テレパシー
ではではどーぞ。
ふらふらと落ち着かない足取りで夜道を歩く。多少頭はぼんやりするが、まだ眠たくなるほどではく、きちんと自宅に向かう意思もある。今日は高校時代の友人を急きょ呼びだして、飲みまくった。メニューにあるものを片っ端から注文しまくって、酒もビールから焼酎まで際限なく飲んだ。いや飲んだと言っても、最終的には俺がしっかり酔う前に、友人たちの方が先につぶれて帰ってきたわけだが。酔いたかったのはこっちの方なのに、この辺が酔い底の深い酒豪のつらいところである。友人たちを順にタクシーに乗せている時、修学旅行の帰りに疲れて動けなくなったこいつらを無理やりバスに押し込んでいたことを思い出して、少し笑った。高校時代も今もポジション変わんねーじゃねぇか。酔えないというのはまっこと辛い。
ふと時計を見ると時刻は夜十時を指していた。夕方六時頃から飲み始めたので、時刻はそこまで遅くはない。皆明日も会社があるから終電を逃さぬよう、早めに飲んでパパッと切り上げる算段だった。本当は夜明けくらいまで一緒に居たかったが仕方ない。俺の急な招集に付き合ってくれた奴らには感謝しかないのだ。
最近はLEDの電灯が普及して、そこまで暗くないむしろ明るいほどの夜道でも、一人で歩くとなるとどこか寂しさを感じる。夜空を雲が覆って、月が見える訳でもない。さっきの空気との寒暖差にため息が漏れる。冬でもないのに、背中に少し寒気を感じて、ぎゅっとスーツの裾をつかんだ。
遠くで笛の音が聞こえる。たまに通る車。それが過ぎ去ってしまえば、この道に立つものは俺一人になってしまう。この夜道は余計なことを考えるのには十分すぎる環境だった。冷静になった頭は飲み会前に忘れようと努めた事柄を思い起こした。
いつも耳元で鳴り響く上司の怒鳴り声――――全くあの人は大声をだせば相手がひるむとでも思っているのか――――今日は俺の手配した書類に不備があり、迷惑したということだった。ふざけるな、今回の書類ミスは、元はと言えばあなたの伝達ミスが原因じゃないか。それを隠して、俺に責任を押し付けてきやがって。あんたがすることと言えば、席に座ってのんびりハンコを押すだけじゃないか。走り回るのはいつも俺たちなのに。相手側に謝りに行くのは誰だ、面倒な雑用ばっかり押し付けて。
そうだ、俺が何にも教えてくれないなんて言われて、部下に疎まれているのだって、あいつのミスで手一杯にならざるを得なかったからなんだ。頭が次の指示を出すところまで、回らなかった。そもそも指示なんて待ってないで自分で考えてくれよ。三年前に入社してきた、やっと新人と言う肩書が離れたぐらいの部下は、何であの人が先輩にいるんですか、と陰で言っていたらしい。そんなの知らない、俺だってどうしてこんなに出来ない仕事であふれかえっているのかわからない。全部、あの上司と部下が悪い。そうだ、きっとそうだ。
いや・・・。違う、俺がもっとしっかり上司に確認していれば防げたかもしれないんだ。指示を聞かなくても動ける部下を育てるのは自分の仕事だ。ごめん。きっと俺が悪い。俺がもっとできていれば。
だが、仕事は本当に好きなんだ。この会社に入ったのだって、自分に作りたいものがあったからさ。自分だけにしか作れないものがあると証明したかった。その結果がこれだ。あぁ、本当に俺はどうしようもない奴だ。誰の上にも席に座る資格はない。
ぐっと喉を引き締める。奥歯をきつく噛んでいないと、だめだ。ひそかに口から出そうになる嗚咽を押しつぶした。膝をついて、一度立ち止まる。なるべく長い息で深呼吸をしようと心がける。
数分後にやっと顔をあげた。隣を通った人が、大丈夫ですか、と言い俺の背中をさすってくれた。俺は笑って、大丈夫です、と答えた。その人は俺の目を見ると、背中を二度軽く叩いて、去っていった。夜道にはまた俺一人になった。
息を深く吐きながら、凝り固まった胸を張る。自然と顔が上を向いた。月の影が黄色の雲に落ちていた。笛の音が聞こえた。
やめてしまいたい。あいつらと今日話したのは楽しかった。久々に心から笑えた気がした。昔が愛おしくなって、でもそれを思うたびに胃が痛んだ。虫が自分の胸の奥を食い荒らしているような感じだった。
昔の仲間には会社の事は話さなかった。楽しい雰囲気をぶち壊したくなかったし、こいつらの前で暗い話を持ち出したくなかった。
いつの間にか家の前に立っていた。考え事をしているときは家に着くのが早い。
こんな日は早く眠ってしまおう。玄関の扉に手をかけた。そしてふと思った。
あれ、笛の音家の中から聞こえていないか?
もしかして花蓮か。ふと子供の姿を思い浮かべる。よくよく耳を澄ませると、それはリコーダーの音色だった。カントリーロード。
そうだ、今日は花蓮の授業参観の日だった。俺は前から外せない接待が入っていて行けなかったんだ。まぁそれも失敗に終わったけど。花蓮、頬膨らませて怒って、そんで陰で泣いてたなぁ。寝顔に張り付いた涙の跡はよく覚えている。
最低だな、俺。自分の事でいっぱいで、玄関の前に立つまで全然気が付かなかった。家族の事なんて思い起こしもしなかった。ほんと、父親失格・・・。
ガチャッ。
一人沈んでいると急に玄関の明かりがついて、扉が開いた。
「パパッ、おかえり!」
「花蓮!」
背の低い一人娘が飛び出してきた。キャラクターのプリントがされているパジャマを着て、こっちにかけてきた。そしてそのまま俺の腰にアタックする。バッと顔をあげた花蓮の手には予想通りリコーダーが握られている。
「えへへ、おかえり。パパの事待ってたんだよ?」
「ほ、ほんとに?嬉しいな」
そう言ってふっとはにかんで見せると、心をきつく結んでいた糸が解けたように軽くなる。あぁちょっとまた危ないかもしれない。目が微かに潤む。
「うん、パパに花蓮のリコーダー聞かせてあげようと思って。もぉ遅い~」
「ごめんごめん。はは・・・花蓮の可愛さは偉大だぁ」
「何言ってんの、あなた」
横から突っ込んできたのは短く髪を結んで、寝間着姿になった妻だ。風呂を上がってからも待っていてくれたのだろうか。
「花蓮、いつもならもう寝てる時間じゃないのか」
「パパにリコーダー聞かせてあげるって言ってきかなくって。もう少し遅かったら、寝かしつけてたわよ」
「・・・てことはまだ聞けるのか。俺ラッキーだな」
下に顔を落とすと花蓮は「セーフ」と言ってにかっと歯を見せて笑った。その笑顔に再び心安らぐ。「こっちこっち」と花蓮が俺の手を引いて、家の中に引き入れた。されるがまま着いていくと、可愛くデコレーションされたリビングに案内された。折り紙で作った色とりどりの輪っかや花が壁に飾られていた。
「これは・・・この前の花蓮の誕生会の時に使った代物だねぇ」
「そー言うこと言わない!」
花蓮に聞こえない程度の小声でつぶやくと、妻に横から肘鉄を食らった。相変わらず容赦ない。でも今はそれが少し嬉しい。
「じゃあパパ、そこに座って。じゃあこれから花蓮の演奏会をはじめまーすっ」
妻と俺が、花蓮の向かいに座ったことを見てから花蓮はリコーダーを吹き始めた。ピーピーと高い音を、小さな掌で刻む姿は、はいはいしていた頃とは比べ物にならないほど成長していて。
「うぁ、涙でそう」「はい、涙落とさないでね」
妻の差し出してきたティッシュを握りしめ、必死に前を向く。花蓮も指を休む暇なく動かして、こちらを見る余裕もないらしく、眉をひそめて真剣そのものだった。途中少し音が外れたことは聞こえなかったことにして、花蓮は何とか演奏を終えた。チラッと吹き終わりに俺と妻を見た花蓮に、二人で拍手を送った。
「ありがとうございましたっ」
花蓮はぺこりとお辞儀をした。
「上手かった!ほんとに花蓮すごいよ!もうパパの宝物っ」
そう言って抱き着くと、花蓮は「わーパパ臭いー」と、妻の後ろに逃げてしまった。そんな俺を妻が「ざんねーん、酔っぱらいは花蓮ちゃん嫌いなの~」と言って笑っている。俺はガクッと首を下げた。
花蓮を寝かしつけてから、妻がチューハイの缶を持ってきてくれた。
「いいの?」「どうせ飲み足りないんでしょ。いいよ、今日ぐらい」「ありがと」
俺はチューハイの缶を開け、喉にそれを流しこんだ。甘ったるいレモン味の炭酸が舌を滑る。だが、後味はサッパリしていて飲みやすい。普段はあまり甘い酒は好きじゃないが、これは飲める。
「これけっこ好き」「そういうと思った」
妻はうふふと笑って言った。いたずらが成功した、と言っているような顔だ。
「よく俺の好みの味だってわかったね」
「あったりまえでしょ、何年一緒にいると思ってんの」
「君が二十三の時に、俺からプロポーズして結婚したから・・・九年?」
「こら、年がばれるようなこと言うな」
「いたたた」
妻が力強く鼻をつまんできた。ったく、誰にばれるって言うんだよ。
「ま、その缶の分はまた働いて返してくれたらいいからっ」
妻は笑って言った。その一言にまた会社のことを思い返す。明日行きたくないな。
「人使い荒いな~」
「応援してるって意味よ」
妻は机に置いた飲みかけのチューハイを手に取った。そしてそれを一口飲んで言う。
「やっぱおいしい。日頃の疲れって酒で流すのが一番よね。とりあえず飲んで、しゃべって、忘れちゃうのが一番っ。それのが楽だし」
「うん、だよね」「でも」
妻は缶をテーブルに置いた。
「一番すっきりするのには誰かに話すことよ」
俺を見つめて言い切った。やけに力がこもっている。
「・・・もしかして誰かになんか聞いた?」
「別に、何にも。でも人間が癒しを求める時って何かつらいことに直面してる時でしょ。あなたそこまで飲みに出かけるほうじゃないし。何かあったのかなって、良き妻としては心配してあげようと思って」
「心配ってしてあげるものじゃなくて、するものじゃない?」
「時と場合によってはしてあげるものよ」「そーですか」
なんだかな~、妻の真意がつかめない。戸惑う俺を妻は一瞥する。
「別にいいじゃない、たまには全部さらけ出したって。毎日切り詰めて切り詰めてしてたんじゃ身持たないでしょ。ほんと最後には胃に穴開くわよ、ぜったい」
あははと言って俺は笑った。確かにそうかも。もういっそ倒れた方が楽な気がする。
「今!倒れてもいいや、とか思ったでしょ!ばかっ!」
妻は身を乗り出して俺の頬を引っ張った。やっぱり地味に力がこもってて痛い。
「どうしてあなたは変なところでプライド高いの!周りには頼れないって何のリーダー意識よ!体壊してまでそんなくだらないモノ守るのに躍起になってんだったら、ひっぱたくから!笑って取り繕ってんじゃない」
ふっと力が抜けた。目に暖かいものがたまるのを感じて、焦って体を折り曲げる。妻は驚いて手を放した。机に額をつけて、顔を押さえる。
「ばかねっ。泣いたっていいつってんでしょーが」
「うぅ、ちょっとむり。勘弁して」
「何が無理よ。まぁいきなり大声で泣きつかれてもビックリするけど」
「・・・君が困るんならやるけど」
「あらっ、かかってきなさい?全力で受け止めてあげるわ」
妻はいつの間にか隣に座っていて、そっと俺の頭をなでた。俺の顔の下にティッシュを差し出すことも忘れない。やはり通常運転の妻の様子に俺は床を向いて噴きだした。
数分後、体を落ち着け深呼吸してから妻に言う。
「ほんとよくわかったね。何なのテレパシーでも使ってんの」
「言うてあなたわかりやすいから。意地張ってるところなんかすぐ態度に出るし、不機嫌な時口とがらせるクセあるの知ってた?」
「うそっ、俺そんなガキみたいなことしてる?」
「するする。学生時代から変わんないわよ」
気づかなかった・・・この女には弱点が全部漏れてそうでコワイ。「あとね、言うなって言われてたんだけど」妻がそう切り出して、ポケットからスマホを取り出し、画面を俺に向けた。ラインのトークだ。相手は、児嶋⁉さっきまで一緒に飲んでた奴の一人だった。
「ついさっき。彼からラインが来たの。『賢斗、何か思いつめてそうだったから話聞いてやってくれ。あれは相当病んでる奴の顔だ』って」
「・・・病んでねーっての」
「いいお友達じゃないの。『あいつの取り扱いには気をつけてな。変なツボ押すと面倒くさいぞ』なんて注意までして教えてくれる子なかなかいないわよ」
俺はスマホを奪って画面をにらんだ。その次の文面には『→』と書かれて、その下には泣きそうな顔をした子豚が座り込んで、隅でいじけているスタンプがあった。
「これは俺のつもりか。あいつ次会った時覚えてろよ」
「あー児嶋さん忘れてそう。サッパリ記憶から消してそうだわ」
そう言って妻はケラケラ笑った。
「お前の返しもなかなかだぞ」
続きには『もちろん、ツボはすべて心得ております』との文章が。
「あら、嘘は吐いてないわよ。長年やってきた経験がありますから。むしろ、こんな俺に付き合ってくれるのはお前しかいない、ぐらいの気持ちでいなさいよ」
「・・・お前はそういう女だ」「よくご存じで」
そう言って妻は得意げな顔になった。
確かに、気負いすぎてたかもな。いや、本当は少しの自惚れもあって、全部自分一人で回そうとしていたのかもしれない。嘘つきな上司に、指示でしか動けない部下、と見下して必死な自分は偉いとおごりがあったのだろうか。実際前者はそれでだいたい合っているのだけれど、自分におごった時点で自分を褒めることを支えにした時点で、俺は立ち止まっていたのかもしれない。
「ま、確かに、自分を不幸だと思ったら人間の成長は止まるよね。あきらめた時点で試合終了ってやつですか」
妻は俺の話を聞いて、一言目にそうつぶやいた。
「けど、その上司と部下もむかつくけどね。やっぱどこの世の中にもそー言う奴はいるもんだよね。花蓮の学校のお母さんの中にもその上司みたいな人いてさ。役員とか立候補したくせに全然会議に来ないの。小さな学年の時に立候補したら、仕事量が増える高学年になってから任されなくて済むだろうって魂胆なんだろうけどさ。責任もって仕事しなさいよね」
「なんかお前も発散しにかかってないか」
「当たり前でしょう。こーいう機会に言わないでどうすんの、ずーっと一人でもんもんして生きるなんてやだわ」
「ん、それは俺に対して言ってんの」
「おぉ、よく気づいたね」
妻は目を見開いて言った。頭をかいて、長いため息を吐く。
「そんなにダメか、俺」
「別にダメって訳じゃないけど。って言ってほしくて言ってるの、それは?」
「・・・底意地悪い奴」「ふふ、否定はしないわ」
「でも放っておいたらあなた過労死しそうなんだもん。最近よくあるじゃない?」
「縁起でもないよ。大丈夫大丈夫・・・うぅ」
妻がとても冷めた視線でこちらを見た。全く信用していない、という言葉が声に出さずとも伝わってくる。
「そんなこと言ってるから、色々背負い込んじゃうのよ。大丈夫じゃなかったじゃない、実際。嘘はさぁ、自分を守るために吐くんだから。会社の上司とかにならまだいいけど・・・」
妻が顔を伏せた。続きの言葉は発さずに、黙り込んだままだった。
あ、俺今ひどいことした。
「家族にまで嘘ついちゃだめだよな」
「・・・そうよっ。もっと信用しなさいって」
妻は顔をあげた。何となくその表情が泣きそうな子供みたいだ。妻のこんな顔を見れるのは珍しい。可愛い、愛しいと思った、なんてことを言ったら妻がさらに不機嫌な顔をしそうな気がする。が、今日くらいはいいだろう。
「心配してくれてるの?美香。それ、ちょっと可愛すぎない」
俺は隣にいる妻を抱き寄せた。妻がほんのり頬を赤く染めてぼそっとつぶやく。
「うるっさい、変態エロ親父」
「まだ親父じゃねーよ。三十過ぎたばっかだぞ」
「精神五十台でしょうが、遠慮遠慮ばっかしてるとはげるわよ」
「え、花蓮にひかれたらどうしよう・・・」
「アートネイチャーに行くって手はどうよ?あ、でも引っ張られた時にやばいか?」
まじめに答えだす妻の表情が面白くて、二人で爆笑した。花蓮を起こさないように、小声でくすくすと。
「あはは、やっぱり君と話すのはずっと楽しいよ」
「今日だけは素直に私も、と答えてあげるわ」
「何それ、堕ちるんだけど」
「ふふ、堕ちるんなら酒臭くない日に堕ちてくださーい」
「えー」
妻はそれから、じゃあそろそろ寝るね、と言って立ち上がった。酔っぱらいはさっさと風呂入ってリラックスしろ、とも付け加えて。雑な言い方に潜む優しさにまた惹かれる。
妻がリビングを去る前に、一つだけ聞いた。
「君はいつでもここにいてくれるかい?」
「もちろん。私も、花蓮も。あなたのお友達だってそうでしょ。息つく場所くらい、いくらでも用意しますがな」
「なんでちょっと関西弁なんだよ。・・・ありがとう」
妻は小さく笑った。チューハイの缶はもうすっかり空になっていた。
{Fin}
ちょっと甘めに。日々を強く生きるための応援歌的な存在の作品になれば。
あー、、、奥さんかわいい。
美香ちゃん、照れさしてぇ。