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死体と死に体のぼく  作者: 秋花
プロローグ 思い人
2/29

0-2

 風の悲鳴が、建物の隙間を潜って耳に嘯く。

 辺りは暗く、今にも飲み込まれてしまいそうなほどに沈んでいる。

 日頃恐怖を感じないぼくでも震えが走るほどだ。汗に濡れた肌が冷たく、足先をも凍らそうと滴っている。


 ――なんだ。いないじゃないか。


 探し人の姿は見えない。夜の帳はどこまでも伸びていて、彼女の足跡を隠している。町々は溶けきった夜に浸されていた。異世界に迷い込んだかのような恐れに身を震わせて、ぼくはがぶりを振る。

 きっと、ぼくの思い過ごしだ。たまには違う道を使おうと彼女がこの道を選んだに違いない。だって、この先には何もない。何もないはずなのだ。

 帰ろう――と廃墟に踵を返す。正しくは、返そうとした。


 きぃ。きぃ。何かが揺れる音が聞こえた。それはブランコを揺らしている音に似ていた。悪戯好きの風が、ぼくを恐怖に陥れようと遊動させているのだろう。流されてきた音と共に、今までに嗅いだことのないかおりが鼻を通り過ぎた。

 何かが下る音が聞こえた。ぼくの唾が喉を滑り落ちる音だった。

 何かに魅入られるように、ぼくはその足を廃墟へ戻した。

 携帯の明かりで道を作る。零れ落ちている破片を踏みつける。割れる音が響いた。古びたコンクリートの階段が、声高に侵入者の来訪を告げていた。

 惹きつけられるように、ぼくはその誘いに手を伸ばす。そこには恐れがあった。苦痛があった。しかし、黄金色に輝く甘美な恐怖(みつ)であった。予感のようなものがあったのかもしれない。そこにあったのは断じて好奇心ではなかった。恐怖だと姿を曇らせていた高鳴りの正体を、ぼくは知りたかったに違いない。


 一歩進むたびに、無人の廃墟は孤独を確かなものにする。携帯の明かりで見える道は人の気配を感じさせない。だというのに、その音はまるで生きているかのように強弱をつけて歌っている。

 音は三階にある先の部屋から聞こえてきているようだった。

 近づけば近づくほど、その音は生々しいものになる。それは決してブランコではない。それよりも、もっと大きなものをぶら下げている。部屋の前まで足を運ぶと、鼻に言いようのない臭いが粘りついた。

 ――汚泥の臭いに混じって、女の軟らかな香りがした。


 黒い棒が二本、重量を持って揺れていた。ふらふらと、ぼくのちょうど目の前を彷徨っている。よくよく見ると、それの先端には指のようなものが生えている。黒い棒と思われていたそれはタイツで覆われていた足だった。

 視線(ひかり)を上げる。腰がある。両端にはだらんと垂れた腕がある。現代機器で作られた光の前では闇の胞子も逃げていく。細い肩が見えた。その中央部からは一本の縄が生えている。


 見覚えのある服装だった。嗅いだ覚えのある香りだった。

 ――愛しい彼女(せんせい)が、そこにいた。


「先生……?」


 答えはない。縄が軋む音のみが返ってくる。音が彼女を揺らしている。

 首吊りだ。

 遅い実感が頭から足元に落ちていく。真っ白になっていた頭に血が通いだす。中枢部にある心臓が動揺に喘いだ。


「お、降ろさなきゃ」


 ぼくは足元にある脚立を立たせる。先生の首を絞める縄を緩めようとするが、彼女が下へと引っ張られていてそれも許されない。彼女を解放するためにはこの分厚い縄を切るほかないのだ。でなければ彼女はいつまでもそこに囚われたままであろう。

 ぼくは辺りを見渡した。

 窓際に陶器の破片があった。過去に誰かが割ったのだろう、ちらほらと破片の跡が見える。ぼくはそのうちの一つを手にした。砂を被ったような手触りだった。

 それを縄に押し付ける。尖った部分を引っ掻くようにして縄に傷を作る。時間はかかったものの、彼女を無事に下ろすことに成功した。荷物が落ちたのと同様の音がした。

 脚立から降りて、恐る恐る彼女に触れる。死んでから数時間経っているのか、その肌はあまりに冷たく硬直していた。まるで氷か人形のようだった。

 胸元に手を置いてもそこに鼓動などあるはずもない。口元に手をかざしても風を感じるわけもない。

 死んでいた。まごうとなく彼女は死体だった。


「……警察」


 警察を呼ばなくては。

 手の内にある携帯を指で叩こうとするも、ぼくの手は震えていてまるで使い物にならない。それどころか誤って手から滑り落としてしまう始末だった。携帯が地面にぶつかる音が辺りに広がると同時に、明かりから逃げていた暗闇が一斉に元の住区へと帰ってきた。

 闇が染み込む。それは廃墟のみならずぼくの心身にも渡った。

 手探りで地面に触れる。廃墟に居座る砂に手を引っ掻かれながら、平行に広げていく。

 何かにぶつかった。大きさからそれの正体は推測できた。先生だ。

 先生の体を手が歩く。彼女の体の先にあるかもしれない携帯を取るために、ぼくは慎重に布の音を立てる。


 ふと、ぼくの手で包めるほどの膨らみが掌の中に入り込んだ。彼女の胸だ。

 息を呑む。固いかと思われたそれは、触れれば女の色を啜ったような気分にさせる。

 撫でれば山のような線を描け、押せば柔らかな山が平らに崩れる。直接肌を合わせればそれはどれほど柔らかいだろう。手の下には服がある。彼女の、肢体がある。熱い滴が咽喉を伝って下へと落ちた。ぼくは彼女の上着を、シャツを開ける。暗闇の中で彼女の素肌が少しずつ晒される。

 月の光が室内に届く。彼女の乳房が青白く照らされる。瞳が彼女の体を映す。

 それは、生きている彼女の姿そのものだった。目の前にあるのは動かなくなっただけの彼女。彼女は何も変わってなどいなかった。


 彼女の体を、影から生えるぼくの腕が這う。

 首を。乳房を。腋を。腹を。次第にそれは下へと伸びていく。


 ――なにをしている。


 ぼくの赤い舌が彼女の肌を塗らしていく。彼女の肌はあまりに冷たく、心地がいい。


 ――なにをしているのだ、ぼくは。


 自身の行動を制することもなく、ぼくは果てるまで動かない彼女と身を合わせていた。





 事を終えると、ぼくは己がした惨状を見渡した。

 自身から吐き出したであろう多くの証拠が地面に撒き散らされている。辺りには腐臭と行為の臭いが満ちていた。


「うっ――」


 我慢することもなく吐瀉物をその場に吐き出した。

 目が熱い。喉が痛む。しかし、ぼくは自身が行った罪を残らず吐き出そうと最後の一滴まで努力した。

 口元を拭い、汚れた彼女を見る。そこには死体があった。ぼく自身が、つい先ほどまで犯していた彼女が、そこにいる。

 わからない。疑問と恐怖ばかりが頭の中を走り回る。


「なんで、ぼくは……っ」


 彼女(したい)を犯した。

 これは冒涜だ。ぼくは愛しかった人の体を汚したのだ。

 それは世で最も下劣であり、人が足を踏み入れてはならない禁忌だ。

 だというのに、ぼくの体はその死者を求めている。荒れた波がぼくの理性という理性を洗い流し、彼女を欲する感情のみを沖に取り残したのだ。

 ぼくは己が身を震わせる。それは恐怖による震えでなければならない。だが、あの瞬間、ぼくは確かに彼女が欲しいと強く思ったのだ。

 震える体を、ぼくの両手が抱きしめる。吐き出す息は掠れている。

 恐ろしかった。ぼくの知らないぼくがいることに。今までの何もかもを全て否定し、彼女を犯したい己がいることなど信じたくなかった。あってはならない。行ってはならないはずだったのだ。これは人間の最もに近い罪悪だ。

 しかし、ぼくは自分からその罪を犯した。この欲は捨て去るべきだ。


 彼女の肌についたぼくの一部を見て、眉を顰める。

 自分の靴下を脱ぎ、なるべく汚れの目立たない部位でそれを拭う。


「すみません、先生……。今、これぐらいしかなくて」


 彼女に服を着せ、ぼくの罪を隠す。

 だが、この程度で隠したことにはならない。彼女の全身にはぼくが這い回った跡がある。このまま放っておけば、ぼくが行ったことにも気づかれるに違いない。

 それはだめだ。世間の望む通りに行う罪の告白は、綺麗な終幕で閉まることはない。それは、ぼくを嫌悪という井戸の底に突き落とすに他ならない。ぼくは隠さなければならないのだ。彼女を。彼女の身に染みついた禁忌の跡を。それこそぼく以外が触れられないどこかに。


 どこかに、と唱えて最初に浮かんだのは自分の家だった。

 しかし即座に否定する。同時に浮上してきた情景が肯定とはほど遠いものだったからだ。

 あの家には視線がある。ドアの隙間を潜り抜けて、じっとこちらを観察する目がある。それは誰ものかはわからない。ただの勘だったが、今のぼくには少しの不安さえも恐ろしい。

 この場所に置いていくという選択肢はなかった。

 彼女はここには置いておけない。ここには彼女とぼくの間にあった行為の印が色濃く残っている。

 ならば、外のどこかしかない。

 次に思いついたのは寂れた神社だ。手入れをする人間はめったに見かけない古びた社だ。外から見ただけでも、くもの巣が張ってあるとわかるほどには人の手から離れている。あそこならば彼女も入るだろう。



 ぼくは彼女を背負い、廃墟から立ち去る。

 他から見れば、彼女は眠った生者のように見えるだろう。だが、ぼくは違う。彼女の重さが、冷たさがそれは違うと教えてくれる。

 歩を進める。疲労が迫る。彼女とともに地面に沈んでしまいそうになる。空は暗く、道なりに明かりは見えない。まるで、深海の底を歩いているかのように静かだ。

 二人いるのに、一人の呼吸音だけが空に混じる。

 二人いるのに、一人の足音だけが地面に吸われる。

 背にいる彼女はもうこの世にはいないものだ。ぼくだけが生きて、この道を歩いている。


 時折周囲を気にかけながら鳥居を通り抜ける。眼前には目的の社が見えた。やはり古いのか、力加減を見誤れば折れてしまいそうな音を出しながら扉を開ける。外のにおいとは違うものが鼻腔を通る。それはぼくたち人間にとって恐れ多いと名づけられてきた閑散な空気なのだろう。躊躇の思いが掠めたものの、ぼくは神聖な場を踏み荒らす所存で前を向いた。

 中央には御祭神と見られる鏡があった。歴史を持つ鏡なのだろう。年代物らしく、幾度も擦ったかのような白い跡が一面に塗られている。やはりと言うべきか、社の隅には蜘蛛が巣くっていた。


 謝罪の言葉を音には表さず、ぼくは彼女を丁寧に神棚の横に下ろした。

 その際白い網のようなものが彼女の黒髪を汚した。この社に根を張っていた巣の一部だろう。彼女の髪を梳いてそれを取り去る。絹に似た黒い糸が横に流れて、彼女の顔が露になる。

 覗けたのは苦悶が刻まれた顔だった。目玉が飛び出し、苦痛を吐き出そうとしたのか舌が外に逃げている。だらしなく開かれた口などは目に映したいものではない。確かに、首吊り死体に違いなかった。

 思わず苦虫を噛んだ様な顔になる。気持ちが悪い。

 しかし、目の前の彼女よりも気持ちが悪いのは、その死体に欲情したぼくそのものなのだ。

 彼女から顔を背け、扉を閉めることを忘れずに社から出る。

 外は未だに暗く、ぼくを拒絶するようにその闇を深くしている。


 家に帰ったぼくを待ち受けていたのは、ひっそりと暗闇を飼っている我が家だ。

 もうみんな眠ってしまったのだろう。ぼくは音を立てぬよう静かに家に入った。

 手探りに台所まで進む。テーブルの上に、ぼくのぶんの夕食がラップに包まれて保存されているのが見えた。あのような出来事があったせいで食欲が失せていたぼくは、それを冷蔵庫の中に入れる。

 冷蔵庫の明かりで、ぼくの手が鮮やかに映る。その手に持つものはない。そのことに違和感を覚えて一つ思い出した。そういえば母から頼まれて買ったあれらはどこにやっただろうか。


「帰り、遅かったね」


 突然降ってきた声に動きが止まる。

 声のする方向へ目を向ける。パチリと軽い音の合図に天井の明かりが点いた。暗闇に身を隠していた人間の正体を理解した。


「……幸慈」

「お母さん心配してたよ。どこ行ってたの?」

「……少しね」

「ふーん」


 心臓があわ立つ。彼女はこちらを観察するようにじっと眺めている。まるでぼくの心の泥を見つけてやろうとしているかのようだ。


「それじゃ、ぼくはもう寝るから」


 探ってくるような幸慈の視線に耐え切れなくなって、ぼくは早足に彼女の横を通り過ぎようとした。


「――まって」


 幸慈の手がぼくの肩に触れた。ぼくにはそれが首に突きつけられたナイフのように思えた。

 絹を撫でるように彼女の手が離れる。ぼくは振り向かないで、歩む足を止めている。今にもその腕が凶器を振り上げ、ぼくに向けてくるのではないかと恐怖に硬直している。


「蜘蛛の糸、ついてたよ」


 妹の言葉が終わると共にぼくの足は勝手に動き出していた。無言で階段を上り、急いで自分の部屋に入る。少しばかり慌しく音を鳴らして扉を閉めた。いつの間にかぼくの呼吸は荒れに荒れていた。力が抜けたのか、腰からからずるずると床に滑り落ちる。ベットの下には、あの廃墟で見た闇がぎゅうぎゅうに詰まっている。ぼくを連れ込もうと隙を窺っている。

 先が見えない。とてつもなく大きなものを、唐突に背負わされたように全身が重い。

 向き合うものが多過ぎて、頭の中がかき混ぜられたかのように痛かった。


 ――ああ、これから先、どうすればいいのだろう。

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