5-2
誰かが頭を撫でている。知っている手。だけど、知らない手。
遠くにはぼくがいる。だが、それはぼくではなく妹だ。鏡のように正面に立って、妹はじっとぼくを見ている。幼い頃のぼくたちは、今よりもずっとそっくりだった。
手が離れる。ぼくはそれを物欲しそうに見上げている。扉の奥に白い手が吸い込まれる。
『愛してる』
暗闇の奥で、恍惚に女の人がそう呟いたのが聞こえた。
「待ってよ、叔父さん」長年ずっと耳にしている声で目が覚めた。
外からは車の音が聞こえる。エンジン音が激しい。古い車、叔父の車の音だ。
ぼくは寝間着のままベランダから前身を出して下を覗いた。そこには車の外で煙草をふかしている叔父がいた。
「叔父さん!」
「おう、おはよう! どうしたっ?」
「どこか行くの?」
「昔の家にな」
ここでの昔の家とは、ぼくたちが約一年前まで住んでいた家のことだ。
「何かあったの?」
「ちょいと忘れもんをな。一緒に行くか?」
ぼくは少し考えてから、下にいる叔父によく見えるよう大きく頷いた。過去を思い出すいい機会だ。
急いで着替えて外へ向かう。外に出ると、叔父の煙草の臭いがまだ残っていたのもあってぼくは顔をしかめた。夏も近い。肌に張りつく気候も相まって不快だった。
ぼくの様子を見た叔父が、煙草の先を携帯灰皿に押しつけながら笑っている。
「ははは、まだ煙草の臭いは慣れねえか。善郎」
「禁煙したんじゃなかったの、ヘビースモーカー」
「あれは一時の世迷言よ……恋人を手放すくらいなら俺ァ首でも吊る」
そのまま吊ればいいのにと考え、ぼくは冷めた瞳を叔父に向けた。
「まだ準備があるから先に乗ってろ」と口にして、叔父は家の中に入る。ぼくは後部座席の扉を開けようとした。
「ちょっと」
――が、既にそこに座している存在がそれを阻止した。車窓の先から、鏡を見るかのような造形の顔立ちが覗きこんでいる。不機嫌がその表情に強く描かれていた。
「ここは私の。お兄ちゃんは前に座って」
合点がいった。朝目覚めた時に聞いた声は幸慈だったのだ。
「幸慈も行くのか」
「そうだよ。私も、用事あるし。お兄ちゃんは? 用なんてあるの? あの家に」
「……あるよ。ぼくにとっても昔の家だ。行ったっていいだろ。そういうお前は何の用なんだ」
「……別に、言う必要ないでしょ」
そっぽを向く幸慈からは、叔父にも感じた見えない壁が見えた。兄妹なのに、妹のことが見えないことに少し苛立ちを感じる。
「あの家の荷はほとんどまとめたはずだろ。なんで二人して……」
「忘れ物があるからだよ。お兄ちゃん」
「忘れ物? どんな」
「お兄ちゃんは忘れてる」
車の扉が開く音がした。
叔父が運転席に乗り込んでいた。幸慈は居所が悪かったのか奥に体を移した。ぼくも慌てて後ろの車の中に乗り込み、幸慈の隣に座った。
「前に行ってって言ったじゃん」
「別に、隣空いてるんだからいいだろ。叔父さんの隣煙草臭いんだよ」
唇を曲げて、幸慈はそっぽを向いた。外を出ない幸慈の、数少ない残った子どもっぽい仕草とも言える。
叔父が車を道路の中に滑らせると、車窓の外に父の姿が見えた。ぼく同様気付いた幸慈が身を乗り出し、僕の指に自分の指を重ねる。ぼくの指の下にあったスイッチを上から押して、車窓を開けた。
「ユキ」
父が幸慈を呼ぶときの通称だ。父の穏やかな声でその名前を聞くと、ぼくの意識はふっと軽くなり自分が遠くに行ってしまったかのような錯覚に駆られる。幸慈と父の対話を、スクリーンに映して見ている。ぼくはじっとそれを観客として眺めているのだ。
「行ってくるね」
「ああ、いってらっしゃい」
幸慈が手を振る。父も同じように手を振る。ぼくは振らない。家が遠くの景色の一部になり、ぼくたちは古い家路を目指す。
ハンドルを握る叔父が、しばらくしてから口を開いた。
「兄貴は、いつもああなのか?」
「そうだよ。叔父さんと違って、ぼくらを考えてくれるんだ」
「……そうか。そりゃあ、すげえな」
叔父が息を吐くと、ミラー越しにぼくを見た。母によく似た目の形だ。ただ、母よりも一滴赤を混ぜた色をしている。
「学校はちゃんとやれてるか」
「父親みたいなこと言うんだね。問題ないよ」
「そっか。……楽しいか」
「楽しいよ」
車の速度が上がる。高速に入るのだ。耳の奥が抑えられるような感覚に、気分が少し沈む。
くすくすと笑い声が響く。横を見ると、車窓に反射した幸慈の顔がぼくをじっと見ていた。どうして嘘なんて吐くのかと、その笑みは言っている。
「善郎、笑ったのか」
「ううん。幸慈が笑った」
叔父は途端に黙りこくった。車の中で突然笑い出すような態度にどうしろと言うのだろう。叔父の行動は正しい。
車体が高速の車道に入り込んだ。まだ入ったばかりの新人に見向きもしないで、横の車道にいた車がぼくらを追い抜いていく。
「私、知ってるよ」
幸慈は目を細めた。ぼくにはできない表情で。
「お兄ちゃんの一番好きで楽しいって思ってること、私知ってるから」
車道の真ん中を走る。多くの車が駆けた跡なのか、そこは凹凸が激しく、車体が大きく揺れた。




