3-6
戻る道中、遠見を見た。互いに灯していた明かりが重なり、一際暗い森の中を明るくした。遠見は1人だった。
彼女は何事もないかのように、笑顔でぼくに手を振った。
「遠見さん、石動は?」
「終わったから、自分の家に帰るって」
「帰った? 石動が?」
「うん。だから、ほら、善郎くん、二人で帰ろ」
遠見は微笑んでいる。闇夜の中、明かりで白く映る手が、ぼくの腕を絡み取ろうとした。その手首には傷はない。石動のものとは違う、人の色がはっきりと表れている手だと思った。
ぼくは遠見が掴んできた手を振り払った。遠見は驚いた表情でぼくを見ている。
「悪いけど、ぼくはまだ用事があるから」
「えっ。な、なんで……」
「石動が終わったことを伝えずに一人で帰るわけがない」
「だから、それはわたしが」
「あの子は、人を頼らない。――遠見さん、鍵を返してくれ」
遠見は胸元で拳を抱えて、息苦しさに耐えるようにぼくから一歩離れた。ぼくらの間にある強い光から逃げたようにも見えた。
「――必要、ないよ。善郎くんは……帰るんだから」
「ぼくは帰らない。返してくれ」
「いらないよ」
「ぼくはいるんだ」
大きく呼吸をして、遠見はぼくを見た。いつもと違ってその顔は笑っていなかった。以前、どこかで見た覚えのある表情のような気はしたが、記憶の隅にも残っていなかったので思い出そうとするのをやめた。
目元に募っていた雫が溢れて遠見の頬を伝う。特に何の感慨も持たなかった。
「……わたし、わたしじゃ、だめなの……?」
「いいから、渡してくれ」
遠見は、震えながらも手のひらを開いた。そこには古びた銅色の鍵があった。
ぼくはそれを受け取る。遠見はぼくを煽るように見ていた。ぼくは見返さずに背を向けた。
最後に、「ああ、それと」とぼくは去り際に告げる。
「……叔父さんには、先に帰るように言っておいてくれ」
呆然とする遠見を背に、ぼくは井戸へと向かう道へ入る。遠見の明かりの範囲から足を出す。山の中を巣食っている夜に、ぼくの足は沈んでいく。
「なんで」と呟く遠見の声を、ぼくは聞かなかった。
閉じられていた錠を開ける。鎖をほどく。蓋を開ける。井戸の中を懐中電灯で照らすと、中に蹲る少女の姿が見えた。ぼくはその横に梯子を下ろした。
「石動!」
下の少女からは返答はない。身動きすら取らない。
「おい石動!」
反応のない少女に痺れを切らし、ぼくは梯子を下りる。爪先が時折石垣のぬめりを擦る。気を少しでも抜けば滑り落ちることは目に見えていた。下に近づくほど、彼女とはまた異なった異臭が鼻をついた。
足先を下に伸ばすと、柔らかな感触がした。水に浸ってほぐれた地面だろう。ぼくは暗澹の中、足場を確かめながら地に足をついた。
手元の明かりを石動に向ける。彼女は腕の中に顔を埋めていた。その横には首のなくなった彼女の姿が見えた。周囲に目を凝らすと、石動の足元の水面の中に球体が沈んでいる。黒い髪が、海藻のように揺れている。しばし、ぼくは呆然とそれを見ていた。
「……石動」
「馬鹿ですね」
「人が助けに来たのにとんだ言い草だな……」
息苦しくなったのだろうか、石動は目元を腕から出した。
「それは、ありがとうございます」
「……なあ、彼女は……」
「……すみません。私が落ちた時に、ぶつかって……」
「……いや、いいよ。どうせいつかはこうなった。……早くなっただけだ」
ぼくは石動の隣に座る。決して気分の良いものではない冷たさが繊維の間を潜って臀部を濡らした。石動は何も言わなかった。
ぼくは彼女には触れなかった。事実を直視したくなかった。目を逸らすようにして、じっと正面の石垣を見上げた。石垣の隙間から、滴が底に零れた。
「私、捨て子なんです」
ぽつりと、石動が言った。ぼくは応えなかった。
「この井戸のそばに捨てられていたそうです。養父が見つけてくれて、それで今の家で育てられたんです。でも、四つの頃に養父が亡くなって、それから私への風当たりが強くなりました」
「……それで、さっきみたいな対応が?」
「はい。でも、あの人はまだ優しいです。他の兄弟の度が過ぎると宥めてくれます」
時折、水が滴る音が井戸の中を揺らした。
「血のつながりもないくせに養父が与えてくれた遺産を持つ私を、兄弟は煩わしく思っています。……正直、私には養父がなぜ私に遺産を与えたのかわかりません。その遺産すら、今の私には何の所有権もありません。私は家にとって邪魔な存在なんです」
邪魔な存在、という言葉が頭の隅で引っかかった。
不思議と、既視感があった。過去に、誰かが似たようなことを言っていた。誰だったろうか。邪魔だと言われていた誰かは、誰だったろう。
―― 善郎、よかった、お前がいてくれて ――
母が、抱きしめてくれたのだ。遠くに、幸慈がいた。地面には赤い水たまりが滴っていた。すぐそばには壁にぶつかって潰れた車があった。誰の血だったろう。誰が、倒れていたのだろう。ぼくか、幸慈か、いや、そんなわけがない。
―― 邪魔だって、言われたの ――
誰が、邪魔だと言われたのだろう。
「え、なんだって?」
「大丈夫ですか? おじさんと仲が悪いのかと訊きました」
「ああ…………そんなこと、初めて言われたよ」
「だって、善郎さん、少しも笑っていなかったじゃないですか」
ぼくは苦笑した。返す言葉が思いつかなかった。
少しばかり、ぼくと石動の間で沈黙が漂った。井戸の外では木々が揺れて、緑のさざめきが起こっている。
静けさに耐えきれなくなったのだろうか、石動が立ち上がった。
「変な話をお聞かせしました。ありがとうございました」
「いや、いい。帰るのか?」
「はい。足もだいぶ楽になりました。それに、私の家はあそこですから……。……善郎さんは帰らないんですか?」
「ぼくは、もう少し残るよ」
「ではお先に失礼します」と言って、石動は梯子を軋ませて上っていった。
石動の影のなくなった井戸の空を見上げて、ぼくは一息を吐いた。ちょうど月が真上に昇っていた。初めて彼女に会ったように、眩しく、それはぼくらを照らしている。
暗い井戸の底で、ぼくと彼女は二人だけだった。
「仲が悪い、か……」
叔父が嫌いだと、事実を言ったらあの少女は何と応えただろう。
きっと予想通りだと感慨もなさげに頷いただろう。幸慈もそうだった。
――そう言えるお兄ちゃんはずるいよ。
ずるいのはぼくではなく叔父だ。幸慈はそれがわかっていないのだ。
――お兄ちゃんは自分しか見えてないんだね。
何も見ようとせずに逃げているのは叔父ではないか。
ぼくは違う。ぼくは、ぼくは自分しか見せられなかった。ぼくに愛を見せてくれたのは〝彼女〟だけだ。他の誰もがぼくに与えたのは目隠しの布だけなのだ。
何も渡さず、何も見せず、理解してもらおうと考えるお前たちこそが己しか見えていないのではないか。
そうだ、ぼくは幸慈とは違う。幸慈は与えてもらっていた。ぼくとは違って言葉をかけてもらっていた。ぼくは、幸慈とは違って他を見る力すら与えられなかった。
ぼくにこの立場を押しつけたのだって幸慈だ。ぼくばかりに日常を押しつけたじゃないか。逃げてばかりいるのはお前たちだ。
だが、ぼくは妹を憎むことなどできはしないのだ。彼女はぼくの半身に違いないのだから。
「先生、先生はどう思う。ぼくは、笑えなかったかな」
彼女は答えない。返事をするための声を持っていないからだ。
「ぼくは、ぼくはおかしくないよね、先生。だって、こんなにも愛してる。こんなにもあなたを愛せてる。だっていうのに、愛は最も尊くて綺麗なものなのに、あなたを愛することのなにがおかしいんだろう。こんなにも綺麗な思いなのに、おかしいわけがないんだ」
目の前が霞む。井戸に溜まった黒い雫がぼくの瞳から零れ落ちる。
「ねえ、先生。ぼくを抱きしめて。もう一度ぼくを抱きしめて。愛を感じさせて。ぼくはあなたを愛したんだって、愛せたんだって、もう一度教えてよ。頼むよ、ぼくは、ぼくはもう愛を失いたくないんだ。また色のない世界になる。色鮮やかだった日常が白黒になる。先生、ぼくは、人間としていきたいんだ……ここにいるってことを、教えてよ……お願いだよ、先生……」
足元からすべて崩れ落ちてしまいそうだった。
井戸の底の底で、ぼくは沈んでいく。見えないどこかにぼくは呆然と立っている。
彼女は何も言わない。何も口にできない。それもそうだ。彼女の首はその美しい肢体から落ちてしまった。
ぼくはそっと彼女の首を持ち上げた。髪の中に指を潜らせれば、蜘蛛の糸に似たものが絡みつく。頬に触れれば爛れた肉の感触がわかる。
彼女はもういない。彼女は、もうぼくを愛せない。
ぼくは、そっと彼女の唇だった場所に触れる。最後の口付けだった。
「さよなら、先生」
ぼくは、初めて愛する人と別れる苦しみを胸に刻んだ。
三章はこれにて終了です。




