6-1
戸を叩く音が聞こえる。ぼくは蹲ったまま反応を返さない。
「お兄ちゃん、昨日の夜から何も食べてないってお母さん心配してる」
幸慈だ。母が心配をしてくれているという言葉に一瞬心が浮き立ったが、叔父が言ったのだと察してぼくは自分を抱き締める力を強くした。
「あとで食べる」
幸慈は何も言わない。呆れているのだろうか。部屋の前から幸慈が遠ざかる気配がした。
ぼくは腕の中に顔を埋める。酸素の薄い暗闇の中で、ぼくの呼吸だけが浸透する。
会いたくない。見たくない。
一度気づいた苦しみはいつまでもぼくの心を蝕んだ。じわじわと胸腔から肺に至るまで、黒炭を砕いた粉が入り込んでぼくの生気を奪っていく。
母の、あの眼差しを思うだけで叔父が憎たらしくてたまらなかった。
少しすると、再度ノック音が響いた。
「善郎? 入るわよ」
廊下の光が部屋の中に射し込む。ぼくの部屋に他者が入り込む。廊下の光を背にした母がそこにいた。
長い黒髪が歩く度に胸の上で踊っている。ぼくに伸ばす手の、なんと白いことだろう。ぼくの頭を撫でる掌のなんと柔らかなことだろう。
林檎の皮を切り取ったような赤く、艶やかな唇。なでらかな鼻梁。こちらを吸い込むような黒耀の瞳。すべてが、まるで良くできた芸術品のような美しさ。母から香るにおいすらも、一度噛みつけば手放せなくなるような毒がある。
ああ、ぼくの母は、なんて美しい――。
「どうしたの、善郎。何かあったのなら話してみなさい」
貴女に触れたいんです。
「……なんでもないよ。ただの受験疲れだから」
母の手がぼくの髪を梳けずる。触れられる度に、撫でられる度に痺れるような高揚感が指先から背筋を走る。
この手を、振り払えたらなんと楽なことか。
「それならそれで、ちゃんと食べなさい。母さんたちも心配します」
母の美しい瞳が悲しみに揺れる。ぼくは罪悪感に胸が震えた。
「兄さんも――とても心配してる」
ぼくは、母を見るのをやめた。
「……わかった。ちゃんと食べるから、だから、心配しなくていいよ」
だから、見たくなどなかったのだ。現実というものを。
ぱたんと、部屋の扉が閉じる音がした。部屋の中には、仄かに母の香りがした。
蝉の声がする。梅雨も終わり、湿気混じりの風が肌を撫でる。そういえば、そんな季節であったことを思い出した。
今頃に彼女に出会っていたらとっくに腐っていただろうなと、少し物思いに浸る。伽藍とした胸を抱えて、ぼくは町の中を散歩している。
色々なことが頭の中で混濁している。失ってしまった彼女。手に入れられない母。ぼくは母を愛している。彼女への愛は、何だったのだろう。
母の代わりか? ――いや違う。
ぼくの愛は確かだった。あのとき、あの瞬間、確かに彼女を愛していた。だが、今胸に抱える痛みも本物だ。
母は叔父を見ている。誰もぼくを見ない。
ぼくは今、何を持っているだろう。
「――善郎さん……?」
声をかけられた先を見る。鈴のような透明な声。ぼくの共犯者であり、決して理解し合えない仲間。
「……久しぶり、石動」
4つも歳の違う少女に、どこか安心する自分がいた。
「どうしたんですか? すごく疲れてますね」
石動はぼくに近寄る。だが、ぼくに触れることはない。この距離が心地いい。
「ああ……うん。ちょっと……話、訊いてくれる……?」
この少女となら、話がしたいと思った。
石動は小首を傾げると、承諾の言葉を返してくれた。代わりに、長くなりそうなのであれば近くの公園にしようと。
ぼくは頷いて石動を連れて公園に向かった。過去、遠見聖子と石動の三人で集まった寂れた公園だった。
「それで、どうしたんですか」
「ああ、うん……。そのさ、石動、もし好きな人が手に入らなかったら、どうする?」
「何ですか急に……彼女の話ですか?」
「いや……違うんだ。別の、話」
「普通の人ですか……? あなたが……?」
疑い深い瞳で突き刺さる。仕方のないことだが、この少女はぼくをいったいどんな目で見ているのだ。
「別にいいだろ。それで、どうなんだ」
「それが事実なら十分衝撃なんですが……そうですね。私はしたことがないのでわかりませんが、代わりを探すんじゃないですかね」
「代わり……」
「ええ、代わりの、別の人を好きになるんじゃないですか?」
母の、代わりなどいるだろうか。
彼女のようにぼくを愛してくれる、代わりなど。
ふと、ある違和感に気がついた。今何か、石動という少女が何かに当てはまりそうだった。それこそ、ずっと以前に会ったことがあるような、そんな違和感に。
「石動、前に会ったことはあるか?」
「……何を言うかと思えば……会ったじゃないですか。あなたの高校の前で」
「違う。もっと前だ。もっと前に、ぼくはお前を見た気がする」
「……ないです」
「本当に?」
「ないですしつこいです」
――ない? では勘違いか? いいや違う。間違いない。ぼくは、石動に似た何かを――――そうだ。
「先生だ」
「……はい?」
「先生に、似てるんだ」
泉瞳に、似ているのだ。この少女は。
「前から、ずっと思っていた。初めて会ったときから、ずっと。先生に似ていると」
ぼくは石動の腕を掴んだ。固い指、だが華奢な腕だ。白い肌、美しい黒髪、薄い唇。今までなぜよく見なかったのか。どれをとってもよく似ている。
「あの、急に、何を――」
「石動、お前は捨て子だって言ったな」
「え、ええ」
「お前は、泉瞳の子どもだ」
確信だった。同時に、耳元で囁き声が聞こえた。
『似てるヒト、いたね』
幸慈の声だ。だが、それは幻聴だ。幸慈はここにはいない。
言われた石動は表情を固めている。驚きだろうか。事実と認められない疑いの心情だろうか。しかし、それにしてはどこか冷静に見える。
「……放して、ください」
『放しちゃだめだよ。代わりにするんだもの』
幸慈が囁く。やめろ、ぼくはそんなことをしない。
『嘘だね。嬉しいんだ。“彼女”で終わりじゃないことがわかって、次が見つかって』
ぼくは彼女だけでよかったんだ。次はいらない。石動は次じゃない。
『でも、お母さんは愛してくれない。愛してくれた彼女もいない。お兄ちゃん、何もないよ? 欲しいものも、欲しかったものも何にもない。正直になろうよ。だって――独りは、嫌でしょう? ねえ、このまま、独りぼっちは、嫌だよねぇ』
「痛いです、善郎さん……」
石動を見る。石動もぼくを見ている。石動の瞳の中に、ぼくが映っている。母に似た顔。母だけに似た顔。ただ一点、ぼくの瞳には赤が落ちている。
「石動」
ぼくは石動を強く抱き締めた。
「あ、の……よしろ――」
「ごめん、石動」
ぼくは懐に入れていたハンカチを石動の呼吸器に強く押しつけた。驚いた石動は閉じられた口の中で必死に悲鳴を挙げた。ぼくの腕の中から逃げ出そうとするも、4つも上の男の力には叶わないようでその足掻きは次第に弱いものとなった。
身を起こし石動の顔を見る。
ああ、そうか、きっと、母もこんな気持ちだったのだ。
―― あの、女が ――
―― まだいてね。ずっと、いてくれていいから ――
泉教諭を貶めた女は、きっと母だ。
ぼくは安心した。母に似ているのは幸慈だけではなかったから。




