5-3
かれこれ一年だったろうか、久方ぶりに目にする家は昔と変わらずそこに佇んでいた。
「変わってないね」
母が手入れをやめた家のままだ。そこらかしこに草が生えている。だが、思ったよりも古びた印象はない。帰ってきた――すとんとその言葉が胸に落ちた。
叔父が見慣れた鍵を鍵穴に差し込む。開く音がする。玄関口を開ける。ただいま、誰かが帰りの言葉を告げた。それは幸慈だったろうか。ぼくだったろうか。きっと叔父ならば知っているだろう。
靴は脱がない。叔父が土足で家の中に入った。ここからが記憶のものとは違う。
「そのまま入っちゃっていいの?」
「いい。近々取り壊すからな。だから来たんだ」
「え、取り壊し、するの」
呆然と声が漏れる。“大切な場所なのに”
「ああ、誰も手入れができなくなる。それをそのまま放置しても意味ねえからな」
「うん、そうだね……」
「じゃあ、俺は俺でやることがあるから、あとは自由に見て回れ」
と、叔父は言い残して家の奥へと入っていった。幸慈は既にいない。妹は自由な性質を持っている。勝手に移動をしたのだろう。
ぼくは手持無沙汰に家の中を覗いていく。そこに大きな汚れは見えないが、同時に家具もない。
居間に入る。誰もいない。台所を覗く。何もない。風呂場を開ける。水の跡すらない。二階を上る。隅に蜘蛛が這っている。自分の部屋に入る。そこにはぼくと幸慈の布団があるはずだった。今はない。
息を吐く。何も残っていない。当たり前だ。すべてを持って引っ越したのだから。
ぼくが過去に傷をつけたであろう壁の傷を撫でる。幼い頃はやんちゃをしていたものだ。よく笑って、走った。今とは大きく変わってしまった。――そういえば、昔は幸慈もよく笑っていた。いつから、ぼくの目の前で笑うのをやめただろうか。引っ越してからか、それとも引っ越す前からだったか。
いや、そもそもなぜ家を変えたのだったか。確か、父が珍しく自分から意見をしたのだ。しかし、原因は? なぜ、それをぼくは覚えていないのだ。
「お兄ちゃん」
気づけば部屋の中に幸慈がいた。壁紙が剥がれている。この部屋はこんなにも荒れていただろうか。
いや、違う。幸慈が剥がしているのだ。壁紙の裏にある何かを取り出している。紙だ。正方形の紙。質感から見て、それは写真だと推測した。
「なにしてるんだ」
「お兄ちゃんは、何か見つけた?」
ぺりぺりと、幸慈は壁を見つめてばかりだ。
「いや、何もない。幸慈は何をしてるんだ」
「お兄ちゃんが忘れてること思い出してるの」
「忘れてる? 引っ越した理由をか?」
「大切なことだよ。とっても大切なこと。でも、お兄ちゃんは忘れた方がいいかもね」
「なぜ」
「だって、お兄ちゃんは嘘吐きじゃない。嘘吐きは本当のものを忘れちゃうのよ」
――今、何を覚えてる?
幸慈はそう言って写真を見せつけた。
なんだ、他愛ないことじゃないか。ぼくはほっと息を吐いた。ただ、ふと思い至って口元に手を当てた。歪んでいた。笑っている。ぼくが笑っている。本当に、ぼくは笑っているのだろうか。
叔父が下の階から呼ぶ声が聞こえた。幸慈が立ち上がって返事をした。駆け降りる幸慈をぼくは追いかける。
下には濡れた手を拭く叔父の姿があった。叔父はこちらに気付くと「何か見つかったか?」と口にした。
「うん、前隠しておいた場所にあった。叔父さんは?」
「……ああ、あったよ。あ――っと、善郎は?」
「お兄ちゃんは何にも。だって用もないのに来たんだから、見つかるものもないよ」
「……そうか。幸慈、今から俺は出かけるから――」
「だめ」と、間髪入れずに幸慈が言った。
「泉さんのところでしょう。子どもが一緒のほうがいいんじゃないの」
ぼくは驚きに眉を上げた。泉――それはぼくが忘れられない、忘れてはいけない名だ。
他人の空似に違いないが、なぜ彼女と同じ名詞がここで現れるのか。ぼくは今すぐ問いただしたい気持ちを抑えつけた。
「いいや、これは俺の問題だ。幸慈が来る必要はない」
「だめ。叔父さん、そうやって全部一人で抱え込む」
「……だけどなァ……」
「じゃあわかった。車の中で待ってる。それならいいでしょ?」
叔父は呻きながら頭を掻き毟った。幸慈はそれをにこにこと笑って見上げている。叔父は観念して手を挙げた。
「わぁったよ! 連れていきゃあいいんだろうがよ! だけどな! ぜってえに車から出るんじゃあねえぞ!」
「わぁい。叔父さんだいすきっ」
「……かなわんなぁ、お前には」
「姪の言うことを気安く聞いてあげるのがいい叔父の役割だと思わない? 叔父さん」
「……おう、そうだな」
少し疲れたように叔父は息を吐いてから、零すように応えた。
「んじゃ、俺はまだちょいと片付けがあるから先に車乗ってな」
「うん」
叔父は脇に置いていたらしいスコップを手に庭に出ていった。
「お兄ちゃんなにぼうっとしてるの。行くよ」
「え、あ、うん。……ぼくも行っていいの」
「私が大丈夫ならお兄ちゃんも大丈夫に決まってるでしょ。――昔からそうだったじゃない」
幸慈が先を歩く。ぼくよりも先に、叔父の車に向かって家の外を目指す。ぼくはそれを追いかける。
昔から。そうだったろうか。今まで幸慈とぼくは一緒だった。事を行えば、幸慈も同じように行った。だが、それは本当にそうだったろうか。
―― 私、今、すごく幸せ ――
過去、この家で幸慈が浮かべた表情を思い出す。今ではすでに失われた笑みだ。だが。
――ぼくは、ただの一度もあんな風に笑えたことはなかった。それこそ、彼女に出会うまで。
「幸慈」
「なに、お兄ちゃん」
「泉って誰?」
「……びっくりした。お兄ちゃん、それ本当に言ってる?」
ぼくは首を傾げた。もしや、ぼくが知っている人物なのだろうか。
「ごめん。覚えてない。誰なの?」
「……まあ、お兄ちゃん興味ないことはどうでもいいもんね。忘れても仕方ないか」
幸慈が一つ息を吐いて、次の言葉を口にした。
「叔父さんの元奥さんの家。もう忘れちゃだめだよ」
一瞬、息を飲んで、ぼくは平静を保った。
違うかもしれない。そうかもしれない。だが、もしそうだしたら、なんという運命だろう。
「あ、れ。叔父さん、結婚してたっけ?」
「うん、離婚したけどね。まあこれからその家に行くんだけど、叔父さん未練たらたらだから、あんまり話題に出さないよーに」
ぼくは動揺を表に出さないように、間を開けずに言った。
「それで、その人の、下の名前は?」
「ん? なんでそんなこと訊くの?」
「別に、何でもないよ。ただ知り合いかもしれないなあって思って」
「ふーん……まあいいけど」
幸慈の唇が開く。ぼくは妹の口から紡がれた言葉を噛みしめる。
だが、耳から脳に入ってきた情報はいつまでも個体のまま、ぼくの中で認識されることなく沈んでしまった。
「ゆ、幸慈。もう一回」
「――瞳。泉、瞳さん」
もう言わないからね、と不貞腐れた幸慈の声なぞ聞こえない。
ぼくの最愛の人。ぼくのすべて。
幸慈が彼女の名を呼んだその声が、いつまでもぼくの頭の中に木霊した。




