5-1
毎日のように通っていた場所には見えなかったのは、きっといつも影で閉じられていたそこが露になっていたからだろう。
日の下の廃墟の中は、夜とは一転して人の内にある恐怖を雲散させる。ぼくは板張りが剥がされた跡のある部屋の前で足を止めた。
「来てくれたんだね」
先を丸く結った縄を頭上に揺らして、遠見聖子が言った。
「どういうつもりだ」
今朝がた下駄箱の裏に貼り付けてあった手紙を見せつける。
手紙には『待ってます』の一文の下に『泉 瞳』の名が小綺麗に並んで書かれていた。
「そうでもしないと、善郎くん来てくれなかったでしょう?」
「たったそれだけのために彼女の名前を使ったのか」
遠見聖子は笑う。声を挙げることも、口を開くこともなくただ頬を上げて笑っている。
遠見の後ろにある縄が、ぼくを挑発するように風と戯れていた。彼女がぶらさがっていたあの夜を彷彿とする。
「そのロープ……」
「うん。縛ったの。あなたが好きなわたしになろうと思って」
「なる? なにに」
「あなたが好きになったもの」
ぼくは思わず笑ってしまった。この少女は何を勘違いして彼女の真似をしているのだろう。彼女だからぼくは愛したのに。遠見が行っているのは彼女を貶す行為だ。
「君は彼女じゃない。ぼくが愛せるのは彼女だけだ」
「いいの。好きになってくれなくても。わたし、善郎くんに見てほしいだけだから」
「他人の自殺を好き好んで見るほどぼくは悪趣味じゃない」
それも、彼女を汚す行為だ。彼女と同じ生まれ方。彼女と同じ場所。遠見聖子はそれを知らない。だが、この少女は知らなくともぼくは知っている。無意識の行動の全てに吐き気がする。
「違うの。わたしが、あなたのこと本当に好きだったことを知って、見ていて欲しいの」
「……」
「わたし……好きだよ善郎くんのこと」
死体以外を好きになれない可哀想なあなたが好きだと、遠見聖子は続けて言った。糸を引いていない新鮮な肉の唇で、何一つぼくに響かない言葉を遠見は紡いでいく。
「わかってる。知ってるよ。わたしを好きになれないこと。わたしを見てくれないこと。でもわたし、そんなあなたを受け入れる。だってわたしは善郎くんを愛してるもの。だから、あなたを慈しむ。あなたを可哀そうだって涙を流せるの」
遠見聖子の瞳から涙が出ることはなかった。明るい毛色の犬のような瞳だ。一つのものを信じ切り、それ以外が見えていない。見るのも痛々しい。この少女はなぜここまでヘドが出るほどの善意を教えてくれるのだろう。
「違うよ。遠見さん」
「何が違うの。好きなことに、間違いなんてないでしょう」
「だからそこから違うんだ。君はぼくを憐れんでいるわけじゃない。君はぼくを哀れだと、醜いをぼくを愛している自分を愛しているだけだ。君は何も見えてない」
「……どうして、どうしてそんなこと言うの? わたしは、ただ、あなたを好きでいて、あなたに、見てほしくて」
純粋なまでに真っ直ぐに、ぼくを見ておきながらこの少女はぼくを見ない。愛と謳っておきながら、それはぼくのためではない。嘘ばかりの塗り固めた色のない愛だ。
「……もうぼくを使うのはやめてくれよ。いい加減気持ちが悪い。自分を隠したがってるのは遠見さんじゃないか。愛なんて言葉を簡単に使って、まるで本当のことのように形作って」
「ちっ――違う! わたしは本当にあなたを愛してるの! 他の誰でもない、誰も愛することのできないあなたを! わたしが――!」
「だから、気持ち悪いって言ってるんだ。愛してる? ぼくを? 君が? ぼくを見たことなんか一度もないくせに。自分にばっかり話しかけて、ぼくを見ることを拒否して、それで見返りは欲しいなんて、都合がいいにもほどがある。頼むから――ぼくに、甘えるな」
遠見聖子は既にいつもの笑みを止めていた。きっとこの少女と交流のある人間は見たことがないに違いない、激昂し傷ついた姿だった。石動とはやはり違う。遠見聖子は騒がしい。
頭髪と同じ栗色の眉を痛いほどに寄せて、遠見聖子はぼくを睨みつけた。
「わ、たしをっ……否定しないでっ。わたしは……あなたを愛したいだけなのに……! なのに、なのにあなたがわたしにその思いを捨てさせようとする。あなたがわたしを軽蔑させる! こんなにも愛したいのに!」
「いらないよ。そんなもの、ほしくない」
遠見聖子の目に浮かんでいた涙が頬に溢れた。
「どうして、好きでいさせてくれないの……。わたし、本当にすきだったのに……好きになったのに、なんで……なんで、そんなふうになっちゃったのぉ……っ」
縄に向かっていた直立の足は崩れ、ぺたりと遠見は座り込んだ。
肩を震わせて泣く様はまるで子どものようだ。自分の自由のきかない世界を知って、諦めきれずに声を挙げて泣くのだ。それは嘘だと、目の前にあるものを否定するのだ。
そういえば――幼い頃、ぼくもそうだった。苦しいことがあって、よく泣いて――。
ぼくにも、あったのだろうか。
欲しいものを、愛するものを得られなくて涙を流した時が。
どこにも始まりはある。ぼくが初めて彼女に恋をしたように。ぼくが誰かに愛を求めた日があったのかもしれない。
ぼくは、何かを欲したことなど彼女と出会う以前にはなかった。ただ、呼吸をし、触れることだけを知っていた。
だが、それがどうだろう。ぼくは誰かを愛したことがあるのか。それは、ぼくが彼女以外に誰かに愛されたかった思いを持ったかもしれない可能性だった。
彼女が死んだこの場所でいつまでも泣かれても困ると考え、ぼくは遠見の携帯電話を手に遠見聖子の幼馴染である光居を呼び出すことにした。彼はそれほど時間をかけずにこの場所にたどり着き、膝を抱える遠見聖子を見るなや否や一目散に遠見に駆け寄った。
「おい」
「なに」
呼び出した光居が、遠見を介抱しながらぼくを睨みつけている。遠見は唯一心許せるであろう光居にしがみついており、ぼくを見ることはない。
「何もしてないだろうな」
「するわけがない。ぼくはその人が嫌いだ」
嫌いだ、と言い放つと同時に遠見の肩が跳ねた。一挙一動が見ていて不快だった。
今までに見た視線とは色の違う目つきだと感じながら、光居が次の言葉を口にした。それは確かに想定していた侮蔑の言葉であったが、ぼくが考えていた言葉とはまるで形が違っていた。
「……信じられるか、この人殺しめ」
はて、なぜ彼はそれを知っているのだろう。




