三話 洗礼
あれは二人が付き合い始めてから二か月ぐらいのことだった。
「ヒビキ君、あれ、頂戴」
「……あれってなんだよ?」
その日は彩歌のリクエストで公園に来ていた。
青空の下、特に何かするわけでもない二人がベンチに座ってボーとしていた時、彩歌がそんなことを言ってきたのだ。
「この前、ヒビキ君がくれたキャンディーよ」
「……ああ、あれか。ちょっと待って」
先日、伸也と遊んでいたときに寄った駄菓子屋で買った、たくさんの味が入っているキャンディー袋。
その日では食べきれなく、学校に持ってきて彩歌にあげたのだがどうやら気に入ったらしい。
ヒビキはポケットから適当にいくつか飴を手の平に乗せ彩歌に向ける。
「ん~、レモン味はないの?」
「レモン? このイチゴ味でよくね?」
「なんでレモン味をリクエストしているのにイチゴを勧めてくるかなぁ。ラーメン屋でチャーハンを出される暴挙だよ、それは」
「はいはい、そーですね」
どうやらお姫様がご立腹のようだ。
ヒビキは駄々をこねる彩歌をなだめつつポケットに入っている残りの飴の中からレモン味を探す。
「あった。ほら、これでいいか?」
「うん。ありがと」
彩歌はレモン味の飴を受け取る。
表情に出していないが嬉しいそうな雰囲気が伝わってくる。
「レモン、そんな好きだっけ?」
普段、彩歌の好みに気を付けているつもりだったが、レモンが好きだというのは初耳である。
「んー、そういうわけじゃないんだけどね。家の裏にレモンの木がたくさん植えられていて、『わたし』がよく食べていたから『私』も食べてみたくなってね」
「家の裏? お前の家、マンションじゃん」
おかしい話だった。
彩歌の家はマンションでその裏には小さな公園があるだけでレモンの木なんて一本も生えていない。
そもそも日本だと柿の木ならともかくレモンの木なんてそこらに生えているとは考えられない。
それに彩歌が食べたはずのレモンを今の彩歌はまるで食べていないかのように話していることが気になった。
「そうね……」
綾歌は遠い目をしてそれだけを呟くだけでなにも説明してくれなかった。
まぁいい、ヒビキは深く聞こうとはしなかった。
彩歌が意味深なことを言うのは今まで何度もあったし、俺たちにはまだたくさんの時間はある。
彩歌が言いたくなったらそのときにあらためて聞けばいい。
彩歌と過ごす時間はこれからもあるのだ――そのときはそう信じていた。
「……あ?」
ヒビキが最初に見たのは雲一つない青空だった。
「……いてて。どこだ……ここは?」
ヒビキは倒れていた体を起こし、周囲に目を向ける。
正面に壁、というか塀、後ろも塀、左右にはどこかへと続く道と、どうやらヒビキは道の途中で倒れていたらしい。
それにしても、
「暗いな……」
太陽が出ているのにやたらと薄暗い印象を受ける。
この道はあまり使われていないのか、道のいたるところにゴミが散乱していることから、ここはどこかの路地裏にあたる所ではないかとヒビキは予想した。
「なんで……俺はこんな場所に……!?」
徐々に頭がはっきりとしてくる。
思い出してくる、直前の記憶を。
響は自分の首に手を当てる。
「なんともなって……いない? じゃあ、あれは夢?」
黒い穴から出てきた手に首を捕まれて必死の抵抗をしたところまでは覚えていた。
そして最後に聞こえた鈍い音。
あの音は――
背筋に冷たい汗が流れる。
「いやいや、俺はこうして生きているってことは……だ、あれは夢ってことか……?」
ヒビキは自分に言い聞かせるようにそう言うが、
『じゃあこの見覚えのない場所はどこなのか?』
『なんで自分はこんな場所で倒れていたのか?』
どこか冷静な自分が心の中でそう聞いてくる。
あれは本当に夢なのか?
「……あの手に捕まって俺は気絶させられた。で、俺はその手に捕まってここに連れてこられた……て考えられるか? でもそれだったら俺の首が無事なのがおかしいし……」
今の自分は冷静ではないと自分でもわかってはいる。
わかっているからこそ、自分で納得がいく答えを探しているのだ。
いや、無理矢理作り出そうとしていた。
だがやはり情報が少ない。
「とりあえず、ここがどこかはっきりさせたほうがいいな。……こういうときに限って携帯持ってねーし」
普段のヒビキは携帯電話を持ち歩いている。
だが、ここに連れてこられた直前は喧嘩をするのが目的であったため、貴重品は前もって自宅に置いてきてしまったのだ。
「……やっぱり人を探すしかないか。建物があるってことは人がいるはずだし、人がいるってことはなにかしらの情報があるってことだ……」
もう一度周囲を軽く見渡し、何もないことを確認してからその場を後にする。
幸いというべきか、迷うこともなく人を発見することができたが、眼前に広がる光景に混乱はさらに増していった。
通りの真ん中を当たり前のように走る馬車。
道の隅っこには布を地面に広げてその上に物を置いて商売をしている人間。
建物のほとんどが石で作られており、コンクリートで建てられたマンションなんて一つもない。
――どう見てもここは日本じゃない。
茫然と立ち尽くしたヒビキが出した結論である。
道歩く人の髪の色が金髪だったり、赤だったり、青だったり。
着ている服もボロボロな布の服だったり、重そうな鉄の鎧だったり。
まるで一人だけ中世時代に飛ばされたような錯覚すら覚えてしまう。
――中世時代? 違うな、これは例えるなら――。
『ねぇ? この世界とは別の世界――そう、異世界って存在していると思う?』
脳裏に忘れもしないあの言葉がよぎってしまう。
それを否定するようにヒビキは頭を振って、
「いや、待て。さすがに飛躍しすぎだ。日本にだって髪の毛を紫に染めたおばちゃんがいる。日本にもいるってことは別に珍しいことじゃないし、大丈夫、大丈夫……」
自分に何度も言い聞かせ、高鳴る心臓を落ち着かせる。
「とりあえず、なんだ? 日本の大使館に行けばいいのか? あ、でも事情を説明しないといけないよな。『穴から手が出てきてそれに捕まったらここにいました』って言ったら薬物検査されそうだ」
まさか自分が前準備もなしに外国の真ん中で迷子になるとは思ってもみなかった。
金もなければパスポートもない。
ここらへんの地理もなければ、この国の名前も知らないと、ないないづくしで笑えるレベルである。
とりあえずの大使館に行くことを目標に、歩いている人に声をかけた。
本当は世界共通語である英語のほうがいいのだろうが、残念ながら英語の成績は悪い方なので、ジェスチャーを交えた日本語で。
「ちょっといいか?」
声をかけた中年の男は立ち止まって顔をこちらに向けた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「……どうかしたのか?」
まさかの日本語で答えてきた。
日本語が通じるとは思っていなかったため、相手に声をかけるときタメ語になってしまったが、相手は特に不快に思っている様子はなかった。
(いや、日本語なんだけど……なんか変だ……)
ヒビキはなんとも言い難い違和感を覚えた。
説明は難しいのだが男が話しているのは日本語に聞こえるのだが、男の口の開き方が日本語ではない奇妙な違和感。
例えるのなら、男とヒビキの間に自動翻訳機を通して会話しているようなそんな感じ。
これについてはとりあえず置いておく。
気持ち悪いことには変わりないが、害はないと判断した。
むしろこれのおかげで言葉が通じるのなら、メリット部分の方が大きい。
デメリットは男が話すたびに違和感を覚えることぐらいである。
言葉が通じるのならとヒビキは男に大使館の場所を聞く。
「タイシカン? なんだそりゃ、どっかの村の名前か?」
そう返された。
馬車が当たり前に走っていることから、ここは相当な田舎だと推測できる。
田舎を馬鹿にするわけではないが、そんな田舎に大使館があるとは思えないし、現地の人にとって大使館など知らなくても仕方ないのかもしれない。
これは聞き方を間違えた、と反省し質問を変える。
「じゃあこの国の名前を教えてもらっていいか?」
「あん? ここはシーロンド王国さ。あんた、旅をしてきたのにそんなことも知らねぇで来たのか?」
「シーロンド王国?」
聞いたこともない国だ。
国名では現在地がわかりそうにないのでまた質問を変えてみる。
「……電話がありそうな場所は知らないか?」
「デンワ? ……あんたさっきからなに言ってんだ? そんな怪しいことばっかり言ってると“異界の民”に間違われるぞ」
「“異界の民”?」
ヒビキにとって知らない言葉だったのでオウム返しに聞き返しただけのことだった。
だが、それがいけなかったようだ。
男は驚いた表情をして、ヒビキの足元から頭の天辺までまじまじと見つめる。
「……どうした?」
「いやいや、なんでもねぇよ。お、俺は用事を思い出したから……」
「は!? ちょっと――」
止める間もなく男は早足で去っていった。
「なんだったんだ?」
男の豹変に戸惑いながら入手した情報を頭の中で整理する。
わかったことは、ここは日本ではない『シーロンド王国』という聞いたこともない国だということ。
電話の存在も知らないことからここは相当な田舎。
世界に電話を知らない場所なんてありえるのか疑問に思うが、それに賛成してしまうと残された可能性に肯定してしまうことになる。
「……『異世界』なんて認めるわけにはいかねーよな」
あの日あいつが言った地球とは別の世界。
コインの表裏のようにすぐ傍にいるのに決して交わることのない、そんな存在のことを認めたくはなかった。
その後、ヒビキは他の通行人にも聞き込みをするが、みんな話の途中で逃げてしまう。
そんなことを何度も繰り返したせいか、今では通りにいる人のほとんどは遠巻きにこちらを見ているだけでヒビキが近づくと逃げてしまう。
「まいったな……。ろくにわかっていないのにこの状況。話しかけた感じ、よそ者に厳しいってわけではなさそうなんだけどな……」
思わず愚痴をこぼすほど状況は悪かった。
多くの人は、最初は気さくにこちらの質問に答えてくれるのだが、途中からどうしてそんな当然なことを聞くんだ、という返しになり、そして驚いた表情をしてヒビキから逃げてしまう。
そのせいか情報収集が満足にできていないのが現状である。
問題はまだあった。
国が違えば通貨も違うのは当然であり、日本円しか持っていないヒビキはここでは無一文同然ということである。
寝床の心配や食事のこともあるというのに、聞き込みをできなくなった今の状況は最悪といえた。
(これからどうするか……)
この街での情報収集はこれ以上難しそうである。
では次の街に向かうほうがいいのだろうが、近くの街の情報をまだ聞けていない。
おそらく馬車で他の街との物資のやり取りをしていると思うので、道に残った馬車の車輪の跡を辿れば次の街に行けると思うのだが――。
「そこの方。少々宜しいでしょうか?」
「……俺? あ、ああ」
これからのことを考えていると突然後ろから声をかけられた。
まさかこの状況で話しかけてくる人がいるとは思っていなかったヒビキはワンテンポ遅れて振り返る。
そこにいたのは黒い修道服を着た痩せた男。
そして男を中心に同じ黒い修道服を着た体格のいい男が三人。
痩せた男以外は手に木製の棍棒を持っていた。
「こんにちは。今日も晴天に恵まれて我らが神もお喜びになられましょう」
「…………」
念願の話を聞けそうな人が現れたというのにヒビキは口を開こうとはしない。
というのも痩せ男の顔は笑顔だが、その周りにいる屈強そうな男たちはこちらに敵意を向けてくるからだ。
街で喧嘩をしていた時に感じた感情よりも、もっとどす黒い敵意を。
「こう晴天の中、爽やかな風が吹いている日はよく洗濯物が乾くのですよ。私は独り身ゆえ、自宅の方に多くの洗濯物が溜まっておりまして、こういう日こそは片づけたいところなのですがあいにく仕事のほうが――」
「あの……ヘクトール司教。世間話はその辺りで……」
「おっと、失礼。私は世間話が好きでしてね。ついつい長くなってしまいまして……」
ヘクトールと呼ばれた痩せ男は屈強な男たちの一人に話を止められて笑いながら頭をかく。
その動作一つ一つがヒビキの目には芝居かかったように見えて、嘘くさい男という印象を受けた。
「前置きが長くなってしまい申し訳ありません。では本題を――」
あなたは地球から来られましたか?
「――――え?」
突然のヘクトールの言葉でヒビキは止まった。
体も、思考も、そして警戒心も。
仕方ないことかもしれない。
ヒビキは地球にある日本に住んでいて、突然知らないところで目を覚ましたとはいえ、ここが地球なのは当然のこと。
なのに、この男はここが地球とは別の世界であるかのように話している。
『ねぇ? この世界とは別の世界――そう、異世界って存在していると思う?』
嫌な予感がして、目の前の男に詰め寄った。
否定してほしくて、何かの間違いだと言ってほしくて。
「地球から来たってどういうことだ? お前は何を言って――」
突然強い衝撃が頭に走り、ヒビキは言葉を続けることができなかった。
「質問には正確にお答え願います。あなたは“チキュウ”から来られましたか?」
「はぁ……はぁ……」
いつの間にか背後に回り込まれたのか、ヘクトールの横にいた一人がヒビキの後ろにいた。
殴ってきたのはこの男だろう。
左頬に流れる汗を拭う。
拭った手を見たら手は赤く染まっていた。
最初は人の良さそうなヘクトールの笑顔も、今では底知れぬ恐ろしさしか感じない。
ヒビキはすぐに周りへと目を向ける。
この状況、ヒビキ一人では無理だと判断し、助けを求めようとしたのだ。
幸いここは人が多い通り。
さっきまで避けられていたとはいえ、人がたくさんいたはず――。
人はすぐに見つかった。
ざっと目に入っただけでも八人。
「助け――」
助けを呼ぼうとしたヒビキは気づいてしまった。
不安、恐怖、――そして敵意。
八人の視線から読み取れる感情だ。
視線の先は――頭から血を流しているヒビキ。
不安と恐怖はわかる。
目の前で突然、事件が起こればそんな感情も抱くだろう。
だが、敵意?
そんなものを向けられる覚えがないヒビキはただただ困惑してしまう。
「ふむ……。これは“無言の了承”とみて宜しいですかな?」
相変わらず笑顔のままヘクトールは周りにいる男に一言。
「やれ」
ヘクトールの合図と同時に男たちはヒビキに近づき、手に持った棍棒で殴ってくる。
「ごほっ……」
ヒビキは普通の人よりは喧嘩を多く経験している。
その中には鉄パイプを手に殴ってきた人もいた。
バットで殴られたことだってある。
木刀だってある。
だが、殺す気で殴られたことはなかった。
ヒビキは最初の一撃を体で受けて倒れた。
それでもお構いなしと、男たちは棍棒でヒビキを叩く、叩く、叩く。
亀のように相手に背中を見せて縮こまったヒビキを男たちは棍棒で何度も何度も殴ってくる。
まるでおとぎ話の『浦島太郎』の最初に出てくる子供に虐められている亀のように執拗に。
違いがあるのなら、亀を助けてくれた『浦島太郎』が存在しないということだけ。
「やれー殺せー!」
「聖イラス教ばんざーい!」
「“異界の民”に神の鉄槌を!」
周りにいた八人――いや、どこから湧いたのか、十人弱もの人たちは棍棒で叩く男たちに声援を送っていた。
気が付けば活気が良かった通りは今や“ヒビキの公開処刑の場”と化していた。
ヘクトールは集まった人たちに手を振りながら、
「“異界認定”は終わりました。私は忙しいのでこれで失礼します。その者は拷問にかけますのでできるだけ生かして連れてくるように」
「はっ」
ヘクトールは倒れたヒビキを一瞥するとその場から去っていく。
残された男の三人の内一人が、倒れたヒビキの顔を上に向け、
「へへ、おい。助けてくださいって言わないのか? “異界の民”は命乞いが得意なんだろ? ほら、俺たちを笑わしてくれるなら命だけは助かるかもしれないぜ」
黄ばんだ歯を見せてゲラゲラと笑う男。
残りの二人も声を上げて笑っている。
修道服を着ているのにやっていることは山賊と変わらない。
上司であるヘクトールがいなくなったせいもあるのだろう。
「おら! さっさと情けない声で命乞いをしてみろよ!」
何も言わないヒビキに痺れを切らしてヒビキの体を何度も蹴ってくる。
「……か」
「あ?」
小さく呟くヒビキに男は顔を近づける。
「……ばーか」
本当はもっと洒落の効いた罵倒をぶつけたかった。
だが、口が切れて短い罵倒しか言えなかった。
それでも十分だったらしく、男の顔は茹でダコのように赤く染まっていた。
「……今回の“異界の民”は中々に骨があるみたいだな。そんだけ骨があるんだ。少しぐらい折ったところで平気だよな……。おい、暴れないように足を引っ張って押さえつけろ!」
男の一人がヒビキの体を仰向けにし押さえつけ、もう一人が足を力任せに引っ張る。
「…………」
殴られ続けたせいでヒビキには抵抗する力がなかった。
それでもと、せめてもの抵抗に正面の男を睨みつける。
「へへ、その元気がどんだけもつか見物だな。まさか足だけで終わるとは思っていないだろうな? 足の次は腕だ。腕の次は……さてどこにするか。まぁ、とりあえずいい悲鳴を上げてくれよ」
男の一人が棍棒を大きく振りかぶる。
「…………」
ヒビキはその光景を見つめるだけ。
抵抗しようにも体は満身創痍でろくに動けないこの状況。
できることは男を睨みつけることと、心の中で謝罪すること。
自分を産んでくれた両親に対して。
ヒビキの未来を心配し、本気で怒ってくれた伸也に対して。
そして、彩歌に対して。
ヒビキの目の前で振り上げた棍棒はヒビキの足に――
「――え?」
誰かが呟いたたった一言。
だが、この現状を見ていたみんなが思った一言。
ヒビキの足に狙いを定め、振りかぶった姿勢のまま男の首から先が消えていた。
「う、うわああああああああああああああ!!」
蜘蛛の子を散らすように、公開処刑を見ていた観客は逃げていく。
この場に残っているのは、満身創痍なヒビキと二人に減った男たち。
そして――
「大丈夫?」
倒れたヒビキと男たちの前に立つ一人の少女。
軽鎧を身に纏い、武器を持った男たちに向かい合うヒビキより小さな体躯。
その小柄な腕で振るには大きすぎる剣。
今まで見たこともない透き通った綺麗な青い髪は少女の腰まで伸びており、風と共に踊っていた。