3-2
「井戸?」
足を揺らしていた遠見が、その動きを止める。石動と遠見がベンチに隣り合って座っている。だが、その距離は人二人が無理すれば入り込めるほどだ。
石動はその言葉に頷いた。
「はい、私の家に古い枯れ井戸があります。そこなら誰も見ませんし、手をつけようともしません」
「万が一、見られるってことはないの?」
「そもそも、今では私以外は知らない場所です。問題はないと確信できます」
「善郎くんはそれでいいの?」
「石動が問題ないと言っているなら問題ないんだろう」
「……信頼してるんだね」
「信頼というより、石動は確信のないことをわざわざ確信と言う人間じゃない。言い繕うにしてもそれが下手だ。だから問題がない」
一ヶ月にも満たない期間だが、それだけわかりやすい少女なだけにこちらの把握も早い。
遠見は微笑んでいた。石動とも違う、健康的な色を持った指を髪に絡ませている。それに対して、石動は居心地が悪そうに肩を狭めた。やはり、予想通り石動は遠見聖子が苦手なようだった。
面倒だ。静かな〝彼女〟に会いたくなる。彼女は誰にも干渉しないし、何より静かだ。だが、今は会えない。それは鋭い傷となってぼくを蝕む。
「――それで、石動、叔父さんにはもう話したか?」
石動は目を見開いて必死に首を振った。その姿は、さながら壊れた機械人形のようだ。
「わ、私は、初めから無理だと言いました」
「それでよくぼくに啖呵切ったもんだな……いいよ。お前は頑張った。彼女は? 渡したもの使ったか? ちゃんと冷やしておいたか?」
「言われたとおりに」
「よし、なら大丈夫だな。今から行くぞ」
「わか――」
「どこへ行くの?」
頷いた石動の言葉を遮り、遠見が立ち上がって疑問を投げた。ぼくは翻しかけた足を戻す。
視界の端でそそくさと公園の出口へ向かう石動の姿が見えた。
「ぼくの家だよ」
彼女を安全な場所へ連れて行くんだ、と言ったぼくに、遠見聖子はきょとんとした顔を見せた。
赤く滲んだ空に二羽のツバメが横切った。地面に突き立っている細長い棒の頭に、番と思われる彼らが足を止める。その背は家の屋根を越えており、白い体には三匹の魚が釣られている。鯉のぼりの時期にはまだ早い。気の早い父親が飾ったのだろう。
遠見聖子は嬉々とした足運びでぼくの隣を歩いている。後ろにはどうでもよさそうに正面から顔を背ける石動の姿がある。その目は先ほど鯉のぼりのポールの天辺に集っていた二羽のツバメに向かっている。
「善郎くんのお家に行くの、わたし初めてだな」
「呼んだことがないからね」
「うん。だから嬉しいよ」
遠見は貼り付いているのではないかとさえ思える笑みをずっと浮かべている。その表情に心を許す人間は多いだろう。目が合えば笑い返す。そうやって相手の心を掌握している。やはり、扱いづらい女だ。
ぼくには、笑わない石動のほうがまだ愛嬌があるように思えた。
「母さんたちはこのことを一切知らない。あまり口に出さないようにね。何かしら訊かれたら、ぼくと石動が対応するから、遠見さんは黙ってて。彼女のことを少しでも感づかれたら困る」
「……さっきから思ってたのだけど。その、彼女って誰のこと?」
「彼女は泉先生だ」
だが、泉瞳教諭とはまた異なる。彼女は彼女であって誰でもない。誰にも理解されないだろう。しかしそれでいい。ぼくだけが受けられる愛だ。ぼく以外は知らなくていい。
「……善郎くんは、泉先生が好きだったよね。だから、死んでも好きになれたの?」
少し驚いた。遠見聖子は秘められていたぼくの思いに気づいていたらしい。
「……わからない。ただ、泉先生に抱いていた思いが彼女変わったことでようやく満ち足りたような感覚になった。以前のぼくには何もない。空っぽだったんだ。だけど彼女がぼくに愛を教えてくれた。それは、ぼくにとって酸素だった」
「それは、死んでなきゃだめだったのかな」
「死んでいることで彼女になるというのなら、そうなんだろう」
それでも少し確信できることがある。ぼくは彼女でなければだめなのだ。例え、幸慈が死体になろうと、今隣を歩く遠見聖子が死体となろうと、ぼくはここまでの高揚は得られなかっただろう。彼女が彼女であるからこそ、ぼくは愛することができたのだ。
しかし、もしを考える。彼女がいなくなった後の代わりはいるのか。
石動はどうだろう。石動はぼくを愛してくれるだろうか。彼女の代わりになってくれるだろうか。
その思考はすぐに打ち消した。彼女に代わりなどいるわけがない。彼女は彼女しかいないのだ。彼女がぼくだけを愛してくれるように、ぼくには彼女を愛するしかない。そうでなければ、ぼくにとって彼女は薄い存在となり、抱きしめることのできない存在となってしまう。それだけはあってはならない。
家の前に辿り着くと、ぼくは彼女たちに外で待っているように言ってから中に入った。
ひょっこりと三和土に向かって顔を出したのは幸慈だ。
「お、今日は帰り早かったね。夜遊びお兄ちゃん」
「誰が夜遊び兄だ。叔父さんいる? 用があるんだけど」
「だぁって四月に入ってから深夜徘徊してるじゃん。叔父さんなら外で買出しでもしてるんじゃない? 車あるし」
「そうか。どれくらいに帰ってくるかわかる?」
「んー、叔父さんのことだし、コンビニだとは思うからそんなにかかんないと思うよ」
「わかった。ありがとう」
「お礼は美味しい美味しいアイスをご所望です。深夜徘徊も黙ってることも込みで」
「はいはいわかった」
妹の願いを背に、ぼくはまた外へと足を踏み出す。
塀の外で待っているはずの二人は見覚えのある何者かに絡まれていた。つい今しがた話題に出ていたぼくたちの探し人その人である。話しかけられている石動はしどろもどろに対話している。以前から何となく感じていたが、もしかしたら大人の男が苦手なのかもしれない。これは悪いことをした。
「叔父さん、困ってるよ」
「おお! 善郎帰ったか! けどなあ、二股はよくねえぞ! しかもこんな可愛い子を二人もだなんてなぁ」
勘違いも甚だしい。
「違うよ。知り合い」
「ん? だけどこっちの子はこの前の子だろ?」
「確かにそうだけど、彼女だなんて一言も言ってないよ。いい加減自分の憶測だけで物を考える癖直しなよ」
「いやあ悪い悪い」
まったく悪気のない様子で叔父は頭を掻いた。こういった姿に、誰もが愛嬌を感じるのだろうか。
「でもよ、昼間にこの子が何か聞きたそうに何回かこっち見てたのよ。話しかけようと思ったら逃げられちまってさ。気になるだろ?」
その言葉に、石動を見ると同時に目を逸らされた。素知らぬ顔である。
確かに、彼女なりに努力はしていたようだ。その結果は出なかったが。
「そのことなんだけど、叔父さんに頼みがあるんだ。ここらで大荷物買ったんだけど、この子の家遠くてさ。叔父さんの車で運んでくれない?」
この子、と言ってぼくは石動に目をやる。
「別にいいが、今からか?」
「ううん、明日でいいよ。郵送にしても個人的なものらしいからあんまり家族に知られたくないんだって。送ってくれるだけでいいから。他にも用事あるし、歩いて帰る」
「そうか? 待っててやるから帰りも任せてもらっていいぞ?」
「いい。けっこうかかると思うから」
それだけ聞くと叔父は快諾した。本人が奔放なぶん、こういったことに抵抗がないのが叔父の扱いやすい点の一つだ。
「あの、その、すみません。色々迷惑かけて……」
石動が申し訳なさそうに叔父に頭を下げる。しおしおとした姿はいつもの少女からは想像ができないものだ。叔父の手が石動の頭に置かれる。その拍子に少女の細い肩が跳ねた。叔父は気にせずに石動の頭を数回撫でる。
「子どもは大人に迷惑かけときな。申し訳ないなんて思わなくっていい。大人は子どもが迷惑をかけてくれるのを期待してんだ」
石動は顔を伏せたまま、黙って頭を撫でられていた。絹糸に似た長い黒髪に隠れて、その表情は見えない。もしかしたら恐怖で身動きができないのかもしれない。ぼくは叔父の手を石動から引き離すことにした。
「叔父さん、セクハラは禁止だよ」
「はははっ。ばれちまったか! 若い女の子ってのはこう、なんつーか見るだけでこっちが元気出るねえ!」
「うちには幸慈がいるってのになに言ってんのさ」
「ん、あー……幸慈はなぁ」
苦笑いする叔父からは返答に困る様子が見られた。幸慈が聞けば、今すぐにでも殴りこんできそうな会話である。ぼくはこの後の動きもあることだし、早々に話を切り上げることに決めた。
「それじゃあ彼女の荷物の整理しておくから、叔父さんは明日の準備だけしておいて。よろしく」
「おう、気をつけてな」
ぼくらは途中、ホームセンターでガムテープ等々の用品を買ってから以前彼女を潜めておいたあの神社へと向かった。
中に入ると、木板で作られたであろう木箱がある。人が丸くなれば入れるであろう大きさだ。触れると少しひんやりとした。中には彼女が入っているが、冷やされたおかげで少しは腐臭が和らいでいるようだった。ほんのりと花の香りもする。
「これは?」遠見が言う。
「少し前にぼくが作った木箱だよ。昔父さんに自由研究をするときに教えてもらったんだけど、役に立った。ただ、補強はただの板だから脆い。幸い彼女の肉が剥げてきてるからなんとかなってるけど、下から落ちる可能性もある。ちゃんと支えてくれ。……ところで中から花の匂いがするんだが、石動」
「どうでしょうか」
「確かに臭いを隠すにはいいかもしれないが、漏れてる腐臭と混じって……強い香水より酷いぞこれ」
「そうですか、妙案だと思ったんですが……」
石動は肩を落とした。ぼくは早速開け口を除いてガムテープで隙間を目張りする。これで少しは腐臭を防げるだろう。蓋を開けてみると、ドライアイスの煙がむっと湧き出た。彼女の肩までびっしりと敷き詰められた白い塊が、彼女に触れることを拒否するようにその乳白の手のひらでぼくの顔を叩いた。石動が素早くその蓋を閉じる。
「なにをするんです」
「……一目でも彼女に会いたくて」
「溶けるじゃないですか」
「入れたばかりだろ。ドライアイスはそう簡単に溶けない。というか石動、これは入れすぎだ。予備のものも入れただろう」
「……部分的に入れろと言われても、触りたくありません。どうせなら全身を被えば一緒かと、思って……」
「ぼくだって彼女をこんな苦しめるような状態にはしたくないんだ。できればもう少し彼女の顔を満足に触れられるようにしてくれ」
ぼくは今にも抱きしめたい気持ちを抑えながら、箱の上から彼女を撫でた。
正直言えば、ぼくは彼女を保存したいとは思わない。なぜなら彼女は生きている。生きて、呼吸している。彼女はぼくと同じ空間でいなければならない。例え、それが彼女の寿命を縮める行為だとしても、それはぼくが彼女と共に生きている証だ。だというのに、こうして冷やし、形だけでも保たせようとする行為は彼女への最大の侮辱だ。腐臭を防ぐためとはいえ、虫唾が走る行為だった。
「善郎くんは――」
遠見聖子が口にする。
「善郎くんは、本当にそれが大切なんだね」
〝それ〟と、遠見聖子は口走った。彼女は微笑んでいる。まるで、母のような笑みだ。だから、ぼくも笑って答える。
「ああ、当然だよ」
彼女は、ぼくのすべてなんだから。
明日の予定を話し合い、ぼくたちは自分たちの帰る場所へ戻った。遠見聖子とぼくは自分の家へ。石動は神社に残った。家に帰り、朝早くにぼくの家へ戻るには距離があるとのことだ。彼女は手持ちの毛布を手に持って「それじゃまた」と口にした。
少し、羨ましい。石動は彼女と夜を共にできるのだ。だが、この夜彼女は寂しい思いをしないですむのだと考えると、それもまたほっとした。残り少ない時間、彼女には幸福でいて欲しい。それがぼくが渡せる彼女への愛だから。




