛かってるよ。
次の仕事はもう決まってるの?」
「まだ、何も考えて無いんだ。」
「じゃあ、うちに戻って来たら。」
「いいの?」
「隆一朗が戻って来たら、去ってった女性客も戻って来るかも。」
「有り難う、凄く助かる。」
「うちも助かる。
これ、ウィンウィンな関係ね。」
魁威は親指を立てた。
隆一朗がキーを回すと、瑞基は慌ててシートベルトを締めた。
「隆一朗、頼むから安全運転でね。」
「街の中では飛ばさないから安心して。」
隆一朗は後ろを見ながら上手く車をバックさせ道路にのせた。
「ねえ、瑞基のお父さんは何を飲むの?」
「親父?
えーと、何飲んでたかなあ。」
「瑞基のお父さんの年代だとビールかウィスキーって処かな。」
「そう言えばうちのサイドボードにウィスキー並んでたかなあ。」
「お母さんとお姉さんは甘い物とか大丈夫そう?」
「そんなに気を使わなくてもいいよ。」
「大事な息子さんを貰い受けに行くんだから、それくらいはしないとね。」
「はあ?」
瑞基はまじまじと隆一朗の顔を見た。
「冗談だよ。」
「焦った。
そんなことになったら、うちの親達腰抜かすよ。」
隆一朗と瑞基は途中、商店街の酒屋とケーキ屋に寄って瑞基の家へと車を走らせた。
隆一朗が呼び鈴を鳴らすと直ぐにドアが開けられた。
綾子は笑顔で二人を出迎えた。
隆一朗を見ると綾子は暫く動きが止まった。
ぼーっと隆一朗に見とれていたのだ。
「母さん、隆一朗がどうかした?」
「あ、ううん。
あんまりおキレイだから。
よく、いらっしゃいました。
さあ、どうぞ中へ。
瑞基、あなたまで遠慮してどうするの。」
「あ、そうだ、ここオレん家だった。」
隆一朗がクスクス笑った。
「お邪魔します。」
隆一朗はキッチンとリヴィングが繋がる部屋に通されるとキッチンにある食卓の上に買って来たケーキとウィスキーを置いた。
「どうぞ、皆さんで召し上がって下さい。」
綾子は恐縮して言った。
「あらら、こんな気を使わなくても。
ずっと瑞基がお世話になっているのに、ご挨拶もまだでごめんなさいね。」
「隆一朗、ご飯まだみたいだから、オレの部屋来ない?」
瑞基は隆一朗の肩を叩いた。
「気を付けないと頭ぶつけるよ、この家。」
隆一朗は綾子に軽く頭を下げて、瑞基の後に続いた。
階段を登りながら隆一朗は言った。
「さすがに緊張した。」
「だと思った。
でも、母さんまで隆一朗に見とれて、母さんも女なんだなあ。」
瑞基は笑った。
通された瑞基の部屋はきちんと片付けられていた。
隆一朗は瑞基の勉強机の椅子に座った。
「えっと、飲み物と灰皿貰って来るよ。」
瑞基が部屋を出ると隆一朗は机に頬杖をついて部屋を眺めた。
机と黒いベッドが窓際に置かれ、部屋の一番奥には大きめのテレビと、その下に何台かの違う機種のゲーム機が納まっていた。
その隣にはCDラジカセとCDと数冊の本が無造作に置かれていた。
出入口のドアの横にチェストと洋箪笥が置かれている。
ドアに幾つかの写真が留められていた。
クラスメイトと高1の頃の瑞基が小生意気そうな顔で笑っていた。
隆一朗は初めて瑞基に逢った時のことを思い出した。
ステージから眼が合った時、何故か懐かしい気がした。
キャリーバッグを引き摺って精一杯自分を誇示していた瑞基が、家を飛び出した頃の自分とリンクして思わず声をかけた。
それが総ての始まりだった。
瑞基の隆一朗に対する姿勢は、あの頃から何も変わらない。
ずっと、真っ直ぐ隆一朗に寄り添おうと必死だった。
瑞基がコーラと、隆一朗一人が使うには大き過ぎる硝子の灰皿を抱えて戻って来た。
「ごめん、うちタバコ吸う人居ないから、こんなのしかなくて。」
瑞基はコーラと灰皿を机の上に置いた。
隆一朗は瑞基の手を引いて、腰に腕を回し、瑞基のみぞおちに頭を押し付けた。
「どうかしたの?」
「キミが居てくれたから、ボクはこんなにも穏やかでいられる。」
「どうしたの、急に。」
「ボクは誓うよ、もう決してキミから逃げない。」
「隆一朗…………………。」
瑞基は隆一朗の髪に指をうずめた。
「やっと、オレの魅力に気が付いた?」
「瑞基は魅力的な恋人だよ。」
隆一朗は顔をあげた。
「そんなに素直に言われると、逆に気持ち悪いよ。」
「どうせボクは、ひねくれてるよ。」
「そうそう、それくらい棘がある方が信憑性あがるね。」
隆一朗は笑った。
「ねえ、レーシングゲームあるよ。
やってみない?」
「ボクにもできそう?」
「運転できるんだから楽勝だと思うよ。」
確かに隆一朗の方が、勘が良かった。
ゲームは瑞基が惨敗して終わった。
瑞基と隆一朗がレーシングゲームに白熱している間に、孝久が帰宅し、姉の香奈美も帰って来ていた。
隆一朗達が二階から下りてリヴィングのドアを開けると、丁度孝久が食卓に着こうとしている処だった。
隆一朗は孝久に挨拶をした。
「藤岡聖詞と言います。
今日は甘えてしまってすみません。」
「藤岡?」
綾子が野菜を切る手を止めて寄って来た。
「藤岡さんて、藤岡真聖さんの?」
「次男です。
父をご存知ですか?」
綾子と孝久は顔を見合わせた。
「ああ、あの昔ちょっとお世話になったことがあって……………。
でも、隆一朗さんて………………。」
「それはボク、バンドをやっているので源氏名です。」
「そう、そうだったの。
どうぞ座って下さい。
珍しくも無い物ですけど、遠慮なんかしないで沢山召し上がって。」
「今日は本当に有り難うございます。」
孝久が座ると瑞基は隆一朗の隣に座った。
隆一朗の前に綾子が座り、少し遅れて着替えた香奈美が瑞基の前に座った。
隆一朗が香奈美に挨拶すると香奈美も綾子と同じ反応したことに瑞基は笑った。
瑞基も初めて隆一朗と逢った時に一目惚れしたことを、本人は忘れてしまっているらしい。
「隆一朗さんは音楽がお好きとか。」
香奈美が必死にお上品ぶっているので、瑞基は声を殺して笑った。
香奈美は笑う瑞基の脛を笑顔で蹴飛ばした。
瑞基は香奈美を睨み、テーブルの下で香奈美の脚を蹴った。
「父が、クラシックが好きなので小さい頃からピアノを習わされていました。」
「二人共、いつも食事はどうしてるの?」
綾子が訊いた。
「いつも隆一朗が作ってくれるんだ。
破綻し…………てっ…………」
隆一朗がテーブルの下で瑞基の足を思い切り踏んづけた。
「隆一朗さん、お料理ができるの。
男の方は豪快に作るんでしょうね。」
「うん、豪快過ぎていつも不気味……………いっ……………………」
隆一朗は笑顔で瑞基の脚を思い切り蹴飛ばした。
香奈美が訊いた。
「ロックバンドもされてるとか。」
「始めて五年になりまし。」
「パートは何を…………。」
瑞基は可笑しくて笑いを堪えることができない。
香奈美が笑顔でまた、瑞基の脛を蹴った。
瑞基は香奈美を睨んで蹴飛ばした。
「ギターです。」
黙々と食べていた孝久が言った。
「みんな足元が落ち着かないようだが。」
その台詞に隆一朗は堪えきれず声を殺して笑った。
こうして、表向きは平和に食事が終わった。
リヴィングのソファーに座り孝久と隆一朗が持って来たウィスキーを隆一朗と酌み交わした。
孝久が訊いた。
「隆一朗君は酒には強いのかい?」
「いえ、付き合い程度です。」
それを聞いていた瑞基は吹き出した。
『ざるの癖に、めちゃくちゃ白々しい。』
隆一朗を見るとオーラが見えた。
『余計なこと言ったら後で殺す。』
瑞基は震え上がった。
『こわー。』
こうして隆一朗の池旗家訪問は無事(?)終わった。
アパートに戻ると隆一朗はベッドに座って項垂れた。
「大丈夫?
気の使い過ぎで疲れたんじゃない?」
隆一朗は顔を上げた。
「いや、とても楽しかったよ。
家族っていいなって思った。」
瑞基は隆一朗の隣に座った。
「姉貴に蹴飛ばされたとこ、まだ痛いよ。」
瑞基は脛を撫で、ズボンの裾を捲った。
「あーぁ、痣になってるう。
どんだけ思い切り蹴ったんだよ、あの莫迦姉貴。」
「パワフルなお姉さんだよね。」
隆一朗は笑った。
「オレ蹴られ損ね。
隆一朗には足踏まれるは、姉貴には蹴られるはでさあ。」
「キミが余計なこと言おうとするから。」
「オレは真実を言おうとしただけじゃん。」
「それが余計なことなんだよ。」
「だってガチで隆一朗の料理は問題在りじゃん。」
「でも、食べられない物作ってる訳じゃないだろ。」
「限度ぎりぎりでね。」
「ぎりぎりでも毒を入れてる訳じゃ無い。」
「色が毒入りに見える。」
「でも、身体に悪い物は入って無いよ。」
「どうして、日本酒の代わりに赤ワインて発想になるだよ。」
「どっちもお酒だよ、効果は同じだろ。」
「着目する点が隆一朗の場合ずれてるんだよ。」
「何処がずれてるって言うの。」
「醤油に赤ワインて発想がもう普通じゃ無い。」
「でも、いつも食べてるじゃない。」
「そりゃ食べるよ、育ち盛りだもん。」
「食べられるんだから、問題無いよ。」
「ああもう、オレ疲れたから寝る!
おやすみ!」
「おやすみ!」
瑞基はパジャマに着替え、隆一朗は全裸でベッドに入った。
毛布の中で隆一朗と瑞基は抱き合い口唇を重ね合わせていた。
「キスだけでいけるの試してみる?」
「オレ、もういきそう。」
ー宣戦布告ー
「ひまだね。」
隆一朗はカウンターのストゥールに座り頬杖をついていた。
「まあ、気楽にやって。」
魁威はテーブルについて漫画を読み始めた。
隆一朗がエリザベータに復活して三日になるが、お昼の忙しい時間帯を過ぎるとエリザベータには閑古鳥が鳴いていた。
「ボク、店の前の落ち葉でも掃いてくるよ。」
隆一朗は店の奥から箒を持って、外を掃き始めた。
「あの、隆一朗さん?」
突然、後ろから声を掛けられ、振り返ると見たことのある女子学生が立っていた。
「森さん?」
「憶えていて貰えて嬉しいです。」
隆一朗は、どう接していいものか複雑な心境だった。
「友達が盲腸で入院して、お見舞いの帰りなんです。」
「そうなんだ。」
「瑞基君、最近学校でとても元気なのは隆一朗さんが元気になったからなんですね。」
「瑞基がいつも世話になってるんだってね。
有り難う。」
「隆一朗さん、お礼なんて言ってていいんですか?
ワタシ敵ですよ。」
「え?」
「恋敵。」
森詩織はいたずらっぽい笑みを浮かべて隆一朗を見上げた。
「ワタシ、瑞基君を諦めた訳じゃ無いですよ。
いつか、必ず振り向かせるんです。」
隆一朗は森詩織を見詰めた。
「もし、その時が来たら瑞基を支えてあげて欲しい。」
森詩織は眼を見開いた。
そして眼を伏せた。
「まだ、全然かなわないですね。
もっと、いっぱい女子力上げて頑張ります。」
隆一朗は優しく微笑んだ。
「じゃ、失礼しますね。」
森詩織は軽やかな足取りで去って行った。
ー指輪ー
「隆一朗、今日はもうあがっていいよ。
早く帰って瑞基に不気味な手料理でも作ってやりなよ。」
「不気味な手料理だけ余計だよ。
有り難う。」
隆一朗はコートを着るとマフラーを巻いた。
「今夜は冷えそうだね。
お疲れ様。」
「気を付けてな。」
魁威の言葉に送られて店を出ると既に陽も落ちて、気温が可なり下がっていた。
暗い道の向こうから誰かが走って近付いて来るのが見えた。
隆一朗は眼を凝らした。
「隆一朗!」
「瑞基?」
瑞基は隆一朗の前まで来ると、はあはあ息をきらせながら隆一朗の手を引いた。
「良かった逢えて、ここじゃ何だからさ、途中の公園で渡したい物あるんだ。」
隆一朗は瑞基に手を引かれ、一緒に走らされるはめになった。
「瑞基、今日はバイトの日だろ、バイトはどうしたの?」
「え?
今日は緊急で休み貰ったんだよね。」
寒空の下、人気の無い公園の街頭の下のベンチに座ると、瑞基はどれほど走ったのか呼吸が落ち着くまで暫く地面に向かって深呼吸した。
「ごめん、早く渡したくてずっと走って来たから。」
瑞基は上着のポケットから何かを取り出した。
「これ………………。」
どう見ても指輪を入れる箱だった。
「指輪?」
「うん、指輪。」
瑞基は蓋を開けて見せた。
銀色の曲線が植物の様にうねる重厚なデザインの指輪が街頭に照らされ白く輝いていた。
「左手出して。」
瑞基は指輪を取ると箱をポケットにしまって隆一朗の左手の薬指に不器用に嵌めた。
「樹良さんが結婚おめでとうとか言ってくれたから、指輪で隆一朗を縛っちゃえって思ったんだ。
もう、何処へも行かせない。」
「瑞基……………。」
「でね、こっちはオレのね。」
瑞基はもうひとつ箱をポケットから出して隆一朗に見せた。
同じデザインの指輪を隆一朗に渡した。
「オレに嵌めてくれる?」
隆一朗は瑞基の左手の薬指に指輪を嵌めた。
「でさ………………。」
瑞基はポケットから鎖を取り出した。
「随分ポケットから次々と出てくるね。
何かのアニメみたいだ。」
瑞基は笑った。
「オレの場合、指輪嵌めて学校行く訳に行かないから、普段はこの鎖に通して首に下げようと思って。」
隆一朗は鎖を取ると今瑞基に嵌めた指輪を外し鎖に通して瑞基の首に下げた。
「有り難う。」
瑞基は胸に下がった指輪をつまむと隆一朗を見て幸せそうに笑った。
ー真聖ー
隆一朗はキッチンで夕食の支度をしていた。
椎茸を切っていると風呂に入っていた瑞基が髪をタオルで拭きながら隆一朗の背後に立って覗き込んだ。
「ねえ、今夜は何?」
「寒いから豚汁。」
「まさか、赤ワインが入る予定とか無いよね。」
「無いよ、昨日日本酒買って来たから。」
瑞基はほっと胸を撫で下ろした。
だが、また不安になって訊いた。
「冷蔵庫にパイナップルがあるとか言わないよね。」
「無いよ。」
「紫玉ねぎは?」
「それも無い。」
瑞基は後ろから隆一朗を暫く見詰めると、隆一朗の髪に触れ口付けた。
隆一朗を抱き締め、シャツの中に手を入れて肌をまさぐり首に口唇を這わせた。
「瑞基、駄目だよ。
今忙しいんだから。」
瑞基は隆一朗の頬に手を当て、こちらに向かせると口付けた。
隆一朗の手から包丁が落ちた。
瑞基は隆一朗を抱き上げた。
「瑞基、怖いよ。」
隆一朗は瑞基の首にしがみついた。
「隆一朗の運転よか安全だよ。」
ベッドに隆一朗をそっと降ろすと口付けた。
隆一朗は瑞基の背中に手を這わせた。
呼吸が乱れ始め、本気モードに入ろうとしたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あーあ、折角いいとこだったのに。」
瑞基はがっくり肩を落とした。
隆一朗は乱れた衣服を整えると玄関へ行った。
ドアを開けると隆一朗は大きく眼を見開き後退りした。
瑞基は隆一朗のその様子を見て直感した。
『隆一朗の親父さんだ。』
瑞基は慌てて隆一朗の傍に駆け寄った。
瑞基の直感は的中していた。
玄関に隆一朗の父、藤岡真聖が立っていた。
隆一朗は食卓の椅子を真聖に勧めた。
「コーヒーしか無いけど。」
「構わんよ。」
パーコレイターを出すと瑞基が来た。
「オレが淹れるよ。」
「有り難う。」
隆一朗も椅子に座った。
「よく、ここが解ったね。」
「エリザベータと言う喫茶店で聞いて来た。
聖流からおおよその場所は聞いていた。」
隆一朗はタバコに火を点けた。
瑞基は灰皿をテーブルに置きながら隆一朗の肩に手を置いた。
瑞基は以前、隆一朗が真聖に逢って大量の精神安定剤を飲んで錯乱した時のことを思い出していた。
「その少年は?」
「ルームシェアしてる子だよ。」
瑞基は真聖に会釈した。
「入院費は少しずつお返しして行きます。」
「そんなことは気にしなくていい。」
真聖は隆一朗を見詰めた。
「聖流が死んで、息子はお前一人になってしまった。
歳のせいかこの頃は気が弱くなってね、あの家に一人で居るのが辛いんだよ。
帰って来ないか。」
隆一朗は眼を伏せ黙った。
「できればお前に、今まで出来なかった親らしいことをしてやりたい。」
「何もして欲しいことはありません。
ボクは帰れない、何故だか解るでしょう?」
「もう、わたしにお前を責める気持ちはない。
お前も若かったし、過ちの一つに過ぎない。」
隆一朗の眼の色が変わった。
「それだけでは済ませられる事では無いでしょう。
彼女は自ら命を断ったんです。」
「あれは弱い女だった。
それだけのことだ。」
隆一朗の中にふつふつと怒りが込み上げて来た。
「彼女の内腿には三つのほくろが三角を描く様にあった。
彼女には性的絶頂感に達すると耳を噛む癖がありましたね。」
真聖は険しい顔をして全部聞き終わる前に立ち上がった。
そして、黙って部屋を出て行った。
「隆一朗、今のは酷いよ。」
「解ってる。」
隆一朗は瑞基の手を握ると額にあて、シニカルな笑みを浮かべ言った。
「反抗期かな。」
瑞基は隆一朗を後ろから椅子越しに抱き締めた。
「多分、ボクはまだ嫉妬してるんだと思う。
彼女が最後まで求めていたのは父の愛だったから。」
「隆一朗……………。」
瑞基は抱き締める腕に力を込めた。
「聖流さんが言ってた。」
「聖流が…………?
なんて?」
「隆一朗の親父さんは妻に貞淑と献身だけを求める人で彼女はそれに不満を抱えていたから隆一朗を受け入れたんだって。
隆一朗ばかりが悪い訳じゃないって、オレは思う。」
「瑞基………………。」
その夜、隆一朗は何度も瑞基を求めた。
ー決別ー
日曜の朝、瑞基のスマホが鳴った。
瑞基が出ると魁威だった。
魁威は慌てた様子で隆一朗に代わるように言った。
「隆一朗、何だろう?
魁威さんの様子が変だ。」
「魁威が?」
瑞基が差し出したスマホを受け取ると耳にあてた。
「魁威、どうしたの?」
「親父さんが、会社で倒れてF市の総合病院に運ばれた。
詳しいことは解らないが隆一朗の名前で、うちの電話番号を手帳に控えてあったらしくて病院からうちに連絡が来たみたいだ。」
「解った、すぐ行ってみるよ。
有り難う。」
スマホを瑞基に渡すと瑞基は心配そうに隆一朗の顔を見ていた。
「瑞基、悪いけどタクシー呼んでくれるかな。
父が倒れて病院に運ばれたんだ。」
隆一朗は着替えながら言った。
「親父さん、大丈夫なの?」
「解らない、とにかく行ってみないと何とも言えないよ。」
「オレも行っていい?」
「キミはこれから部活があるだろ?」
「そうだけど、オレだって心配だよ。
気になって練習になんてならないよ。」
隆一朗は心配そうに自分を見詰める瑞基を見た。
「解ったよ、来て。」
瑞基は着替えるとタクシーを呼んだ。
病院に着くと正面玄関の横の入り口から入った。
受け付けで訊くと五階の東病棟に入院したという。
二人はエレベーターに乗り込んだ。
東のナースステーションで部屋番号を聞くと病室に急いだ。
六人部屋の窓側に点滴を打たれて真聖は眠っていた。
瑞基が丸椅子を持って隆一朗に座るように促した。
隆一朗は座ると真聖を見詰めた。
眠る真聖の顔が死に顔のように見えた。
瑞基は隆一朗の傍に座ると隆一朗の肩に手を置いた。
隆一朗が振り返ると、
「大部屋に居るってことは、きっと大したことじゃないと思うよ。」
瑞基は静かに言った。
暫くして真聖の担当の看護婦が挨拶に来た。
「担当医師の説明があるので、それまで質問いいですか。」
連絡先や食事についての質問を幾つかされた。
担当医師が来ると、ただの過労で、主に点滴治療で一週間くらいで退院できると言うことだった。
隆一朗は眠っている真聖の顔を見ていると過労だと解っていても不安になった。
真聖が眼を覚ますと心の底から安堵した。
「気分はどお?」
「聖詞か。
心配して来てくれたのか。」
「良かった、ただの過労だって。」
「そうか。
歳には勝てないな。」
「何か欲しい物はある?
必要なものは家政婦さんが持って来てくれてるみたいだけど。」
真聖は隆一朗を見詰めた。
「聖詞、お前の言う様に同じ女を愛した男が一つ屋根の下で暮らすのは難しいな。」
「今はそんなことより早く良くなることを考えよう。」
「そうだな。」
病院から帰った隆一朗は食卓の椅子に座ったまま手を組み、考え込んでいた。
瑞基はアプリゲームに夢中になっている振りをして隆一朗を見守っていた。
退院の日、隆一朗は魁威から車を借りて真聖を迎えに行った。
医者は一週間と言ったが実際は三日で退院できるようになった。
隆一朗はその日、七年振りに実家の敷居を跨ぐことになった。
真聖はリヴィングのソファーに腰掛けた。
「お茶でも淹れるよ。」
隆一朗は荷物を廊下に置くとキッチンでお湯を沸かした。
「相変わらず仕事人間だね。
もういい歳なのに日曜出勤までして、倒れてたらいいとこ行かないよ。」
「そうだな。」
真聖は老眼鏡を掛けると三日分の郵便物を見始めた。
「聖流が死んで、いよいよ心の空白が広かった。
わたしには仕事しか気を紛らわすものがなかったんだ。」
「何か趣味でも作ったらいいんだよ。」
「そうだな。」
隆一朗は真聖の前にお茶を置いて、真聖の前に座った。
あんなにも大きく見えていた真聖が小さく見えた。
病み上がりのせいか酷く年老いて見える。
「少し落ち着くまで、ここに居るよ。」
「済まない。」
隆一朗は荷物を片付けると魁威と、瑞基に電話を掛け、二、三日帰れないことを伝えた。
「ええっ、そんなに居ないの?
で、隆一朗の着替えは?」
「こっちで適当に買うよ。」
「オレ、持ってくよ。
バイト終わってからだから十時過ぎるけど。
家の場所、教えて。」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。」
「オレ、隆一朗不足で死ぬ。」
「なに、それ?」
「とにかく行くったら行く。」
「解った、じゃ来て。」
瑞基は十時半頃に訪れた。
玄関に立つ瑞基は両手に大量の荷物を持っていた。
「親父さんは?」
「いま、眠ってる。
随分、持って来たんだね。」
「ジャーン!
これはオレの荷物。」
瑞基は両手に持っていた荷物の片方を掲げた。
「何、それ。」
瑞基は靴を脱ぎながら言った。
「こんな、隆一朗のトラウマだらけの場所に親父さんと二人だけなんて、心配で心配で、オレ三日で禿げちゃうよ。」
隆一朗は呆れながら、瑞基の行動力と明るさに感謝した。
実際、隆一朗はこの家の思い出に押し潰されそうになっていた。
この家の何処を見ても彼女と聖流の面影が隆一朗の時間を引き戻した。
隆一朗は二階にある自分の部屋に瑞基を案内した。
かつてはこの部屋が彼女との密会の場所だった。
「ここはボクの部屋だから好きに使って。」
隆一朗はベッドに座った。
瑞基は部屋を見渡した。
十畳ほどの部屋には大き過ぎる本棚が置かれていた。
「隆一朗の部屋だよね、本がいっぱいだ。」
振り返ると隆一朗はステレオを見詰めていた。
彼女とよく音楽を聴いた場所だった。
瑞基は隆一朗の隣に座ると肩を抱いて口付けた。
いつになく熱いキスに隆一朗は驚いた。
「どうしたの?」
瑞基は構わず熱く口付けて隆一朗を押し倒した。
瑞基の指先が隆一朗の性感帯を容赦なく刺激した。
「瑞基、ここではそんな気分にはなれないよ。」
「知ってる。
だからしてる。
今は、隆一朗はオレのものだよ。
彼女の亡霊なんなかに負けたくない。
隆一朗はオレのものだよ。」
瑞基は激しく隆一朗を求めた。
「瑞基……………や…………め……あ…………………。」
隆一朗は次第に抵抗できなくなり何も考えられなくなった。
乱れる隆一朗に瑞基は更に熱くなった。
隆一朗は何度も瑞基の名前を囁くように呼んだ。
次の朝、真聖がリヴィングに行くと瑞基が新聞とお茶を持ってあらわれたのに驚いた。
「君は、聖詞の……………。」
「オレのことは気にしないで下さい。
隆一朗………じゃなくて、聖詞さんの周り適当にちょろちょろしてるんで。」
「瑞基、キミ学校はどうするの。」
隆一朗はキッチンから不満な顔で現れた。
「それは大丈夫、親戚のおじさんが死んでくれてるから。」
「また、キミは…………………。」
隆一朗は頭を抱え込んだ。
「いつもは真面目にやってるんだから、こんな時くらいいいじゃん。」
正直な処、瑞基が居てくれることは精神的に大きく救われた。
隆一朗は不満を言いながらも瑞基に感謝していまた。
「父さん、朝ご飯できてるよ。」
真聖は父さんと呼ばれたことに驚いたようだった。
三人は食卓に着いた。
瑞基は食卓に並ぶ料理を見て叫んだ。
「ちょっと待って、何でこんなまともなの?
隆一朗………じゃなくて、聖詞さん!」
隆一朗はクスクス笑った。
「その、隆一朗………じゃなくて、聖詞さんて言うのどうにかならないの?」
「仕方ないだろ、呼び慣れてないんだから。
それよか、まともに作れるんじゃん。」
「何のことかな?
父さん茶碗…………。」
真聖が茶碗を差し出すと隆一朗はご飯を装った。
「何でオレのご飯はいつも意表を突く凄い料理なの?」
瑞基は真聖にすがるように言った。
「ねえ聞いて下さいよ、お父さん。
オレのご飯悲惨なんですよ、毒々しいミートパスタとか、赤ワ……………てっ………………。」
席に着いた隆一朗は瑞基の脚を蹴った。
隆一朗を見るとニコニコ笑う顔にオーラが迸っていた。
『余計なこと言ったら後で殺す!』
瑞基は大人しくなった。
真聖は何のことか解らずポカンとしている。
「いいから、食べて。」
瑞基はめったに食べられない、まともなご飯を噛み締めた。
夜、夕食の後真聖と隆一朗、瑞基はリヴィングで寛いでいた。
真聖は新聞を、お茶を飲みながら読み、隆一朗は自分の部屋から本を持って来て読んでいた。
瑞基はかぶり付きで久し振りのテレビをポテチ片手に満喫していた。
「賑やかなのも良いものだな。」
真聖は瑞基を見ながら言った。
隆一朗もテレビを観ながらゲラゲラ笑う瑞基が微笑ましかった。
「ずっと考えていたんだが、この家と土地を売ろうと思っている。」
真聖はリヴィングを見渡して言った。
「この家は色々なことが在り過ぎた。」
隆一朗は真聖の少し節くれだった手を見ながら、こんな手をしていただろうかと思いながら言った。
「そうですね。」
「アパート暮らしも悪く無いな。
好きなクラシックを聴きながら。」
「それも悪く無いかも知れませんね。」
隆一朗は、この七年で増えた真聖の白髪頭を見詰めた。
「父さんは強い人ですね。
ボクはその強さに甘えていた気がします。」
息子の思いも依らない言葉に少し驚いたが微かに笑って言った。
「強いんじゃない、流されて来ただけだよ。」
「お父さんは再婚とか考えて無いんですか?」
突然、瑞基が参加して来た。
「流行ってますよ、熟年の婚活。
お父さんのルックスならまだまだいけますよ。」
真聖は笑って言った。
「再婚には、もう懲りたよ。
君は面白い子だなあ。」
「勿体無いなあ、お父さんなかなかのロマンスグレーだと思うんだけどなあ。」
隆一朗は笑った。
真聖も笑っていた。
真聖が寝室に入ると隆一朗と瑞基も二階の隆一朗の部屋にさがった。
部屋のドアを閉めると隆一朗はドアに凭れて眼を閉じ、深呼吸した。
「きつい?」
瑞基が訊いた。
「うん、正直きつい。」
瑞基は隆一朗を優しく包むように抱き締めた。
「オレが居るよ。」
「有り難う。
キミが居てくれるから、ボクは耐えていられる。」
「夕べはごめん。」
隆一朗は言葉の代わりに瑞基の背中に手を回して口付けた。
二人は長い間、口付けたまま抱擁をしあった。
「ボクはここで、しなければならないことがあるんだ。
付き合ってくれる?」
隆一朗はバスルームの前に立っていた。
瑞基が後ろから抱き締め首に口付けた。
隆一朗は瑞基の髪に頬摺りした。
「大丈夫だよ。」
隆一朗はバスルームのドアを開けた。
あの日、彼女の姿が見えないことに不安を感じて家中を探し回った。
前の日、彼女と愛し合っている処を真聖に見つかり問い詰められた。
「ボクは彼女を愛してる。」
俯いて何も言おうとしない彼女に聖詞は言った。
「ボクとこの家を出て、二人で暮らそう。」
「何を莫迦なことを言ってる!」
真聖は怒鳴った。
「莫迦じゃない!
あなたが彼女を幸せにできないならボクが彼女を幸せにする!」
聖詞はベッドから飛び出すと素早く服を着て彼女の腕を引いた。
「行こう!」
だが、彼女は静かに涙を流すだけだった。
真聖は耐えきれず部屋を出て行った。
暫くして冷静になった聖詞は泣きじゃくる彼女の背中を優しくなでた。
彼女は泣きながら服を着ると何も言わず部屋を出て行った。
聖詞はベッドの上で膝を抱えたまま何時間も考えあぐねていた。
気が付いたら朝になっていた。
これからのことをもう一度彼女と話し合おうとリヴィングに降りた。
真聖は会社に出かけたらしく居なかった。
何処を見ても彼女の姿が無い。
寝室にも、仏間にも、真聖の書斎にも彼女の姿は無かった。
最後にバスルームを覗いた。
脱衣所の向こう側でシャワーの音がしていた。
聖詞は安心して去ろうとしたが、何かがおかしかった。
聖詞は思いきってドアを開いた。
そこには息絶えた彼女が蒼白な顔で眠るように壁に凭れ、首を傾げていた。
シミーズ姿の彼女にシャワーの雫が容赦なく降り注がれ、手首からは惜しげも無く赤い血が流れ排水口に吸い込まれて行った。
聖詞は彼女に飛び付いた。
胸に耳を当てても、鼻の下に手を当てても、もう、何処にも彼女が生きている片鱗は残されていなかった。
彼女の手を握り、彼女の血に塗れながら叫んだ。
「眼を開けて。
眼を開けて。
眼を開けて!
眼を開けて!
眼を開けて!!」
何度叫んでも目覚める筈も無かった。
隆一朗は改装されたバスルームをぼんやりと見ていた。
瑞基が後ろから抱き締めると隆一朗は大きく息を吸い込んだ。
閉じた眼から一筋の涙が頬を伝った。
「隆一朗…………………。」
「大丈夫だよ。
未だなんだ、挨拶。」
隆一朗は仏間に入って行った。
戸口で瑞基は隆一朗を見守った。
隆一朗は仏壇の前に正座すると遺影を見上げた。
聖流の母親と彼女、聖流の遺影が並んでいた。
隆一朗は耳から黒真珠のピアスを外して仏壇に置いた。
手を合わせ俯いた。
『ボクはボクを許そうと思う。
貴女のことを忘れる訳じゃ無い。
でも、そろそろボクも前を向いて生きても許される気がしてるんだ。
聖流、ボクは強くなれる気がするよ。』
「さようなら、沙夜子さん。」
そう言うと隆一朗は思い切ったように力強く立ち上がって瑞基を振り返った。
瑞基は相変わらず心配そうに隆一朗を見ていた。
仏間の戸を閉めると瑞基は仏間を気にして言った。
「あのピアス……………。」
「彼女のなんだ。
彼女のお婆さんの形見でとても大切にしてたのを拝借してた。
もとは指輪だった物をピアスにしてたんだ。
でも、今はこれがあるから。」
隆一朗は左手の指を平つかせた。
薬指に瑞基の指輪が光っていた。
瑞基はやっと安心したのか、嬉しそうに笑った。
真聖の容態が随分と落ち着いて来たのと、これ以上、魁威の好意に甘える訳にも行かないので二人は帰ることにした。
真聖は一瞬残念そうな顔をしたが直ぐにいつもの厳格な表情を取り戻して言った。
「この家を売るのはまだ先の話だ。
ここはお前の家だ、いつでも帰って来るといい。」
瑞基を見ると言った。
「キミもいつでも来なさい。」
「有り難うございます。」
瑞基はペコリと頭を下げた。
真聖は玄関先に出ると二人を見送った。
エリザベータに着く頃には既に陽が落ちていた。
「それで、結納は上手く行ったか?」
魁威がふざけて言った。
隆一朗は溜め息をつきながらカウンターのストゥールに座った。
「魁威、それ洒落にもならないよ。」
「おお、気付かないとでも思ってるのか、その結婚指輪。」
隆一朗は指輪を見詰めた。
「羨ましい?」
隆一朗はアルカイックスマイルを向けた。
「羨ましいね。
俺も欲しいよ、自分を投げ捨ててでも、自分に、必死に尽くしてくれる相手が。」
「瑞基には感謝してる。
何も返すことができないけど。」
「何も返してなんか要らないよ、オレ隆一朗の傍に居られるだけで幸せだもん。」
瑞基が隆一朗の隣に座った。
「魁威さんホットチョコレート作ってくれる?
隆一朗の奢りで。」
「傍に居るだけじゃないみたいだよ。」
隆一朗は苦笑いして見せた。
魁威は笑った。
「魁威、いつも有り難う。
お陰で父との距離が近くなった気がするんだ。」
「良かったな。
親父さんの顔見る度に幽霊にでも逢ったような顔してたからな。
ところでさ……………………。」
魁威は隆一朗の前に頬杖をついて言った。
「樹良と麗畏がバンド再開するって盛り上がってるんだけど。」
「そうなんだ。
いいかもね、ボクのせいで随分停止状態だったからね。」
「うん、実はライヴの予定入れちゃったんだよね。」
「ふーん、いつ?」
隆一朗はタバコに火を点けた。
魁威はニコニコして言った。
「来月。」
隆一朗は吸い込んだ煙にむせた。
「一年もブランクあるのに急じゃない?」
「二人共イケイケ状態でさ。」
「解った、何とかするよ。」
瑞基が心配そうに言った。
「大丈夫なの?
この間、上手く指……………いっ………………。」
隆一朗は無表情で瑞基の脚を蹴った。
「どうした、瑞基。」
「や、何でも無い。」
瑞基は顔をひきつらせて笑った。
ースマホー
「わあ、どうしたの、このスマホ?」
ナイトテーブルに置いてあるスマホを見て瑞基が叫んだ。
「買ったんだ。」
隆一朗は夕食の仕度をしていた。
「でも、電話嫌いだって…………。」
「ちょっとした心境の変化。」
「ふーん。」
瑞基は微笑んだ。
『実家に帰ったことで吹っ切れたんだ。』
瑞基は着替えると食卓に着いた。
「今日は揚げ物?
珍しいね。」
隆一朗はいつになくニコニコしていた。
「これ、サワークリームだよね。
見た感じ天ぷらみたいに見えるけど。」
瑞基は天ぷらとおぼしき物を口に入れてみた。
口の中にフルーティーアンドジューシーな食感と味が広がった。
「これ、イチゴだよね。」
半ば睨むように瑞基は隆一朗を見た。
「これをおかずにご飯食えと?」
隆一朗は手を合わせて、いただきますモードに入っていた。
「なんで、お父さんにはまともなご飯つくるのに、オレのはこうも意表を突く料理なの?」
瑞基は必死に訴えた。
「父にこの手のジョークは通じないよ。」
隆一朗は平然と答えた。
「オレ、毎日ジョークな食生活してるの?」
「今頃気付いたの?
鈍いね。」
「ねえ、オレ愛されてるよね?」
隆一朗は真顔で瑞基を見詰めて言った。
「勿論。」
「ねえ、料理にも愛情注いで欲しいんだけど。」
「毎日、有り余るほどの愛情を注いでるつもりだけど。」
瑞基は項垂れ、諦めて食べ始めた。
他にキウイフルーツと梨が天ぷらにされていた。
急に隆一朗のスマホが鳴った。
「隆一朗、誰かから着信来てるよ。」
「え?」
隆一朗は怪訝な顔で電話に出た。
「………………………。」
「どちら様ですか?」
「ボクだよ、隆一朗。」
隆一朗の顔が険しくなった。
「キミは………………。」
「ボクは実態を得たんだ。
キミは自分を許すことにしたんだってね。
でも、ボクは許さない。」
隆一朗は黙って次の言葉を待った。
「瑞基くんが随分大切のようだね。
彼が苦しむ顔を見たくない?」
隆一朗の眼が大きく見開かれた。
「彼は関係無いだろ!」
「キミが一番大切なものだよ。」
通話が切れた。
隆一朗はスマホを握り締めたまま放心状態になった。
「隆一朗?」
瑞基は心配そうに隆一朗を見ていた。
「ごめん、何でも無いよ、間違い電話。」
隆一朗は笑顔を瑞基に向けた。
ー亀裂ー
『どうすれば彼から瑞基を守ることができるだろう?』
漠然とした不安に苛つきながら隆一朗はギターを掻き鳴らしていた。
魁威が思い切りスティックを叩きつけた。
「隆一朗!
お前、全然周りの音聴いて無いだろ。
走り過ぎだ。」
隆一朗は我に返って周りを見回した。
麗畏も樹良も『何やってんの?』と云う顔で見ていた。
「どうした、隆一朗らしくも無い。
何苛ついてる。」
「ごめん、ちょっと外行って頭冷やして来る。」
隆一朗は外に出て行った。
見ていた瑞基は魁威に近寄って言った。
「この頃、ずっとああなんだ。
あんな隆一朗初めて見る。」
「こっちでもそうだよ。
こんな初歩的なことミスる奴じゃ無いのに。」
隆一朗は冷たい空気を吸い込むと遠くの家屋の灯りを眺めた。
瑞基が様子を見に来た。
隆一朗はタバコに火を点けた。
「魁威さんも心配してる、最近の隆一朗変だよ。」
「ちょっとナ―ヴァスになってるのかな、久し振りのライヴだし。」
「本当にそれだけ?」
「他に何があるの?」
「時々、凄く怖い顔してる時あるよ。」
「もともとそう云う顔なんだよ。」
瑞基はそれ以上追及するのは止めた。
「隆一朗、疲れてるんだよ。
今夜は帰ったら、この瑞基様が隆一朗を癒すよ。」
「どうやって?」
「お風呂で背中を流すとかさ。」
「いいね、それ楽しみかも。」
いつも通りの瑞基に隆一朗はとりあえず安心した。
ライヴは無事終わり、機材を片付けているとニキータのオーナーが魁威に話し掛けて来た。
「バートリー、復活おめでとう。」
魁威は頭を下げて挨拶した。
「おはようございます。
有り難うございます。」
ニキータのオーナーは三十代後半で他にレストランの経営もしている、この街では遣り手の男だった。
隆一朗達も挨拶に近寄って来た。
「相変わらず、いい音出してるね。」
「どうも有り難うございます。」
「実は、余計なことだとは思ったんだけど、従兄弟が東京で事務所やっててね。
インフェクションってレーベルなんだけど。
キミ達が前に自費で出した音源を送ったら、とても気に入ってくれて、是非紹介して欲しいと言われたんだ。
どうだろう、一度従兄弟に逢ってみてくれないだろうか。」
「喜んでお願いします。」
魁威は満面の笑顔で答えた。
「じゃあ、向こうの都合が決まり次第連絡するよ。」
魁威達は背中を叩き合って喜んでいた。
隆一朗は乗り気になれなかったが周りで盛り上がっている以上、水を差すようなことは言えなかった。
一週間後に隆一朗達は東京へ呼ばれ出掛けて行った。
瑞基は隆一朗から詳しい話を聞かされていなかった。
東京へ行くとだけ聞かされ二日間、隆一朗の居ない日を過ごした。
帰ってからも隆一朗は瑞基に何も話せずにいた。
時期を同じくして、瑞基の噂が学校内で囁かれ始めた。
それは瑞基が同性愛の男と同居していると云うものだった。
噂は瑞基へのいじめの引き金になった。
瑞基が教室の移動をしていると、すれ違った別のクラスの男子達に突然足をだされ転ばされた。
「うわっ、触っちゃったよ。
ホモが移る。」
そう言って逃げて行った。
一緒にいたクラスメイトが言った。
「瑞基、なんで怒らないんだよ。
お前ならやっつけられる相手だろ。」
「別に怒るようなことじゃないよ。」
そう言いながら瑞基は歯をギリギリいわせ拳を震わせていた。
バスケ部も例外では無かった。
「ホモが移る。」と言って、パスしたボールが床に落ちた。
瑞基は選手から外された。
瑞基は決して短気を起こすことはしなかった。
『学校で問題を起こせば、隆一朗と引き離されるかも知れない。』
瑞基はそれだけを恐れていたのだ。
担任は噂を放っておく訳には行かなかった。
綾子が学校に呼ばれ、放課後、綾子と瑞基は職員室に設けられた狭い応接間のソファーに並んで座らされた。
「実は瑞基くんの噂が学校内で問題になっていまして。」
「噂ですか。」
綾子は神妙な顔で担任を見た。
「瑞基くんは自宅から通っているんでしょうか?」
「いえ、知り合いの方のアパートから……………。」
「どう云う事情で。」
瑞基は不安な顔を綾子に向けた。
「我が家の方針です。
自立心を育てる為です。」
綾子は毅然として答えた。
「噂と云うのは、どう云う物なんでしょう?」
担任は言いずらそうに瑞基を見ながら言った。
「瑞基くんが同性愛の男性と同居していると云うものです。
学校としてはこう云う風紀を乱す噂の根源となることは、できれば改善をお願いしたいのですが。」
「そうですか。
うちとしては、その方には絶対的な信頼のもとに瑞基を預けています。
その方に預ける様になってから瑞基は成績も上がっておりますし、真面目にアルバイトなどにも取り組む様になりました。
我が家の方針は間違っていないと思っております。」
担任は苛つきを露わにして言った。
「ですが、それで噂が消える訳ではないので。」
「解りました。
家でも検討してみます。」
職員室を出ると綾子は大きく深呼吸した。
「駄目ね、こう云う処は母さん苦手で。」
「でも有り難う。
オレバイトあるから、これで。」
「頑張って。」
走り去る瑞基に手を振った。
瑞基の姿が見えなくなると綾子は深い溜め息をついた。
その頃、森詩織はエリザベータを訪ねていた。
隆一朗に瑞基の現状を知らせる為だった。
「いじめ?」
テーブルに向かい合って隆一朗と森詩織は座って話していた。
「噂が学校中に広まって。
あの………………同性愛の男の人と瑞基君が同居してるって。
それで瑞基君、バスケ部でも選手から外されて。」
「そう…………………。」
隆一朗は眼を伏せた。
「瑞基君は、隆一朗さんには何も?」
「うん、何も聞いてない。」
隆一朗は暫く指を組んだまま考え込んでいた。
「森さん、お願いがあるんだ。」
隆一朗はおもむろに口を開いた。
「もしも、ボクと瑞基が離れるようなことになったら、彼を支えてあげて欲しいんだ。
彼の助けになってあげて欲しい。」
森詩織は大きな眼を見開き、瞳を震わせた。
「ワタシ、瑞基君の中の隆一朗さんの存在が、どれほど大きいか知ってるんです。
きっと、ワタシでは埋めてあげることはできないって思うんです。」
「ごめんね、勝手なこと言って。
でも、頼めるのはキミしか居なくて。」
森詩織は隆一朗を見詰めた。
そして心を決めたように隆一朗に言った。
「できるだけの事はするつもりでいます。」
「有り難う。」
隆一朗は森詩織に深く頭を下げた。
「ワタシ、もう行きますね。
このことは瑞基君には内緒にして貰えますか。
瑞基君に告げ口するような娘だって思われたくないから。
紅茶美味しかったです。
ご馳走さまでした。」
森詩織はペコリと頭を下げると店を出て行った。
振り返ると魁威と眼が合った。
「隆一朗、お前…………………。」
「仕方ないよ。
最初から解っていたことだったんだ。」
隆一朗は下げたカップを洗い始めた。
ー喧嘩ー
「今夜は何?」
瑞基は夕食の仕度をする隆一朗の肩越しに覗き込んだ。
「ピラフ。」
「ねえ、めちゃめちゃ普通に見えるんだけど。」
隆一朗は野菜を切る手を止めて、瑞基の顔を見詰めた。
「どうしたの?」
「ネタ切れ。」
「ネタ切れ?
隆一朗、どっか悪いんじゃないの?」
「ボクだって、まともに作りたい時もあるよ。」
瑞基はまともに作られたピラフとサラダとコンソメスープを不気味な気持ちで食べた。
瑞基が風呂から出て来ると隆一朗はベッドに横たわって眠っていた。
顔を少し傾けて白いカジシャツにストレートのジーンズ、裸足で細い手を無造作に腹の上に置き仰向けに眠る隆一朗は、思わず息を殺して見入ってしまうほど美しかった。
この美しい青年と自分は愛し合っているのだと思うだけで、瑞基は言い知れない幸福感に満たされた。
瑞基は眠る隆一朗の横に腰掛け、引き寄せられるように眼を閉じ隆一朗の首に口唇を這わせた。
隆一朗はエロティックな吐息交じりの声を漏らした。
瑞基は均整のとれた、しなやかな隆一朗の身体を服の上から優しく撫で、さくらんぼ色に輝く薄い口唇に口唇を押し当てた。
隆一朗は声を漏らし、うっすらと口唇を開き瑞基の舌を招きいれた。
瑞基は口付けながら隆一朗の髪を指先で弄んだ。
隆一朗の口唇はゆっくりと瑞基のキスに反応した。
瑞基がシャツの中に手を忍び込ませ隆一朗の敏感な場所を指先でそっと触れると隆一朗は恍惚の表情を浮かべ、ゆっくりと身体を仰け反らせた。
「また、やってるよ、この二人。」
麗畏がベッドの端に座った。
互いの指を絡ませ瑞基と隆一朗は全裸で抱き合ったまま眠っていた。
「お盛んだねー。」
樹良が床に胡座をかいてウィスキーのボトルを置いた。
「いいんじゃない、相思相愛なんだし。」
魁威は買い物袋をドサッと床に置くと胡座をかいた。
隆一朗が眼を覚ました。
魁威達の顔を見回して言った。
「どうしたの?」
隆一朗が起き上がろとすると瑞基がしがみついた。
「もっと側に居て。」
「瑞基、見られてるよ。」
「え?」
「おはよう、万年エロ瑞基。」
「わっ、また居るし!」
瑞基は毛布を被った。
「また居て悪かったな、エロ瑞基。
お前らもしかして毎晩やってるの?」
瑞基は慌てて顔を出した。
「毎晩じゃ……………、
毎晩じゃ………………………………、
すいません、毎晩やってます。」
「へーぇ、俺、隆一朗ってもっと淡白だと思ってた。」
樹良が言った。
「ボクらの性生活はどうでもいいよ。
で、どうしたの?」
いつの間にか服を着た隆一朗がグラスと氷を持って来た。
「例の話だよ。」
麗畏が言った。
「ああ。」
隆一朗の表情が曇った。
「俺達はあの場で即答しても良かったのに、隆一朗が考える時間が欲しいって言うから、俺達もそれに従ったけど、隆一朗はどう思ってるの?」
樹良は半ば捲し立てる様に言った。
隆一朗は眼を伏せ、暫く黙っていた。
「こんなチャンス二度も無いよ。」
麗畏が言った。
「俺も、俺達がどこまでプロとしてやれるのかやってみたい。」
「プロ?」
瑞基が言った。
「プロって?」
「隆一朗、瑞基に話して無いのか?」
「言ってない。」
「なんのこと?」
瑞基は説明を求めて隆一朗を見た。
だが、隆一朗は眼を伏せたまま瑞基を見ようとはしなかった。
魁威が察して話し始めた。
「インディーズレーベルからお声がかかったんだ。
上京して契約しないかって。」
「凄いじゃない!
もし、そうなったらオレもついてくよ、隆一朗。」
隆一朗は瑞基を見た。
「キミならそう言うと思ってた。
でも、連れてなんて行けない。」
「どうして?」
「キミがここに居られるのは進学が条件だったの忘れたの?
それと、ボク個人のことでキミの人生を左右することなんてできない。」
「どう云う意味?」
「キミがボク達に付いて来るとして、学校はどうするの?」
「高校は中退。
もしくは転校?」
「転校するとして、ご両親をどう説得するつもりなの?」
「そんなこと言ってたら八方塞がりじゃん。」
「そう、だからキミを連れては行けない。」
「やだよ、そんなの!
また、離れ離れになっちゃうよ。
学校なんて辞めたっていいよ。
「それは隆一朗が許さないのを瑞基はわかってるだろ?」
魁威が言った。
「だから、隆一朗は言えないでいたんだよ。」
「嫌だよ、やっと二人で落ち着いて暮らせるようになったんだ。
オレは絶対嫌だからね!!」
瑞基は洗面所に飛び込んでドアを閉めた。
暫く沈黙が続いた。
樹良が口を開いた。
「ごめん、俺、自分のことしか頭になくて。」
麗畏が言った。
「完全に舞い上がってて、こんなことになるなんて考えもしなかった。」
「ごめん、みんな今日はこれで帰って貰えないかな、瑞基と二人きりで話がしたいんだ。」
「解ったよ。」
魁威達は帰って行った。
隆一朗はベッドに座り、タバコに火を点け、俯いた。
「いつまでそこに裸で居るつもり?」
「隆一朗言ったよね、もうオレから逃げないって。」
「言ったよ、憶えてる。
ボクもそのつもりでいたよ。」
「じゃあ、どうして?!」
「ボクだって平気な訳じゃ無いよ。
だから言えなかった。」
瑞基はそっとドアを開け項垂れた隆一朗の背中を見た。
瑞基は洗面所から出るとベッドに散らばる服を着始めた。
「キミだって、感じてたんじゃない?
ボク達が一緒に居られない限界を。」
瑞基の服を着る手が止まった。
「お願いだから連れてってよ。」
「キミには大きな可能性があるよ。
一時的な感情で、それを反故にするの?」
「一時的な感情って………………。
そんな風に思ってたの?」
隆一朗は瑞基を振り返って言った。
「そんなの解らないだろ?
ボクは彼女を永遠に愛してると思ってた。
でも今はキミを愛してるんだ。」
「ずるいよ、そう云う言い方。」
服を着終わった瑞基は隆一朗とは反対側からベッドに座った。
二人は背を向け合って沈黙した。
時間だけが重苦しく過ぎた。
「このまま…………………」
瑞基がおもむろに言った。
「このまま、二人で誰も知らない街で暮らせたらいいのに。
同性愛者って言われてもいい、ずっと二人で……………………。」
「それ、いいかもね。」
「本気じゃない癖に。」
瑞基は頭を抱えて言った。
「ねえ、どうしてオレの人生をオレに決めさせてくれないの?」
「愛してるから。
愛してるから、キミに悔いの無い人生を送って欲しいんだ。」
「オレ、きっと隆一朗と離れた人生送った方が悔やむと思うよ。」
「ごめん、多分これはボクのエゴだ。」
「解ったよ………………。
毎週末に逢いに行く。」
隆一朗は突かれたように瑞基を振り返った。
「何莫迦なこと言ってるの!
そんなことして、入試が上手く行くと思ってるの?」
「じゃあ、いつ逢うの?」
「逢わない。」
瑞基は隆一朗の言葉が信じられなかった。
驚きに大きく眼を見開いて言った。
「今、なんて?」
隆一朗は眼を伏せた。
「逢わないって、言ったんだよ。」
「それは終わりってこと?」
隆一朗は眼を伏せたまま言った。
「…………………そう……………………。」
「訳解んないよ、今愛してるって言った口で、なんでそんなこと言えるの………………?」
隆一朗は無感情に言った。
「それがお互いの為だから。」
「オレと逢わないことが隆一朗の為になるって言うの?」
隆一朗は黙った。
瑞基は立ち上がって隆一朗を見た。
隆一朗は眼を伏せて無表情だった。
「オレ、隆一朗が解らなくなった。
同じ気持ちだって信じてたのに………………。」
瑞基は居たたまれなくなって部屋を飛び出して行った。
隆一朗は静止したまま動けなかった。
玄関のドアが大きな音を立てて閉じた瞬間、隆一朗は崩れる様にベッドにうつ伏した。
瑞基は無茶苦茶に走っていた。
ー紫の館ー
この街の郊外に紫の館と云う洋館があった。
名前の通り壁も屋根も紫色をしていた。
噂の絶えない建物で頻繁にホモセクシュアルやレスビアン、トランスジェンダー等の人種が近郊から集まり出入りしていた。
違法薬物の売買が行われているなどと云う噂も囁かれていた。
会員制で、会員の知り合いが同伴しないと中に入ることができないと言われ、一般人は避けて通るような場所だった。
瑞基はマルトのドアを開けると客がいるのも構わずカウンターに駆け寄りマスターに言った。
「アンタなら面白い処しってるだろ、連れてってよ!
なんなら寝てやってもいいよ!」
マスターは驚いたが瑞基を面白そうに眺め、急用ができたからと言って数人居た客を返し、店を閉めた。
駐車場に瑞基を連れて行くと自分の車に乗せた。
「あれから、隆一朗には逢えたのかい?」
瑞基は不機嫌に答えた。
「隆一朗のことはいいよ、話したくない。
それより、面白いことしたい、気分が晴れるような処、アンタなら知ってるだろ?」
「いいよ、連れてってやるよ。」
マスターは車を発進した。
隆一朗はベッドに座り膝に肘を載せ、組んだ指を額にあて、俯いたまま考え込んでいた。
スマホの着信が鳴った。
隆一朗が画面を横目でみると樹良からだった。
隆一朗が画面に触れ耳にあてると樹良はひどく慌てた様子で話した。
「瑞基を見たんだ。
マルトのマスターと紫の館に入って行った。
なんでも無いと良いけど。」
「教えてくれて有り難う。
とりあえず行ってみるよ。」
「あそこ会員同伴じゃ無いと入れて貰えないよ。」
「それは何とかするよ。」
隆一朗は樹良との通話を切ると、タクシーを呼んだ。
上着を羽織ると外に飛び出し階段を駆け降りた。
紫の館に着くと、とりあえず玄関の呼び鈴を鳴らした。
暫くして扉が開くと軽快なポップスが喧しく耳を刺激した。
明らかに女装した小男がいぶかしげな顔で隆一朗を見上げた。
「あなた同伴者が居ないの?
じゃ、入れてあげらんなーい。」
隆一朗は小男の腰に手を回して濃厚なキスをした。
「これで、あなたとボクは知り合いでしょ、あなたが同伴者になってくれますよね。」
隆一朗はにっこり微笑んで見せた。
小男はぽーっとして頷いた。
「あなたよく見るといい男、なんなら案内しましょうか。」
隆一朗は後まで聞かずに中に押し入った。
「瑞基!」
建物の中はサイケな配色で、絢爛たる悪趣味さに彩られていた。
人でごった返す中、隆一朗は瑞基の姿を求めて突き進んだ。
中央にある階段を登り部屋の一つ一つを覗いては瑞基を呼んだが瑞基の姿は中々見つけることができなかった。
人の中を泳ぐように進んでいると隆一朗に抱きつく者や、中にはキスしてくる者も居た。
隆一朗はそれに構わず瑞基を探し求めた。
ロココ様式のソファーが一つ置いてある部屋があった。
ソファーの背凭れの陰から黒に茶のメッシュが入った髪が零れているのを見つけた。
隆一朗は瑞基の名前を呼びながら入って行った。
ソファーに瑞基がシャツをはだけさせ横たわり、その上にニューハーフが乗って愛撫していた。
隆一朗はニューハーフの腕を掴むと引っ張り上げた。
「痛ーい。」
ニューハーフは緊張感の無い悲鳴を上げて瑞基から降りた。
「瑞基。」
隆一朗は瑞基の頬を軽く叩いた。
瑞基は酔ったように虚ろな眼で隆一朗を見た。
隆一朗は瑞基の腕を自分の首に巻き付けると足元がおぼつかない瑞基を立たせた。
「瑞基、しっかりして。」
「隆一朗?
なんで、ここに居るのお?」
呂律が回っていなかった。
「隆一朗じゃないか。
君にこんな場所の知り合いが居るとはね。」
マルトのマスターが壁に持たれてタバコを吹かしていた。
隆一朗はソファーに瑞基を座らせると、マルトのマスターに飛び付いた。
マスターの胸ぐらを掴んで怒りに声を震わせ言った。
「瑞基に何を飲ませた。」
マスターは、ヘラヘラ笑った。
「さあね、何だったかなー。」
隆一朗は胸ぐらを引いて自分の顔に近付け睨みつけた。
マスターの踵が持ち上がっていた。
隆一朗は声のトーンを落として言った。
「何を飲ませたかと訊いてる。」
瑞基は虚ろな意識の中で隆一朗がひどく怒りを露わにしているのに驚いた。
マスターはビビって言った。
「ただの睡眠薬だよ。
ヤバい薬は与えてない。」
隆一朗は手を離すと膝でマスターのみぞおちを蹴り上げ、両手を組んで身体を丸めたマスターの首を狙い、思い切り殴りつけた。
マスターは咳き込みながら床に崩れ落ち、腹と後頭部を押さえて、気絶した。
「キスマークのお返しだよ。」
隆一朗は瑞基を抱えながら言った。
瑞基はぼんやりとした頭で、その様を見ていた。
『隆一朗、まだ根に持ってたんだ。
結構、執念深い。』
瑞基は笑った。
その様子を見ていたオーディエンス達は来た時とは一変して隆一朗と瑞基に道を空けた。
見ていなかった者達も、その場の空気に静まりかえり道を空けた。
その中を隆一朗は瑞基を気遣いながら突き進んだ。
外に出ると、隆一朗は瑞基を心配して言った。
「他に何もされなかった?」
瑞基はふらふらしながら隆一朗の腕をほどいて投げ付けるように振り払った。
「どうせ別れるんだから、どうだっていいだろ!!」
隆一朗は瑞基の頬を思い切り平手打ちした。
そして踵を返すと瑞基を置いてスタスタ歩き出した。
瑞基は頬を押さえその場に立ち尽くしていた。
ー禁欲ー
瑞基が帰ると隆一朗はシャワーを浴びていた。
帰って来る過程で薬は殆ど醒めていた。
瑞基はベッドに座り込んだ。
シャワーの音が止むと暫くして隆一朗が全裸で出てきた。
隆一朗はまるで瑞基が居ないかのようにベッドに潜り込んで寝てしまった。
「隆一朗があんなに怒ってるとこ初めて見た。」
隆一朗は黙っていた。
「まだ根に持ってたんだね、キスマークの件。」
「黙ってくれないかな、休みたいんだ。」
隆一朗は身動きせず静かに言った。
「ごめん。」
瑞基は立ち上がると風呂場に行ってシャワーを浴びた。
隆一朗は眠れずにいた。
『瑞基の噂を流したのは、多分彼だ。
瑞基と離れることで矛先が変わってくれるといいけど。
これ以上エスカレートする前に。』
「起きて、瑞基。
学校遅れるよ。」
隆一朗のいつもの声が聞こえた。
瑞基は眼を覚ますと飛び起きた。
「隆一朗!」
隆一朗がキッチンの陰から顔を覗かせた。
「どうかした?」
いつもの隆一朗だった。
瑞基は着替えながら言った。
「隆一朗、もう怒って無いの?」
「怒ってるよ。
だから、昨日の罰として、今日から一週間禁欲ね。」
「えええっ!!」
「そんなに驚くことじゃないだろ。
あんな滅茶苦茶なことしたんだから、当然だよね。」
隆一朗は料理の載った皿をテーブルに置きながら言った。
「それ、厳し過ぎやしませんか。」
着替えた瑞基はテーブルに手をついて隆一朗を見上げるように首を傾げた。
「あそこへ入ってキミを探し出すまでに、何人のゲイにキスされたと思ってるの。
ボクの精神的苦痛を考えたら軽い方だよ。」
「あの魑魅魍魎の中を、そんな思いまでして迎えに来てくれたんだ。」
「魑魅魍魎…………………。」
隆一朗は笑った。
「ボクは行くよ。
魁威達の可能性をボク一人の我が儘で無駄にはできない。」
「やっぱりオレは連れていっては貰え無いんだ。」
「キミにはキミの可能性がある。」
瑞基は黙った。
「早く食べないと遅刻するよ。」
「オレは可能性なんて、どうでもいいよ。」
瑞基は座って朝ご飯を食べ始めた。
隆一朗は、そんな瑞基を哀しげな眼で見詰めた。
「夕べ、あれからどうした?」
魁威がカップを拭きカウンターの中の壁の棚に並べながら言った。
隆一朗はモップで床を拭いていた。
「行くことに決めたよ。」
「瑞基は。」
「納得してない。」
「そうか。
どうにかして連れて行く訳には行かないのか?」
「それは無理だよ。
親の保護下にあるのに瑞基の一存でどうにかできる問題じゃ無い。
今、一緒に暮らしてることだって奇跡だよ。」
「だよなあ。
隆一朗はそれでいいのか?
本当はここで瑞基と暮らしていたいんだろ?」
隆一朗は床に視線を落としたまま言った。
「愚問だよ。」
「…………………そうだやな。」
魁威は溜め息をついた。
瑞基が帰宅すると隆一朗は、いつもの様に夕食の支度をしていた。
「できるまで時間かかるから、それまでお風呂にでも入ってて。」
「ねえ、たまには趣向かえて、食事にします? お風呂にします? それともボク? とか言って貰えたらオレ、めちゃロマン感じるんだけど。」
隆一朗は思い切り冷め切った眼で瑞基を見た。
「すいません、もう言いません。
お風呂入って来ます。」
瑞基はそそくさと風呂場に行った。
瑞基が風呂からあがると食事の支度ができていた。
隆一朗は鍋を洗っていた。
瑞基は後ろから隆一朗を抱き締めた。
「瑞基、禁欲期間中だよ。」
「オレ、気付いちゃったんだ。」
「何を?」
「隆一朗はオレに求められたら抵抗できない。」
瑞基は隆一朗の肩まで伸びた茶髪を掻き上げ隆一朗の項に愛撫し、服の上から隆一朗の身体を撫でた。
隆一朗は手を伸ばして瑞基の頭を抱いた。
そして隆一朗の肩に愛撫する瑞基の髪に頬摺りすると、瑞基と隆一朗は口唇を重ね合わせた。
隆一朗の身体をこちらに向かせると瑞基は自分の身体を押し付け、隆一朗の口唇に口付けながら、隆一朗の太ももから腰へと手を滑らせ、そのままシャツを持ち上げ指先で愛撫した。
隆一朗は瑞基の後頭部に指をうもれさせ受け応えた。
瑞基は口唇を離すと言った。
「ね、拒絶できない。」
隆一朗は、それには答えず瑞基に口付けた。
いつもの様に隆一朗は求めるように舌を絡ませた。
長いキスの後、瑞基は隆一朗を抱き締めて、囁くように、祈るように言った。
「離れたく無いよ、離れたく無い。」
隆一朗と瑞基はいつまでも抱き合っていた。
ー離別ー
「これから上京しようって人が当日まで何も用意してないってどうよ。」
瑞基はベッドに長い脚を伸ばして座り、動き回る隆一朗を眼で追った。
「そお?」
隆一朗はそれほど大きく無い鞄に着替えを詰めながら言った。
「向こうに行ったら行ったで、どうにかなるんじゃない。」
「隆一朗って万事着の身着のままだよね。」
「いちいち先のことまで考えてたら切りが無いよ。
キミがここを出る時は、全部適当に処分して構わないから。」
「このピアノも?」
隆一朗の動きが止まった。
隆一朗はピアノを撫でた。
「仕方ないよ、生きて行く過程で切り捨てて行かなければならないものもあるよ。」
「オレもその一つなんだ。」
隆一朗は瑞基を振り返った。
だが何も言わず作業を進めた。
「隆一朗はいつもそうなんだよ、都合が悪くなると黙るんだ。」
「今ここで喧嘩しても、何も変わらないよ。」
隆一朗は鞄のファスナーを閉めると白い細身のジャケットを着込んだ。
「荷物、それだけ?」
「そうだけど。」
隆一朗は瑞基の前に立つと手を差し出した。
瑞基は差し出された手を見詰めた。
そして、顔を背けた。
隆一朗は差し出した手を握ると瑞基に背を向けた。
隆一朗がドアノブを握ろうとした時、瑞基は叫んだ。
「嫌だ!!」
隆一朗は思わず振り返った。
「嫌だよ!
嫌だよ。」
瑞基は立とうとしたが床に手をついた。
膝をついて項垂れ、あふれる涙が絶え間無く落ちて絨毯を濡らした。
「嫌だ、隆一朗。
嫌だよ。」
瑞基は激しく首を振った。
「隆一朗と離れて、どうやって生きて行けばいいんだよ。
総てなんだ。
総てを掛けて愛してるんだ。
何を捨てても惜しく無い。
隆一朗以外何も要らない。
傍に居たいんだ。
傍に………………………………。」
瑞基は激しく乱れた呼吸を繰り返した。
隆一朗の手からバッグとギターケースが落ちた。
駆け寄って瑞基をあらん限りの力を籠めて抱き締めた。
瑞基は隆一朗の背中に手を回してしがみついた。
隆一朗は瑞基の髪に頬摺りしながら囁いた。
「愛してる。
愛してる。
愛してる……………………………」
瑞基はその声に少しずつ落ち着きを取り戻した。
「愛してる、それは変わらない。
それだけは変わらないよ。」
隆一朗は瑞基の頬に口付けた。
瑞基はそれに直ぐに反応して、隆一朗の口唇を求めた。
二人は激しく口唇を求め合い、何度も口唇を重ね合った。
隆一朗は深く口付けた。
瑞基の隆一朗にしがみつく力が少しずつ緩んで行った。
永遠に続くかと思われるほどの口付けに瑞基は虚ろになった。
「愛してる。
それだけは変わらない。」
隆一朗と瑞基は時を忘れて抱き合った。
瑞基が落ち着いたのを見届けると隆一朗はギターと小さな鞄を持って部屋を出て行った。
瑞基はベッドに座り、俯いて隆一朗が出て行く音に耳を澄ませていた。
玄関のドアが閉まる音が聞こえると、瑞基は額に手をあて涙が溢れるのに任せた。
隆一朗は住み慣れたアパートと最愛の恋人を振り返った。
胸に痛みが走った。
今年初めての大粒の雪が灰色の空から舞い降り、地面に吸い込まれて行った。
隆一朗はゆっくりと歩き始めた。
第二章 fin
ここまで読んで戴き有り難うございます。
読んで下さる方が増えて来て嬉しい限りです。
とても励みになります。
目安としては10日に一回くらいのペースで更新できればいいなと思っております。
読んで戴けると幸せです。
よろしければ、感想など戴けると嬉しいです。
作品の中に紫の館が出てきますが、映画のラ・カージュ・オ・フォールをイメージして書きました。