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ぼくは正面玄関の横にあるインターホンを押した。戸の奥から機械音による呼び鈴が響くのがわかった。少し待つと、女性の声がインターホンを通じて誰何した。
『はい、石動ですが』
「突然の訪問申し訳ございません。石動芹さんはご在宅でしょうか」
『……どなたでございましょうか』
「木崎善郎と申します」
『生憎と、芹さんからそのような方のお名前は耳にしておりません。お帰りくださいませ』
「え、まっ――」
ブツリ、と石動家とぼくの間の線が切れる音がインターホンから流れた。ぼくは困って頭を掻いた。
本人も口にしていたことだったが、石動芹という少女はこの家でずいぶんと異質な存在らしい。それでもまともな対応一つすらしてもらえないとは思わなかった。まったく、こちらからの連絡手段が一つもないというのが、頭を悩ませる。
「さて、どうしようか」
「何やってるんですか……」
件の少女の呆れた声が聞こえた。周囲を見回してみるも、その姿は見えない。幻聴でも聞いたのかもしれない。
「こっちです」
再度声が聞こえた。声の方向に足を向けると、建物の影に石動はいた。
「なんで隠れてる」
「家の人に極力見られたくないので。……こっちです。ついてきてください」
石動の足が向かうのは敷地の奥にある、こじんまりとした蔵だった。白い壁には苔一つ見えず、家の者がこまめに手入れをしていることが一目でわかった。入り口には古びた倉庫錠が取り付けられている。空調のためだろう、白い壁の上部に長方形の黒い穴があった。穴からは蔵の中を住処としている黒い胞子がまんべんなく敷き詰められている。
石動は入り口には目もくれないで、すぐそばに植えられていた大樹を登り出した。ぼくはあっけにとられて少女の慣れた木登りを見つめる。森で育ったと言われれば頷ける素早さだ。
「どうしたんですか。ついてきてください」
「……お前、人間より猿との方が仲良くなれるぞ。自然から帰ってこい」
「言っている意味はよくわかりませんが、私と猿は分かり合えませんでしたよ」
「試したのか……」
石動を真似して必死に木を登ると、枝伝いに石動が蔵に触れていたのが見えた。一見だけでは気付かなかったが、空調となる穴のまた上部、屋根の影に扉があった。そこの南京錠の鍵を開け、石動が中に入る。屋根裏だ。枝の強度に不安はあったが、ぼくらの体重程度であれば問題はないらしい。しかし、大柄の男であればその可能性もある。ぼくは急いで石動の跡を追った。
中は石動の手によって快適な個人部屋になっていた。寝床等々の家具がきちんと配置されている。場所といい、中といい、子ども心をくすぐられる。
「まるで秘密基地だな」
「はい、自慢の家です。私しか知りませんから、何にも煩わされません」
「自分で見つけたのか。すごいな」
「いえ、昔、養父に教えてもらえました。ここだけは、私のものです」
なるほど。環境が環境だが、この少女なりに満喫していたらしい。
「それで、本日は何の用ですか?」
「ああ、そうそう。叔父さんがこれを渡せって」
ぼくは懐からあるものを取り出した。それを認識した石動の顔が苦いものになる。納得の表情だ。
「なんですか、これ」
「地方のお土産だってさ」
ぷらんと、ぼくの指先でぶら下がるのは奇妙な化粧をした人形だ。民族衣装を着こんでいるが、その奇抜な化粧の塗りはどうみたってピエロである。満面の笑みだが、死んだ魚のような目でこちらをじっと見つめているのは中々壮観であり、赤ん坊が見れば数秒と経たずに大声で泣きわめくに違いない。
叔父は『これを持つと幸せになるというキャッチでな! 思わず買っちまった!』と言っていたが、悪夢を見るの間違いだ。騙される方が難しい。馬鹿者ですら騙されない。叔父は大馬鹿者だった。
「これ、善郎さん宛てじゃないんですか?」
「違う。まあそんな嫌そうな顔をするな。腹を押すとだな……」
試しにぼくが腹を指で押すと、ピエロ人形は魔女のような笑い声を響かせた。
「ほら、意外と高機能だろ? 押す場所で台詞が変わるんだ。胸押すと今度は泣き始めるんだ」
「理解できません」
「ぼくもよくわからない」
しかし、人からの貰い物自体は嬉しいのか、石動は頬を綻ばせながら部屋に飾った。夏休みを満喫する子どもであれば胸を躍らせる部屋に、一体の恐怖が居座ることとなった。
「それで、本題はなんですか?」
「ああ、一つ、頼みたいことがあって――」
ぼくは事の旨を石動に伝えると、少女は次第に眉間の溝を深めていった。
「自分で汚したくせに、何のつもりですか」
「あれは、ぼくの愛だ。彼女と共有できるぼくらだけの愛情だ。断じて汚れじゃない」
「あなたの一方通行の愛でしょう。彼女の意思を、勝手に自分のものにしている。それのどこが歪みでないと言うんです」
「いいさ。わかってもらおうなんて考えてない。――それで、いいのか。だめなのか」
「……。どうぞ、ご勝手に」
ただし行うなら夜にしてくれと石動は口にして、ぼくに鍵を渡した。
乾いた血の色が山の中を泳いでいる。木の根の隙間にまで潜り込み、ぼくたちの様子を窺っている。夜が近づいて、昼が遠のく。しかし、また朝は近づいている。
視界の先には彼女がいる井戸があった。ぼくはその中に灯油を放り込む。腐臭の間にガソリンの臭いが混じり、近くにいた石動が耐えきれずに数歩遠のいた。
タンクに蓋をして地面に置く。後は夜を待つだけだ。
「見ないんじゃなかったのか」
「そんなこと、一言も言ってません」
「そうか。――なあ、石動」
赤が沈んでいく。紺色の空が赤を飲み、次第に山の中にいたそれらも土の中に隠れていく。
「はい」
「最初の目的、果たせたか」
「……ああ、あれですか」
―― 興味が、あるんです ――
―― 普通に暮らしていたはずの人間が、どうしてこんなことをしたのか ――
「さあ、どうでしょう……」
「ぼくも――ぼくも考えていた。わからなかったから。……実を言うと、今でもわからない。だけどぼくは、彼女のことを愛している。これだけは事実だ」
「気持悪いですね」
「途端に罵倒をするなお前は。……彼女はぼくの生きるすべてだ。ここにいる意味で、ぼくに価値を与えてくれる。彼女はぼくを愛してくれる」
「……自分勝手ですね。誰も見ようとしない、ただの自分本位の塊じゃないですか。気持ち悪い」
「わかってるよ。わかってるさ。でも……その彼女はいなくなる。いいや、いなくなってしまったんだよ石動」
ぼくは立ち上がった。空は暗く、木々の間に潜むのはぼくたちを捕らえようと闇を飼っている獣たちだ。夜になったのだ。昼はもういない。
ぼくはマッチを擦ってそれを井戸の中に投げた。少し経つと、煙の臭いが井戸から鼻腔に流れてくる。灯油の量が多かったのだろう、火の先が井戸から顔を出した。幸い、井戸の周囲には木々はなく、火は滞りなく天に手を伸ばしていた。
彼女が乞いているのだろうか。空を、目指そうと手を伸ばしているのだろうか。
「ぼくはね、ひどいことをしたなんて思ってないよ」
井戸の底で、燃える音がした。ぱちぱちと、弾けるような音だ。彼女が骨になり、炭になり、形を喪う音だ。
「きっと、誰もが嫌がって、口を噤むような愛だけども、それでも、ぼくは彼女を本当に愛していた。そして、彼女もぼくを愛していた。ぼくたちは愛し合っていた。真実の愛だ」
赤い火がぼくらの肌を赤く照らした。夕日よりも赤く、夕日よりも明るく、夕日よりも熱く、ぼくらの肌を舐っている。
空に、炎が手を伸ばす。雲のない空に、彼女が肉体という檻から抜け出し、炎の体を借りて手を伸ばす。
「どうして、火をつけようと思ったんです」
「……供養、かな」
「それは、〝彼女〟にですか。それとも、死者にですか」
「…………彼女に」
「……本当に、最低ですね、あなたは」
「しかたないだろう。ぼくは、彼女以外に愛を渡す相手を知らないんだ。確かに、ぼくは瞳先生が好きだった。でも、愛していたのは彼女だけだ……! 誰にもわかってたまるものか……! ぼくの、ぼくたちの愛だ! 石動、お前にだって……」
ぼくはそれ以上言葉を発せなかった。石動の顔を見たからだ。
石動の顔は火の明かりに焙られている。じっと、井戸の中から溢れる炎を見つめている。氷に似た、動かない表情。しかし、その頬には駆けのぼる炎を映す雫が伝っていた。
「石動、お前……泣いてるのか」
「わかりません」
「なんで、お前……」
「――火が、熱かったんです。眩しくて、目を閉じるのも忘れてしまって、だから、きっと、それだけ。だって、そうじゃないとおかしいでしょう。私、この人のことまるで知らないもの」
石動は火の先を見ている。ぼくも、彼女の炎を見る。
炎は乞うている。この手を知ってくれと。この死を見ろと、その場にいる生命に投げかける。
ぼくはそれ以上石動に言葉をかけることはしなかった。人の思いに、ぼくが触れるべきではないからだ。
ぼくは、目を閉じた。死を見る代わりに、音に神経を集中させた。彼女が触れて、吐き出している最後の音だ。ぼくはそれを感じなければならない。
炎は、燃え尽きるまで天に両手を掲げ、届くのを待っていた。ぼくらは彼女が天に昇り終え、その炎の手を収めるまでずっとそこにいた。
四章終わりです。次回五章「喪失した願望」、残り二章よろしくお願い致します。




