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ラプンツェルの接吻  作者: 楓海
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第1章

 リスカや軽度の鬱表現がありますので、ご注意下さい。

 かなり長くなっております。


   ー出逢いー

「もういい!!

 こんな家なんか出て行ってやる!!」

 瑞基は眼をひっつりあげ父親の池籏孝久に向かって叫んだ。

 母親の綾子はキッチンで溜め息をつきながら、またか、と云う風に首を振った。

 孝久は新聞から眼を離さず言った。

「好きにしろ。」

「上等だよ!

 出て行ってやる!!」

 瑞基は手で(くう)を切り素早く(きびす)を返すと自分の部屋がある二階へとバタバタと駆け上がって行った。

 二階を見ながら綾子は言った。

「どうせ二、三日したら、もそっと帰って来る癖に。」

 孝久は何事も無かったように新聞のページをめくった。

 瑞基は頭から湯気を出さんばかりに怒り、ベッドの上目掛けて着替えやら教科書やらを投げつけた。

「見てろ!

 後で吠え面かくなよ!

 高卒だって大成してやる!!」

 中学の修学旅行の時に買って貰ったキャリーバッグに、荒々しくベッドの上の物を投げ入れると階段を駆け降り、メーカー品のスニーカーを履き、家を出た。

 そして闇の中をキャリーバッグを引き摺りながら一目散に駆けて行った。

 やがて闇に響く足音は消え、住宅街は平和を取り戻したように静まり返った。


 この街で一軒しか無いライヴハウス、ニキータではバートリーと云う地元のアマチュアバンドが百人ばかり集まったファン達を沸かせていた。

 爆音の中、想い想いの装いに身を包んだ女の子達がまるで見えない何かを贈るように両手を掲げている。

 入口に、軽いウェーブをかけた短い茶髪にモッズコートを着た瑞基がキャリーバッグをお供に立っていた。

 瑞基はステージを一瞥するとバーになっているカウンターへ歩いて行った。

 カウンターでは暇そうなバーテンダーがカウンターに肘をついて冴えない顔でステージを眺めていた。

「慎一先輩!!」

 と云う声に反応したバーテンダーは危うくカウンターに強か顎を打ちつけるところだった。

 慎一は姉の香奈美の同級生で、よく瑞基の家に遊びに来ていた。 

「瑞基!!」

 慎一は複雑な表情を浮かべて瑞基を見詰めた。

「お前また家出して来たのかーぁっ!!」

「よく解りましたねーぇっ!!」

「何処から見たって、その出で立ちは家出小僧だろっ!!」

 爆音の中、二人はお互いを噛み付く勢いで大声をあげ会話を成立させた。

「今回は、俺は世話できねえぞーっ!!」

「どうしてですかーぁ!!」

「彼女と同棲始めたーっ!!」

「そんなーあっ!!」

「無理なものは無理!!」

「そんな冷たいこと言わないで、お願いしますよーっ!!」

 瑞基は両手を合わせて頼み込んだ。

 しかし慎一は半ばオーバー過ぎるほど大きく首を振った。

 演奏は激しさを増し、ファン達は何かに取り憑かれたように頭を振りヘッドバッキングしていた。

 あまりの爆音に会話は一旦停止した。

 ファンの何人かが追われるようにハコから脱出して行った。

 瑞基は何気なくステージを見上げた。

 ギターリストと眼が合った。

 演奏が終わると耳鳴りがする。

 ギターリストが急にギターを置いて、オールスタンディングのフロアに降りて来た。

 ファン達は波紋が拡がるようにギターリストから距離を置いた。

 ステージのメンバー等が無言で白け、ヴォーカリストは眉をひそめ、ドラマーはスティックを後ろに放り投げスネアに頰杖をついた。

 ベーシストはニヤニヤしながら成り行きを見詰め、キーボードの男だけが無表情でギターリストを見守っていた。

 白いタンクトップに皮のショートパンツ、膝上まであるブーツに淡いグリーンの太腿まである薄いローブを纏ったギターリストは真っ直ぐ瑞基に近付いて行った。

 瑞基はそれに気が付くとギターリストに向き直り構えた。

 ギターリストは瑞基の前で立ち止まると言った。

「一晩泊めてあげようか。」

 瑞基は何を言っているのか理解できず、ギターリストを睨んだ。

「そんな怖い顔しないで。

 ボクは隆一朗。

 バートリーと云うバンドでギターを弾いてるんだ。」

「オレは池籏瑞基。

 ……………で、その隆一朗さんがオレに何の用?」

 瑞基はわざと低音を響かせて言った。

「キミ男の子なんだ、女の子かと思った。

 キミ可愛い顔してるね。」

 その隆一朗の言葉に慎一は激しく慌てた。

 慎一の予想通り瑞基の拳が飛んだ。

 しかし、慎一の次の予想は大きく外れた。

 隆一朗は左手で、表情も変えず瑞基の拳を受け止めたのだ。

 驚いたのは瑞基だった。

 女顔の事に触れた者は瑞基の、殆ど条件反射のように飛び出す拳の餌食になった。

 受け止めるなど論外だ。

 瑞基はこの論外な男に好奇心をそそられた。

「凄いですね。

 オレの女顔に触れて殴られなかったのは、あなたが初めてです。」

 隆一朗は微笑して言った。

「それは光栄です。

 じゃあ、元の話に戻るけど、困ってるんじゃない、今夜寝る場所に。」

「どうして知ってるんですか?」

「キャリーバッグと慎一に神頼みしてたから。」

 瑞基はまじまじとキャリーバッグと慎一を交互に眺めて納得した。

「OKで良いのかな?」

 隆一朗が促す。

 瑞基は隆一朗を改めて観察した。

 そしてその美しさに眼が離せなくなった。

 全体的に柔らかな雰囲気を漂わせる隆一朗は、ストレートの長い髪をわざと乱して、縛った髪を肩から垂らし、化粧を施した顔はまるでゲームのグラフィックから抜け出したような人間味に欠けた美しさを醸し出していた。

 オッドアイに入れた赤と白のカラコンが一層人間的な雰囲気を隠していたかもしれない。

 片耳に男性には珍しい黒真珠のピアスが光っていた。

 瑞基はかつてこんな美しい人間を間近で見たことがなかった。

『この人はいったい何を食べ、どんな日常を過ごすんだろう?』

 瑞基の中で隆一朗への好奇心が一層高まった。

「助かります。」

 その答えに慎一は再び慌てふためいた。

「瑞基!

 それは止めといた方が良いんじゃないか。」

 慎一は口ごもりながら、隆一朗を横目に最後の方はほとんど蚊が鳴くほど小さくなった。

 瑞基は、それには全く気にする風もなく隆一朗に言った。

「じゃあ、今夜宜しくお願いします。」

 隆一朗は軽く微笑し、瑞基の耳元に顔を近付け、小声で何かを囁くとステージに戻って行った。

 演奏は再開された。

 ハコの中に再び爆音が満たされオーディエンス達は儀式に集中した。

「馬鹿瑞基!

 カマ掘られるぞ!!」

「なんです?」

「隆一朗は名うてのセックスマニアなんだぞ!!」

「はあ?」

 瑞基は、慎一の心配をよそに、期待に胸を膨らませていた。

『何かが変わる!

 今までに無い何かが起こるんだ。』



   ー隆一朗ー

瑞基はニキータからほど遠く無い小さな衣料品店の二階にある喫茶店で隆一朗を待っていた。

 ヨーロッパ風の絵画が飾られた店内のあちこちにアンティークドールが置かれ異国の雰囲気が漂う店内にやがて客は瑞基だけになった。

 月桂樹の葉をデザインした時計はもうすぐ11時を指そうとしている。

 3つしかないテーブルは総て窓際に置かれ、瑞基は出入口の傍の席に座っていた。

 夜の黒い硝子に映る自分の姿を見るともなく眺め、気の短い瑞基はテーブルに軽く人差し指を叩きつけていた。

 喫茶店に来て、かれこれ二時間になろうとしている。

 瑞基にしてはよく我慢している方だ。

 それもこれも隆一朗に寄せる期待感の為だった。

 何か新しいことが始まる。

 瑞基はそれを信じて疑わなかった。

 瑞基はそれの正体が何なのか考えることにさえ気付かずにいた。

 ふと、瑞基の脳裏に慎一の言葉が掠めた。

『慎一先輩の言ってたあの噂は本当なのかな。

 あの隆一朗と云う男がセックスマニアで、男女関係無くベッドに誘うって言うのは……………。』

 瑞基はかぶりを振った。

『それか何だって言うんだ?

 嫌なら断ればいいことだし、噂なんて本当かどうかなんて本人に聞かなきゃ解んないじゃん。』

 出した答えは自分で確かめると云うものだった。

 そうすることによって隆一朗のことを知りたいと云う欲求と、もっと見ていたいと云う欲求の2つが満たされる。

 それよりも隆一朗は本当に来るのかが心配になって来た。

 実は凄く気紛れな男で約束をすっぽかすのが通常運転な奴だったら、今夜は秋のこの寒空のなか野宿になる。

 そして隆一朗とは二度と逢うことは無い。

 瑞基の人差し指の速度が速くなる。

 果たして隆一朗が現れた。

「ごめん、遅くなった。」

 瑞基はその、少し鼻にかかった穏やかな声に振り返ると発作的に立ち上がった。

 少し経って瑞基が発した言葉は、

「だれ…………?」

 隆一朗は笑い出した。

「こんなにストレートなリアクションした人は、キミが初めてだよ。」

 そう言われてやっと、化粧をおとした隆一朗なのだと理解した。

 瑞基が笑う隆一朗を眺めながら怒りとも喜びともつかない感情で、

言葉に詰まっていると、隆一朗は突然、瑞基に倒れかかった。

 瑞基は咄嗟に隆一朗の身体を支えた。

 ふわりと外の匂いと苦いコロンの香りがした。

「もう、だめ。

 家に連れて帰ってくれないかな、もう一歩も動けない。」

「そんなこと言われてもどうすれば……………。」

「そうだよね。

 じゃあ、おんぶしてくれる?」

「え……………?」

 瑞基は眼を丸くした。

「冗談。」

 隆一朗は力無く笑って、それからコートのポケットをまさぐると黒くて地味な財布を瑞基に渡した。

「コーヒー代くらいならあるから。」

 瑞基は面食らいながら、それでもヨレヨレの隆一朗を支えながら代金を払い、店を出た。

 秋のひんやりとした空気が、瑞基には心地よかった。

 疲れきった隆一朗はしきりにぶつぶつ何か呟いているが20センチ近くも身長差がある隆一朗の身体を支えながら歩くのに必死で、気にはなっていたが聞き取る余裕がなかった。

 いつの間にか瑞基の額には汗が吹き出していた。

「ギター弾いてるときは、あんなに元気だったのに、歩くのやっとじゃないですか。」

「うん…………、体力無いのはいつも痛感してる。」

「いつも、こうなんですか?」

「今日は特別。

 キミが居たからちょっとやり過ぎた。」

「オレが居たら、何かかわるんですか?」

「何故なか?

 キミが居たらいつもより、頑張れる気がしたんた。」

 瑞基は訝しげに言った。

「殺し文句ですか?」

 隆一朗は笑った。

「そう、殺し文句。」

 暫く歩いていると隆一朗がおもむろに指を差した。

 指の先に視線をやると静かな住宅街にひっそりと古びたアパートが建っていた。

「家、ここなんですか?」

「二階の右端。」

 瑞基は隆一朗の足下に気を配りながら慎重に階段を登った。

『まるで、じじいだな。』

 そう思うと妙に笑いが込み上げて来た。

「なに……………?」

「だって、さっきはあんなに女の子に囲まれて格好良かったのに、今は死にかけたじじいみたいだから。」

 隆一朗も笑った。

「本当に。

 老人だな、ボクは……………。」

 街灯もなかったので、よく見えなかったが、一瞬隆一朗の顔が悲しげに歪んだように瑞基には見えた。

「どうぞ、入って。」

 隆一朗がドアを開けた。

 室内は外より幾分暖かかった。

 一歩部屋に入って灯りが点くと最初に瑞基の眼に飛び込んできたのは、壁に貼られた一枚の大きな絵画のポスターだった。

 白装束の人物が小舟に乗り、向こう側にある小さな島へと向かっている。

 瑞基の視線の先を見た隆一朗が言った。

「ベックリンの『死の島』と云う絵だよ。」

「お世辞にも縁起が良い絵とは言えないですね。」

「うん、タイトルからして暗いからね。」

「…………で、なんでその暗い絵の下にならんでるの?」

 ポスターの下を指差した。

 そこには、大量のぬいぐりみが几帳面に整列していた。

 その光景は一種不気味だった。

「ファンの娘たちから貰って…………。

 お陰で殺風景な部屋が賑やかで良いけどね。」

 確かに殺風景な部屋だった。

 18畳くらいの大きな一間の中に、本棚とセミダブルのベッドと細長い洋箪笥、キッチンには小さな冷蔵庫と食器棚とテーブルと二脚の椅子があった。

 部屋の入口にはアンプが無造作におかれている。

 瑞基は奥にあるベッドに隆一朗を下ろした。

 隆一朗はベッドに倒れこんだ。

 他人の部屋に入って、当の持ち主がヨレヨレでは何をすれば良いのか迷う。

 隆一朗を見ると眠っているのか眼を閉じて動かない。

『すっぴんの方が綺麗だ。』

 素直に瑞基は思った。

 気持ち悪いほど整った少し無機質な感じのする隆一朗の顔を、まるで宝物のように瑞基は見詰めていた。

 細くしなやかな手足と、華奢な肩が酷く繊細な生き物のように息づいている。

 無闇に触れると崩れてしまいそうな、傷付けてしまいそうな、そんな気がした。

 隆一朗の顔を見ていると、瑞基は胸が締め付けられる感じがして、眠る隆一朗の派手なペンダントに飾られた胸元に顔をうずめたくなった。

「……………て……………。」

 隆一朗の眉間が険しくなった。

 (くう)を隆一朗の手が何かを求めるように彷徨(さまよ)う。

 瑞基は思わず彷徨う手を掴んだ。

 隆一朗は強い力で瑞基の手を握り返す。

「……………開けて……………。」

「なに?」

 瑞基は耳をすました。

 瑞基の手を隆一朗は両手で包むように握ると叫ぶように言った。

「眼を開けて!!」

「え………………?」

 隆一朗は叫び続ける、何度も何度も。

「眼を開けて!

 眼を開けて!

 眼を……………………!」

瑞基は一瞬パニックを起こしかけたが、ただごとでは無い隆一朗の有り様に、必死に冷静になろうと頑張った。

『どう見ても隆一朗は眠ってる。

 きっと何かの夢を見てるんだ。

 きっと酷い悪夢。

 ……………と云うことは起こせば治る。』

「起きろ、隆一朗!

 それは夢だよ!」

 握られた手は隆一朗がガッチリ両手で包み込んで動かすことが儘ならない。

 空いた手で隆一朗を揺すった。

 隆一朗の閉じた眼から涙が流れる。

「いやだ。

 いやだ。

 いやだーーーーーっ!!」

 隆一朗は叫ぶ。

『一体どんな夢を見たら、こんなんなるんだ?』

 握った瑞基の手を大切そうに胸に当て、祈るように隆一朗は叫び続けた。

 困り果てた瑞基は必死に隆一朗の手をひきはなそうともがいた。 「隆一朗、頼むから眼を覚ましつてくれよ!」

 やっとの思いで引き離した手をベッドに押し付けると、重厚な作りの派手なブレスレットが外れ、手首が剥き出しになった。

 瑞基は息を飲んだ。

 そこには隆一朗の報われない過去の哀しみが刻印されていた。

 それは何度も何度も繰り返されたであろう傷痕が、美しい隆一朗の白い肌に不協和音のように切り刻まれていた。

「何があったの?

 どうして…………?」

 瑞基の弱々しく(こぼ)れた声が隆一朗を黙らせた。

 放心状態の隆一朗はガクガク震えていた。



   ー温もりー

どれくらい時が過ぎただろうか。

「ごめん。

 もう、大丈夫。」

 隆一朗の声で瑞基は我に返った。

 瑞基は隆一朗を見詰めるが言葉を失くしていた。

 16歳の少年が受け止めるには、余りにショックが強すぎたのだ。

 瑞基はそれまで幸せとか不幸とか、死ですらまともに深く考えることの無い日常を当たり前のように過ごして来た。

 朝、高校に行き、クラスメイトと雑談を交わし、昼からは眠気と戦いながら授業を受け、放課後にはバスケ部でバスケットボールを追いかける。

 帰り道、友達とラーメン屋に寄り、気が向けばゲーセンに行く。

 家に帰ると両親と、歳の離れた姉が一人居た。

 友達の中には複雑な事情を抱える者もいたが、そんな話を瑞基は絵空事のように眺めていた。

 悩みが無い訳では無かったが、死を意識するような、悲痛な悩みに幸が不幸か直面することが無かったのだ。

平凡過ぎるほど平凡な人生を過ごして来た瑞基にとって自分の心を捕らえて離さないこの美しい男の絶望は、初めて味わう強烈な哀しみだった。

「ごめんね、びっくりしただろ?」

 隆一朗は起き上がると瑞基の顔を覗き込んだ。

「大丈夫?」

「だ……………、大丈夫じゃないのはあんただろ!」

 瑞基は叫んだ。

 隆一朗は眼を丸くした。

「なに…………………?」

「何じゃない!

 どうして?

 どうして……………。」

 瑞基は項垂れた。

「やっぱり引いちゃうよね、あれは……………。

 迂闊(うかつ)だったな。

 まさか、眠っちゃうなんて思わなくて。」

 瑞基は、ハッとして顔を上げた。

「眠るといつもああなるの?」

 隆一朗はどう答えるべきか迷った。

 できれば話を逸らせたいと思っていたが、瑞基の真剣な表情から、それは叶いそうもなかった。

 隆一朗は観念するしかなさそうだ。

「どんな夢を見てたの?」

瑞基が遠慮がちに訊いた。

 隆一朗は眼を伏せ話した。

「昔、恋人が自宅のバスルームで手首を切って自殺したんだ。

 眠ると時々その時の夢をみるんだ。」

「だから、後を追おうとしたの?」

 瑞基が畳み込むように言った。

 隆一朗は手首を握り、眼を閉じ頷いた。

 瑞基の胸がズキンと痛んだ。

 瑞基はどうしていいか解らなかった。

 ただ、哀しくて、堪えきれず隆一朗を抱き締めた。

 隆一朗は驚いたが、瑞基の温もりが伝わると静かに眼を閉じた。

「キミは暖かいね。

 人の温もりってこんなにも暖かかったんだ。」

 隆一朗は瑞基の肩に頬を載せて瑞基の温もりを味わった。

 隆一朗の中に忘れていた暖かい灯火が小さく灯り始めた。



    ー不能ー

 それから二人は、暫く他愛無い会話をしている間に、すっかり打ち解けていた。

 隆一朗が深夜の3時になるのに気づくと言った。

「そろそろ寝た方が良いんじゃない?

 キミ、学校は?」

「オレ、家出しても学校行くの?」

 瑞基が呆れ顔で言った。

「キミの年頃なら学校へ行くのは当然の義務だと思うけど。」

 隆一朗は真顔で言った。

「冗談きついよ。

 あんた見た目に依らず真面目腐ったこと言うんだな。」

「ボクは至って真面目だよ。」

 隆一朗は少し怒った顔を瑞基に向けた。

 普段から表情に乏しい無機質な隆一朗だが、美しい故に怖い顔には迫力が増す。

 思わず瑞基は引いた。

「と……………取り敢えず時間も時間だし寝た方が良いかもね。」

 隆一朗が着ていたシャツを脱ぎ始めると、瑞基は眼を奪われた。

 ベックリンの『死の島』をバックに白い背中を露わにした隆一朗は、まるで1枚の絵のように(さま)になった。

 だが、瑞基は、ハッとした。

 慎一の言葉を思い出したからだ。

『もし、あの噂が本当なら、オレ今、めちゃめちゃヤバいんじゃ………。』

 瑞基は焦り始めた。

「このベッド、セミダブルだから余裕で二人眠れるよ。」

 振り向きざまに見た瑞基は、上目使いで、もじもじと落ち着きがなかった。

『ははん…………、なるほどね。』

 隆一朗は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「もしかして慎一から聞いた?

 ボクの噂。」

 瑞基はギクリとした。

 上半身裸の隆一朗は、ゆっくりと瑞基ににじりよって来た。

 ベッドに座る瑞基の処まで来ると瑞基の太腿の横に手をつき顔を近付けてくる。

 瑞基はたじろいた。

「今夜は、キミがボクのひと夜限りの恋人だよ。」

 隆一朗は瑞基の顎に手を当てた。

「まっ…………、オレ………そんな、あの…………、」

 瑞基はあらん限りの声で言った。

「無理!

 無理です!」

 隆一朗は項垂れた。

「ごめん、オレ、ファーストキスもまだで、せめてそれくらいは女の子が良いって言うか……………。

 だから………………。」

「ふふっ。」

「え?」

 隆一朗が肩を震わせ、(こら)えきれず笑い出した。

「ごめん、ごめんね。

 冗談だから安心して。」

「は?」

 隆一朗は瑞基の隣に腰掛けると笑いながら言った。

「あの噂ね、事実無根なんだ。」

「え?」

 瑞基は隆一朗を、ガン見した。

「そんなに珍しい物みるように見ないで。

 ボクも何故そんな噂が真しやかにながれてるのか不思議なんだ。

 物理的に無理なんたよ。

 何故ならボクは完全な不能だから。」

「はあ?」

 瑞基はあんぐりと口を開け驚いた。

「ね、驚くよね。

 ボクも初めて聞いた時凄く驚いた。」

「不能って?」

「うん、男として全く機能しない。

 マスターベーションしなくて済むから面倒くさくなくて楽だけど。」

 一瞬、時が静止した。

 漫画で表現するなら白け鳥がアホーと飛んでいるような場面だ。

『不能って、そんなに明るく言っていいんですか。』

 瑞基は気を取り直し訊いてみた。

「でも、火の無い処に煙は立たないって。」

「その火は、心当たりがある。

 一晩中話し相手してくれそうな人に声掛けてるからだと思う。

 ライヴの後の空虚感て耐えられなくて。」

 瑞基は大きな溜め息をついた。

 その溜め息が隆一朗とリンクしたので、二人は笑い出した。

「……………でも、この部屋に入れたのはキミが初めてなんだ。

 大抵は一晩中やってるファミレスなんかで話をして過ごすんだけど、何故かな?

 キミだけは初めて眼が合った時から特別な感じがしたんた。」

「ふーん。」

 そう言われて瑞基は悪い気はしなかった。

 ただ、隆一朗が不能になった理由が気になったが、それはまた隆一朗の哀しい過去を思い出させることになりそうだ。

 瑞基は沈黙した。



     ーブレックファストー

「瑞基、起きて。

 学校に遅れるよ。」

 秋の強い光が辺りを金色に包んでいた。

 瑞基は眩しくて手を(かざ)しながら答えた。

「んあ、後5分。」

「甘えてもダメだよ。

 すぐ起きないとその嫌味なくらい元気な朝勃ちをおるよ。」

 瑞基は飛び起きた。

「あれ?

 そうだ、夕べ親父と喧嘩して家飛び出して、それから慎一先輩んとこ行って……………。」

 そして、夕べ起きた隆一朗の一連の出来事を思い出した。

「隆一朗!」

 瑞基は部屋を見回した。

「何……………?」

 隆一朗はキッチンの陰から顔を覗かせた。

「隆一朗。」

 その顔を見て、瑞基は安心すると共に複雑な気持ちになった。

 手首には銀色に光る派手なブレスレットが戻っていた。

「おはよう。」

「おはよう、朝食できてるよ。

 今朝は慌てたよ、冷蔵庫カラだったから急いでコンビニ駆け込んで食材調達してね。」

 まだ覚めきらない頭で瑞基は窓から差し込む陽の暖かさに、心地よさを満喫していた。

 しかし、夕べの記憶が鮮明になればなるほど心は重苦しくなって行った。

『隆一朗は、まだ後を追いたいんだろうか?』

「瑞基、早く食べないと遅刻するよ。」

 隆一朗が再びキッチンの陰から顔を覗かせた。

「今何時?」

「そろそろ9時になるけど。」

「はあ?

 9時って、もう学校始まってるじゃん。」

「え?

 そうなの?」

 隆一朗は眼を丸くした。

 瑞基は素早く計算した。

『このまま、やり返せば真面目腐った隆一朗を丸め込めるかも……。』

「酷いな、9時なんてもう授業はじまってるじゃん。

 オレやだよ、今頃行って注目浴びながら教室入るの。」

 瑞基はわざとふてくされて見せた。

「学校って始まるの、そんなに早かった?」

 隆一朗は悪びれもせず言った。

 片眉を上げて瑞基は言った。

「その記憶っていつの?」

 隆一朗は少し考えてから答えた。

「高一だから6年前かな。」

「なんで高一で止まってるの?」

 すかさず、瑞基は突っ込んだ。

「高一の時に家飛び出して、それ以来行ってないから……………。」

「自分が高一で中退してるのに、オレに偉そうに学校行けなんて、よく言えるね。」

 瑞基は心の中でほくそえんだ。

「自分が行けなかったからキミには行って欲しいと思った。」

 隆一朗は厳しい眼を瑞基に向けた。

 瑞基は少しひるんだ。

「とにかく家出しても学校行くって有り得ないから!」

「取り敢えず食べて。

 成長期なんだから、お腹は空いてるだろ?」

 仕方なく瑞基はベッドから出るとテーブルに着いた。

 テーブルには厚切りトーストと焼いた鮭の切り身とスクランブルエッグに刻んだキャベツとトマトが添えられ、コンソメスープにはワカメとネギが浮いていた。

「なに、このガッチリ朝メニュー。」

 瑞基は怪訝な顔を隆一朗に向けた。

「嫌いな物でもあった?」

 隆一朗は心配げに瑞基の顔を見た。

「どうして一人分しか無いの?

 あんた食べないの?」

「ボクは朝、固形物を食べると吐くから。」

「そんなんだから、そんなガリガリでゾンビみたいに顔色悪いんだよ。」

「ゾンビ!」

 隆一朗は少なからずムッとした。

「人ん家来て自分だけ朝飯食える訳無いじゃん。

 半分子して一緒に食べりよ。」

 瑞基は食器棚から皿とカップを取り出すと、分け始めた。

 隆一朗はそれを無表情に眺めていた。

「いっただきまーす!

 ほら、隆一朗も座って食えよ、折角頑張って作ったんだから。」

 瑞基がもりもり食べ始めると、隆一朗も席に着いて食べ始めた。

「ほら、二人で食べると美味しいだろ?

 隆一朗、料理上手いんだな。」

魁威(かい)の経営してる喫茶店で働いてるから、一通りの物は作れるよ。」

「へ~え、オレ料理なんて小学校でやった調理実習くらいでしかやったことないよ。」

 突然、隆一朗は立ち上がると洗面所に駆け込んだ。

 瑞基も慌てて後に着いていった。

 洗面台に顔を突っ込んで隆一朗は吐き始めた。

「マジで吐いちゃうのかよ!」

 一通り、胃に入った物を吐き出すと隆一朗は食器棚の引き出しにあるタオルを持って来るように瑞基に頼んだ。

 瑞基は急いで食器棚の二つある引き出しの片方を引いた。

 そして、絶句した。

 中には大量の薬が入っていた。

 診療内科・神経科、藤岡聖詞と袋に印刷されている。

 おそらく精神安定剤であろう薬の名前が、何種類も並んで一緒に印刷された紙袋が、引き出しいっぱいに詰まっていた。

 瑞基は立ち尽くした。

 暫くして洗面所から手拭きタオルで口を押さえた隆一朗が出てきた。

 引き出しの中を見詰めて突っ立っている瑞基を見て隆一朗は表情も変えず言った。

「そっちの引き出しにタオルは無いよ。」

 瑞基は突かれたようにビクッとして隆一朗を見た。

「あんた、どっか悪いの?」

「そうだな、頭と顔と性格かな。」

「マジで心配してんじゃん!」

「兄の、と言っても母親が異うんだけど、聖流が(うるさ)く病院に行かせるから自然と溜まるんだ。」

 瑞基はおもむろに口を開いた。

「あんた、いったい何が楽しくて生きてんの?

 普通に笑ったりしてるけど、本当に笑ってるのかなって。

 辛いなら辛いって言えばいいのに、妙にヘラヘラしててさ、昨日だってあんな酷い悪夢見たって、引くよねって笑ってるんだ。

 不能の話のときだって……………。」

 隆一朗は表情も変えず何事も無かったように言った。

「今日はこれから喫茶店の仕事があるんだ。

 仕事10時に終わるんだけど、その後からバンドのミーティングと言う名の飲み会が聖流の家である。

 良かったら一緒に行く?」

 そう言って振り返った隆一朗の眼は息が詰まるほど冷たかった。

 瑞基は思わず後退りした。

 隆一朗は黙々と出掛ける支度をした。

 瑞基は突っ立ったまま言葉も無く隆一朗を眼で追った。

 まるでは母親を怒らせた幼児のように。

 隆一朗が部屋を出ようとして、ドアノブを握ると、瑞基はやっと言った。

「オレも行きたい、ミーティング。

 何処で待ってればいいの?」

 振り返った隆一朗は、瑞基が知ってる隆一朗の顔だった。

「じゃあ、10時までにここに居て。」

 隆一朗が出ていくと瑞基はその場にへたり込んだ。

「こえーよ、隆一朗。」



     ー過去ー

 瑞基は一日、隆一朗の部屋で過ごした。

 ここら辺の土地勘も無い瑞基は出掛けて迷い、帰れなくなるのを懸念して、出掛けるのを(はばか)った。

 そして瑞基はある重大なことに気付いた。

 隆一朗の部屋なはテレビどころか新聞や雑誌すらなかった。

『なんでこのサイバー時代にテレビの無い家が存在するかな。』

 仕方なく瑞基は隆一朗を知ろうと隆一朗のCDを掛けまくり、文庫本を読み漁った。

 そして、瑞基は撃沈した。

 CDを聴けば、瑞基が普段耳にするJポップなど1枚も無く外国人の物ばかり、文庫本を漁れば、瑞基が普段眼にするライトノベルズなど一冊も無く、あるのは小難しい純文学ばかりだった。

 そして瑞基は思った。

『隆一朗って何人なんだ?

 絶対、歳間違ってるって!』

 散々聴き捲るうちに隆一朗がいるバートリーのCDを見つけた。

 パソコンで焼き増したのか白いディスクに油性マジックでバートリーと書きなぐってあった。

 聴き慣れない重い感じのするロックだがギターを隆一朗が弾いているのだと思うと妙に身近に感じた。

 狂気的にうねるギターの音だが何処か繊細な感じがして隆一朗らしい気がした。

 数ある文庫本の中から一冊だけグリム童話を見つけ、パラパラ捲っていると『ラプンツェル』のタイトルページの端が折ってあった。

 時間をもて余していた瑞基は『ラプンツェル』を読み始めた。

『ラプンツェル』を読み終える頃、CDから派手なギターの音が止んで、哀しげなピアノが流れ始めた。

 ヴォーカルが入ると瑞基は持っていた文庫本を落としそうになった。

 歌っているのは、どう聴いても隆一朗の声だった。

 瑞基は耳を澄ました。


 ♪今日は帰れない森へ行くんだ

  窓辺で僕を見送らないで

  君の眼差しが闇を追いかけ

  涙に濡れるのを見たくないから

  涙に濡れるのを見たくないから


  遠く離れても忘れはしない

  君のもとへいつか戻ってきたら

  真昼だろうと真夜中だろうと

  熱い口付けで君を狂わすよ

  熱い口付けで君を狂わす


  もしも春まで帰らなければ

  麦の畑に種を蒔くとき 

  僕の骨だと思っておくれ

  麦の穂になって戻った僕を

  胸に抱き締めて迎えておくれ


 丁度曲が終わる頃、隆一朗が帰って来た。

「ああ、これ聴いてたの。」

「これ、隆一朗が作ったの?

 凄く哀しい曲だね。」

「残念だけど、ボクが作った曲じゃないよ。

 古いドイツの曲らしいけど、ボクは名前すら知らないんだ。

 自殺した恋人が好きで、よく歌ってた。

 レクイエムのつもりで入れたんだ。」

 隆一朗は食卓の椅子に腰掛けると伏した。

 瑞基が心配気に訊いた。

「大丈夫?」

「大丈夫だよ、十二時間も働けば疲れもするよ。」

 隆一朗は眉間を抑えながら訊いた。

「お昼、どうしたの?」

「食べてない。」

「夜は……………?」

「食べてない。」

隆一朗は立ち上がると言った。

「途中でコンビニに寄らなくちゃね。」

「オレ、腹空きすぎて死ぬ。」

 瑞基は床に突っ伏した。

「どうして、外で食べるとかしなかったの?」

「オレ、この辺りの地理無いからさあ、帰れなくなったら困ると思って。」

「そう…………………。

 実は凄い方向音痴?」

「その件に関しては、ノーコメント。」

「……………そう、そろそろ行こうか。」

「うん。」


 聖流のマンションは隆一朗の家からそれほど遠く無い場所にあった。

 マンションの階段を登ると聖流の部屋の前で男女がキスをしていた。

 女は男の首に腕を回して世にも熱心だったが男の方は無反応で、両手を遊ばせている。

 瑞基が小声で言った。

「ねえ、今は行かない方が良くね?」

「……………。」

 隆一朗は気にする風も無く、ぼんやりと二人を見ていた。

 口唇を離すと女が言った。

「どうしても来て欲しいんだ。」

 男は隆一朗達に気付くと軽く手で合図した。

 女の方が振り返り隆一朗達を認めると舌打ちした。

「じゃあね、聖流。

 またね。」

 女は長い金髪と、黒地に紅い薔薇の柄を施した着物のようなデザインのコートを(ひるがえ)し隆一朗にわざとぶつかり去って行った。

『どう見てもオレよか年下じゃん。

 可愛い顔して大胆だなあ。』

 瑞基が考えている間に、隆一朗が去って行く女の後ろ姿を見ながら言った。

「あの子が最近、聖流にお熱の美少年かい?」

『美少年ーーっ?

 嘘でしょう!

 負けた。

 オレよか女顔。』

 瑞基は改めて去って行った美少年を見送った。

 それから、隆一朗と聖流を交互に見ながら思った。

『弟は不能なのにセックスマニアとか噂され、兄はホモですか。』

 瑞基は軽いカルチャーショックを起こしそうになった。

「央って言うんだけど、参ってる。

 来週末に別荘で一緒に過ごしたいと熱烈なお誘いでね。

 男に興味は無いと散々言ってるんだが全く聞く耳ん持たないんだ。」

「随分、愛されてるんだね。

 可愛い子じゃない。」

「ほーう、聖詞、お前はそんなに俺にゲイになって欲しいのか。」

「聖流の性癖に興味なんて無いよ。」

 聖流が隆一朗の陰に居た瑞基を覗き込み言った。

「お前こそ、その子は昨日ナンパした子だろ?

 どうした、こんな処まで連れて来て。

 お前もとうとう男に目覚めたか。」

「目覚めてません!!」

 瑞基が断固否定した。

 隆一朗が言った。

「エサあげたら着いて来たんだ。」

『エサって、オレは犬ですか!』

 部屋に入るとブルジョワな匂いがする家具が揃っていて、がらんとした隆一朗の部屋とは対照的だった。

 ベランダの傍には黒いグランドピアノが置かれ、中央には硝子テーブルをベージュのソファーが挟んでいる。

 そのソファーに昨日、ステージに居たであろうメンバーが揃っていたが、瑞基は隆一朗以外覚えていないので誰が誰やら解らなかった。

 皆、青やらブロンドやらに髪を染めていたので、随分華やかな眺めだった。

「珍しいな、隆一朗が稚児(ちご)連れて来た。」

 と、誰かが冷やかすと隆一朗が声のした方へ(がん)を飛ばした。

「おおー、こわっ。」

 ソファーに座っているベースの麗畏(れい)が肩を(すく)めた。

 反対側のソファーに並んで座っているドラムの魁威(かい)とヴォーカルの樹良(じゅら)がクスクス笑っている。

 後から入って来た聖流が隆一朗の肩に手を置いた。

「聖詞、話がある。」

 隆一朗は、聖流に促されるまま別の部屋に入って行った。

 聖流と隆一朗は母親が異なる、俗に言う異母兄弟である。

 聖流の母親は聖流が三才の時に病気で他界し、後妻として入って来たのが隆一朗の母親だった。

 父親の真聖は特別教育熱心な訳では無かったがクラシックが好きで、二人の息子に幼い頃からピアノを習わせていた。

 真聖と云う男は、無責任に自己満足を押し付ける癖がある。

 それが後の、隆一朗の母親の失踪へと結びついて行くことになる。

 聖流は大学在学中に国家試験を受け卒業後、建築技師になると家から独立した。

 聖流がバートリーのキーボードでメンバーとして参加するようになったのは二、三年前のことである。

 元々中学の頃からバンド活動をしていた聖流はバンド関係の知り合いの伝手(つて)で、十六歳で家を飛び出した隆一朗の所在を知ることになる。

 サディスティックな性格だが弟思いの聖流は、隆一朗の所在を知ると隆一朗のアパートからほど遠く無いマンションに越して、同じバンドに所属することで弟を見守っていた。


「こっちに来なよ。」

 置いてきぼりの瑞基に魁威がおいでおいでと手招きした。

『餓鬼じゃないぞ。』

 と、思いながらも、空いている麗畏の隣に腰を下ろした。

「少年、名前は?」

 魁威が訊いた。

「瑞基、池旗瑞基です。」

「俺は魁威、よろしく。」

 金髪の魁威が手を伸ばして握手を求めたので、瑞基はそれに応じた。

「俺は樹良、よろしく。」

「俺は麗畏、よろしくな。」

 それぞれ青い髪の樹良と、黒い長髪の麗畏と握手を交わした。

「あの、聖詞って?」

 瑞基は不思議に思って訊いた。

 魁威が答えた。

「隆一朗の本当の名前だよ。

 藤岡聖詞って言うんだ。」

「そうなんですか。」

 瑞基は引き出しに在った大量の薬の袋に印刷されていた名前を思い出していた。

「昨日は隆一朗の処にお泊まりだったの?」

 何かを含むような訊かれ方をした訳では無いが若い瑞基がムカつくには充分な質問ではあった。

 しかし、泊まったのは事実だから仕方ない。

『同じバンドにいるのに、この人達には不能のこと言って無いのかな。』

 下手に言い訳しない方が良い気がしたので、当たり障りの無い返事に努めた。

「昨日、泊まれる場所が無かったので助かりました。」

「ふーん。」

 それ以上突っ込んだことは訊かれ無かった。

 魁威が言った。

「昨日、隆一朗にパンチしようとして片手で阻止されてたよね。

 隆一朗にあれは通用しないよ。」

「何故ですか?」

 瑞基はすかさず訊いた。

 魁威が説明した。

「あいつね、昔凄く荒れてた時期があって、あたるもの、触るものに、とにかく突っかかってたから、しょっちゅう喧嘩になってさ。

 だからかわすのめっちゃ上手いんだよ。」

「どうして、そんなに荒れてたんですか?」

「さあね。

 ここに来る前のことは何も話さないし、訊かれのも避けるから。

 五、六年前に、ふらりと現れてさ、やたら殺されたがってたんだ。

 突っかかっる度にナイフ放り投げて挑発するんたよ。

 散々怒らせるようなこと言って、それで気を晴らせばいいじゃないか、てな具合に。」

 瑞基は聞きながら隆一朗の手首の傷痕を思い出していた。

「そうなんですか。」

 隆一朗にとって魁威は特別な存在だった。

 隆一朗が十六で家を飛び出して浮浪している頃に飲み屋街で知り合い、荒れ果てた生活をしていたところを拾って世話してくれたのが魁威だった。

 ギターを教えたのも彼である。

「ま、でも、バンドやるようになってから隆一朗も随分丸くなったよな。」

 麗畏はそう言うと瑞基に缶のスクリュードライバーを渡した。

 一方、聖流の寝室に呼ばれた隆一朗は、クローゼットに凭れ腕を組んで聖流の話に耳を傾けていた。

「最近、親父に逢うと、歳なのかお前に帰る意思はないのかと、よく訊かれるよ。」

 隆一朗は眼を伏せた。

「聖流はボクが帰ったとして、ボクとあの人が上手く暮らして行けると思うの?」

「さあね。」

 聖流は興味が無いとばかりにタバコに火を点けた。

「それより、あの少年をどうする気なんだ?

 どういう心境の変化だか知らないが、厄介だぞ、解っているとは思うが。」

「ボクが家を飛び出したのもあれくらいの頃だったから放って置けなくて。」

「責任が伴うぞ、相手は未成年だ。

 お前の時とは事情が違う。」

「そうたね、事情を聞いたら帰そうと思う。」

 リヴィングが騒がしい。

 二人は顔を見合せるとドアを開けた。

 魁威達三人がソファーを中心に額を寄せあって何か叫んでいた。

「なに、どうしたの?」

 隆一朗が訊くと、樹良が半ば叫ぶように言った。

「少年が突然倒れたんだ!」 

「瑞基!」

 隆一朗が慌てて駆け寄ると、瑞基がソファーにぐったりと横たわっていた。

 手には缶のスクリュードライバーが握られていた。

 振り返った隆一朗はリヴィングに居た三人を睨み言った。

「飲ませたの?」

 その問いに反応したのは麗畏だった。

「この家にジュースなんてお子ちゃま用の飲み物なんて無いし……。」

「瑞基は未成年だよ、見れば解るよね。

 買って来るっていう選択肢は無かったの?」

 隆一朗は麗畏を見ずに言った。

「悪かったよ、まさかぶっ倒れるなんて思わなかったし。」

 瑞基が眼を覚ました。

 起き上がろうとするが激しい頭痛に苛まれ(さいな)状態を起こすまでは至らなかった。

「オレ、どうしたんだっけ?

 缶ジュース、炭酸効いてて気持ち良かったから勢いに乗って飲んだら気持ち悪くなって。」

「缶ジュースじゃない、キミが飲んだのはお酒だよ。」

 瑞基の眉間の皺が、より一層深くなった。

「そっかあ、酒だったんた。

 どうりで甘く無いと思った。

 ははは……………………。」

「少し眠った方がいい。」

 隆一朗が優しく促すと瑞基は静かに眼を閉じた。

「この様子だと、急性アルコール中毒でくたばることは無いだろ。」

 魁威が笑って言った。

「そう云う問題?」

 隆一朗が不満げに言った。

「隆一朗、どう云う風の吹き回し?

 随分、その少年にご執心のようだけど。」

 魁威が言うと隆一朗は瑞基の乱れた髪を撫でながら言った。

「なんだか放って置けないんだ。」

「確かに。

 隆一朗より可愛げがあるよね。

 アルコール度3パーセントでぶっ倒れるなんて隆一朗じゃ考えられなかったからね。」

 麗畏が言った。

「どうせボクは昔からざるだったよ。」

「あ、ふてた。」

 麗畏が言うと隆一朗以外の四人が笑った。



   ー夜明けー

隆一朗の声が聞こえる。

「あの央って少年、随分手を焼いているみたいだけど、珍しいね。

 厄介そうな相手にはいつも完全無視を決め込むのに。

 彼は特別なの?」

「俺が中学の頃、白血病で死んだクラスメイトが居たのを覚えているか?」

「ああ、覚えてるよ。

 随分ショックを受けてたみたいだった。

 葬儀から帰ってから一週間くらい、ろくに食事も摂らないで部屋に閉じ籠ってたね。」

「そうだったかも知れない。

 思い出すんだ、央を見てると。」

「似てる?」

 暫く沈黙が続く。

 聖流の力無い声が言った。

「生まれ変わりはあると思うか?」

「随分宗教的な質問だね。

 聖流らしくない。」

 聖流は笑った。

 隆一朗が訊いた。

「ところで、あの人はそんなに弱っているの?」 

「さあね、一緒に暮らしてる訳じゃ無いから。

 単純に息子が心配なだけかも知れないし。」

「ボクはあの家には帰れないよ。

 例え、あの人が許してくれていたとしても。」

 聖流は暫くタバコがくゆるのを眺めてから言った。

「俺もそう思う。」

 瑞基は眼を覚ましていたが起き上がるタイミングをすっかり逃してしまっていた。

 隆一朗と聖流の会話も気になった。

『隆一朗と親父さんとの間に、何があったんだろう。』

「瑞基、起きて。」

 瑞基はわざと眉間に皺を寄せ、眼をしばつかせて、いかにも今起きました感を演出した。

「あれ、みんなは?」

「帰ったよ。

 ボク等も帰るよ。」

 瑞基はのろのろと起き上がった。

 頭がガンガンする。

 見ると、ソファーに聖流が座り、背凭れに隆一朗が脚を交差させ腰掛けていた。

『なんか、絵になる兄弟だなあ。』

瑞基は暫くぼんやりと二人を眺めていた。

「悪いね聖流、こんな時間まで。」

「いいさ。

 瑞基くんだっけ、聖詞を頼むよ。」

 隆一朗がくすりと笑った。

「ボクは手がかかるからね。」


二人が帰路につく頃には外はすっかり明るく、太陽を待つばかりだった。

「瑞基は何故家を出たの?」

「それ訊いちゃう?」

「できれば聞きたいね。」

「できれば話したく無い。」

「そう……………。」

 暫く二人は無言で歩いていた。

 その内()が登り始めた。

「瑞基、綺麗だよ。

 風景が飴色に染められた。」

 瑞基は辺りを見回した。

 確かに、アスファルトや家々、庭の草木が淡い金色に輝いていた。

 それは一瞬の煌めきだが、確かに存在する力強さに満ちていた。

「本当だ、こんな景色初めて見た。」

 瑞基は何気に隆一朗を見た。

 眼を細めて景色を見詰める隆一朗は胸が震えるほど美しかった。

 そよ風が、隆一朗の飴色に輝く銀髪を無造作に揺らす。

「隆一朗、昨日の朝はごめん。」

 隆一朗は少し驚いているようだったが、直ぐに微笑を浮かべ言った。

「非常に効いたよ、あれは……………。」

「だから、ごめんて。」

「大丈夫、根に持って一服盛るようなことはしないから。」

「盛るって何盛るの?」

「そうだね、瑞基にはやっぱり下剤かな。」

「ひでえ!」

 二人は笑い合い、光に向かって歩き出した。

 何故だろうか、瑞基は隆一朗の人間的な表情を見るのが嬉しかった。



    ー夢ー

 水滴が堕ちる。

 波紋が拡がる。

 水面に横たわる隆一朗は辺りが暗闇であることに気付く。

『また、ここか………………。』

 水面を歩く音がする。

 それはゆっくりとこちらへ近付いて来る。

「キミか……………。」

「ご挨拶だね。」

 見ると六年前の隆一朗が、いや、聖詞が自分を見下ろしていた。

 手首から血が滴り堕ちる。

「また、ボクを責めに来たの?」

「それを望んでいるのはキミだよ。」

 聖詞は隆一朗の横に腰を下ろした。

「ボクはキミ自身への憎しみから生まれたんだ。

 キミはずっと、自分の中の時を止めてしまった。

 あの時のまま彼女を愛し、自分を許せないで凍結している。

 ボクも……………………。」

 隆一朗は起き上がって聖詞を見詰めた。

 聖詞が言った。

「もしもキミに新たな恋愛感情が生まれたら、キミの時間は流れ始めるかも知れない。

 ボクにも新たな力が得られるかも知れない。

 そしたら、もっと残酷にキミを苦しめられる。」

「そう………………。

 それならボクも甘んじてそれを受け入れるよ。」

「ショウタイムの始まりだよ。

 今夜もまた、キミの最も忌まわしい瞬間へ……………。」


 瑞基は敏感に眼を覚ました。

 見ると、やはり隆一朗が手を(くう)に伸ばし何かを言っている。

 瑞基は隆一朗の肩を(つか)むと激しく揺り起こした。

「隆一朗、起きて!!」

『早く起こさないとまた、辛い夢を見てしまう。』

 しかし、隆一朗は頑固に起きてはくれなかった。

 取り憑かれたように悪夢に縛り付けられ、どんなに身体を揺すっても、隆一朗は叫び続けた。

『何故、隆一朗の彼女は隆一朗を置いて自殺してしまったんだろう。』

 隆一朗は身体を仰け反らせ空に手を伸ばし叫んだ。

「いやだーっ!」

「隆一朗!!」

『どれほどの長い時を、この哀しい瞬間を繰り返してきたんだろう?』

 そう思うと自然と涙が(あふ)れた。

 涙は頬を伝い隆一朗の頬に堕ちた。

 隆一朗は眼を見開き怯えるように、震えながら瑞基を見上げた。

「隆一朗、起きた?」

 涙を流す瑞基を見て隆一朗は我に返って、慌てて起き上がった。

「ごめん、起こそうって頑張ったんだけど間に合わなかったんだ。」

 隆一朗は瑞基の頬を人差し指で拭うと、顔を覗き込んだ。

「何故、泣いてるの?」

「泣いて無いよ。」

 瑞基は眼を伏せた。 

 隆一朗は瑞基の頭を抱き寄せた。

「ボクの為に泣いてくれてるの?」

 瑞基は抱き寄せられるまま隆一朗の胸に顔をうずめた。

 ほんのりと苦いコロンの香りがする。

「だから、泣いて無いって。」

 隆一朗は瑞基の頭を優しく撫でた。

 二人は暫くの間そうしていたが、やがてどちらともなく眠りに堕ちて行った。



    ーエリザベーター

「学校はどうするの?」

「だから、家出してて、なんで真面目ぶっこいて学校行かなきゃなんないのさ!!」

 行き交う人が振り返る。

 辺りは住宅街だが近くに市立病院と薬剤局、市役所があるので、この時間の人通りは少なく無い。

 エリザベータと云う喫茶店の前の、路上のど真ん中で、大声で口喧嘩しているのは瑞基と隆一朗だった。

 エリザベータの出入口のドアが開き、魁威が現れ怒鳴った。

「お前ら、いい加減にしろ!!

 恥ずかしいから、さっさと中に入れ!」

 二人は魁威を振り返ると怒りを押し殺しエリザベータに入ろうとした。

「どうして、キミまで入って来るの?」

 隆一朗が言うと瑞基は隆一朗より先にエリザベータの中に入って行った。

「瑞基!!」

 振り返った瑞基はわざと大声で言った。

「恥ずかしいよ、隆一朗!」

 隆一朗はバツが悪くなり、エリザベータに大人しく入るしかなかった。

 二人が入ると魁威はやれやれと云うように頭を振り、ドアを閉めた。

「いったい、なんなんだよ?」

 魁威が呆れ顔で言った。

 二人が同時に話し始めたので、魁威は両手を広げ、一端二人を制止した。

「解った解った、順番に聞くから! 

 まずは瑞基から、はい、どうぞ。」

 魁威が瑞基に開いた手を差し出した。

「隆一朗がクソ真面目過ぎるんだよ。

 オレは隆一朗が働いてるとこ見たいって言ってるだけなのに、そんな暇があるなら学校行けって言うんだ。」

 瑞基が話し終わる前に隆一朗が口を挟んだ。

「学生なんだから学校行くのは当たり前だよね、今日は土日でも無ければ祝日でも無いんだから。」

「だから、なんで家出してるのに学校いくんだよ?」

 少しずつヒートアップして行く瑞基に対して、隆一朗はだんだん冷静になって行った。

「親に反発しているなら、一人でもまともにできるって証明して見せるのが正当なやり方じゃないのかな。」

「残念ながらオレはそんな良い子ちゃんじゃないからね。」

 瑞基は口を尖らせた。

「じゃあ、キミは何を目的に家出したの?」

「親にムカつけば家出くらいするだろ。」

「親に心配させて、自分の甘えを正当化させようってことかい?」

 そう言われると急に瑞基のテンションは下降した。

「自分だって家出して学校辞めた癖に。」

「今は、ボクのことは関係無いだろ。」

 魁威が手をパンパン鳴らして言った。

「はい、そこまで。

 お互い言いたいことは充分言ったろ。」

「魁威、これじゃ何も解決してない!」

 隆一朗は眉間に皺を寄せた。 

 魁威は腕を組んで少し考えてから言った。   

「あのさ、要するに瑞基は何て言うか、舐めちゃってくれてるんだと思うよ、色々と。」

 隆一朗は魁威の次の言葉を待った。

「なんなら今日一日、うちで働いて貰う?

 労働の社会勉強。

 学校行くより良い勉強になると思うよ。」

 魁威は隆一朗に、意味ありげに微笑んで見せた。

 それを見た隆一朗は瑞基に向き直って『どうするの?』と云う顔をした。

 瑞基は魁威と隆一朗の顔を交互に見た。

 隆一朗が促すように言葉を添えた。

「今日、ここで一日バイトすることは確かに良い経験だと思うから異論はないけど。

 瑞基、アルバイトの経験はあるの?」

「バイトの経験なんて無いけど、やってやろうじゃん!

 その良い経験に挑戦してやるよ。」

「おっ、決まりだね。

 瑞基の給料は隆一朗の分から天引きしとくから。」

 髪を縛っていた隆一朗の顔色がにわかに変わった。

「ちょっと魁威!」

 魁威は隆一朗の肩を軽く叩いた。

「ジョークだって。

 楽しい一日になりそうだな。」

 魁威は何故かご機嫌だった。

「瑞基、これだけは何が何でも守って貰わないと困る。

 どんな客だろうとお金払って来て戴いてるんだ、絶対不機嫌な顔みせたり、逆らったりするな。」

 瑞基の背筋がピンと伸びた。

「解った。」

「ところで瑞基……………。」

 魁威は後退りしながら言った。

「メイド服、着る気ない?」 

 瑞基の手が拳を作ると、すかさず隆一朗が後ろから肩を掴み、舞われ右をさせた。

「まずは店内の清掃を済ませようか。」

「隆一朗!

 これだけは絶対許しちゃなんねーんだよ!」

 腕を引かれながらもがくが隆一朗はそれ以上に頑強な力で離さなかった。

「お給料くれる人に手荒なことはやめようね。」

 エリザベータは本来魁威の両親が経営している喫茶店だが魁威が高校を卒業すると同時に調理師免許を取らせ店を任せていた。

 魁威のバンド活動にも理解していて、魁威の活動がある日は両親が店に出た。

 そうでない日は旅行に出掛けたり、芝居を観に行ったりと隠居生活を満喫していた。

 近所に病院や市役所等があるのと周辺に強豪店も無いので、経営は魁威と隆一朗の給料を余裕で払えるくらいには安定していた。

 さて、瑞基の初体験だが、散々なものだった。

 働くと云うことが自分を抑えると云うことに直結していることを知らない瑞基は、お客が混んでいても嫌になると勝手にカウンターに座り込んだ。

 お客が呼んでも無視、挙げ句、面倒だから帰ると言いだす始末で、魁威と隆一朗は仕事と云うもののノウハウを一から説明しなければならなかった。

 仕事をすればしたで、言葉使いやオーダーを間違えるなど茶飯事で、瑞基が何かやらかす度に魁威と隆一朗が対応に追われ、二人は今日一日で何度怒るお客に頭を下げたか解らなかった。

 瑞基は謝り方すら解らないのだ。

 半日も経たない内に朝の勢いは跡形も無く粉砕(ふんさい)し、瑞基は生まれて初めての挫折を味わった。

 帰り道の瑞基は上着のポケットに手を突っ込み、背中を丸めて隆一朗の後ろをとぼとぼ歩いていた。

 社会の中の等身大の自分を目の当たりにして相当ショックを受けたようだ。

 隆一朗が話し掛けても返事もしない。

 アパートに帰ってもコートすら脱ごうとはせずベッドに凭れ、下を向いたまま座り込んでいた。

 見かねた隆一朗が溜め息をついた。

「明日、リベンジする?」

 そう言われて瑞基は初めて顔を上げた。

 隆一朗はくすっと笑った。

「じゃ、明日魁威に頼んでみるよ。」

 瑞基の顔がパーッと明るくなった。

「うん!!」

 次の日、魁威に頼むと快く引き受けてくれた。

 瑞基は昨日とは打って変わって真剣に仕事に取り組んだ。

 全く失敗をしなかった訳では無いが、謝罪のやり方は解ったようだ。

 オーダーを間違えたお客にコーヒーを運び、

「先ほどは大変、申し訳ございませんでした。

 よろしければ当店のサービスですのでお召し上がりください。」

 ………………と、深々と頭を下げるくらいはできるようになった。

 魁威と隆一朗はハイタッチをして喜びあった。




ーカミングアウトー

「キミ、そろそろ家に帰った方がいいんじゃない?

 キミが家出して三日は経ってる。

 きっと家族が凄く心配してるよ。」

 朝ご飯を黙々と食べながら瑞基は首を振った。

「心配なんかしてないよ、オレ常習犯だもん。」

「何がそんなに不満なの?」

「進学。」

「進学?」

「親父が煩いんだ、大学は行った方が将来の為にいいって。」

「最もだと思うけど。」

「隆一朗らしいよね、そう云う考え方。

 でもさ、オレ頭悪いし勉強嫌いだし、魁威さんのお店手伝ってて思ったんだ、オレ仕事する方が合ってるって。」

「じゃあ、それをご両親に伝える為にも帰った方がいいんじゃないかな。

 避けてたら伝わるものも伝わらないよ。」

 顔を上げた瑞基は真っ直ぐ隆一朗を見据えた。

「どうしたの?」

「何でも無い。」

 瑞基は食べ始めるが、少しすると箸を止めた。

 隆一朗は汚れた食器を洗い始めていた。

「オレ、真面目に学校行くから、隆一朗の処に置いてくれないかな。」

瑞基の言葉は流水の音で掻き消され、隆一朗には届かなかった。

「え、なに?」

「何でも無い、オレ今日帰るよ!」

 隆一朗は水道の蛇口を止めた。

「そう………………。」

 食べ終わった食器を持って、キッチンに居る隆一朗の後ろに立つと瑞基は何かを断ち切るように顔を上げた。

「隆一朗、短い間だったけど有難う!」

 隆一朗は慌てて振り返った。

「もう、行くの?」

「うん、気が変わらない内に。」

 笑い顔の眉間に皺が刻まれている。

 隆一朗は溜め息交じりに言った。

「そうだね、気が変わらない内に。」 

 隆一朗が手を差し出すと瑞基も慌てて持っていた食器を置いて隆一朗の手を握った。

「元気でね。」

 瑞基はもう片方の手を添えて下を向いたまま眼を閉じた。

「さようなら!」

 瑞基はキャリーバッグを握ると一目散に隆一朗の部屋から飛び出して行った。

 隆一朗は瑞基が出て行ったドアを暫く見詰めていた。

 窓から暖かい陽の光が差し込み、部屋が柔らかな温もりに満たされていた。

『朝の差し込む光が、こんなにも清々しく感じるなんて何年振りだろう…………………。

 彼の笑顔に似ている。』


 瑞基は、自分が何故走っているのかさえ解らず全速力で走っていた。

『本当は離れたくないよ、隆一朗。

 傍で隆一朗のこと見ていたい。

 誰の傍より、隆一朗の傍に居たい。

 オレが居なくなったら、また隆一朗は悪夢を恐れて眠れないんだ。

 ねえ、少しでもオレは隆一朗の助けにはならないの。』

 息はとうの前に上がっていた。

 それでも走ることをとめることができなかった。


 隆一朗はエリザベータのドアを開いた。

「あれ、瑞基は?」

 魁威が訊いた。

 隆一朗は微笑して答えた。

「瑞基は自分の家に帰ったよ。」

「そうか、帰ったんだ。」

 魁威は残念そうに肩を落とした。

「まだ高1だからな、親が恋しいよな。」

 隆一朗は清掃を始めた。

「なんだか味気ないね。」

 ふと、そんな言葉が漏れた。

「あいつ随分、隆一朗になついてたから、やっぱ淋しいだろ。」

「淋しいって、こんな気持ちだったかな。」

「妙に素直じゃん。」

「そう云う言い方するとボクがいつも素直じゃ無いみたいに聞こえるんだけど。」

「そう云う言い方すると隆一朗がいつも素直みたいに聞こえるんだけど。」

「魁威!」

 隆一朗は持っていたモップを振り回した。

 魁威は店内を逃げ回った。


 まだ8時だと云うのに客足がぱたりと止んでしまったので、魁威が言った。

「隆一朗、今日はもうお客も来なさそうだから帰っていいよ。」

「そお、悪いね。」

 隆一朗は着けていたエプロンを取るとコートを着てエリザベータを出た。

『そっか、家に帰っても、もう瑞基は居ないんだった。』

 隆一朗は繁華街へと向かって歩き出した。

 古い映画ばかりをオールナイトで上映する、モナ・リ座と云う映画館で「かくも長き不在」と云うモノクロの映画を観た。

 それから暫くの間街中をフラフラ歩き、ファミレスに入るとコーヒーを飲んだ。

 やっとアパートに帰る気になったのでファミレスを出て帰路についた。

 アパートの階段を登ると隆一朗の部屋の前に大きな黒い塊が置いてある。

 近付くと黒い塊は突然動いて叫んだ。

「隆一朗、遅いよお!

 今まで何してたんだよ、寒くて死ぬかと思った!」

「瑞基?」

 瑞基は何故か股間を両手で押さえていた。

「なんでもいいから、早く入れてよ。

 ずっと我慢してて漏らしそうなんだ。」

「鍵かかって無いよ。」

「え?」

「ボクが部屋に入る時、一度も鍵なんて使ってなかったよ。」

「それ、早くいってよ!

 漏れるーぅ!!」

 瑞基は慌てて部屋に飛び込んで行った。

 隆一朗は瑞基の、明らかに増えた荷物を持って部屋のドアを閉めた。

『普通、ノブくらい回すよね。』

 そう思うと笑いが込み上げて来た。

「間に合って良かったーぁ!

 高1でお漏らしなんて洒落になんないもん。」

 トイレからほっとした顔の瑞基が出てきた。

 その顔を見た途端、隆一朗に再び笑いの波が押し寄せた。

「笑い事じゃ無いよ、こっちは限界突破してたんだ。」

 隆一朗はタバコに火を点けながら言った。

「じっとしてるから、ゴミ袋かと思ったよ。」

「ゴミ袋ぉ!

 こっちは地獄見てたのに。」

「………………で、どうしたの?

 この荷物の様子だと一度は家に帰ったようだけど。」

 隆一朗はじっくり聞かせて貰おうと云うように灰皿持参でベッドに座った。

「コーヒーでも()れようか。」

 瑞基が言った。

「いいね、丁度喉が渇いてるし、瑞基が淹れたコーヒー飲みたい。」

 瑞基は流し台の下からパーコレーターを出してプラグをコンセントに差し込んだ。

「一応家には帰ったんだ。

 母さんとも話した。

 エリザベータでバイトした話したら驚かれたよ。

 それから、隆一朗の話もしたんだ。」

 パーコレーターはぽこぽこ音を立てて、コーヒーを落としている。

「………………それで……………?」

「隆一朗の傍に居たいって話した。」

 隆一朗は黙って瑞基の次の言葉を待った。

「だってさ、オレが居たら隆一朗はナンパしなくて済むし、夢を見たらオレが起こすよ。

 オレが居たら何かと便利だろ?」

 隆一朗はタバコを揉み消した。

「瑞基、一応言っておくけどボクは同情をかけられるのが好きじゃない。」

「同情じゃ無い!

 同情なんかじゃ絶対に無い。

 それが何かって訊かれたら答えられないけど。」

「それでお母さんはなんて?」

「ダメって言われた。」

「当然だね。」

 その言葉には感情の抑揚がなかった。

 瑞基は二つのカップにコーヒーを注いで片方を隆一朗に渡した。

 隆一朗はとってに中指を入れてコップのように持ってコーヒーを飲んだ。

「オレ、ちゃんと学校にも行くし、今まで以上に勉強もやるよ。」

「それはご両親に言うべき事じゃないかな、ボクには何の権限も無いよ。」

 瑞基は食卓の椅子に座ってコーヒーを啜った。

「今朝、この部屋を出て行った時は思ったんだ、これ以上隆一朗に迷惑掛けちゃいけないって。

 だけど、家に帰ったら隆一朗と居られないのが辛くて淋しくて、どうしたらこの気持ちをどうにかできるのか解らなくて、頭ごちゃごちゃで気が狂いそうだった。」

「じゃあ、ここにはご両親の了解を得て来た訳じゃ無いんだね?」

 瑞基は何か言い掛けたが、それを慌てて飲み込んだ。

 隆一朗と眼を合わせず諦めたように頷いた。

「感情に任せた行動は、誰の理解も得られないよ。

 今日はもう遅いから泊めるけど、明日は帰らないとね。」

「やだ、帰らない。」

 瑞基は隆一朗の眼を見据えて言った。

 隆一朗は笑いだした。

「それじゃ、まるで駄々っ子だよ。」

「駄々っ子でも何でもいいよ、隆一朗の傍に居られるなら。

 オレ、何でもするから!

 隆一朗の傍に居られるなら何でもする!

 だから、ここに置いて。

 お願いだから。」

 隆一朗は暫くの間、無言で瑞基を見詰めた。

 瑞基はその静寂の居心地の悪さに、じっと耐えるしかなかった。

 静寂は長く続いた。

 隆一朗がやっと口を開いた。

「一つ訊いてもいいかな。

 そこまでボクに執着するのは何故かな?」

「え……………?」

 瑞基は予想もしない隆一朗の問いに頭が一瞬、真っ白ななった。

「同情じゃ無いと言うなら、それは何?」

「何って………………。」

 瑞基は必死に考えた、それが何なのか。

「それは多分………………隆一朗が………………す………きだから?」

 隆一朗は予想だにしない答えに持っていたコーヒーカップを落としそうになった。

 だが、一番驚いたのは瑞基本人だった。

「待って、待って!

 今の違う、えっと、えっとね………………。」

 瑞基は考えれば考えるほど、好きだからと云う答えがしっくり来てしまうことに戸惑った。

「でも好きって、そう云う好きじゃなくてね、隆一朗は好きだけど、え? いや、そうじゃなくて…………………。」

 混乱しまくっている瑞基を見て隆一朗はこらえることができず、腹を抱えて笑った。

 笑う隆一朗を前に瑞基はだんだんムカついて来た。

「人が真剣に話してるのに笑うこと無いだろ!!」

「ごめんごめん。

 だって、どんどん自滅して行くから……………。」

 隆一朗はそう言いつつ散々笑い続けた。

 瑞基はすっかりふてくされ、片手で頭を支えコーヒーを飲み干した。

「もう、勝手に笑ってくれ。」

 隆一朗は笑いながら言った。

「キミと居ると腹筋崩壊しそうになることが多くて、どうしたらいいんだろうね。」

「知らないよ。

 どうせオレはお笑い系だよ。」

「そんなにふてないで。

 嬉しいよ、キミに好かれてるのが解って、友人としてね。」

『友人?

 そんな単純なことなのかな?』

 瑞基は刹那、そんなことを思った。

「隆一朗は?

 隆一朗はオレのこと、どう思っているの?

 オレが居たら邪魔なだけ?」

 隆一朗は少し考えてから答えた。

「瑞基と居ると、とても楽しいよ。

 でも、だからと言って未成年のキミの言うことを鵜呑みにはできないよ。

 世の中はそんなに単純にはできてないから。」

 瑞基は食卓に手を組み、自分と隆一朗の間に立ち塞がる常識に打ちひしがれていた。

「もう遅いよ、とりあえず寝よう。」

 隆一朗が言った。

「先に寝てて、ボクはシャワー浴びてから寝るから。」

 バスルームに隆一朗が消えると瑞基は頭を抱え込んでテーブルに伏した。

『オレはどうすれば隆一朗の傍に居られるんだろう。』


 シャワーを浴びる隆一朗は床を見詰めたまま動けなくなっていた。

 隆一朗の大きく見開かれた眼には、手首から血を流し、息絶えている彼女がバスルームの壁に凭れている姿が見えていた。

 下着姿で長い髪にも雫がいつまでも降り注ぎ、眠るように首を傾げている。

 隆一朗は意識が暗闇に飲み込まれるのを感じた。

 バスルームから急に物凄い音がして瑞基は驚いて飛び上がった。

 自然とバスルームに眼が行った。

「隆一朗、どうしたの?」

 暫く待ったが返事は無い。

 瑞基はおそるおそるバスルームに近付いた。

 遠慮がちにドアを開けると狭いバスルームの床に身体を丸めるようにして倒れている隆一朗がシャワーに打たれていた。

「隆一朗!」

 瑞基は慌てて濡れりのも構わず隆一朗を抱き起こした。

「隆一朗!

 どうしたんだよ?」

 隆一朗の顔に耳を近付け息をしているか確めてみた。

 呼吸は止まっていなかった。

 とにかくシャワーを締め、ドアに掛けてあるバスタオルを隆一朗の身体に巻き付けた。

「隆一朗!」

 軽く頬をぺちぺち叩いてみると隆一朗は小さく呻いた。

「隆一朗どうしたの、どこか打たなかった?」

 隆一朗は額に手を当てた。

「彼女がそこに。

 彼女が………………。」

 瑞基はバスルームを見回すが特別なものは何も無かった。

「隆一朗、しっかりしなよ、女の人なんて何処にもいないし。」

 瑞基は隆一朗の腕を自分の首に回した。

「とにかく部屋に戻ろう、いつまでも裸でいたら風邪ひいちゃうよ。

 立てる?」

 隆一朗はのろのろと立ち上がると、瑞基に支えられながらバスルームをでた。

 ベッドに横たわる全裸の隆一朗は、瑞基には羽根をもがれ、傷ついた天使を連想させた。

 毛布を掛けて、やっと一息ついた瑞基は、良からぬ思いつきに、ニンマリ笑った。

 自分の持って来たスポーツバッグからスマホを取り出した。

「シャキーン!」

 電話を掛け始めた。

「あ、母さん?

 オレ、瑞基。」

 綾子は咄嗟に孝久に見えないように受話器を持ちかえ、背を向けた。

「瑞基、今何処にいるの?」

「さっき話した隆一朗のとこ。 

「また、ご迷惑掛けて……………。」

「大変なんだ、隆一朗が急に倒れて、多分精神的なものだとおもうんだけど。

 さっき言ったろ、大量の精神安定剤のまなきゃなんないくらい状態が悪いんだ。

 オレ、暫くこっちで隆一朗の世話しないと。

 だって、ほら、迷惑掛けたからさあ。

 恩返しっていうの、一人暮らしだし、頼れるのオレぐらいしか居ないんだよ。

 落ち着くまで帰れないから。」

 綾子は何か言おうとするが瑞基は少しの隙も無く話すのでとりつく島も無かった。

「学校にはちゃんと行くから、心配しないで。

 じゃ、オレ今忙しいから、隆一朗を病院に連れて行かなきゃなんないし。

 それじゃあね。」

 瑞基はさっさと通話を切った。

「瑞基、ボクはいつから大量の精神安定剤が必要になったの?」

「あれ、聞いてたんだ。」

 振り返ると隆一朗はベッドに横たわったまま片手で頭を支え、こちらを睨んでいた。

「知らなかったよ、ボクは二、三日前に逢ったばかりの高1の少年しか世話してくれる人が居ない、寂しい大人なんだ。」

 瑞基は苦笑いした。

「ま、でもほら、オレが居たから今回みたいに風呂場で倒れてもすぐ対処できたよ。」

「キミって、目的の為なら手段を選ばないんだ、覚えておくよ。」

 瑞基は少しムッとして言った。

「それは隆一朗が絡んだ時だけだよ。」

 隆一朗は起き上がった。

「じゃあ、連れて行って貰おうかな、病院へ。」

「隆一朗も結構、性格悪いよね。」

「キミには負けるよ。」

「オレはただ、隆一朗が安心して眠るこどもできなくて、眠っても悪夢みて暗闇の中で眼を覚まして、きっと辛い過去を思い出したりするのが辛いんだ、凄く。」

 鋭く怒りを孕んでいた隆一朗の眼が和らいだ。

「でも、それはキミにはまるで関係無い処で起こっていることだよ。」

「関係無く無い!

 オレ知っちゃったんだ、隆一朗のこと。

 見ちゃったんだ、隆一朗がどんな風に苦しんでるか。

 白状するよ、オレは隆一朗が好きなんだ。

 どんな好きかオレ自身解ってないけど、もしかしたら恋愛的な感情に近いのかも。

 好きだから隆一朗が辛いのが自分のこと以上に辛くて苦しくて、どうしたらいいか解らないんだ。」

 瑞基は半ば泣くように訴えていた。

 隆一朗は立ち上がると瑞基を抱き締めていた。

「熱烈な告白でボクもどうしたらいいか解らなくなったよ。」

 瑞基は隆一朗の肩に顔を押し付け、必死に泣くのをこらえていた。

 隆一朗は優しく瑞基の頭を撫でた。

 自分に、真っ直ぐに寄り添おうとする瑞基が、気を抜くとキスしてしまいそうなほど愛しかった。

「ねえ、隆一朗さ、マッパじゃない?」

「そう言えばそうだね。」

 瑞基は急に離れて(わめ)いた。

()()じゃないの!!

 風邪ひいたらどうすんだよ!」

「キミがあんまり可愛いこと言うから。」

「とにかく服着ろよ、服!

 ああもう、毛布被りなよ。」

 瑞基はベッドの毛布をひっぱがして隆一朗に、乱暴に被せた。

 隆一朗は笑い出した。

「笑ってる場合じゃないだろ!」

「キミと居ると本当に楽しいよ。」

 隆一朗の優しい笑顔が瑞基には嬉しくて一層はしゃぎまわっていた。



    ー万引きー

「隆一朗、悪いけど銀行行って来て。」

 清掃する隆一朗に魁威が言った。

「いいよ、昼前には帰るよ。」

 隆一朗はエプロンをとるとコートを着て振り込み用紙と現金の入ったバッグを片手にエリザベータを出た。

 銀行で用事を済ませると昼の忙しい時間に、間に合うように帰りを急いだ。

 私服姿の学生五、六人が戯れながら向こう側の歩道を歩いているのが眼に入った。

『瑞基?』

 学生達は、この街で一番大きな本屋に吸い込まれて行った。

 隆一朗は気になって本屋に入った。

 コミックス売り場に瑞基は仲間の一人と棚の本を見ていた。

 仲間の一人は辺りを見回し、人が居ないのを確認すると瑞基に合図した。

 瑞基はそっと手に持っていたリュックにマンガ本を滑り込ませようとしたが、反対側の本棚から人影が現れ、素早く瑞基の手を(つか)んだ。

 見上げると隆一朗が冷たい眼差しで首を振った。

 仲間はそれに気付くと一目散に逃げ出した。

 隆一朗は掴んだ手を強く引っ張って、そのまま外へと瑞基を連れ出した。

 外に出ると瑞基は隆一朗の手を投げつけるように振り払った。

「何すんだよ!」

「自分が何をしたか解らないの?」

 背後から声がした。

「お客様、失礼ですがそちらの商品のお会計はお済みでしょうか?」

 振り返ると店員が怪訝(けげん)な顔つきで隆一朗と瑞基を交互に見ていた。

 二人は事務所に通され椅子に並んで座らされた。

 目の前のテーブルには瑞基のリュックから出てきた未会計のマンガ本が十冊置かれていた。

 瑞基は隆一朗を盗み見ると、隆一朗は眼を伏せて黙っていた。 

 店長らしい男が(おどか)すような口調で言った。

「こんな子供に万引きさせて、どう云う積もりなんだ?」

「ちが………………!」

 瑞基が叫ぼうとするのを、隆一朗は軽く瑞基の手に触れて(さえぎ)った。

「警察に来て貰うからな。」

 果たして、警察はやって来た。

「少年課の葉山です。」

 そう言って葉山はバッジを見せた。

「とりあえず、この二人の身柄はこちらで預からせて貰います。

 追って処分しますので、この後のことは任せて下さい。」

 葉山はちらりと二人に眼をやると「来なさい。」と言って二人を待った。

 隆一朗と瑞基が来ると、

「ご協力感謝します。」

と、店長らしき男に敬礼して事務所を離れた。

 店を出て暫く歩くと、葉山は振り返った。

「藤岡、どうした、餓鬼んちょ連れて。」

「ご迷惑掛けてすみません。」

 隆一朗が頭を下げると瑞基も習って頭を下げた。

「クソ真面目で、どエムなお前が、この餓鬼んちょに万引きさせるなんて考えられないからな。

 だいたい状況は解るよ。」

 葉山は瑞基を見た。

「おい、餓鬼んちょ。

 今回は藤岡の顔に免じて見逃してやるが二度は無いと思えよ。

 じゃあな藤岡、たまには親父さんに顔見せてやれよ。

 俺は忙しいから行くが、もう面倒は掛けるな。」

「有り難うごさいました。」

 隆一朗が頭を下げると瑞基も習った。

「全く、署にたまたま俺が居たから良かったが、居なかったらお前だけじゃない、藤岡がどうなってたか解らなかったんだからな。」

 瑞基は想像して背筋が寒くなった。

「じゃあな。」

 葉山は足早に去って行った。

 隆一朗もエリザベータに急いだ。

 隆一朗の脳裏には鬼の形相でパスタを炒める、今にも噴火しそうな魁威の姿が映っていた。

「隆一朗!

 何をそんなに急いでるの?」

「時計を見れば解るよ。」

 エリザベータの駐車場は満車になっていた。

 ドアを開くとそこは正に戦場だった。

 九つあるテーブルとカウンターはほぼ満席、魁威が鬼の形相でパスタを炒めていた。

 隆一朗はコートを脱ぐと、手を洗い、エプロンを着ける暇も無くオーダーを運び始めた。

 それに気付いた魁威は助かったとばかりに炒めていたパスタをひっくり返し叫んだ。

「隆一朗、遅ーい。

 瑞基も一緒か、手伝え!」

 瑞基も慌てて水を注いで運んだ。



    ー危険な晩御飯ー

「はー、疲れたー。

 徹底的にこき使われた。」

 瑞基はベッドに倒れ込んだ。

「その分お給料はもらったろ。」

 隆一朗はキッチンで晩御飯の用意に精を出していた。

「そう言えばさ、隆一朗って警察の人にも顔利くんだね。」

「顔が利くんじゃなくて、葉山さんがいい人なんだよ。

 あの人が来てくれてラッキーだったよ。」

 隆一朗は急に思い立って言った。

「思い出した!

 瑞基、昼間のあれは何?」

「もう、時効だよ。」

「関係無いよ、どうして万引きなんて?」

「どうしてって、みんなやってることじゃん。

 売るといい小遣いになるし。」

 瑞基はのんびり伸びをしながら答えた。

「瑞基、煩く言う積もりは無いけど、付き合う友達は選んだ方がいいと思うよ。」

「うへ、母さんと同じこと言った。」

「当たり前だよ。

 善悪を見極められない友達なら居ない方がいい。

 だいたい学校はどうしたの?

 今日が開校記念日なんて聞いてないし、今朝、制服着て学校に行くって出掛けたよね。」

「ああもう、母さんが二人居るみたいだ。」

 隆一朗はガスコンロの火加減を絞ると瑞基の隣に座った。

「キミ言ったよね。

 ここに置いて貰えるなら学校もちゃんと行くって、あれは口から出任せだったの?」

 瑞基は起き上がると、ベッドの上で体育座りした。

 一応、反省のポーズらしい。

「解った、スマホ貸して、お母さんに電話するから。」

「なんで、母さんに電話なんか。」

 瑞基の顔色が変わった。

「ボクはもう大丈夫だから、お母さんに迎えに来て貰うんだよ。」

 瑞基は驚いて立ち上がった。

「ダメだよ、そんなの!」

「キミは約束を破ったんだから、当然の措置だろ。」

「だいたい隆一朗、スマホ持って無いのに使い方知らないだろ?」

「電話掛けるくらいできるよ、さあ貸して。」

 隆一朗は手を出して催促した。

「嫌だ!」

 急に隆一朗の顔色が変わった。

「しまったカレー!」

 隆一朗は慌ててキッチンに飛んで行った。

 カレーはなんとか無事だったので、隆一朗は胸を撫で下ろした。

 瑞基が食卓の傍に突っ立って、お玉でカレーをかき混ぜる隆一朗を見詰めていた。

「悪かったよ。

 ちゃんと学校行く、あいつらとも縁切る。」

 隆一朗はしゅんとした瑞基を見るとクスッと笑った。

「キミって素直なのか悪餓鬼なのか解らなくなるよ。」

「ねえ、隆一朗はさ、一応若いのに…………。」

「その一応って何。」

 瑞基は隆一朗の突っ込みは無視して続けた。

「どうして、スマホとか持たないの?」

 隆一朗はガスコンロの火を止めて鍋を食卓に置いた。

「電話が嫌いなんだ。」

「え、なんで?」

「聖流の話だとボクが三歳の時に母は家を出て行ったらしい。

 ボクが小学一年の時に無言の電話がかかって来た、そして一言だけ、ボクの名前を呼んで切れたんだ。

 それ以来、ボクは毎日学校が終わると電話の傍で待っていた。

 来る筈の無い電話を待った、毎日。」

 瑞基は更に落ち込んだ。

「ごめん、またオレ、隆一朗の辛い過去を思い出させちゃったんだ。」

「そんなに気にすることは無いよ。」

 瑞基はその時初めて自分が恵まれた環境に育ったことを意識した。

「一服盛っておいたから、覚悟して食べて。」

 隆一朗が意味ありげに微笑んだ。

 皿に盛られたカレーを見て瑞基の沈んだ気分は一変した。

「何この、ごろごろと入った黄色い物体は?」

「見て解らない?」

「どう見てもこれ、パイナップルだよね?

 パイナップルってカレーに合うの?」

「さあ、ボクも初めて食べるから。」

「ええっ!!

 なんちゅう危険な晩御飯!

 でもどうしパイナップル?」

「冷蔵庫にあったから。」

「何その安直な理由。」

 この家の冷蔵庫は瑞基が生活するようになってから、劇的な変化を遂げていた。

 以前は酒と水しか入っていなかったが今は仕事帰りにスーパーに寄るのが最近の隆一朗の日課になったため食材が大半を占めるようになっていた。

 とにかく椅子に座ると瑞基は、それを口に入れてみた。

「んー、なんかよく解んないけど食べられない味ではないような。」

 育ち盛りの瑞基はもりもり食べた。

 莫迦丁寧に御代わりまでした。

「隆一朗、なんか舌痺れて来たんだけど。」

「そお?」

 隆一朗は涼しい顔で黙々と食べていた。

「隆一朗いるー?」

 玄関から麗畏の声がした。

「こんな時間に?」

 瑞基は眉をしかめた。

「麗畏だよ、多分また彼女と喧嘩したんだ。

 余計なこと言うと絡まれるから、気を付けて。」

 ぐでんぐでんに酔っ払った麗畏が入って来た。

「隆一朗、聞いてくれよー、彼女がさあ、仕事で遅れただけなのに

 私のことなんてどうでもいいんでしよ、て、カンカンに怒るんだ

 。」

 隆一朗はなれたもので、入り口で座りこもうとする麗畏の腕を取ると自分の肩に回しベッドまで誘導して座らせた。

「で、彼女がどうしたの?」

「急いで駆けつけたのに、怒って帰っちゃったんだよーぉ。」

「そう、たまたま機嫌が悪かったんじゃない?」

「あ、あれの日だったのかも。」

「多分ね、女性はホルモンバランスが崩れやすいから感情のコントロールが難しいんじゃないかな。」

 瑞基は三杯目のパイナップルカレーを食べながら、その様子を見学していた。

『なんか、すげえ慣れてる。』

「あれ、珍しい。

 いい匂いするね、飯食ってた?

 て、あれ、少年じゃん、まだ居たんだ。」

 麗畏はよろよろ立ち上がって瑞基に近付いた。

 強烈な酒の匂いに、瑞基まで酔っぱらいそうになった。

「なに食べてんの?」

 麗畏はふらふらと瑞基の皿を覗き込んだ。

「わっ、なに食ってんの!」

 瑞基は少しびびりながら言った。

「パイナップルカレーです。」

「ああ、隆一朗が作ったんだろ。

 隆一朗にまかない任せると信じられないもの食わされるって、魁威がしょっちゅう嘆いてるんだ。」

「そうなんですか?」

 瑞基は自分の不幸を垣間見た気がした。

「俺も一度ご馳走になったけど微妙なんだよね、不味くも無いけど美味くもないんだ。」

「いえてる。

 因みにその時のメニューは?」

 瑞基はある種、怖いもの見たさで訊いた。

「んーと、あれはね、パフェ用の残ったキウイフルーツの入った肉じゃが?」

「ほんとに微妙だ、とても美味しそうに思えない。

 つか、むしろ食べないで済んでラッキーな気さえする。」

「ねえ、二人ともボクが居ること忘れてない?」

 麗畏は隆一朗へ振り向いた。

「隆一朗、真実は認識しておいた方がいいって。」

「ご飯なんてお腹満たされれば、何でもいいだろ。」

 瑞基は腑に落ちない。

「初めて朝食作ってくれた時はまともだったけど、あれは幻だったんだ。」

「気が向いただけ。」

「いつも、気が向いてよお!」

 瑞基はこれからの食生活の不安に、切に訴えた。

「瑞基、それは甘いと思うよ。」

 隆一朗はにっこり笑顔で言った。

 麗畏が瑞基の肩を叩いて言った。

「諦めろ少年、不味い物食って死んだ奴は居ない。」

「うげげぇ。」

 瑞基は初めて人生に絶望を感じた。



     ーお風呂ー

「ただいまー。」

 瑞基が帰ると隆一朗が晩御飯の支度をしていた。

「あれ、今日は早いんだね。」

「お帰り。

 お客さん混んでたんだけど魁威が帰れって煩いんだ。」

「へーえ、何で?」

「さあ……………。」

 隆一朗は首を傾げた。

「ねえ、何作ってんの?」

 瑞基は鞄を置くと隆一朗の肩越しに、グツグツ煮たった鍋の中を覗き込んだ。

「ねえ、これ何作ってんの、凄い毒々しいんだけど。」

「んー、紫と赤を混ぜると、こういう色になるの忘れてた。」

「何いれたのーっ!!」

 瑞基は狼狽した。

「紫玉ねぎとホールトマトとケチャップと挽き肉。」

 隆一朗は平然と答えた。

「なんの儀式に使うの?!」

 瑞基の不安は頂点に達した。

「とりあえずボクは、悪魔崇拝はしてないよ。」

「オレ、生け贄になるなんて、ごめんだからね。」

「ちゃんとピーマンが生け贄に入ってる、完璧。」

 隆一朗はにっこり微笑んだ。

「いや、そこ笑うとこじゃないから。」

 瑞基は諦めて項垂れながら制服を着替え始めた。

 テーブルに置かれた皿には、パスタに毒々しいミートソースがこんもり注がれていた。

 瑞基は最低と最悪と最後を覚悟して口に入れたが、不味くもなかったが美味くもなかった。

 無事食べ終わると瑞基はスマホのアプリゲームをしながら眠り込んでしまった。

 隆一朗は食器を洗い終わると、風呂に入った後、洗濯機を回しながらギターを爪弾いた。

 暫くして、時計を見て瑞基に風呂に入るように促した。

「ええっ、もうそんな時間?

 今日、部活でめっちゃしごかれたんだよね。

 駄目、めっちゃ眠いし、無理。」

「部活で汗かいたろ?

 汗臭いと女の子に嫌われるよ。

 そんな身体で、ベッドで寝られたらベッドまで汗臭くなっちゃうし。」

「そんなに言うなら、隆一朗洗ってよ。」

 と、言ったが呂律が回ってなかった。

 隆一朗はクスッと笑って瑞基のティーシャツを脱がせ始めた。

「わっ、なにしてんの?!」

「キミが言ったんだよ、洗ってって。」

 瑞基は慌てて捲れ上がったティーシャツをおろした。

「自分で脱ぐってば。」

 とは言ったものの、瑞基はかなり眠いらしくティーシャツの裾を握ったまま、また居眠りをしていた。

「やれやれ。」

 隆一朗は溜め息をついた。

 嫌がる瑞基をなんとか風呂場まで誘導して服を脱がせた。

 瑞基は風呂場に入ると胡座をかいて座り込んだ。

 隆一朗はスポンジにボディーソープを垂らすと瑞基の背中をごしごし洗い始めた。

「はい、後は自分で洗ってね。」

 瑞基の顔を覗き込むと、瑞基はぐうぐう寝ていた。

 隆一朗は悪戯っぽい笑みを浮かべると桶に水を溜め、それを瑞基の頭上から掛けた。

 瑞基は悲鳴を上げて立ち上がった。

「何すんだよ!!」

 隆一朗は腹を抱え、声を上げて笑った。 

「隆一朗…………………?」

 ゆっくりと振り返った瑞基は邪悪な笑みを浮かべ、桶を握り締め風呂のお湯をすくった。

 かなり焦って、隆一朗は壁に張り付いた。

「瑞基、ボクは服を着たまま水浴びする趣味は無いからね。」

「問答無用!!」

 瑞基は次々お湯を汲んでは隆一朗目掛けてぶっかけた。

 隆一朗はみるみる水浸しになった。

 隆一朗は反撃にシャワーを掴むと瑞基目掛けて噴射した。

 二人はへろへろになるまで、お湯を掛け合った。

「ファーブシッ!」

 ベッドに入ると瑞基はくしゃみをした。

 隆一朗が隣でクスクス笑った。

「誰のせいだと思ってるんだよ。」

「キミが人に身体洗わせて寝てるからだろ。」

「しょうがないだろ、疲れてたんだから。」

 瑞基が起き上がって抗議した。

「だいたい水ぶっ掛けるってどうよ?

 可愛い瑞基様が風邪ひいたらどうすんだよ!」

 隆一朗も起き上がった。

「キミだって散々掛けただろ、お互い様だよ。」

「いや、お互い様じゃない、隆一朗が先に掛けたんだからさあ。」

「じゃあ、この次からはボクに隙を見せないんだね。」

「無理言うなよ、オレ、隆一朗に警戒心ゼロなんだから!」

「ボクに警戒心持てないのは、ボクのせいじゃ無いからね。」

「いつか仕返ししてやる。」

「どうぞご自由に、せいぜいキミに背中を見せないようにするよ。」

「だいたい何で、事あるごとにオレの嫌いなピーマン食わすんだよ、

今日の毒々しいミートソースにもごっそり入っててさあ。」

「好き嫌いは良くないだろ、それに一個しか入れてない。」

「一個も入ってたら立派なもんだって。」

「ちゃんと食べやすいように、みじん切りにしただろ。」

「でも、オレはピーマン嫌いなの!

 あの緑の光沢は目立つんだよ。」

「男の癖にピーマンごときに神経質になり過ぎだよ。」

「オレよか、神経質な隆一朗に言われたく無い。」

「ボクの何処が神経質なの。」

「充分神経質じゃん、トイレとか洗面台の横のタオル、前と後ろの長さが同じじゃないって、怒ったばっかりじゃん。」

「あれは、ずれてるとみっとも無いだろ。」

「わっ、自覚無いんだ!

 タオルなんてオレと隆一朗しか使わないんだからどうでもいいよ。」

「どうでも良く無い、見た目は肝心だよ。」

「今日のミートソースにも、それくらい見た目気にして欲しかったよ。」

「あれは、だから普通の玉ねぎが切れてたんだってば。」

「切れてたら、普通そこで諦めるよね。」

「パスタ茹でた後だったんだよ。」

「じゃあ、ナポリタンにするって選択肢はなかったの?」

「挽き肉の消費期限が今日までだったんだよ。」

「ナポリタンに挽き肉入れればいいじゃん。」

「ナポリタンに挽き肉入れるって邪道だよ。」

「ミートソースがああゆう色してるのは邪道じゃないんだ。」

「あれは、ああゆう色になるって気づかなかったって言ったろ。」

「オレ覚悟決めて食べたんだからね。

 覚悟のいるミートソースなんて、ビックリだよ。」

「生きてれば色々あるだろ、確かに色は毒々しかったけど、食べられないもの入れてた訳じゃないだろ。」

「隆一朗の料理は色々在りすぎだってば。

 メニュー決める理由がいつも安直なんだよ。」

「いつも安直なキミに言われたく無いよ。」

「オレの何処が安直なんだよ。」

 この後も二人は一歩も引く事無く平行線を辿った。

 彼らの夜明けは遠い。



     ーチケットー

 今週の金曜日にニキータ十周年記念ライヴイベントが行われる。

 地元近郊の八組のアマチュアバンドが招かれ、バートリーも参加するのだが、チケットのノルマがあった。

 隆一朗にも例外無く、八枚のノルマが課せられていた。

「瑞基、今日午後から付き合ってくれないかな。」

「え、なに?

 オレに頼み事って珍しいね。」

 朝飯のトーストをパクついていた瑞基のテンションは上がった。

「今日、午後から休み貰ったからチケット(さば)くの手伝って欲しいんだ。」

「なんだ、そりゃ?」

「はい、キミのノルマね。」

 瑞基は三枚のチケットと何枚かのフライヤーを渡された。

「はあ。」

 瑞基は渡されたチケットをじっと見詰めた。

「キミ可愛いから、愛想良くすれば直ぐ売れるよ。」

 洋服屋やCDショップ、クレープショップなどが立ち並ぶ若い子達に人気の通りに陣取り、瑞基と隆一朗は若い子達に片っ端から声を掛けチケットを勧めた。

 瑞基は隆一朗の愛想の良さに驚いた。

 エリザベータで仕事している時ですら、あんな爽やかな笑顔は見せやしない。

 なんなら写真に一緒に写るなど、日頃の隆一朗を知っている瑞基には信じられないサービス精神の旺盛さだった。

 結局、隆一朗の営業スマイルに圧倒された瑞基は、隆一朗が売り切っても一枚も売ることができなかった。

「一枚も売れなかった。」

 瑞基は半ば放心状態だった。

「仕方ないね。」

「待って、オレちゃんと売るから、少し待ってて。」

 通り過ぎようとした女の子三人組に、瑞基は威を決して声を掛けた。

 隆一朗は心配気にそれを見守った。

「ぬえ、待って!」

 女の子達は振り返った。

「あ…………………。」

 セミロングの髪を丁寧に切り揃えた清楚な一人が瑞基を見て声を漏らした。

「池旗くん?」

「森さん?

 お化粧してるから解らなかったよ。」

 瑞基と同じクラスの女の子だったが、あまり話したことが無い。

 どちらかと言えば印象が薄い存在の森詩織だった。

 瑞基は苦手意識が働いたが、全く知らない相手よりは頼みやすいだろうと、腹を決めた。

「森さん、よくこの辺来るの?」

「うん、友達と時々……………。」

「あのさ、クラスメイトのよしみで頼みがあるんだ。」

「え……………。」

「こんなの頼める義理じゃないのは解ってるんだけど、こっちも切羽詰まっててさ。

 実はさ、買って貰いたい物あるんだ。」

 瑞基は持っていたフライヤーと、ポケットからチケットを取り出して森詩織に見せた。

「駅の近くにあるニキータってライヴハウスで今週の金曜日の昼からアマチュアバンドのライヴがあるんだ。

 そのチケットなんだけど。」

 森詩織は少し考えてから遠慮がちに言った。

「池旗くんもいくの?」

「行くよ。」

 森詩織は茶髪の娘に向かって言った。

「美裕ちゃん、一緒に行ける?」

「いいよー。」

 茶髪の女の子は意味ありげな笑みをうかべた。

 森詩織は、もう一人のロン毛の女の子にも声を掛けた。

「愛衣ちゃん、金曜日は塾あるもんね。」

「ごめんねー。

 塾休むと、うちの親煩いから。」

 森詩織は瑞基に向き直った。

「うん、チケット二枚下さい。」

「なんか、ほんとごめん。

 この埋め合わせは必ずするから。」

 瑞基はチケットを二枚渡してお金を受け取った。

「ほんと、有り難う。」

「いいえ、どう致しまして。」

 美裕が答えた。

 森詩織はその時初めて笑顔をみせた。

「じゃ、明日学校で。」

 瑞基は手を振りながら隆一朗の処へと駆け寄った。

 三人の女の子達も手を振るが、他の女の子が顔の横で手を振るのに対して、森詩織は胸の前で小さく手を振っていた。

 隆一朗は三人の女の子達が歩き始めるのを見ていた。

 森詩織だけが最後まで瑞基を眼で追っていた。

 どや顔の瑞基が戻ると隆一朗は訊いた。

「知り合い?」

「うん、クラスメイトの森さんて娘だよ。」

「そう、瑞基ってモテるんだね。」

「は?

 彼女居ない歴十六年のオレに、その台詞言っちゃう?」

「そうなの?」

「一枚残っちゃったけど、これはオレが買うから。」

「悪いね。」

 二人はどちらとも無く歩き始めた。

「隆一朗さあ、若い振りできるんだね。」

「何その若い振りって。」

「だってそうじゃん、普段の隆一朗って、すんげー年寄りくさい。

 見た目は若いんだけどねー。」

 隆一朗はムッとして言った。

「そうゆうキミは小学生並みに子供っぽいよ。」

「あれ、怒った?

 ねえ、今日の晩飯なに?」

「多分、ハンバーグ。」

「うぉっ、楽しみー。

 ピーマン入れないでくれたら、もっと楽しみなんだけどなー。」

 瑞基は腕を後頭部に回し、期待を込めて隆一朗を見た。

 隆一朗は、冷たく瑞基の視線を無視した。

「好き嫌いするからチビなんだよ。」

「ほらほら、そう云う事言うから年寄りくさいんだって。」

『そんなに年寄りくさいかな。』

 隆一朗は内心ショックを受けた。



    ー掃除と食事ー

 エリザベータは午後三時くらいになると客足が減るので、魁威と隆一朗は、その時間帯に交代で、奥の調理室で食事を取った。

 隆一朗は、またもパフェ用で残った苺入りのミルク粥を作り、魁威の顰蹙(ひんしゅく)をかっていた。

 珍しく仕事の合間をぬって立ち寄った樹良は、苺入りミルク粥の犠牲なっていた。

「隆一朗いるー?」

 瑞基がご機嫌でやって来た。

 カウンターに駆け寄る瑞基を見て隆一朗の顔が険しくなった。

 瑞基は樹良の食べている皿の中を見て戦慄が走った。

「樹良さん、何食べてるの!」

 瑞基は、ありったけの同情を籠めて樹良を見た。

「隆一朗が作った苺入りミルク粥。」

「わー、気の毒過ぎる。」

 隆一朗が痺れを切らして言った。

「瑞基、こんな時間にどうしたの?」

「ああもう、また忘れてる。

 今日と明日は学力テスト在るから部活も無いって言ったよ。」

 隆一朗はきょとんとした。

「そうだっけ?」

「もお、これだから年寄りは。」

「人を年寄り扱いしないでよ、六歳しか離れて無いだろ。」

 樹良がクスクス笑った。

「そこ、笑う処じゃないから。」

 隆一朗が突っ込むと樹良は眼を丸くした。

「なんか、隆一朗変わったね、砕けたって言うか。」

 奥から魁威が出て来た。

「樹良も、そう思うだろ。

 最近取り扱いが楽になったんだ、(いじ)りやすくなった。」

「人を電化製品みたいに言わないでよ。」

「へー。」

「樹良も納得しない。」

 今度は瑞基がクスクス笑った。

「瑞基、何がおかしいの。」

「だって、隆一朗めっちゃ弄られてて、日頃の溜飲(りゅういん)がさがるなあと思って。」

「何、その溜飲て。」

「聞いてよ、魁威さんも樹良さんも、酷いんだよ。

 オレが学校や部活サボったらトイレ掃除と飯抜きのペナルティ付けるんだよ。

 しかも飯抜き、オレだけじゃなくて隆一朗も抜くとか言うの。

 オレ、うかうか部活もサボれやしない。」

「それはキミがサボらなければ済む事だろ。」

「オレだって色々都合とか用事とかあるんだ。」

「学生のキミに、勉学以外にどんな都合があるって言うの?」

「もう、これだよ。

 ね、オレの人権無視してると思わない?」

「人権は真面目に生きてる人の為にあるんだよ。

 キミみたいに学校サボって万引きするような子には、きついペナルティ無いと何するか解った物じゃない。」

「瑞基、万引きなんてしたの。

 ショボいなあ、男は大きく銀行強盗くらいやりな。」

「魁威!」

 隆一朗が思い切り睨んだ。

 魁威は、隆一朗の迫力の一睨みに思い切り引いた。

「隆一朗、魁威さんが脅威を感じてるよ。」

 隆一朗の睨みの恐怖を知っている瑞基は魁威に同情した。

「誰のせいだと思ってるの。」

「隆一朗ね、そう言うけどオレも大変よ。

 部活の先輩たちが今まで休んでた分取り戻すって(しご)(まく)るんだから。」

「それは、キミが今までサボってた報いだろ。」

「オレ、別にバスケの選手が夢とかじゃないからね、あくせくやる必要無いだろ。」

「ボクはキミが、今居る現状で一生懸命やらなきゃならないことを一生懸命やって欲しいだけだよ。」

「瑞基、隆一朗はさ、ピアスあけたり銀髪に髪染めたりって、こんな成りしてるけど、瑞基と同じ年頃から生きる為に結構苦労してるんだ。」

 魁威が長々と話し出しそうなので、隆一朗は(さえぎ)った。

「ボクのことはいいよ。

 切れそうな野菜あるから買いに行って来る。」

 隆一朗はレジから千円札を何枚か持つとコートを着て店を出ていった。

 隆一朗が見えなくなるのを見届けると魁威が訊いた。

「今でも、あるの?」

 瑞基は何のことか解らず、逆に訊いた。

「なんですか?」

「眼を開けてって奴。」

 瑞基は少し迷ってから答えた。

「あります、ここ数日は無いけど。」

 魁威は少し安心した顔をした。

「うちに転がり込んで来た時は毎晩だったんだ。

 良かった。」

「隆一朗があんなに明るくなったのは、瑞基のお陰かもね。」

 樹良が言った。

「それは間違い無いね。

 毎日、瑞基のこと嬉しそうに話すんだ。

 夕べ瑞基に告白されたとか、瑞基とお風呂塲でお湯のかけっこしたとか。

 お陰で色々詳しいよ、お宅ん家の事情。」

 魁威も嬉しそうに言った。

 瑞基は慌てて否定した。

「オレ、告白なんてしてませんよ!」

「なにムキになってるの、隆一朗流の冗談だろ。」

 瑞基はほっと胸を撫でおろした。

「なに安堵してるの、怪しい。」

 魁威が意味ありげに瑞基を見詰めた。

 瑞基は再び慌てふためいた。

「そんな、安堵なんてしてませんから!」

 魁威と樹良は瑞基に顔を寄せ見詰めた。

「なんですか?

 オレまじで告白なんてしてませんから!」

 瑞基は必死に手を振った。

「解りやすっ!」

 魁威と樹良は吹き出した。

「隆一朗はいい奴だからね。

 惚れるのも無理ないよな、あの容姿だし。」

「惚れるって、オレ男ですよ。

 あり得ないですって。」

「別に、そんなに思い切り否定しなくてもいいでしょ。

 愛があれば性別なんて、ねー。」

「俺も応援するよ。」

 樹良は瑞基の肩を叩いた。

「二人とも誤解ですってばーっ!」

「はいはい、誤解ってことにしておいてやるから、少し落ち着きな。

 これでも、飲んで。」

 魁威は瑞基の前にホットチョコレートを置いた。

「安心しな、お代は隆一朗の給料から天引きしとくから。

 あと、今の会話は隆一朗には内緒にしとくからさ。」

 瑞基は肩をすぼめ、両手でカップを握りホットチョコレートをすすった。

 瑞基は初めて大人の恐怖を知った気がした。



     ー野中の一軒家ー

 瑞基はギターとアンプに遠慮しながら聖流の車の後部座席で揺られていた。

 運転席に聖流、助手席に隆一朗が乗っていた。

 ニキータ主催のライヴの為の練習をするのだという。

 魁威と隆一朗は、エリザベータの仕事を早目に切り上げて、街外れにある使われなくなった家屋に向かうことになっている。

 樹良はベースの麗畏を途中で拾うので別行動を取っていた。

 ドラムの魁威は商売道具がかさ張るので、友人からトラックを借りて単独で行動していた。

 街から離れると辺りは田畑が広がり、時々民家の灯りが星のように暗闇のなかで、人の存在を示している。

 借りている家屋は、元は農家の家族が暮らしていたが息子が結婚して手狭になったので、家を新築して、旧家を電気代と冬は灯油代込みで、隆一朗のたちのようなアマチュアバンドの練習場に安く貸し出していた。

 と云うのも、そこの息子も学生の頃からバンドをやっていたよしみである。

 近隣の街にスタジオはあったが家屋を借りる方がガソリン代込みでも、一人にかかる負担が少なく済んだ。

 だだっ広い畑の一角に家屋はあった。

 その周りには、遠くに民家の小さな灯りがぽつんと見えるだけで、何も無く、どれだけ爆音を出そうと気兼ねはいらなそうだ。

 家の前に魁威のトラックと樹良の車が止まっていた。

 瑞基は途中で居眠りをしていたので、隆一朗がアンプを降ろす次いでに起こされた。

 瑞基は呑気に伸びをして辺りを見回した。

 隆一朗も聖流も機材を運び入れるのに真剣だった。

「何か手伝う?」

 車から降りた瑞基が言うと聖流とキーボードを運びながら隆一朗が言った。

「ギター、中へ運んでくれる。」

「解ったー。」

 練習する部屋はリヴィングと和室を併せて十六畳ほどあった。

 がらんとした空間の(はし)にソファーと、中央に灯油ストーブが置いてある。

 各自、楽器をセッティングしたりチューニングしたりと、黙々と作業している間、暇な瑞基はソファーに座り、肘を膝に置き頬杖をついて眺めていた。

 十六畳のスペースをフルに使って、互いの音が聞こえるように、円を描いてアンプを置いた。

 隆一朗はアンプに脚を組んで腰掛け音を出す度にアンプのつまみを弄ったり、エフェクターを操作したりしていた。

 ドラムやらベースの音がぐしゃぐしゃに絡みあっついたが、次第に誰が合わせるともなく一つの音楽になって行った。

 互いの顔を見合せ、魁威がスティックで合図をだすと演奏がはじまった。

 瑞基はその様子を見ながら、音も凄まじい爆音だったが、それよりもメンバーの気迫に圧倒されていた。

 皆、知っている顔だが、演奏している真剣な彼らの表情は別人に見えた。



     ーバックステージでー

 瑞基はフロアからステージの隆一朗に釘付けになっていた。

 その日、隆一朗は無造作に銀髪を垂らし、タートルネックのノースリーブと細身の皮パンツの黒一色に身を包み、腰に赤と黒が絡み合う柄の大きなスカーフを巻き付けていた。

 その日、二百人入るハコはほぼ満員でバートリーはとりを務めた。

 バートリーのステージはこれでもかと云うほどオーディエンス達を

熱狂させ、隆一朗は銀髪を振り乱し、汗を輝かせて狭いステージ場で白いストラトキャスターを狂ったように掻き鳴らしていた。

 瑞基の眼は、もう隆一朗以外の何者をも映さず、隆一朗の掻き鳴らす、うねるギターの音に抱かれ、興奮で身体があることさえ忘れてしまっていた。


 ライヴが終わりバックステージへ行くと隆一朗は廊下の壁に凭れ、座り込んでいた。

「隆一朗!」

 瑞基の声に反応した隆一朗は、ぼんやりと視線が定まらないようだ。

 傍に居た聖流が隆一朗の頭にタオルを降らせた。

 瑞基の後ろから聖流を呼ぶ声がした。

 瑞基は反射的に振り返ると、例の美少年、央が立っていた。

 央は真っ直ぐ聖流の傍まで行くと、聖流の首に腕を巻き付けて耳打ちした。

「今夜、初めて逢った公園で、待ってるから、必ず来て。」

 そう言うと去って行った。

 来客はそれだけでは済まなかった。

「聖詞。」と呼ぶ声がした。

 隆一朗が声の方へ視線をやると、隆一朗の表情はみるみる蒼ざめていった。

 聖流が思わず「親父。」と言った声に瑞基も反応した。

 そこには白髪交じりの、初老のサラリーマン風の男が立っていた。

 藤岡真聖、隆一朗の父親である。

 一瞬、時が止まった。

 隆一朗は壁を擦るように立ち上がった。

 瑞基は、顔を見て隆一朗が酷く動揺しているのが解った。

「聖流、瑞基を頼むよ。

 また、お酒でも飲まされたら大変だから。」

 隆一朗は藤岡真聖から眼を離さずに言った。

「瑞基くん、行こう。」

 聖流は、呆然と突っ立っている瑞基の肩に手を添えて促した。

 瑞基は隆一朗を視界が許す限り眼で追った。

 そして、すれ違いざまに真聖を一瞥してその塲からはなれた。

 駐車場への、道すがら聖流が訊いた。

「聖詞が心配かい?」

「隆一朗、真っ青だったから………………。

 あの人、隆一朗のお父さんなのに、なんで、あんな顔………………。」

「君は聖詞から、どの程度きいてるの?」

「何をですか?」

「悪夢に出て来る女が誰なのかとか…………。」

「それは聞いてます、隆一朗の恋人だって。」

 駐車場に着くと車に乗り込んだが、聖流はエンジンをかけることを躊躇していた。

 聖流は迷っていたが、やがて静かに話し始めた。

「聖詞の恋人と云うのは藤岡真聖の三人目の妻、俺達には義理の母親になる人なんだよ。」

 瑞基は大きく眼を見開き、聖流の顔を見詰めた。

 心臓が、鼓動を速めた。



     ー罪ー

「母親と言っても二十代後半の女盛り、そんな女性が父のような貞淑と献身しか妻に求めないような男に満足できる訳がないんだよ。

 彼女は教養の高い、優しい女性だったから、聖詞は直ぐに夢中になった。

 彼女が好きな音楽を愛し、彼女が好きな小説を愛し、やがて彼女自身を愛するようになった。

 そして、仕事ばかりを優先する父に不満を抱えていた彼女は、いつしか聖詞の想いを受け入れてしまったんだ。」


 隆一朗は、かつて瑞基を待たせた喫茶店で真聖と向かい合って座っていた。

 真聖は六年も離れていた息子が、立派な大人になった姿にみいっていた。

「随分、身長が伸びたな。」

 隆一朗は眼を伏せ、タバコに火を点けた。

「ええ、二十二歳になりましたから。」

「何か不自由はないのか?」

「特別、不自由はありません。」

「今更なんだと思うかも知れないが、情けない話だがお前を許すのに今までかかってしまった。」

「許す必要はありません。

 許されたくもない。」

 真聖の表情が少し険しくなった。

「だが、お前はわたしの息子であることに変わりはない。」

 隆一朗はタバコを揉み消し、立ち上がった。

「もう、お話しすることも無いでしょう?

 友人を待たせているので。」

「聖詞。」

 真聖は隆一朗の手を掴んだ。

「ボクは、あなたの妻を寝とった男です。」

 隆一朗の手を掴んでいた力が緩みほどけた。

「そして………………。」

 隆一朗は眉をしかめて言った。

「死に至らしめた男です。」

 隆一朗は、呆然と立ち尽くす真聖を置いて店を出た。


 聖流は話を続けた。

「聖詞との、関係が親父にばれて、彼女はあっさり風呂場で手首を切って死んだ。

 残された聖詞の衝撃は想像を絶した。

 何度も手首を切って、彼女の後を追おうとして死にかけた。

 それでも聖詞は死のうとするのを止めなかった。

 罪の意識に耐えられなかったんだ。

 自分さえ愛さなければ彼女は死ぬことは無かったのだと自分を責めていた。

 だから、俺は聖詞を殴り付け、罪の意識があるなら生きて苦しめと言うしか無かった。

 そんな残酷な言葉でしか、聖詞を繋ぎ留めることができなかったんだ。」

 瑞基は隆一朗の身に起きた悲劇に、胸が潰れそうだった。

 それでも隆一朗の苦しみを知りたくて、俯いたまま聖流の話に聞き耳をたてた。

「聖詞の苦悩はそれだけでは納まらなかった。

 彼女は聖詞の子供を身籠っていたんだ。

 多感な思春期の聖詞にとって男としての機能を封印するには余りある衝撃だった。

 聖詞は総てを失った、普通の高校生活、普通の将来、帰る家、男としての機能、生きる気力……………、なにもかもだ。」

 瑞基の眼から涙が溢れた。

『隆一朗はただ、一人の女性を純粋に愛してただけなのに……………。』

 聖流はハンドルを叩いて(うつむ)いたまま、ぎりぎりと拳を握り締めていた。



     ー聖詞の成長ー

アパートに戻った隆一朗はベッドに凭れ放心状態で天井を見ていた。

 傍には、カラのウィスキーのボトルと大量の精神安定剤が散乱している。

 真っ暗な部屋には彼女が愛したドアーズが、ずっとエンドレスで流れていた。

 彼女が特に好きだった「ピープルアーストレンジ」が流れた始めると何処からともなく足音が近付いて来た。

 手首から血がぽたぽたと滴り落ち、足音は隆一朗の前で立ち止まった。

「隆一朗、よく六年も生き恥を晒して来たよね。」

 聖詞が屈んだ。

 隆一朗はぼんやりと聖詞を眺めた。

「それはともかく、おめでとう、ボクは成長を始めたよ。」

 聖詞は軽蔑を籠めて隆一朗を見詰めた。

「キミは死ぬべきだったんだ、ボクと云うモンスターを生み出す前に。」

 聖詞は、朦朧(もうろう)とした隆一朗の首に指を絡めた。

「滑稽だとは思わない?

 何を失っても愛したいと願っていた女性が命を断ったんだ。

 キミが彼女を追い詰めた。

 キミに生きる喜びは恵まれ過ぎてる。

 新たな愛を得るなんて許されていい筈が無いんだ。」

 聖詞は指に力を込めた。

 聖詞の手首から滴る血が無抵抗な隆一朗の首筋に紅い模様を描いた。

 隆一朗の顔が歪む。

 聖詞は顔を歪め、更に力を込める。

 隆一朗の眼が見開かれる。

 それでも尚、隆一朗は抵抗しなかった。

「隆一朗、帰ってるの?」

 瑞基は暗闇を照らそうとスイッチをまさぐった。

 蛍光灯の強い光が眼を刺激する。

 瑞基は手を翳した。

 眼が慣れ、瑞基の視界に飛び込んで来たのは、自分で自分の首を絞める隆一朗だった。

 瑞基は自分が今、何を見ているのか理解できなかった。

 ウィスキーの空瓶と大量の精神安定剤のカラになったシートを見て、隆一朗に何が起きているのか、やっと理解した。

「隆一朗!」

 瑞基は慌てて隆一朗に飛び付いた。

 とにかく首を絞める手をほどこうと手首を掴むが、隆一朗は信じられない力で締め付けていた。

 こんなにも死に執着する隆一朗が哀しくて瑞基は泣きながら必死に手を引き離そうとした。

「どうして!

 隆一朗、お願いだからオレをみてよ!

 隆一朗!

 どうすれば………………?」

 瑞基の哀しみは臨界点を突破して怒りに変わった。

「莫迦隆一朗!!」

 瑞基は渾身の力を込めて隆一朗を殴った。

 殴られた隆一朗は床に倒れ、激しく咳き込んだ。

 どうにか首を絞めていた手は、振りほどけたらしい。

「隆一朗の莫迦!!」

 瑞基は隆一朗の身体にしがみついた。

「どんなに自分を責めたって死んだ人は帰って来たりしないのに!

 隆一朗が死んだら悲しむ人が隆一朗の周りにはいっぱい居るのに!

 どうして、その人達の想いが解らないんだよ!」

 瑞基は大声をあげて泣いた。

 隆一朗は呼吸が落ち着くと泣いて自分にしがみつく瑞基の頭を無意識に撫でた。

 薬とウィスキーで思考が鈍り、朦朧とした意識の中で愛しい人が自分の為に泣いているのをぼんやりと認識した。

「オレ哀しいよ。

 隆一朗が突然死んだらまともでいられるか自信ない。

 それくらいオレ、隆一朗のことが好きなんだ。

 自分でもどうしていいか解らないくらい大好きなんた。」

 暫く瑞基は隆一朗の胸に顔を押し付けて泣いていた。

 瑞基が顔をあげると隆一朗は、いつになく優しい眼差しで瑞基を見詰めていた。

「ごめん、口から血が出てる。

 オレ、力任せに思い切り殴ったから。」

 隆一朗は親指で瑞基の涙を拭い、頬を手で包んだ。

 そして、そっと瑞基の口唇に口唇を押し当てた。

『え?』

 瑞基は驚いて抵抗するという処まで思考が至らなかった。

 隆一朗は何度も浅いキスを繰り返す、そうしている内に瑞基の感情は溶けて行った。

 瑞基は静かに眼を閉じた。

 瑞基は今まで感じたことの無い、甘い疼きが身体中に広がっていくのを感じた。

 隆一朗の浅いキスは、次第に深くなって瑞基に進入していった。

 それは、とろけてしまいそうに甘く瑞基の頭を痺れさせた。

 二人は時を忘れ、口唇を重ねたまま互いを求めるように抱き合った。

 隆一朗が口唇を離すと瑞基は言った。

「もう一度して。」

 隆一朗は瑞基の肩に腕を巻き付けると回転して瑞基の上に身体を重ねた。

 そして、熱く燃えるような口付けをした。

 瑞基の身体が火照る。

 隆一朗の愛撫を受け、瑞基の身体は素直に反応していた。

「待って、待って。

 隆一朗、めっちゃ酒の匂いする。

 オレ、気持ち悪くなって来ちゃった。」

 隆一朗は顔をあげると小さく微笑み、瑞基の髪をなでた。

「オレ、眠くな……………っちゃ…………た………か………も…………………。」

 瑞基は直ぐに寝息を立て始めた。

「ほんと、お酒に弱いんだから……………。」

 隆一朗は、瑞基の髪を撫で続けたが、暫くすると瑞基の肩を枕に眠ってしまった。



     ー瑞基の決意ー

『重っ!』

 瑞基は微睡(まどろ)みの中でなにかが覆い被さっているのを感じて眼をさました。

 間近に隆一朗の顔があることに気付いて動揺し、隆一朗とのキスを思い出して、更に戦慄(わなな)いた。

『オレ、どうして隆一朗とキスしちゃったんだろう?』

 隆一朗の口唇の感触を思い出しただけで、胸が締め付けられ全身に甘美な疼きが広がって、うっとりと夢心地になった。

『もう一度してってどうよ?』

 瑞基は一人で顔を赤らめ、眠る隆一朗の顔をまじまじと見詰め、更に赤くなった。

 隆一朗の顔をまともに見れなくなって顔を背けた。

 床に散らばる精神安定剤のシートが眼に入った。

 ざっと見ただけでも半端な量ではない。

『病院の薬、いつも無視してるのに、こんなに飲まなければならないほど、親父さんに逢って辛かったんだ。』

 瑞基は改めて隆一朗の寝顔を見詰めた。

 隆一朗は小さな寝息を立てて、穏やかな表情を浮かべ眠っていた。

 隆一朗の身体を、ぎゅっと抱き締めた。

『隆一朗を感じているだけで、身体が溶けてしまいそうなほど幸せで、だから凄く哀しくなる。』

「隆一朗、起きて。

 こんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよ。」

 隆一朗は眼を開けた。

 額に手をあて、のろのろと起き上がった。

 起き上がった途端、口を押さえて洗面所にふらふらしながら駆けて行った。

「隆一朗、大丈夫?」

 瑞基は洗面所に向かって声を掛けた。

 どうやら嘔吐しているようだ。暫くして、歯磨きをする音が聞こえた。

 瑞基がタオルを持って洗面所の前で待っていると、眉間に皺を寄せて隆一朗が出てきた。

「頭はガンガンするし、左の頬がめちゃくちゃ痛いんだけど。

 鏡見たら口、切れてて……………。

 首には変な痣できてて、ヒリヒリ痛いし、声出すの辛い。」

 確かに隆一朗の声は(かす)れていた。

「覚えてないの?」

「なにを?」

 不思議がる隆一朗の顔を見て、瑞基は拍子抜けした。

「夕べ大変だったんだよ!

 隆一朗、ウィスキーと精神安定剤のチャンポンして錯乱して自分の首絞めてさあ。

 どうしても首から手を離さないから、オレ頭に来て思いっきり殴ったんた。

 そしたら、やっと手を離してくれた。」

 隆一朗は(いぶか)しげに瑞基を見た。

「思いっきり殴ったの?

 日頃の恨みを籠めて?」

「な、訳無いだろ!

 こっちは必死だったんだ。

 隆一朗なら自分を絞め殺しかねないもん。」

 瑞基の哀しげな表情を見て、隆一朗は優しく微笑んだ。

「有り難う…………。」

 瑞基は上目遣いで、隆一朗を見た。

「本当に何も覚えて無いの?

 オレのファーストキス奪ったことも………………。」

「え…………………。」

 隆一朗は明らかに動揺していた。

「しかも、めちゃくちゃ濃厚な奴……………。」

 瑞基は追い討ちを掛けた。

「そ…………れは…………本当に?」

 隆一朗は困惑した表情を浮かべた。

 瑞基は内心楽しんでいたが、わざと傷ついているように見せた。

「そんなの嘘言ってどうすんだよ!」

「え……………あの………………でも………………ええ……………………?」

 いつもポーカーフェイスが得意な隆一朗も今回ばかりは激しく狼狽していた。

 瑞基はこらえきれず笑い出した。

「隆一朗やりこめられるのって、めっちゃ気分いい。

 こんな、面白い隆一朗見れたんだからファーストキスの件は許してやるよ。」

「瑞基、最近本当に性格悪いよ。」

「一緒に居る誰かさんの性格が移ったのかも。」

「それ、ボクのこと?」

「さあてね、誰のことだろうねー。」

 隆一朗は額に手を当てながら言った。

「夕べのことだけど、ぼんやり愛しい人がボクの為に泣いてたことだけは何となく覚えてる。」

「その愛しい人って誰?」

 瑞基がいつになく真剣な顔で訊くので隆一朗は返答に困った。

「それがよく解らない………………。」

 言葉尻がしぼんだ。

 瑞基はがっかりしてタオルを隆一朗の顔に押し付けた。

「オレ今日、部活あるから寝る。

 隆一朗もちゃんとベッドで寝ないと風邪ひくよ。」

 瑞基は、さっさとパジャマに着替えてベッドに入った。

 隆一朗はタオルを握り締め、お預けを食らった犬のように瑞基を見詰めていた。

 瑞基は寝た振りをして、別のことを考えていた。

『苦しいよ、隆一朗。

 オレには哀し過ぎて辛いよ。』

 瑞基は聖流の話を思い出していた。

『明日、ここを出て行こう。』



     ー暗闇に墜ちるー

 朝、珍しく瑞基は隆一朗よりも早く眼を覚ました。

 隆一朗を見ると、安らかな寝息を立てて眠っていた。

 穏やかな寝顔に瑞基は安心した。

『ごめんね、オレ逃げるから。』

 瑞基は起き上がると、いつものように洗面所で歯を磨いた。

 顔を洗って、髪を櫛でとかした後着替えて、なるべく音を立てないように荷物をまとめ始めた。

「何をしてるの?」

 隆一朗が眼を覚ました。

 瑞基は振り向かず荷物を詰め込んだ。

「オレ、ここを出て行くよ。」

「そう………………。」

 隆一朗は起き上がると、タバコに火を点けた。

「いい加減、そのマッパで寝るの止めた方がいいよ。

 もう、いい歳なんだからさあ。

 じじいになった時、腰痛で泣くよ。」

 瑞基は隆一朗を見ずに言った。

「夕べ、何を聞いたの?」

「なにも。」

 隆一朗はくわえタバコで手近にあるズボンを穿いてベッドに座った。

「せめて最後の朝食一緒にどう?」

 瑞基はやっと隆一朗を見た。

「そんなことしたら、決意が鈍っちゃうじゃん。」

「どんな決意なのか、是非聞きたいね。」

「別に大した決意じゃ無いよ。」

「大した決意じゃ無いなら、何故そんな泣きそうな顔してるの?」

 瑞基の手が止まった。

「隆一朗はさあ…………………。」

 瑞基は抗議しようとしたが実際に出た言葉は、それとはかけ離れたものになっていた。

「どうして痛い時に痛いって言わないんだよ!

 夕べだって親父さんに逢って、正気無くなるくらい強いお酒と薬飲み捲って、それくらい辛いのに、苦しいのに、一人で抱え込んで。

 魁威さんも居るのに、聖流さんだって居るのに、オレだって………。

 隆一朗が死んだら、残されたオレはどうやって自分を納得させればいいんだよ!」

 隆一朗は、ナイトテーブルにある灰皿で吸っていたタバコを揉み消しながら言った。

「言いたいことは、それだけ?」

「それだけって………………。」

「魁威がボクのことを心配してくれてるのも、聖流がボクのことで心を痛めてるのも知ってる。

 でも、今のボクにはどうすれば彼らの想いに応えられるのか解らないんだ。

 凄く周りに甘えて生きているのも気付いてる。

 だけど、どうすれば大丈夫と言って納得して貰えるのか解らないんだ。

 正直に白状すれば、今のボクには全く余裕が無いんだと思う。

 忘れていられるなら忘れていたい。

 でも、それが許されていいことなのか、それさえボクには解らないんだ。」

「隆一朗………………。」

 瑞基にフッと哀しげな笑みが漏れた。

「やっぱ、オレって餓鬼なんだなあ。」

「瑞基の子供っぽさは、ボクには救いだったよ。

 今日まで有り難う、傍に居てくれて。

 楽しかったよ、とても。」

 隆一朗は両足を揃え、かしこまって言った。

「そして、許して欲しい、ボクのことで哀しい想いをさせてしまったことを。」

 隆一朗は頭を下げた。

 瑞基は眉間に皺を寄せた。

「もう、過去形かよ。

 じゃあ、最後に訊くよ、隆一朗にとってオレはどう云う存在だったの?」

「光……………かな。

 いつも明るくて、とても愛しい存在だよ。

 正体を失っても愛しいと感じられる、何者にも代えがたい大切な存在、それが瑞基に対するボクの正直な気持ちだよ。」

 瑞基は持っていた歯ブラシを落とした。

「どうして…………………?

 どうして、そんなこと今言うんだよ。」

「どうしてって、言う機会もなかったし、改まって言うことでも無いし。」

 瑞基はため息をついた。

「隆一朗って時々、凄い天然だよね。」

「それは有り難う。」

「褒めて無いから。」

 荷物を詰め終わると瑞基は立ち上がって隆一朗に向き直った。

「短い間でしたがお世話になりました。」

 瑞基は丁寧にお辞儀をした。

 隆一朗はそれを無表情で眺めていた。

 瑞基が向きを変え、足を踏み出そうとした瞬間、隆一朗の身体は意に反して動いた。

 気付くと瑞基の手首を掴み、そのまま後ろから瑞基の身体を包み込むように抱き締めていた。

 瑞基の手からバッグが落ちた。

 瑞基は何が起きたのか理解できず、顔には驚きの表情が貼り付いていた。

 隆一朗は瑞基の髪に顔をうずめ、二人は静止したまま、お互いの呼吸の音を聞いていた。

 瑞基は眼を伏せた。

「…………………傍にいて…………………。」

 その声は掠れて、囁きに近かった。

 それでも、瑞基の胸を震わすほど響く、小さな隆一朗の叫びだった。

 瑞基は噛み締めるように眼を閉じた。

「藤岡、居るか!?」

 突然玄関から男の怒鳴る声が響いた。

 ドアが開くと、瑞基が万引きした時に世話になった葉山が、険しい表情で飛び込んで来た。

「藤岡、いいか、落ち着いて聞け、W市の別荘地で兄貴が十四歳の少年に刺された。

 刺した少年が家にガソリン撒いて火を点けやがったんだ。

 署で遺体確認を急いでいる、来れるか?」

 隆一朗は大きく眼を見開き、自分の肩を抱いた。

「葉山さん、何かの間違いじゃないですか?」

 隆一朗は声をやっと絞り出した。

「残念だが家の前に止めてあった車に免許証があった。

 俺も遺体を見た。

 お前の身元引き受けに来た時に何度か逢ってる。

 残念だが間違い無い。」

 瑞基は身体が凍り付きそうになりながら隆一朗を必死に見守った。

「嘘だ、そんな筈無い。」

 隆一朗の身体が、ガクガク震えている。

「隆一朗。」

 瑞基は隆一朗が、どうにかなりそうで怖かった。

 今の隆一朗に、聖流の死を受けとめるだけの精神力があるとは思えなかったからだ。

 隆一朗は両手で額を押さえ、ぶつぶつ何かを呟き始めた。

「どうして?

 こんな現実信じない。

 聖流……………嫌だ………………………認めない。

 嫌だ……………………。」

 隆一朗は両腕で頭を抱え込み、乱れた呼吸を整えようと必死にもがいた。

 隆一朗の中で何かが音立てて弾けた。

「いやだーーーーーーーーっ!!」

 隆一朗は喉が裂けるのではないかと思われるほど全霊を籠めて叫び、意識を失い、崩れるように倒れた。

「隆一朗!」

 瑞基は咄嗟に隆一朗の身体を受け止め、座り込んで隆一朗の上半身を抱き締めていた。

「隆一朗、オレが傍に居るから!

 ずっと傍に居るから!」

 それが、瑞基が言える、たった一つの想いだった。



     ー約束ー

 「それは、母さんに相談するんだな。

 我が家の財布を握っているのは母さんだからな。」

 孝久は制服姿の瑞基の眼を見て言った。

 瑞基は、綾子の姿を求めてキッチンを見た。

 綾子は困ったような笑みを浮かべて、瑞基を見ていた。

「高校生ともなると、寮に入って通う子やアパートを借りて自炊しながら通う子も珍しく無いみたいね。」

 瑞基は次の綾子の言葉を待った。

「可愛い子には旅をさせろと云うけど、この家を離れてた何日かで瑞基は随分大人くさくなったものね。

 病状が落ち着いたら、その隆一朗さんて方に随分お世話掛けてしまったし、一度御礼をしに行かなくちゃね。」

 綾子は一呼吸置いてから、嬉しそうに顔を(ほころ)ばせ言った。

「家も楽に生活してる訳じゃ無いけど、瑞基がバイトして生活費に当てると言うし。

 頑張ってみなさい。」

 瑞基の顔がほっとしたように明るくなった。

「有り難う、母さん!」

 瑞基は綾子に抱きついた。

「瑞基、随分素直になって、あなたにお礼言われるなんて、初めてじゃないかしら。」

「なに、なんの騒ぎ?」

 姉の香奈美が仕事から帰って来た。

「ああっ、さては瑞基、一人暮らしさせて貰えるるなぁ。

 ほんと二人とも瑞基には甘いんだから。

 あんたみたいなものぐさ、せいぜいゴミ屋敷にしないようにしなさいよ。」

「それ、姉貴だろ。」

「しっつれいな、あたしは親孝行なだけなんだから。」

「へー、料理作るの、面倒くさいだけの癖に。」

「あんた、憎まれ口のスキル上がったよね。」

 家族の雰囲気とは裏腹に、笑いながら瑞基の心は沈んでいた。


 エリザベータの近くにある市立病院の、入院病棟の一室に瑞基は立っていた。

「隆一朗、オレだよ。

 解る?」

 隆一朗はベッドに座って正面の壁を、生気を失くした眼で見たまま瑞基の声に答えない。

 瑞基は隆一朗の視界に入るように隆一朗のベッドに腰掛けた。

「今日は聖流さんの初七日だったんだ。

 隆一朗の代わりに、オレも出席させて貰ったんだけど、お経が長くてさ、足痺れて死ぬかと思った。

 親父さん、まだショックから立ち直れないみたいで、可哀想だったよ。」

 瑞基は隆一朗の顔を覗き込んだ。

「ねえ、隆一朗。

 今何処に居るの?

 早く帰って来てよ。」

 隆一朗は瞳すら動かさない。

 整った隆一朗の顔は、今はまるで精巧にできた人形のように無表情だった。

「隆一朗、疲れない?」

 瑞基は静かに隆一朗を寝かせ、丁度、隆一朗の

顔の位置になるまで屈んだ。

「オレね、いつかチケット売ってた通りにあるオモチャ屋でバイトすることになったんだ。

 ちゃんと学校も行ってるし、バスケ部も行ってる。

 バイト始めるから部活途中で抜けなきゃなんないけど、そこは多めにみてよ、これでも忙しいんだからさ。」

 瑞基は枕の処に深く座り、そっと隆一朗の頭を自分の膝に載せて言った。

「実はね、凄いニュースがあるんだ。

 オレ、進学するのを条件に、隆一朗のあの部屋で一人暮らしさせて貰えることになったんだ。

 オレ、隆一朗の傍に居るから。

 ずっと、あの部屋で隆一朗のこと待ってるから……………。」

 いつの間にか隆一朗は、安らかな眠りについていた。



    第一章  fin






 ここまで読んで戴き有り難うございます。

 誤字、脱字等ありましたら、お知らせ戴ければ嬉しいです。

 やっと投稿できて、とても嬉しいです。

 第二章は、一章よりも長いですが、読んで戴けたら幸いです。

 

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