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死体と死に体のぼく  作者: 秋花
第一章 いのり
3/29

1-1

 ぼくは朝早くに家を飛び出した。向かう先は、あの社だった。

 もしかしたら夢かもしれない。淡い希望を胸に、早足に目的地に突き進む。

 頭ではわかっているのだ。彼女はあの社の中にいるだろう。じっと待ちわびていることだろう。だが、確かめずにはいられないのだ。

 あれが夢でもなく白昼夢でもなく、現実ならば、ぼくは自身のためにも彼女を手元においておかなければならない。

 それが、ぼくが安全で安心できる最善の策だった。


「あれ、木崎くん?」


 鳥居まであと一歩というところで声がかかる。それは女子生徒の声だった。それも、ぼくの名を知っているとされる女子生徒の声に違いなかった。

 少しの苛立ちを覚えたものの、それを胸中の奥深くに隠して振り返る。

 二人の男女がいた。両者とも、顔には見覚えがあるものの名前は記憶にない。きっと素性も知らないクラスメイトの一員だろう。


「やっぱり木崎くんだ。そっち、駅とは反対方向だよ? どこ行くの? お参り?」


 いったい何が嬉しいのか、女は花が咲くように笑った。


「ああ、そうだっけ。寝ぼけて道間違えちゃったかな」


 ぼくは笑顔を貼り付けて対応する。

 彼女を確認できないのは辛いが、背に腹はかえられない。ここで第三者にぼくが疑われる要因ができるのはまずい。


「へー、木崎って冗談言うんだな。意外だわ」

「和樹が木崎くんを勘違いしてただけでしょ」

 女は隣の男を軽く嗜めると、ぼくに向き直った。

「木崎くん、よかったら一緒に学校行かない? そろそろ行かないと学校に遅れちゃうし」


 驚いた。もしかしてぼくは誘われているのか。顔の認識すらあやふやなぼくを、ただの一介のクラスメイトでしかない彼女が。


「聖子、そこまでする必要ねえだろ」

「いいでしょ。クラスメイトなんだし。あ、わたしの名前わかる?」

「いや」ぼくは首を振った。彼女はそれを当然だと笑う。

「やっぱり。わたしは遠見(とおみ)聖子(せいこ)。あんまり話してなかったけどよろしくね。ほら、和樹も」

「……光居(みつい)和樹(かずき)。別に覚えなくていい」


 光居の投げ捨てるような態度に遠見が怒り出す。きっと彼らは幼い頃からの知り合いなのだろう。だから親しげに会話できるのだ。

 三人で仲良くとは言わないまでも、並んで登校する。だが、ぼくは影だ。彼らとぼくは並び得ない。もう溶け込めない。

 気づけば、遠見がぼくを見て微笑んでいる。気の良い少女だ。ぼくも微笑み返す。光居がぼくを睨む。遠見が光居を叱る。

 彼らが遠くにいるからこそ、その笑み(にちじょう)はぼくに向けられるのだろう。近づけば嫌悪にまみれるに違いない。

 校舎に入り、教室に足を踏み入れ、席に座る。こうなればもう会話することもない。


 授業を受けている間、ぼくはずっと社の中にいるであろう彼女のことが気にかかっていた。

 あの二人の邪魔のせいで彼女の姿を確認できなかった。それが酷く憎たらしい。このまま彼女が腐ってしまったらどうしてくれるのだ。彼女は、ぼくの――。

 はっとして考え直す。ぼくはいったい何を考えている。相手はただの死体だぞ。

 これでは――。

 老年の男性教師の声が遠くに聞こえる。ぼくは、怯えるように己の腕を抱きしめた。

 これでは、ぼくが死体(かのじょ)に恋しているみたいじゃないか。


 昼にもなると、太陽が雲に隠れてその姿を見せなくなった。

 空模様が怪しく湿気を帯びている。それは一刻一刻と過ぎるたびに、肌に張り付き色濃くなる。

 雨降りそうだね、と誰かが言った。その言葉は、ただでさえ黒い雲で陰させていたぼくの情景に嵐を吹かせた。

 そして十五時を回る頃、ぼくの気がかりは窓が小さく叩かれたことによって確かなものとなる。

 初めは数滴のみを示していたそれは、次第に二人三人と人数を増やし、大人数の涙を流した。今にも打ち破りそうな音を響かせて、窓が激しく叩かれる。教室のそこかしこからも悲鳴が挙がった。彼らは傘を持っていないようだった。

 ぼくにはそれが彼女の涙に思えた。きっと、生きる人の血をなくした彼女が神に願って流した涙に違いない。ぼくは授業中にも関わらず席を立った。日頃品行方正なぼくの態度を見ていたこともあるのだろう。騒がしい生徒を注意していた教師が驚いたようだった。


「えっと……木崎くん? どうかし――」

「申し訳ございません、先生。気分が悪いので早退します」


 静止する教師を他所に、ぼくはてきぱきと荷物をまとめ、それを持って教室を去った。


 あの社はきっと雨漏りする。屋根には苔が生え、床は踏み抜いてしまいそうなほどに脆い。あそこにとって屋根なんてものは中心の神棚を守る程度の役割しかなさない。木板の隙間からは水滴が零れ、黒い染みとなり侵食されていく。そして彼女の頬を伝うのだ。時間を失えば失うほど彼女は雨の餌食となろう。

 このまま雨の中野ざらしにすれば、彼女の肌がおどろおどろしく溶け、地面に落ちることは想像に難くない。行き過ぎた想像かもしれない。しかし、その恐怖が彼女を救うとなればそれを利用しない手はない。

 昇降口――矢のように降り注がれる天からの悪夢を前に足を止める。ぼくはそれに対抗するための傘を持ってきていなかった。意を決してぼくは濡れ鼠になる覚悟でそこに飛び込んだ。

 一刻も早く辿り着かねばならない。それ以外の思考はしてはならない。

 足に水が跳ねる。降り始めなせいなのか、それには泥が混じっている。雨を吸った服が肌にしがみつく。雨の矢は痛みを伴ってぼくの全身を打った。

 道中、走るのに疲れるも進むことだけは止めずに足を動かした。


 気づけば、雨が止んでいた。いや、辺りはまだ騒がしい。それどころか酷くなった気がする。

 空を見上げれば、所々錆びの跡が残っている黄色が視界一杯に映った。子どもの頃によく使っていた傘の色に似ていた。似ていたとするのは、それが記憶の物より汚れていたからだ。

 視界の端に、小柄で黒い影が映った。


「濡れますよ。……いえ、もう濡れてました」

 ―― 少し、忘れ物を ――


 ただでさえか細いその声は、激しい雨音にかき消されてしまいそうなほどに健気だった。いや彼女の声がか細いのではない。あまりにも透明だから、他の強い色に覆い隠されてしまうのだ。

 先日校舎前で見かけた姿と変わらず、彼女は一様に黒だ。昨日見た姿とそっくりそのままだったせいか、一瞬ぼくの幻覚なのではないかと疑問まで持った。


「君は、昨日の」雨で喉を痛めたのか、ぼくの喉から零れた声はかすれていた。

「はい、昨日お会いしました」

「なんでここに」

「少し、用事がありまして。――あなたこそ、どうしてそんなにずぶ濡れになってまでここに?」


 ぼくは磨きぬかれたような黒曜石から視線を逃がす。

 話を逸らさなくては。彼女から目の前の女を引き離さなくてはならない。不幸なことに彼女はすぐそこだ。朝といい今といい、もしかしたら通り人が多くいる立地だったのか。ぼくは社に隠したことを後悔した。しかし、あのまま廃墟に置き去りにするというのも恐ろしかったのだ。


「ぼくも用事だよ。君の家はここに近いのかな。よく見かける」

「いいえ、まったく」

「じゃあ、学校が」

「いいえ、まったく」

「……じゃあ、お兄さんがぼくの高校に通っている」

「……半分、当たりです」


 雨に紛れて息を吐く。


「なら早く行ったほうがいい。授業もそろそろ終わる。ぼくのことは気にしなくていいから……」

「いいえ、今日はそっちに用はないんです。違う用事、ですから。それにそっちの用事もそろそろ終わります」


 言い分から察するに親の手伝いで訪れたのだろうか。彼女はそれが終わるのを待っているところなのか。


「……そう。じゃあそこまで送るよ。少しばかりの雨宿りのお礼ってことで」

「遠慮します」

「女の子の一人歩きは危ないだろう。早く帰ったほうがいい」

「ええ、そうですね。でも――」


 続けて、彼女は言った。その瞳は蔑みに満ちていた。


「――死体に欲情するような人なんかに送って欲しくないから」


 雨が地面を叩く音が一際耳に届いた。彼女の声が細いからだろうか。

 しかしそれは間違った認識だった。雨の音だと思われた音の一部はぼくの心臓から鳴っていた。

 警告するように響く心臓の音に、胸が苦しくなる。焦燥に体が固くなる。それは昨日触れた彼女の硬直に似ていたのかもしれない。


「なにを、言うのかな」

「それは一番あなたが知っていることです」

「変な勘違いは止めてくれ。ぼくは一般人だ。異常者じゃない」


 あれはちょっとした間違いだ。ぼくは普通だ。普通の思考をして、普通の欲を持つ。なのに、どうしてこの少女はぼくをそんな目で見る。ぼくの見たくないものまでを暴き出そうとする。

 ――どうして、ぼくたちを放っておいてくれない。

 乾いた音がした。その音はビニール袋に皺が出来る音だ。

 彼女の手に、昨晩買ったはずの洗剤諸々が入った白い袋がある。それはぼくがどこかに忘れてきてしまったものに違いなかった。


「廃墟にありました。不思議とロープが一本、天井から垂れ下がっていた部屋に」

「だから……なんだ」

「あなたのものですよね? 行為に没頭して忘れてきてしまったんですね」

「誰かの忘れ物だろう。勝手にぼくのものにしないでもらいたい」

「……わかってました。あなたはそう言うだろうと」


 少女はぼくの頭上から傘をどかすと、水音を作りながら一人歩いた。

 またもや全身を雨が打つ。唇に入り込んだ雫が喉に落ちる。

 その行く先には覚えがある。だが、彼女が知るわけがない。あのとき確かに誰もいなかったはずなのだから。

 しかし、ぼくの思惑に反して少女は鳥居を潜り、彼女のいる社を目指した。てくてくと、枯れかけたタンポポのそれが社に近づく。

 少女の足は迷いがなかった。賽銭をするわけでもない。見えもしない神に願いをするわけでもない。ただ一つのものを求めて、ぼくから遠ざかっていった。


「なにを……」


 言わずともわかっている。ぼくは駆け出した。

 雨水に濡れた靴下が粘質性のある音をたてる。地面に派生する何もかもが騒がしい。それに反して、彼女はなんと静かだったろう。動かず、ぼくを受け入れたままの彼女は、なんと清らかなことだったろう。

 少女の白い手が伸びる。それは神棚の扉だ。間違いない、あの女は知っている。彼女がその奥にいることを知っている。

 だめだ。たとえ、誰であろうと見られてはならない。触れさせてはならない。彼女は――。


「――やめろ! そこを、開けるな!」


 制止も聞かずに、少女の手がぼくの秘部を開いた。軋む音がした。

 少女は少しばかり暗闇を見て制止する。そして中にいる彼女に似た黒髪を揺らして、ぼくを見る。


「うそつき」


 ぼくが、一般人から異常者になった瞬間だった。

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