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死体と死に体のぼく  作者: 秋花
第五章 喪失した願望

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5-4

「お兄ちゃん、どうしたの」


 「じゃあ中で待ってろよ」と叔父が車のドアを閉めてから、幸慈が訝しんだ表情をこちらに向けた。ぼくは幸慈から視界をずらした。車窓からはそこらにあるような二階建ての家が見えた。塀には『泉』と彫られた表札が飾られていた。


「何でもないよ」

「泉さんのことで何か気になることでもあったの?」


 幸慈は双子だ。ぼくが黙った瞬間も、戸惑った意味も汲み取れる。嘘は吐けない。

 ぼくは一度瞼を閉じて心を落ち着かせた。一歩間違えて彼女のことを悟られるような状態ではあってはならない。今、その証拠がないにしてもだ。彼女との事実も、彼女との記憶も、すべてぼくのものだ。


「その――泉さんと叔父さんって、なんで離婚したの?」

「……気になるの?」

「うん。だって、叔父さんが誰かと向き合うことあるなんて驚いた」

「ふぅん……。さあ、色々事故があったってことは知ってる。けど、他は知らない」


 だから、と幸慈は車のドアを開けた。地面に足を着け、ドアを支える。ぼくに微笑むその顔は、笑顔の印象が強い遠見聖子とはまったく物が異なる。幸慈は母に似た笑みを浮かべるようになった。


「お話、聞きに行こうよ。お兄ちゃん」


 ――大丈夫だよ。一緒なら。

 同じ口から、幼い幸慈の声が聞こえてきた。いつだったろう。こんな風に誘われて、手を繋いで歩いたことがあったのは。

 幸慈がぼくの手を掴む。ぼくは幸慈に手を引かれて車から出る。

 ()とは違う。前はもう少し塀も高くて、空はずっと広くて――。

 その先を覚えていない。何があっただろう。思い出せない何かがずっとぼくの中に沈んでいる。大切な何かを忘れている気がする。

 だけど。


 ―― 善郎、よかった ――


 抱きしめてくれた母の声だけは、ずっと覚えている。

 ばたんと、車が閉じた音がした。





「私、叔父さんの気持ちがわからないの」


 幸慈が軽い足取りでずんずん進んでいく。その足には迷いはない。存外古い家なのか、足元から軋む音が聞こえてくる。


「ここに来たこと?」

「ううん。諦めたこと。せっかく手に入れた好きな人を諦めた気持ちがわからない」

「諦めるしか、なかったんじゃないか?」


 ぼくと彼女のように。どれほど諦めがたくとも、どれほど欲していようと諦めなければならない時がある。愛とはそういうものだ。いつしか失わなければならないものだ。だからこそ、人は狂うほどにそれを求め、しがみつくのだ。


「……そうだね。諦めるしかなかった。それもあるのかも。でも、私は諦めないよ」


 幸慈は執念深い女だ。これと決めたものは決して曲げないし諦めない鉄の意志がある。幸慈の思考は母親譲りと言えよう。

 すぐ近くの扉から微かに話し声が聞こえてきた。ぼくがそっと幸慈の手を引くと、幸慈はこくりと頷いた。二人で並んで扉に耳を当て、聞き耳をする。


『――は、優しい子でしたから』


 女性の声だ。声の様子から、五十は既に超えた老婆であろうということは推測できた。『はい』と応対しているのは叔父だ。中にいるのは二人だけだろうか。


『貴方との結婚に胸を躍らせていました。それはあの子に限って嘘はありません。だから耐えていたのです』

『俺が、気付かなかったから……』

『ええ、そうですね。ですが、いつまでも貴方が罪の意識を抱える必要もありません。あれは、あの子が自分で選んだ耐え方なのです。そして、私たちにもその罪はありましょう』

『しかし全部、あの』

『やめてください。名前を聞くのもおぞましい。ええ、すべて、すべて、あの――』


 女が、と。老婆は隠しきれない憎しみを滲ませて吐き出した。

 ちらりと幸慈を見ると、仕方なさげに口を開いた。


「奥さん、よく怪我をする人だったんだって」

「怪我?」

「うん。階段から落ちたり、何でもないところでドジしたり。ただ結婚後に急にって話だったから、生活が変わったのもあるんだろうって言われてたけど……。何だか、違うみたいね」


『すみません。少し、気が高ぶりました』

『いいえ……。でも、俺は、やっぱりかと実感と、まだ信じられない気持ちがあるんです』

『そうでしょう……。そうでしょうね……。私も、貴方の立場であればそうであったでしょう。ですが、話を聞いた以上貴方には受け入れてもらわなければなりません』

『…………はい』

『瞳は、まだあの事を忘れていません。今も、誰とも寄り添うことなく独り身でいます』

『……俺も、忘れません』

『当たり前です。貴方たちの子は、貴方たちが覚えていなければ』


 ――子ども?

 はっとして幸慈を見ると、幸慈は素知らぬ様子で扉の奥に意識を向けている。

 幸慈は知っていたのだ。叔父と、泉瞳の間に子どもがいたことを。だが、ぼくだけが知らない。


『本日はありがとうございました』

『いえ……今日はよくいらっしゃいました。よく覚えていましたね、この場所を』

『ああ、住所を庭に――』


「やばっ」


 立ち去る雰囲気を感じ取り、ぼくらは急いでその場から離れる。

 早足に、音をなるべく響かせずに家の中から外へと駆け出す。車の中に入り込み、ぼくらは肩を上下させながらも一息を吐いた。


「危なかったね」

「そうだね……。なあ、幸慈」

「なに、お兄ちゃん」

「子どもって、どういうこと?」


 ぽつんと、沈黙が車の中に落ちた。ぼくは隣にいる幸慈の顔を見ない。ぼくの顔を幸慈に見られたくはなかった。


「……いなくなったんだって。病院で」

「え――それって、誘拐じゃ……」

「そうだと思う。ただ、それから見つかってないんだって。奥さん、それで離婚を言い出しちゃったんじゃないかって……。お兄ちゃん、どうしたの?」

「ぼくは、知らなかった」


 幸慈は知っていた。ぼくは何も知らなかった。

 幸慈が、持っている。以前もそうだった。幸慈が持っている。全てだ。ぼくが持っていないものは幸慈が持っている。ぼくがどんなに足掻いても手に入れられないようなものを、妹は、また――。

 幸慈はくすくすと笑い出した。穏やかな少女のような鮮やかな笑い声。


「そりゃあそうだよ。誰もお兄ちゃんに言わなかったんだもの」

「なんで、幸慈だけ……」

「お兄ちゃんはおかしなことを言うね」

「幸慈、ぼくはお前が羨ましいんだ。ずっと、ずっと前から、ぼくは――」

「あはは。あのね、お兄ちゃん。私はお兄ちゃんのほうが羨ましかったんだよ」

「なにを、言うんだ」


 車窓の向こうで叔父が家を出るのが見えた。奥には老婆がいる。言われて見れば、泉教諭の面影がある女性だった。しかし、それは本当に泉教諭だけだろうか、他にも誰か、似ている人物がいるような――。


「だって、今まで全部持ってるのはお兄ちゃんでしょう? また(・・)私のものを奪おうとするのはやめてよ」


 車の開く音がして、ぼくらは口を開くのをやめた。

 叔父が車の中に入る。その表情は暗い。車の中にいるぼくたちを見て、いつもの叔父の顔を見せた。


「お、ちゃんと大人しくしてたかー?」

「してましたっ! ほら、早く帰ろうよ。お父さんが待ってる」

「……そうだな、帰ろうか」


 車のエンジンがかかる。叔父がシフトレバーを切り替える音が聞こえる。車が発進する。ぼくは後ろの車窓から〝彼女〟がいたであろう家を見る。

 大丈夫だ。恐れることはない。彼女は、彼女だけはぼくのものだった。ぼくが得られる全てだった。他には、何もいらない。だから、ぼくは大丈夫。――だというのに、なぜぼくはこうもざわついているのだろう。何に恐怖しているのだろう。何に、気付くのに恐れているのだろう。

 車窓から覗く空が雲を集めている。危うい天気だ。どんよりとぼくの中を巣食う不安みたいに、それは空を覆いつくそうとしている。目蓋を閉じると、全ては暗い井戸の中に沈んだように何も見えない。


 数刻車の中で揺れていると、車がバックする音が聞こえてきた。家に着いたのだ。

 目蓋を上げ、身体を起こして車から出る。幸慈はぼくは寝ぼけている間に車から飛び出していたようで、既に車内にはいなかった。外に出ると、帰りを待っていた母がいた。母は車から出た叔父を見るなや否や、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「おかえりなさい。兄さん」

「……ああ」


 対する叔父の対応はどこかけだるげだ。


「どこへ行っていたの? どうせなら誘ってくれればよかったのに」

「ちょっとな……。こいつと用があって」

「……――ああ、善郎もいたのね」


 母がぼくへ向ける目は、叔父に向けるものとは大きく異なっていた。それこそ、ただ存在を認知しただけの生き物に目を向けるような無機質な色をしている。母は、いつもそうだ。叔父が来るとぼくの優先順位を下げる。それまで母の中でぼくは一番だったのに。

 胸が締め付けられるような苦しさが走った。母が哀れだ。どれほど慕おうと、叔父は母の親愛に応えることはないのだ。だから、ぼくは母を哀れに思って胸を痛む。

 だが――もし、母がぼくに叔父と同じような目を向けてくれたならば、ぼくはどう思うだろう。

 ぼくなら、ぼくならば母の思いに応えるだろう。母の瞳に宿る熱を、ぼくならば――。


 ――息が、止まった。


 母を見る。母の、叔父へと向ける笑みを、熱情を見る。

 叔父が帰るまで抜け殻のようだった母を思い出す。叔父が帰る夜に、嬉しそうに食事を用意していた母を思い出す。叔父が帰ってきてから、叔父を見る熱を帯びた母の瞳を思い出す。すべて、覚えている。ぼくが見てきた母は、すべて。


 ああ、そうか。

 この、胸に宿る嫌悪は、叔父を嫌悪しているのではない。

 これは――。


 なんということだ。

 気づいてしまった。気づいてはいけないことだった。


「兄さん、今日は家にいるわよね?」

「ああ、まだいるよ」

「よかった。まだいてね。ずっと、いてくれていいから」


 ぼくは耐えきれなくなって家の中に駆け出した。追いかける者はいない。ぼくに目を向けたのは叔父か、幸慈くらいのものだろう。母は見ない。決して、ぼくを、叔父と同じ目で見ない。

 ぼくは自分の部屋に入り込むと、扉を閉めてからベットに倒れ込んだ。ぼくは呼吸を震わせながらも静かに吐き出し、布団にしがみつく。こうでもしないと、己の中の痛みが耐えられそうになかった。

 なんてことだ――ぼくは、ずっと以前から禁忌を犯していたのだ。


 ずっと、すぐ身近にあったのだ。ぼくが愛されたかった人は。


「あ――う、うぅ……」


 ぼくは自身の声涙を布団の中に押しつけた。

 いつからなのかすら、わからない。だが、今間違いなく母を想って胸を苦しませているのは事実だった。

 そうだ。そうだったのだ。ぼくは、ずっと前から、嫉妬をしていたのだ。それを嫌悪とこじつけて、事実を直視しなかった。ぼくは、間違いようもなく、叔父に嫉妬をしていたのだ。

 それが手に入ることはない。決してない。ぼくは母を得られない。だから、涙する。それが、決して得られないものと知っているから。


 ――ああ、そうだ。だから、ぼくは遠見聖子が嫌いだったのだ。ぼくが心の底から欲して、心の底から焦がれているものを、手に入れられると見せつけて、結局はくれなかったから。だから心底吐き気がするのだ。

五章終了です。次回、最終章である六章になります。

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