4-3
――己にできることは何かと、ずっと考えていた。
和樹はその身を電柱の影に隠しながら、最も知りたくない男の素性を知るために動いていた。和樹の目線の先にあるのは件の木崎善郎の家だ。道中、善郎は和樹に跡をつけられているなどという可能性は思考の片隅にすらなかったが、度々善郎の鋭い目が和樹を襲いかけ、冷や汗をかいた回数は片手では数えられない。
和樹の脳内にはある少女のことだけが占めていた。遠見聖子である。
和樹の幼馴染である遠見聖子という少女は、幼少の頃は今に反して泣き顔ばかりがその顔を飾っていた。ある年齢期から笑顔を見せるようになり、ついには笑顔のみを浮かべるようになった。
だが、和樹は遠見の性質を理解していた。
彼女はただ無理をするのが得意なのだ。その無理が度を越えていたのが早朝の怒りなのだ。そのラインを越えさせたであろう善郎が遠見にした数多の行為、和樹はそれを知らなければならない。幼い頃から遠見を知り、遠見に恋慕の思いを募らせておきながら彼女の思いを見守っていた和樹ができることはそれだけだ。もしできうるのであれば、善郎の代わりで構わない。遠見の傷を癒したかった。
和樹は人知れず自身の行動の結果を鼻で笑った。
これではまるで自分が木崎善郎をストーカーしているかのようではないか。
――がちゃりと、玄関ドアが開いた音がした。中から現れたのは善郎だ。どうやらどこかへ向かうらしく、自転車の鍵を開け始めた。和樹はその身体を善郎の見えない位置に押し込む。その顔はとても喜色があるとは言えなかった。
自転車はまずい。全力で追いかければ気づかれてしまうに違いない。今回は見送るしかないかと、和樹は諦めの色を滲ませていた。
善郎が自転車の車輪を回し、家から飛び出した。
しかたない。今回は帰ろう。和樹はくるりと足の向きを反転させると、目の前に壁があることに気がついた。人だった。それも大人の男だ。
「さっきから何をしている」
「え、あ、その、でっかい家だなぁーと」
我ながらもう少しまともな嘘は吐けないのかと和樹は己を罵倒した。
男は和樹の着ている服に目をやる。学校の特定されたな、と和樹は近い未来の自分の命運を祈った。
「善郎くんの友だちかな」
「え――あ、はい! そうっす! 会いに来たんすけどさっきでかけちまったみたいで!」
九死に一生を得た。勘違いの結論は腹が煮えくり返りそうであるが、それでも不審者扱いされるよりはずっとマシだ。
男は少し考えるように己の指を顎にかけている。和樹は悟られては不味いと早口にその場から立ち去ろうとした。
「じゃ、じゃあ善郎クンもいないみたいなんで、俺はこれで……」
「まあ待ちなさい。せっかく来たんだ。少しゆっくりするといい。善郎くんの学校での生活も聞きたい。それにもしかしたら彼も早くに帰ってくるかもしれない」
和樹は思わず顔をひきつらせたが、これは好都合だ。運が良ければ善郎の部屋に入れるかもしれない。
男は木崎家の敷地に足を踏み入れ、玄関の鍵穴に鍵を突き刺した。この善郎を気にかけている人物不詳の男が和樹は気になった。
「……あの、おじさんは」
「……ああ。僕は善郎くんの父だ」
「父?」
「そうだよ。ほら、入ってくれ。自由にしてくれていい」
和樹を歓迎する男は確かに子を持つには相応の歳に見えた。だが、その顔つきは善郎にはどうみても似つかない。母親似なのだろうと和樹は自分の中で納得した。
家の中は一家庭にしては質素なものだった。そういえば、彼は転校してきてから一年経つ頃だった気がする。よく見れば家具もまだ真新しい。和樹は居間に案内された。
コトリと、目の前に麦茶が置かれた。
「善郎くんは学校ではどうしてるかな」
「……本人から訊きゃいいじゃないっすか」
「恥ずかしながら、あの子はあまり自分のことを話さなくてね。……少しでも知っておきたいんだ」
「……変なやつです」
「変?」
「はい。人と話せるくせにいつも一人でいたがるし、自分のことは話そうとしねえし、薄気味悪くて俺は嫌いっす」
「なのに友だちをやってくれてるのかい」
「……すんません、嘘吐いてました。俺友だちじゃありません。たぶんクラスで一番あいつのことが嫌いな人間です」
和樹は人に嘘を吐くのが非常に嫌いな人間だった。善郎のことは嫌いだが、見ず知らずの他人に、子を思う他人に嘘を吐くほど堕ちた人間にもなりたくなかった。
明彦は笑った。
「正直な子だね」
「それが取り柄っすから」
「……今日は、何のために?」
「あいつが、何をしていたのかを知るために」
「彼は……君が動くほどの何かをしたのかな」
「幼馴染が傷ついていました」
明彦は数秒虚を突かれたように目を開けていたが、次第に声を挙げて笑い出した。
「なるほど。確かにそれは重要だ」
「……むかついたりしないんすか」
「なにがだい」
「俺が、嘘を吐いたこと」
「しないよ。何なら、君はそれを貫いたってよかった。だけどはっきりと嘘だって言ったんだ。これは褒めることだ」
和樹は黙り込んだ。穏やかに笑う目の前の男が善郎の父だというのが、ますます信じられなかった。
明彦は立ち上がって「ついておいで」と言った。向かう場所は二階だった。廊下の奥の一室を開けると、そこは誰かの寝室のようだった。勉強机もあるところ、学生のもののようだ。
「あの、ここは」
「善郎くんの部屋だ」
「は?」
「お礼だよ。教えてくれた、ね」
「いや、でも、いいんですか」
「…………いいんだ。君たちにしかできないこともあるだろう。それに、正直者な君は悪いことはしないだろう?」
「っありがとうございます」
和樹は頭を下げた。和樹を信用して通してくれたのだ、恩には報いるべきだ。
明彦は持ち出すことだけは勘弁してくれと一言告げると、あとは和樹に任せて下の階へ戻っていった。
和樹に残ったのは、目の前の部屋に入る権利だ。
ざわつく胸を抑えながら、和樹は部屋の中へと入った。
中は普通の高校男子の部屋のように思えた。違いと言えば、あまりに質素で、色が薄いことだろう。実に殺風景で、木崎善郎を映したような部屋だった。
ふと、微かな異臭が鼻をついた。腐った肉でも放置したような臭いだ。一度気にしてしまえばそれは念頭に居座り続ける。和樹は窓を開けることにした。撫でるような風が室内に訪れた。吐き気が少し薄れた。
日記でもないかと机の上を見ると、写真立てがあるのがわかった。家族全員が映っているのだろう。穏やかな家庭の風景がそこにはあった。幼い子どもの一人は善郎に違いない。今からは想像もつかないほどの満面の笑顔が顔に広がっている。善郎に背格好が似ている少女は穏やかに笑みを浮かべている。きっとこれが妹だろう。
すぐ手前の引き出しを開けると、そこにも写真があった。しかし、写真立てにはめ込んである写真とはまた一風変わっていた。
それは一か所だけが切り取られていた写真だった。
そこに映っているのは家の中のようだ。今の家とは違う、少し古びた家だ。明彦と善郎によく似た少女が仲良く並んでいる。しかし、少女の手元だけが綺麗に切り取られていた。
「なんだこれ……」
意図的にくり抜かれたと見てわかる写真だった。幸福な笑みが広がっている光景を食らい、それらを無に変えようとする穴だった。和樹は写真に触れている指先から、悪意が染み込んでくるような錯覚すら覚えた。寒さなど感じるはずもないのに、頬を撫でる風がまるで冷えた女の手のようにすら思えてくる。
「なにしてるの?」
声が降ってきた。それは唐突だった。
和樹はとっさに写真を後ろ手に隠し、声に振り返った。心臓が大きく警報を鳴らしている。それが恐怖なのか、驚きによるものなのか、和樹には判断のつきようがない。
そこには一人の少女がいた。顔立ちは善郎によく似ている。だが、空気だろうか、やはり兄妹と言えど違いを感じる。善郎よりもずっと、家族の写真にあった大人の女によく似ている。成長すれば瓜二つと言っても過言ではないであろうことは容易に想像できた。
少女は、和樹の素早い対応に鈴のような笑い声を響かせている。
「びっくりさせちゃってごめんね? ただ、お兄ちゃんの部屋に人がいるのが珍しくって思わず」
「――あァ、おれ、木崎の友だちでさ、頼まれたから忘れもんを取りに」
「そうなんだ。何を取りに来たの? 今手に持ってる写真?」
どきりとした。この少女はどこから見ていたのか。雨に濡れたわけでもないのに、背中が濡れていた。
少女は笑っている。その目は全てを見透かしていた。
「嘘でしょ? お兄さん、お兄ちゃんの友だちじゃないでしょう。いるわけないもの、お兄ちゃんが家に呼ぶような友だち。――写真、返してくれる?」
少女は手のひらを広げて和樹の前に差し出した。和樹は背中に隠していた写真をそっとそこに置く。写真を離してから気付くが、和樹の手は緊張のためか汗ばんでいた。
少女はその写真を大切そうに懐に仕舞うと、再度和樹に向き合った。
「私は妹の幸慈。幸せに、慈愛のじって書いて、幸慈。綺麗な名前でしょう。気に入ってるの」
幸慈は扉を閉めた。幸慈の笑みが、林檎のような鮮やかな唇で彩られている。
和樹は二人の間には決定的な齟齬が何なのかようやくわかった。笑みだ。こちらを絡めとろうとする、蛇のような色のある笑み。噛みついたことにすら気づかせない、毒を染み込ませる牙を持っている。
「何が知りたい? いいよ、教えてあげる。お兄ちゃんのこと。写真のこと。なんだって教えてあげる。だって、お兄さんそのために来たんでしょう?」
じわりと、和樹の足先から幸慈の毒が染み込む感触がした。




