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死体と死に体のぼく  作者: 秋花
プロローグ 思い人
1/29

0-1

 空が青いかと訊けば、誰もが(うん)と頷くだろう。


 ぼくの世界は、いつでもその色をありのままに鮮やかに映し出している。窓際で外を眺めているぼくの視界の中で、日に当たった鳥が宙を滑走した。空は鳥が支配していると言われれば納得できる安定感を以て、彼らはベランダの陰へと沈んでいく。


 しかし、青を浮かせた空には人間の侵略が進んでいる。青はその色を保つことが難しくなっていき、空の民が満足に歩く場所すら少なくなっている。

 これを悲劇と見るか喜劇と見るかは他の人間の役割だ。ぼくはただ眺めているだけの人間だった。


「────」


 心臓が跳ねた。それは驚きでもあったのだけれど、別のものも含まれている。問題は声の主にあった。

 顔を正面に向かせれば、そこには憂いた瞳で教科書を朗読する女教諭の姿が見えた。開いた窓から忍び込んできた小さな風の妖精が、彼女の漆の髪をかきあげる。

 ──女の軟らかな香りがした。

 鼻先から流れ込んできたそれが胸中で渦を巻く。

 彼女の全てがぼくの心の臓を掬い取って締め付ける。


 一つ、告白をしよう。

 いや、懺悔と謂っても過言ではないだろう。それは告解であった。

 ぼくは──恋をしていた。





 それは幼児のお遊戯に似ている。

 笑顔に惹かれた――素直に褒められた――いつの間にか好きになっていた――そんな些細なきっかけが積み重なってぼくは彼女を見つめるようになった。

 これは恋なのだろう。そう理解するのに時間はかからなかった。

 禁忌を犯していることも把握していた。

 だが、何かが足りなかった。

 言葉を交わせば、その日は一日有頂天になる。笑顔を向けてもらえば羞恥に俯く。世間一般で広がっている恋模様そのものだ。


 だが、ぼくの中でいつも空虚があった。

 彼女をモノにしたい欲がない。求める思いがない。ただ、目の前の恋慕に夢中になっているぼくがいる中、それを達観した目で見つめるぼくが頭の中で佇んでいる。

 もしかしたら、ぼくは先生に恋をしているわけではないのかもしれない。

 なら、ぼくは、いったい何に恋をしているのだろう。




 朝食を口にしていると、妹の幸慈(ゆきじ)が正面の席に座った。

 妹は妹でも双子であるため、歳に相違ない。一卵性双生児である彼女は、ぼくと瓜二つの顔を持っている。また、母と似た垂れた目元も同様だ。

 視界の端で幸慈の姿を視認すると、彼女の口端が緩んでいたのが見えた。


「幸慈、何かいいことでもあったの?」

「んー、そう見えちゃった? お父さんが今度一緒にデートに連れて行ってくれるって言ってくれたの。だから嬉しくって」


 香ばしく焼かれた卵が彼女に咀嚼されていく。

 熟れた林檎のような赤に、鳥の体内でできたそれが飲み込まれる。


「いつ行くの?」

「んーっとね。秘密。お兄ちゃんすぐにお母さんに言うでしょ。だから秘密」

「そうかな?」

「そうだよ。お兄ちゃん、お母さん大好きだもん」

「幸慈だってそうだろ。父さんっ子のくせに人のこと言えない」

「私はチクリ魔じゃないですー」

「はいはい」


 行き先のない会話を淡々と続けて、ぼくは先に席を立った。

 食器を流しに持っていくと、弁当の用意をしてくれていた母がありがとうと口にしてくれた。

 母は綺麗だ。それは歳をとっても変わらない。母はぼくが幼い頃から美しかった。

 手渡された弁当を鞄に入れ、ぼくは依然と食事を続ける幸慈の姿を横目に居間を出た。

 いつもの朝の風景だった。


 学校の帰り道のことだった。一人の少女に会った。

 少女は背中で途切れた髪を垂らしている。まず最初に目に入って思ったのは、先生に似て綺麗な黒髪だということだ。しっとりと濡れた髪に、散り際の桜の花びらが悪戯心を射して乗りかかる。

 彼女は乾いた黒色の制服に身を包んでいた。安物の素材でできただろうその服に、彼女の見事な緑髪は浮いている。

 見つめる先はぼくの高校の校舎だった。

 知り合いを待っているのだろうか。他校からにしては見覚えのない制服だ。


「どうしたの?」


 何を思ったのか、ぼくは少女に声をかけていた。

 見ていられなかったのかもしれない。もしかしたら、彼女の知り合いが帰ってしまった可能性だってある。しかし、そんな単純な善意ではないような気がするのだ。彼女は誰かに似ていた。今ではその形はおぼろげだが、ぼくの知っている誰かに彼女は似ている。

 黒耀の瞳がぼくに視点を定めた。正面から覗くとよくわかる。彼女は整った顔立ちをしている。笑えば映えるだろう目鼻立ちだ。だが、ぼくには少女の顔に花が咲くことを想定することはできなかった。光を受け付けないその瞳が、ぼくをじっと見つめていたからだろうか。


「……少し、忘れ物を」


 少女の顔形が花ならば、その声もまた消え入りそうな可憐さを持っていた。


「ここの生徒でもないのに?」

「兄が……」


 帰ってきた言葉から考えるに、少女の兄が学校内に忘れ物をしてしまったから、妹がその尻拭いをしているといったところか。幸慈とぼくとでは考えられないことだ。彼女は自分の物にぼくが触れるのを酷く嫌う。


「ふぅん。ぼくが取ってきてあげようか? 名前は?」

「いえ、もういいんです。――もう、見つけましたから」


 最後に、ぼくから目を逸らした彼女はその場から立ち去った。

 一言二言しか話していない少女だ。だが、どこかその存在が晴れぬ霧のようにぼくの中に漂っていた。


 家が近くなると、今度はぼくが惹かれているあの女教諭を見かけた。

 ――今日は不思議な日だ。気になる女の人に二人も会った。

 先生はスーパーからの帰りらしく、右手にはビニール袋がある。中身は少ないのか、ぼんやりと色が透けて見えた。それは白い袋に反して茶色い。木ベラだろうか。

 話しかけるかを悩んでいると、彼女は無言でぼくの横を通り過ぎた。一瞥すらしなかった。

 気づかなかったのだろうか。そういえば日も沈んでおり、夜も暗い。横を通る人間の顔など、そこまで注視するわけでもない。そう考えて、ぼくは遠ざかっていく背中からを視線を正面に戻した。


 ――まあ、でもなにより。


 好きな(ヒト)が自分の家の近くに居を構えていると知れば、それは嬉しいにこしたことはないのである。





 家に辿り着くと、居間には洗濯物を畳んでいる幸慈の姿があった。

 母の姿を見かけなかったので居所を尋ねると、「買い物」と簡潔な答えが返ってきた。冷蔵庫の中身を調べてみると、確かに空に等しい。ぼくは母が帰宅してくるまで部屋に篭ることにした。

 一刻ほど経った頃だろうか、母が帰ってきた。

 夕食の用意を手伝うために下に降りる。台所は幸慈と母の仕事場と化している。ぼくが入れば一杯一杯となることだろう。ぼくは人数分の食器を出すのみで、それ以上の仕事は担わなかった。

 出来上がるまでの間、テレビを見ていると母から声がかかった。申し訳なさそうな声だった。


「善郎、洗剤がなくなっちゃったからちょっと買いに出てくれないかしら。母さん買い忘れちゃったの」

「いいよ。いつものでいい?」

「ええ、いいわ。ごめんなさいね」


 母から少しばかりの代金を貰い、ぼくは家を出る。昼と打って変わって、冷たい風が服を嬲る。

 春も終わって、梅雨が近づいていた。そういえば、近々台風がくるらしい。休校になる可能性を考えて、それは嫌だなと苦笑した。愛しい人に会えなくなるのはいつだって寂しい。


 洗剤の他にも幾つかの携帯食料を調達すると、つい数刻前に先生とすれ違った道に出る。もしかしたら彼女も同じ場所を使用していたのかもしれない。そんな思考が過ぎると、次からは自分が買い物に行こうかとさえ思う。


 ――そういえば。


 家に向かおうとしていた足の動きが止まった。その先は幽鬼のような背中が去っていった方向を目指そうとしている。

 彼女の目指した先は、旧住宅地とは名ばかりの廃墟だ。合併した土地と、荒れ果てた土地の違いはあまりに大きく、旧住宅地の見直しをしようにも大規模な資金がかかるほどであった。


 そんな、閑散とした地に、彼女はその足を進めていた。

 彼女は、いったいどこへ向かおうとしていたのだろう。

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