音の行方
始発までの静かな時間、で、ある筈だった、ひと時の静寂に、ギィ……ギィ……、天井の板が軋む。
それは、気にしなければ、どうという事は無い僅かな音でしかない筈なのに、妙に耳に残る。
しかし、ボロアパートとは言え、上の物音がこれほど聞こえる者なのだろうか?
ひょっとすると、この音は屋根裏の隙間から聞こえているのではあるまいか?
そのわずかな隙間に、入り込んだ何かが、あっちに、こっちに、と、移動するたびに、天井に張られた薄い板を軋ませているのかもしれない……。
音の行方を目で追いながら、それが描き出す模様を思い浮かべる。
何かを形作ろうとしては崩れ去り、何かを伝えようとしては口籠る様なもどかしさに、先回りしたい苛立ちが募る。
煙の様に揺蕩う糸がゆっくりと紡がれ、一枚のタペストリーを作り出して行く。
そこに描かれるのは美しき天上の物語か、この世の苦悩を掻き集めた地獄絵図なのか……。
細部が固められ、無縫の天衣がそこに顕現しようかという時に、金属を打ち鳴らすけたたましい音が響き、柔らかなイメージを粉々に引き千切った。
「もう、動き出したのか……」
貼り付けられた薄い膜を振り落とさんと、ビリビリと震えるガラスを恨めしそうに眺めながら一人ごちた。
冷たい水で顔を洗うと、ラッシュ時に鳴り続ける金属音から眩しい日の光の中へと逃げだす。
鳥の囀り、人々の騒めき、どこも音で溢れていた。
少しでも静かな場所を探して歩きまわっていたが、降り注ぐ光が跳ね返る度にピーンと張り詰めた音を立てて、空気を揺らしていると気が付き、探している物の無意味さを思い出した。
ここでいくら探しても何も見つからない、そう思い至ると、足は自然に近所のホームセンターに向かっていた。
天井裏に何かが入り込んでいるならば、それを駆除しなければならない。
それはどのような生き物であろうか?
小さく、夜中に動き回る生き物。
その生き物を天井裏から追い出すにはどうすればいいのであろうか。
ふわりとその様な事を考えながら商品棚を見て回るうちに、一つ効果のありそうな物を見つけた。
部屋に煙を充満させて駆除するタイプの殺虫剤だ。
それの煙が出ないタイプと言う、よく分からない物では有ったが、これならば日中出かけている間に天井裏の生き物を追い払ってくれるのではないだろうか?
随分有用に思えるが、こういう物を使う時は、隣に連絡をすべきなのか?
煙が出ないならば、気づかれることもあるまい……、後は匂いか……。
匂いがするのだろうか?
殺虫剤独特の消毒薬めいた臭いが。
それは、死体の匂いを誤魔化せるほど、強力な物であろうか?
腐敗が始まった死体に虫が湧くのを防ぐ役割で使えるのかもしれない。メーカーに問い合わせれば、何日おきに使えば良いのか教えてくれるだろう……。
それをいくつか買い物かごに入れようとしたが、値段を見て全部棚に戻す。
一つ一つがいつもの定食屋で腹を満たせる値段だったからだ。
危うく、無駄な買い物をしてしまう所であった。
そう考えてホームセンターを後にする私は、本日の特価品の札がついてある竹箒を手にしていた。