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R市市警事件目録

R市市警事件目録 歌姫

作者: 手羽 サキチ

この小説はフィクションです。この小説に登場する人物および団体の名称はすべて架空のものです。


この小説はR―15とさせていただきます。


挿絵(By みてみん)

1月××日

時刻は6時30分。R市の中心街から少し道を外れた裏通りには飲食店が軒を連ねている。シズカはその道を歩いていた。シズカはR市市警に勤める警察官であり、去年の春から刑事課に所属している新人刑事だ。今日は久々の非番で友人のエリーに会いに行く。エリーはシズカが交通課に所属していた時の同期の同僚だ。シズカは一軒の居酒屋の前で足を止め、ハツヤと書かれた赤いのれんをくぐった。店内はちらほらと客の姿が見える。カウンター席の向こうの厨房からは肉を焼いたおいしそうな匂いの湯気が漂っている。畳の席に座っていた栗色の髪の女性がシズカを見つけ手を振った。エリーだ。シズカは手を振り返し、低いテーブルを挟んでエリーの向かい側に座った。

「エリー、この間は急に行けなくなってドタキャンしてごめんね。」

シズカは両手を合わせた。

「いいって、それにしても非番が重なる日があってよかったわ。そっちは交通課よりも不規則でしょ。」

「ここ最近は事件も無いから休みがもらえたの。」

「良かったね。この間おとり捜査で会った時もシズカ顔色悪かったから馬車馬のように働かされてるんじゃないかって心配してたのよ。」

「馬車場って…私は馬じゃないよ。」

シズカが所属する刑事課の班が担当した連続婦女殺害事件の捜査の一環で行った婦警によるおとり捜査に交通課勤務のエリーも参加したのだ。事件は今月の11日に犯人の逮捕により収束した。エリーはまずは何か食べよう、と言いメニュー表を広げた。店員の手描きのメニュー表は色とりどりのマーカーペンで焼き鳥などの絵が上手に描かれ、ラミネートでコーティングされている。エリーは軟骨揚げ一皿とビールをシズカは焼き鳥一皿とノンアルコールのビールを頼んだ。シズカはアルコールに弱く、大学生の時に友人と居酒屋でビールを飲んで一晩記憶を失った経験がある。朝起きた時には友人の家のトイレで眠っていた。それ以降酒類はあまり飲まないように心がけている。しばらくすると店員の女性が料理をテーブルに運んだ。

エリーはビールのジョッキを持ち上げた。

「それじゃあひさびさの市警女子会に乾杯!」

「うん。乾杯!」

シズカもジョッキを持ち上げ、合わせた。ジョッキがかち合い、ガラスの音が鳴る。シズカはビールに口を付けた。エリーはおいしい、と言いにっこりと笑った。それからシズカとエリーはお互いの近況報告をした。シズカとエリーはシズカが四月に交通課から刑事課に異動して以来じっくり話す機会が一度も無かったので話が弾んだ。

「この間のおとり捜査でエリー、レオン先輩と一緒になったでしょ。レオン先輩エリーのことかなり美人だって褒めてたよ。」

レオンはシズカの刑事課の同僚だ。エリーはうーん、と唸った。

「あの垂れ目の人でしょ。背は高いしスタイルも良い方だけどねえ。なんか軽くない?ヘラヘラしてるっていうか。本音で話さないタイプでしょ。」

「ああ、確かにそうかも。」

シズカは笑った。エリーは人を見ていないようでよく見ているとシズカは感心した。確かにレオンは中々自分の本心を明かさない部分がある。

「シズカはいい人居ないの?」

「私は…そうだなあ。あんまり今は興味ないかな。仕事覚えるので精一杯だよ。」

「シズカって本当に朴念仁よね。そのうち俗世捨てて仙人になる気?」

シズカはエリーの言葉のセンスに思わず吹き出してしまった。語彙が豊富なエリーの話はいつもおもしろい。店内に設置されたテレビには歌番組が流れ、桃色がかった茶髪の長い髪の毛の高校生くらいの女の子がマイクを両手で持って歌っていた。年シズカはその歌手を初めて見た。店内の人々はその画面を眺め、歌に耳を傾けていた。きれいな歌声だとシズカは思った。

「ねえ、あの女の子誰?エリー知ってる?」

エリーは目を丸くした。エリーの大きな瞳がさらに大きく見える。

「アルミナよ。シズカ知らないの?1年前くらいにデビューした歌手。なんとR市市長の娘なのよ。びっくりでしょ。R市を中心に活動してて、歌姫って呼ばれてるのよ。」

「へえ。そうなんだ。知らなかった。」

テレビ画面の中ではアルミナが青い光の中で歌い続けていた。テレビからアルミナの澄んだ歌声が流れていた。


2月2日

レオンが出勤すると同期の刑事のジャックが声を掛けてきた。

「レオン、リチャード警部が第二会議室に来るようにと言っていた。」

「分かった。ありがとう。」

レオンはラッセルに礼を言うと廊下に出ると第二会議室に向かった。ドアをノックして開けると会議室にはリチャード警部とシズカが立っていた。

「二人揃ったから用件を話そう。」

シズカはポケットからメモ用紙を取り出している。

「まず単刀直入に言う。君たち二人に歌手のアルミナを一週間護衛してほしい。」

レオンは驚いた。シズカもボールペンとメモ帳を持ったまま戸惑いの表情を浮かべていた。

「まずアルミナの父親から昨日警察に被害届が提出された。被害はアルミナを3日以内に殺すという脅迫文がアルミナ宛に送られたというものだ。」

アルミナは半年前にデビューした歌手だ。芸能人ならば脅迫文や嫌がらせの手紙が届くことはそう珍しくないはずだ。

「警部、殺害予告を送ることは間違いなく脅迫罪です。しかし脅迫文だけで警察官が一人の市民を護衛するというのは異例だと思います。R市には他にもストーカー被害などで脅迫を受けている人も大勢います。現状では被害者全員をケアすることは難しいです。」

シズカは訝しがるように話した。リチャード警部はシズカの言葉に頷いた。

「本音を言えば私もシズカに同感だ。レオンも同じことを考えているだろう。」

リチャード警部ははあ、とため息をついた。いつも冷静なリチャード警部が感情を顕わにすることは珍しい。

「警部、何かのっぴきならない理由があるんですか?」

レオンは尋ねた。

「アルミナの父親はR市の現職の市長だ。被害届を受理した婦警の話によると芸能活動を始めて間もない娘に脅迫文が届いて市長は気が動転していたようだ。それで被害届だけでは安心できず直接市警長を呼んで娘を守るように頼んだらしい。市警長はR市市長の頼みとあっては断れず、刑事二人を護衛に付けると約束してしまったそうだ。ちょうど刑事課の他の班は別件の事件を追っていて忙しい。うちの班は昨日連続強盗犯を確保したばかりで手は空いている。そこでうちの班に白羽の矢が立った。」

リチャード警部はまたため息をついた。

「私も反対したのだが市警長の命令で断れなかった。君たち二人には申し訳ないと思うが3日の間アルミナの警護の任に就いてほしい。」

「シズカ、納得できないのは俺も警部も一緒だ。だけど上の命令には従うしかないよ。」

レオンはシズカの背中を叩いた。シズカは前を向いた。表情は明るい。どうやら肚を決めたようだ。

「分かりました。一週間アルミナさんをお守りします。」

「よろしく頼む。10時にアルミナとこの会議室で待ち合わせている。それまで各自の机で待機してくれ。」

シズカとレオンは了解、と返事をして会議室を後にした。リチャード警部は刑事部長に用時があると言って反対方向に歩いて行った。

「リチャード警部も大変ですね。上と下に挟まれて。」

「ああ、中間管理職は大変だよ。俺はひっくり返っても真似できない。それにしても失敗した。」

「失敗?」

「俺、前の市長選今の市長に投票したんだよ。公私混同するとんでもない親バカだな。次の市長選は絶対あのおじさんには入れない。」

「…実は私も今の市長に投票しました。失敗ですね。」

シズカはふう、とため息をついた。刑事課の一室に戻るとフィリップが歩いてきた。

「レオン先輩、あの有名歌手のアルミナの警護するって本当ですか?」

「お前随分耳が早いな。」

「スパイク先輩がうっかり話したんですよ。」

リチャード警部の右腕であるスパイクはリチャード警部から話を聞いていたのだろう。真面目で嘘をつくのが下手なスパイクは何かの拍子に話してしまったのだろう。通りかかったスパイクが持っていたファイルでフィリップの頭を叩いた。

「フィリップ、余計な事は言わなくていい。」

フィリップは頭を抑えた。

「いいなあ。先輩俺と替わってくださいよ。」

「やだね。シズカと替わってもらえよ。」

「シズカは婦警だから必要でしょ。アルミナちゃんは女の子だし。じゃあサインもらってきてください、俺の名前も入れて。」

フィリップはへらへらと笑った。レオンがもらえたらな、と言った。スパイクがファイルを机に置いてフィリップのダウンジャケットのフードを掴んだ。

「フィリップ、今から検事局に行くぞ。レオン、シズカ、つまらん事件に巻き込まれて災難だな。後のことは俺達に任せておけ。」

「はい、よろしくお願いします。」

シズカは返事をした。

「そんなこと言ってスパイク先輩アルミナのCD持ってるじゃないですか。車の中に。」

スパイクは黙ってフィリップを引きずるようにそのままずんずんと歩いて行った。10時まであと1時間ある。


シズカとレオンは会議室でアルミナを待った。時刻は10時を5分ばかり過ぎている。アルミナ護衛の仕事は納得することはできないが、シズカは尊敬するリチャード警部の指示であれば仕事を全うすると決意した。もう迷いはない。シズカが時計を見ていると突然ドアが開き、市長が入ってきた。市長は小太りで黒縁の眼鏡を掛けている。テレビで見た通りだとシズカは思った。その後ろにすらりとした細い体の桃色がかった栗毛をなびかせたアルミナが現れた。カジュアルな服装に大きな茶色のサングラスを掛けている。

「この度は娘の護衛を引き受けてくれてありがとうございます。」

市長は恭しくシズカとレオンに頭を下げた。シズカとレオンも立ち上がり、頭を下げた。レオンがどうぞお掛け下さいと促すと市長は椅子を引き座った。アルミナも椅子を引き座る。

「R市市警の刑事のレオンと申します。」

「シズカと申します。」

「ネーヴェと申します。R市の市長をしています。これが娘のアルミナです。」

アルミナはサングラスを取った。オリーブ色の大きな瞳が特徴的なきれいな女の子だと思った。

「パパ、やっぱり護衛なんていらないわ。脅迫状くらいで警察に頼むなんて大げさよ。」

「いや、この物騒な世の中だ。何があるかわからない。この刑事さんたちがお前を守ってくれる。ねえ、刑事さん。」

市長はレオンにすがりつくように話している。アルミナはため息をついてそっぽを向いている。少しわがままそうな少女だ。この間テレビで見たときよりも子どもっぽく幼いように感じた。

「まずは、アルミナさんに届いたという脅迫状を見せていただけますか?」

市長は鞄の中から1枚の紙を取り出した。その紙には文字が印刷されている。おそらくパソコンのワープロ機能で打ったものだろう。内容は、「3日以内に必ずお前を殺す。薄汚い桃色のカナリア。血祭に上げてやる。」と書かれていた。3日以内にお前を殺す。これは違和感の無い文だ。しかし薄汚い桃色のカナリア、という一文にシズカは違和感を覚えた。薄汚い桃色のカナリアという表現は桃色に髪を染めているアルミナの外見と歌姫と呼ばれていることからカナリアと表現しているのだろう。薄汚いという一つの分節には犯人のアルミナに対する憎しみが込められているように思えた。

「これが娘の家に届いていたのです。相手の住所も書いていませんでした。」

「アルミナさん、誰かに恨まれているとか、憎まれているとか、思い当たる節はないですか?」

シズカはアルミナの方を見て話しかけた。

「分からないわ。テレビにも出ているから大勢の人が私のことを知っている。だったらどこで恨みを買うかなんて私の知ったことじゃないわ。その位考えれば分かるでしょ。」

アルミナはふん、と横を向いた。守るという命令には従う必要がある。しかし相手を小馬鹿にしたような態度を取られるとシズカは少し腹が立った。警察も暇ではないのだ。親の顔を見てみたいと思ったがその父親はシズカの目の前で機嫌の悪いアルミナにおろおろしている。そんなシズカの気持ちを察したのだろうかレオンが話を切り出した。

「それではアルミナさん。本日から3日間あなたを護衛します。私たちは常に行動を共にします。よろしいですか?」

「…分かったわ。そうしないとパパが納得しないから。」

シズカはアルミナの言葉を聞いてレオンと自分は間違いなく、市長の親ばかに振り回されていると感じた。本人が護衛の必要が無いと主張しているのだ。シズカはアルミナの護衛を引き受けると決めた市警長を少し恨んだ。シズカの脳裏に市警長の顔が浮かぶ。だが、考え方を変えれば今の市警にはそれだけ余裕があるのともいえる。一か月前の連続婦女殺害事件が犯人の逮捕により収束したことで通り魔の影に怯えていた市民の安全な生活は戻りつつあった。特に凶悪な殺人事件や犯罪はここ数週間発生していない。

「刑事さんたち、娘を頼みます。では私は仕事があるので失礼いたします。」

「分かりました。後の事は我々にお任せください。」

レオンが返事をした。シズカも市長に頭を下げた。そう言うと市長は去って行った。部屋の外では秘書が市長を待っていた。部屋にはアルミナが残された。アルミナは自分のおもちゃのようなうさぎのキャラクターが描かれている腕時計を見て顔を上げた。

「それじゃあ30分後にA区のスタジオで新曲の録音があるから行かなくてはならないの。もう時間が無いわ。行きましょ。マネージャーが下の駐車場で待ってるの。」

「…はあ。」

シズカは間の抜けた返事をした。隣のレオンは頭を掻いていた。


レオンとシズカはアルミナと共に市警の屋外にある来客用駐車場に向かった。そこには一台の白いセダンが停まっていた。窓が開き、シズカと同年代くらいの女性が顔を出した。茶髪をポニーテールにまとめ、きれいに化粧をしている。

「アルミナ、そちらの二人が刑事さん?」

「ええ、そう。」

レオンとシズカはそれぞれ名乗った。

「私はミドリ。アルミナのマネージャーです。」

ミドリは笑った。切れ長の目が特徴的で耳に大きな銀の輪のピアスをしている。目立つ美人だ。シズカと正反対なタイプだと思うとレオンは少し笑いが込み上げて口元を押さえた。アルミナはドアを開け、助手席に座った。レオンとシズカは後部座席に座った。車内は余計な物が無く殺風景だ。ミドリは車を発進させた。車はA区の中心部を走っている。外の景色は高いビルが並び、葉の無い街路樹が続いていた。

「アルミナさんはおいくつなんですか?」

シズカが尋ねた。

「16よ。学校は行ってないわ。中卒だもん。」

アルミナの言い方には棘がある。

「いえ、そういうつもりで聞いたわけではないのですが。」

シズカはぎこちない笑みを浮かべた。先ほどからのアルミナの態度にシズカは困惑してるのだろう。感情を表面に出さまいと張り付いた作り笑いを浮かべている。

「アルミナ、そんな言い方ないでしょう。ごめんなさいね刑事さん。少し人見知りする子なんです。」

ミドリがまるで母親のように言った。シズカがいいえ、と言った。

「いやあ、アルミナさんはすごい人気ですね。うちの男臭い刑事連中の中もアルミナさんのファンがいるんですよ。後でサイン下さい。」

レオンは軽い調子で話した。

「私はアイドルじゃないわ。歌手よ。サインなんてしない。私の歌を聴いてくれる人がいる。それだけで十分よ。」

アルミナは鼻をつん、と上に向けた。どうやら気難しいが褒めれば言うことを聞いてくれそうな子だとレオンは思った。隣のシズカはアルミナの扱いが分からないのかまだぎこちなくにたにたと笑っている。その笑い顔が嘘くさく普段の真剣で馬鹿みたいに真面目なシズカのイメージとかけ離れたものだったのでレオンは笑いそうになった。


スタジオに着くとミドリはゲートで警備員に身分証を提示し、シズカとレオンが護衛の刑事であることを説明すると警備員はシズカとレオンに敬礼をした。シズカは警備員にあいさつをしてからゲートを通った。この場所では外部から不審者が侵入し、アルミナに危害を加える可能性は低いだろう。エレベーターを昇るシズカとレオンは見たことのない装置が並ぶ部屋に通された。アルミナは上着を脱いでワンピース姿になり、小部屋に入って行った。小部屋の様子はガラス窓から見える。部屋では2人の女性と3人の男性が右往左往していた。シズカとレオンが棒立ちになっていると髭の生えた中年男性が君たちは邪魔だから端にいるようにと注意した。するとミドリがすみませんと謝り、小さな丸椅子を二つ用意した。シズカとレオンはその椅子に座った。中ではアルミナが歌っているようだ。声は聞こえない。5人の人々は皆ヘッドフォンを着けている。おそらくアルミナの歌を聴いているのだろう。シズカとレオンは黙って収録が終わるのを待った。3分ほどすると先ほどの髭の生えた男性がOK!とマイクに向けて叫んだ。周りから拍手が起こった。アルミナが小部屋から出ると髭の男性がアルミナに近づいた。アルミナは歌って体力を消耗したのか少し汗ばんでいた。

「アルミナさん、今回のレコーディングも一発OK、文句なしだ。すごいねえ。おかげで皆早く帰れるよ。」

ヴェントはアルミナと握手した。

「ありがとうございますヴェントさん。」

アルミナは頭を下げた。アルミナが先程のシズカたちに対するつっけんどんな態度から一転して礼儀正しく振る舞っていたので猫をかぶるのが上手い子だとシズカは妙に感心した。ミドリが隣で一緒に礼をしている。シズカはとりあえず椅子から立ち上がった。隣であくびをしていたレオンの背中を軽くつつくとレオンも立ち上がった。皆が口々にアルミナを褒めている。シズカはアルミナの歌を聴いたわけではないからどういう顔をすればいいのか分からなかった。それからアルミナは大人たちにあいさつをすると駐車場に戻り、車に乗った。ミドリが再び運転席に乗り、シズカとレオンは後部座席に座った。

「アルミナさん、次はどちらに行かれるんですか?」

「次はショッピングに行くの。新しい服を買うの。」

アルミナは脅迫状が届き、自分を殺そうとしている人間に命を狙われているという事実を意にも介していないように見える。

「アルミナさん、あなたは今命を狙われています。必要がない外出は控えていただいた方がよろしいのではないですか?」

シズカは提案した。脅迫状が届いている以上外出することは危険だ。

「じゃああなた達は車の中で待ってていいわ。ちょっと行ってくるだけだから。気分転換したいの。」

「そういう訳にはいきませんよ。」

「じゃあ付いてきて。イヤなら帰っていいのよ。」

シズカは心の中でため息をついた。帰れるものならいますぐ市警本部に戻ってスパイク達の手伝いをしたいとシズカは思った。ミドリはごめんなさいね、と謝ると車を発進させた。


ピンクの色調の店内には可愛らしい服が並んでいた。サングラスを掛けたアルミナはハンガーに掛けられた服を体に当て、どの服を買うか迷っている。それを見てミドリがどの服が良いかアドバイスをしていた。レオンとシズカは二人の近くでただ立っていた。レオンの隣のシズカはもうアルミナのわがままに付き合うことに観念したのか棒立ちになっていた。ポニーテールの店員がシズカに近寄った。

「お客様、何をお探しですか?」

「いえ、私はこの二人の付き添いです。」

シズカはにこやかに断っている。黒いスーツの上に緑褐色のコートを羽織っているシズカの姿はこの店の華やいだ風景にそぐわない。

「それにしてもアルミナちゃんとミドリさん、姉妹みたいに仲がいいな。」

「ええ、そうですね。ミドリさんの前だとアルミナさんも聞き分けがいいみたい。」

レオンとシズカは小声で話した。アルミナが次々と服を体に当て、ミドリがこっちの服の方がいいと言う。その様子は姉妹か親子のように親密に見えた。

「うん、これにするわ。」

アルミナはレジに一着のワンピースを持って行ってピンク色の財布から自分で紙幣を出して支払を済ませている。レジの画面に表示された金額は10000円。ワンピースならこの価格は高いわけではない。アルミナは店のポイントカードにスタンプを押してもらっている。意外と年相応にかわいらしいところもあるとレオンは思った。「次はどちらに?お嬢さん。」

店を出るとレオンは軽い調子でアルミナに話しかけた。時計を見ると時刻は14時だ。

「私、お嬢様なんかじゃないわ。そうね、今日はこれでおしまい。家に戻るわ。」

「家というと市長のお宅ですか?」

シズカが尋ねた。

「いいえ。一人暮らしをしているの。マンションを借りているからそこに行くわ。今日はもう外には行かないから安心していいわよ。」

アルミナは自分の長い髪を指でくるくると巻いていた。


ミドリの運転する車は一軒のマンションの地下駐車場に入った。車から出てオートロックのエンタランスを通り、5階までエレベーターで昇った。アルミナは503号室の扉の前で足を止めた。

「ここがうち。本当は絶対男の人入れたくないんだけど、パパがどうしてもって言うから3日間だけ特別にあなたも泊まっていいわよ。」

アルミナはレオンを指さした。一人暮らしの家に男性を入れたくないという気持ちは無理もない。シズカにも理解できる。

「アルミナ、仕方ないでしょう。刑事さんたちはお父様の頼みでわざわざ来てくれているのだからそんなひどいこと言っちゃだめよ。」

ミドリがアルミナをたしなめた。アルミナはミドリに怒られてしょげている。

「いやあ、悪いね。じゃ、お言葉に甘えて。」

レオンは大げさに頭を掻いた。

「アルミナさん、3日間お世話になります。」

シズカは一応頭を下げた。アルミナは部屋の鍵を開けた。廊下を通りリビングに出た。ドアの数を見るとこの家は3LDKほどある。アルミナがシズカとレオンにピンク色のソファに座るように促した。低いテーブルの上には小さな花瓶には白い花びらの造花が差してあった。シズカとレオンがソファに腰を下ろすといつのまにかミドリが紅茶を淹れたトレイを持ってきた。ミドリは紅茶とクッキーを低いテーブルの上に置いた。アルミナは16歳と聞いた。おそらくマネージャーであるミドリが少し身の回りの世話をしているのだろう。アルミナはシズカとレオンの向かい側に座っている。レオンは紅茶のカップに口を付けていた。

「アルミナ、今日はまだ何も口に入れていないでしょ。お昼にしましょう。今何か作るわ。刑事さんたちも一緒に召し上がってください。」

「いえ、お気持ちはありがたいのですが警察官は関係者から金品を受け取ってはいけないことになっているので交替で何か買ってきますから大丈夫ですよ。」

刑事は捜査等で関係者と食事する時は自分の代金は必ず払うようにとリチャード警部が言っていた。関係者との金品のやり取りは原則として禁止されているのだ。

「いや、お言葉に甘えていただきます。ごめんなさいねえ。こいつ新人で頭が固いんですよ。」

レオンがシズカの言葉を遮りシズカの頭を軽くはたいた。ミドリはそれじゃあ5人分作るわね。と言うとキッチンに入って行った。アルミナは何か用事があったのか廊下の向こうに消えて行った。

「先輩、良いんですか?」

シズカは小声でレオンに話しかけた。

「ああ、このくらい警部も大目に見てくれるだろう。」

「確かにそうですね。」

「それに、このお茶飲んだか?うまいぞ。美人の手料理になんてなかなかありつけない。」

シズカはカップを取り紅茶を飲んだ。

「本当だ。おいしいです。それにしても何も変なことが起きませんね。」

「ああ。何もだ。脅迫状はただの狂言だったのかねえ。このまま3日間何も無ければ楽なんだが。」

シズカはそうですね、と返事をした。アルミナやミドリにも特別な緊張感は感じられなかった。やはり脅迫状はただのいたずらだったのだろうか。何も起きなければそれに越したことはない。しばらくするとアルミナが戻ってきてミドリがスパゲティの皿をテーブルに配膳した。ミートソースのスパゲティからは微かにトマトと焼けた挽肉の香りが合わさったおいしそうな匂いが漂っている。

「どうぞ、召し上がれ。」

ミドリはそう言ってにっこりと笑った。


食事を終えるとミドリは帰って行った。アルミナの家にはアルミナとシズカ、レオンが残された。オートロックのマンションでアルミナが襲撃される可能性は低いとレオンは思った。だが仕事を引き受けたからにはアルミナから目を離すわけにはいかない。リビングの大きなテレビ台に置かれたかわいらしいオレンジ色のデジタル時計の時刻は既に16時を回っていた。

「あなたたち今日からウチに泊まるんでしょう。私の家はたまにミドリとパパが泊まるから布団が2枚あるのよ。

だからそこで寝て。あなたは特別に私と一緒の部屋で寝ていいわよ。だけどおじさんはリビングで寝てね。」

「はい、アルミナお嬢様。布団敷くのがめんどくさいならソファでも床でも風呂場でも俺は寝れますよ。」

「だめ。ソファで寝られたらおじさんの加齢臭が移っちゃう。」

アルミナはきっぱりと断った。シズカは苦笑いをしていた。初めはいらいらしていたシズカも徐々にアルミナの性格が分かってきたのだろう。アルミナは少しわがままだが悪意のある子どもではない。


アルミナは部屋で電子ピアノを弾いていた。鍵盤からは穏やかな旋律が流れている。シズカは部屋の隅に座っている。一応アルミナが起きている内は彼女から目を離さないようにするとレオンと決めた。レオンはトイレに行くと言って近所のコンビニエンスストアに行った。おそらく一人暮らしの女の子の家でトイレを借りるのはさすがのレオンも遠慮したのだろう。この部屋はいままでの部屋とインテリアが違う。カーテンも水色一色で電子ピアノ一台とその近くにある楽譜などを入れた木目のカラーボックス以外の家具が見当たらなかった。アルミナは慎重に少しずつ音を変えて曲を弾いている。おそらく作曲しているのだろう。シズカはアルミナがてっきり父親の力でデビューしたアイドル歌手だと思っていた。だが、目の前のアルミナはピアノに向き合い、真剣に鍵盤を叩き、白い楽譜に鉛筆で何かを書き込んでいた。その様子はまるでキャンパスに絵を描く芸術家のようだ。シズカは自分の息遣いがアルミナの集中を邪魔しないか心配になるほどアルミナは真剣だった。伴奏が決まったのかアルミナは曲に合わせて歌を歌った。その声は澄んだ美しい声だった。

「…きれいな曲ですね。」

シズカはアルミナが歌い終わると声を掛けた。

「そう、ありがとう。」

アルミナはつん、と横を向いた。

「あなたどんな歌が好き?」

アルミナはシズカにそう尋ねた。

「うーん、歌はあまり聴きません。」

シズカはあまり歌を聴かない。携帯音楽プレイヤーも持っていない。強いて言えばクラシックは母親がよく掛けていた。

「何かあるでしょ。刑事ってそんな味気ない人生送ってるの?いくらいっぱい給料がもらえてもでもそんな寂しい人生送るならサラリーマンの方がいいわ。」

アルミナは呆れた表情を浮かべている。

「いえ、警察官全員がそういうわけじゃないですよ。私の性格です。」

「へえ、ねえ、何か歌ってよ。」

「ええ?」

シズカはアルミナが何を意図しているのか分からないまま中学校の校歌を口ずさんだ。それ以外に歌詞を全部歌える歌を思いつかなかった。アルミナはシズカの歌を聴くと再びピアノに向かった。そしてアルミナは鍵盤に指を置きピアノを弾いた。シズカは驚いた。アルミナの奏でる曲は中学校の校歌そのものだった。伴奏は少し異なるが紛れもなく同じ曲だ。弾き終えるとアルミナはにやりと笑った。

「どう?」

「すごいです。聴いただけで同じように弾けるなんて。」

アルミナはシズカにどうだ、と言った顔をした。その様子は特技を自慢する16歳のかわいらしい普通の少女だった。

「私はこれでも音感は良いの。一度聴けばそのまま再現できるわ。これでも今までリリースした曲は全部自分で一から作ってるの。ライブでは伴奏は他の人が弾いて私は歌に専念。ゴーストライラ―がいる、なんてネットでは言われてるみたいだけどね。」

アルミナの音楽の才能を目の当たりにしたシズカはアルミナの実力に感心した。

「へえ、いつから作曲を始めたんですか?」

「そうね、小学生の頃かな。その前から歌うことは好きだったし四歳からピアノは習ってたわ。」

アルミナはピアノの椅子から降りてシズカの隣に座った。ワンピースからアルミナの細い足が見えた。

「私には歌しかないの。小学校もロクに行ってないし。いじめられてからなんだが学校に行くのが嫌になったんだ。ママも11歳の時に出て行っちゃったし。」

アルミナの短い言葉から推測するとアルミナはいじめで不登校になり、母親は小学5年生のアルミナを置いてどこかに行ってしまったのだ。それからアルミナは父親に育てられたのだろう。そのような過去を抱えたアルミナに対して父親のネーヴェが過保護になることも無理はないとシズカは思った。

「引きこもってずーっと一人でピアノを弾いて歌うの。それで気に入ったメロディーができたら楽譜に描いて、良い言葉が思いついたらノートに書いて組み合わせたとき一曲の歌が出来たの。中学校は義務教育だから籍を置いただけでずっと家にいたの。それからね、日曜日になるとギターを持って出かけるの。公園でギターを弾いて歌うの。初めは恥ずかしかったけどだんだん人が集まってくれて、それで少し自信がついたんだ。私も誰かと繋がることができる、そう思った。」

「…すごいですね。」

路上で歌うことは勇気のいることだ。アルミナにとって歌うことは社会と繋がる架け橋なのだろう。アルミナはそれでね、と言ってくすっと笑った。

「あのね、1年前の夏にパパに内緒で自分がピアノを弾きながら歌う動画をスマートフォンで撮って芸能事務所に送ったの。そしたらデビューしないかって話が来たの。パパに話したらびっくりしてたけど許してくれたわ。そして今歌手をしているの。」

「一生懸命になれるものがあるって素敵ですね。アルミナさんはまだ16歳なのに生きがいを見つけていて、羨ましいな。」

シズカは素直にそう思った。シズカにはこれといった趣味が無い。しいて言うなら読書だ。特技というと高校時代から続けている射撃くらいである。

「逆に言えば私にはそれしかないの。歌わなくちゃ生きていけない。そして、何より私の曲を楽しみにしてくれる人がいる、その人たちのためなら頑張れる。」

アルミナは床にごろりと大の字に寝転んだ。昼間のアルミナの言葉を思い出した。私の歌を聴いてくれる人がいる。それだけで十分だとアルミナは言っていた。アルミナにとってそれが支えなのだろう。

「ねえ、あのおじさんとどういう関係なの?」

「ああ、私の同じ部署の同僚で」

「ちがーう。つまんないの。まあいいや。」

アルミナは口をとがらせた。シズカはアルミナの発言の意味がよく分からなかった。

「…脅迫状のこと、アルミナさんはどう思いますか?」

「おとといの夕方にミドリがマンションのポストに封筒が入っているのを見つけたの。そしたら三日以内におまえを殺すって書いてあった。その日偶然パパが来てテーブルの上に置いてあったそれを見つけたの。パパ真っ青になってそのまま警察に行っちゃった。」

アルミナはぼんやりと白い天井を見つめていた。

「アルミナさんは、怖くないんですか?」

「それは怖いよ。少なくともこの世のどこかに私に死んでほしいと思っている人間がいる。何か気味悪いよね。テレビに映ってれば誹謗中傷の手紙みたいなのは来たこともある。だけどそれは全部事務所宛か番組宛だった。自宅に来たってことは家もばれてるってことでしょ。いい気しないわ。一週間後はA区の公園でライブがあるのに…」

アルミナの声は末尾が弱々しくアルミナは顔を床に付けてうつ伏せになった。やはり脅迫状が来てアルミナも不安だったのだろう。朝のつっけんどんな態度はそういった不安定な気持ちから出てしまったのかもしれない。買い物に行ったのもそんな鬱屈とした気持ちを少しでも晴らしたかったのだろう。アルミナと話をして彼女は一見自分勝手な面もあるが自分の歌を楽しみにしてくれる人のために歌うという一本の信念を持っている子だと分かった。そして話せば分かり合えるのだ。

「安心してください。3日間は私たちがアルミナさんを守りますから。」

シズカはそう言ってアルミナの背をさすった。アルミナは顔を上げて、小さな声でありがとうと言った。


2月3日

レオンは目を醒ました。レオンの目の前にはシズカがいる。レオンは一瞬なぜ寝起きにシズカがいるのか理解できなかった。ピンクのカーテンから光が漏れている。そうだ。三日間はアルミナの家に泊まり込んで彼女を守るのだ。レオンは体を起こした。

「おはようございます。」

「今何時?」

「7時です。」

「お嬢は?」

「アルミナさんは寝てます。今日はテレビ局で歌番組の収録で14時に出発でミドリさんが迎えに来ます。それまでは予定がないです。」

「お前早く起こしすぎだよ。」

レオンは手で顔を覆った。カーテンから漏れる朝日と口うるさいシズカを一旦遮る。

「私たちがアルミナさんより遅く起きるわけにはいかないでしょう。」

シズカはふう、とため息をついた。

「気になることが一つあるんです。」

シズカは手を口に当てた。

「アルミナさんが言ってました。今まで誹謗中傷の手紙やいやがらせの手紙はすべて番組かアルミナさんの所属事務所宛に来ていたと。そして今回初めて自宅宛の脅迫状が届いたそうです。だから、脅迫状を送った人間はアルミナさんの自宅を知っている人間。アルミナさんと面識がある人間である可能性が高いんじゃないでしょうか。」

レオンは寝ぼけた頭を回転させてシズカの言葉をかみ砕いて考えた。つまりシズカの話ではアルミナに殺害の脅迫状を送ったのはアルミナと顔見知りの人物だということだ。

「確かにそうかもしれないな。何らかの手段で自宅を特定した見知らぬ誰かっていう場合もあるが。」

「…犯人を見つけることはできるでしょうか。」

シズカは昨日レオンがトイレに行っている間にアルミナと二人きりになった時に何か心境の変化があったのだろうか。昨日はアルミナの行動に翻弄され呆れていたシズカが真剣な表情をしている。

「3日間じゃ難しいだろうな。言い忘れてたけど預かった脅迫状の指紋鑑定の結果が出たとフィリップから連絡があったよ。検出された指紋は三種類。前科者のデータベースとは一致しなかった。おそらくアルミナ、市長、ミドリさんのものだろうな。」

「そうですね。おそらく犯人は手袋か何かで手紙を扱っていたのかもしれないですね。」

「まあ、とにかく今日も仕事を全うする。それだけだ。」

シズカはそうですね、と返事をしたもののやはりシズカは脅迫状を送った犯人が気になっているのだろう。また面倒なことに首を突っ込もうとしている。シズカと組んでから今まで何回かレオンはあまり事件にのめり込むなと注意してきた。しかしそれがシズカの性格なのだろう。面倒な相棒と組んでしまったと思い、レオンは口を開けて大きなあくびをした。


14時になるとミドリがマンションを訪れた。アルミナはまだ眠っていた。朝と昼にシズカはレオンを残してコンビニエンスストアで二人分の朝食と昼食を買い、食べた。シズカとレオンは玄関で二人を待っている。廊下のアルミナの部屋からはミドリがアルミナを起こす声が聞こえてくる。

「…アルミナ、もう時間ないわよ。行きましょう。ほら、起きて。」

しかしアルミナは寝起きが悪いのか中々起きてくる気配がない。

「14時間近く寝てるじゃないか。これじゃあ歌姫じゃなくて眠り姫だよ。」

「低血圧なんでしょうかね。」

しばらくするとアルミナが身支度を整えて現れた。今日は水色の縞のワンピースを着ている。アルミナは大きくあくびをした。目は半分閉じていて眠そうだ。

「おはよう、眠り姫のアルミナちゃん。」

「…おはよう。」

「ごめんなさいね、刑事さん。さあ、行きましょう。」

ミドリはそう言った。それからシズカ達はミドリの運転する車に乗った。車は渋滞に巻き込まれることなくすいすいと進みA区にあるテレビ局についた。テレビ局は約10階建てのガラス張りのビルだ。車は地下駐車場に進みミドリは警備員に身分証を見せた。テレビ局はセキュリティが万全だ。外部から不審者が侵入することはまずないだろうとシズカは思った。地下駐車場に車を停めるとシズカたちはミドリを先頭にガラス製の自動ドアを通り広いエレベーターで4階に昇った。隣にいるアルミナは眠気が醒めたのか目はぱっちりさせてミドリと今日の仕事の打ち合わせをしている。今日は歌番組に出演して一曲歌うそうだ。エレベーターの扉が開き、ミドリとアルミナが並んで歩き始めた。シズカとレオンはその後ろを歩いた。白いタイルと白い壁の廊下が続き、時たま観葉植物の木の鉢が置いてある。その時シズカ達は一人の女性とすれ違った。

「シズカ、今の女優のアイリーンだぜ。やっぱりテレビ局はすごいねえ。」

シズカもその女優の名前は聞いたことがあった。前を歩いていたアルミナが振り返った。

「ちょっと、あなたたち遊びに来たんじゃないでしょ。」

アルミナはぷい、と横を向いた。シズカはすみません、と謝った。

「悪い悪い。俺達はお嬢さんのボディーガードですからね。」

レオンは頭を掻いた。

「そういうことじゃないの!おじさんは信用できないからシズカさんに守ってもらうもん。」

アルミナはそう言うとシズカの腕をつかんだ。

「すみません。先輩には私から言って聞かせますから。」

前を歩いていたミドリが足を止めた。

「アルミナ、今日の楽屋はここよ。さあ入って、16時までに支度をするわ。今スタイリストが来るから待っていてね。」

アルミナははあい、と返事をした。


楽屋ではアルミナがメイクと着替えを済ませて収録が始まるのを待っていた。アルミナはリラックスしている様子だ。メイクする前の方がこどもらしくてかわいらしいとレオンは思った。遠くから撮るなら多少化粧がはっきりした方が良いのだろう。アルミナの身支度を整えたスタイリストは箱に商売道具である化粧品をしまっている。

レオンとシズカとミドリは化粧台の近くにあるテーブルに座っている。三人は紙コップでミドリの淹れた紅茶を飲んでいた。レオンはミドリの首に銀のクロスのペンダントが掛かっていることに気付いた。目を凝らすと文字が彫ってあった。ヒカリと刻まれている。

「そのアクセサリー、もしかしたて恋人からのプレゼントだったりして。」

ミドリは首を振った。

「いいえ、違うわ。妹とおそろいなのよ。」

「へえ、妹さんがいらっしゃるんですか。」

シズカがそう言った。

「いくつ違いなんですか。」

レオンがそう尋ねた。

「私が25歳で妹が19歳よ。だから6歳違いね。あ、時間になったわ。アルミナ、行きましょう。」

壁の時計は午後の4時を指していた。ミドリはアルミナと共に部屋を出た。レオンとシズカは二人の後に続いた。


階段のような2段の段には上段にアルミナと同い年くらいのアイドルグループの女の子たちが並んでいた。その横には5人の若い男性のアイドルが座っている。下の段にはバンドメンバーやソロの歌手だろうか、奇抜な服装の女性たちが座っている。中央には番組の進行役の眼鏡を掛けた中年男性とおそらくアナウンサーだろう。若い女性が座っていた。シズカとレオンはスタジオのセットから離れた機材の影で収録を見守っている。アルミナはその前でマイクを握って歌っていた。アルミナに赤色の光が当たる。テンションの高い曲が掛かり、アルミナの緩急のある力強い歌声が広いスタジオに響き渡った。鏡の奥の大人しい私の瞳の奥は本当の気持ち?泥まみれで汚れていたっていい。さらけ出せ、本当の自分。今までの歌は自分で作っているとアルミナは言っていた。高揚感のある旋律とメッセージ性のある歌詞とアルミナの歌声が洪水のように混ざり合い、シズカは鳥肌が立った。先ほどまでの少しわがままで口をとがらせていた少女と同じとは思えない。これがプロとしてのアルミナの姿なのだ。曲が終わるとアルミナは観覧席の客に向けて手を振っていた。シズカは観客席を見た。一応手荷物検査はあると聞いたが一応不審者がいないか注意を払う必要がある。観客たちは歓声を上げていた。そのアルミナの笑顔は眩しいくらいに輝いていた。


収録が終わると出演者たちは段から降りた。アルミナはもう一度観客に手を振り、ありがとうと言うとレオンとシズカの方へ歩いてきた。

「アルミナさん、すごかったです。」

シズカはそう言った。

「いやあ、テレビで見るより迫力があったよ。さすが歌姫。」

レオンはそう口にした。レオンはアルミナの実力を認めた。この子は一種の天才だろう。

「急になれなれしくされると調子狂うわ。もう帰るわよ。今日は外出しないわ。あなた達も私がウロチョロしてると疲れるみたいだし。」

アルミナはそう言うとスタジオを出て楽屋の方向へ歩いた。レオンとシズカも後に続く。楽屋に入るとミドリがテーブルの前に立っていた。ミドリは振り返った。ミドリの耳の大きな銀の輪のピアスが揺れた。

「これが…テーブルの上に。」

テーブルの上には大きな封筒が置いてあった。その表面には「殺人者アルミナへ」と書かれていた。第二の脅迫状だ。ミドリは封筒に手を伸ばした。

「触らないでください!」

シズカがミドリを制した。そしてレオンはポケットから白い手袋を出してはめた。

「これは今から鑑識に送ります。」

レオンは後ろのアルミナを見た。アルミナの顔色は青白い。

「…うそ、何?どうして…?」

ミドリがアルミナに近寄り、細い体を支えた。シズカハサミを持ってきた。

「外にいたスタイリストさんから借りました。」

レオンはハサミを受け取り、慎重に封筒の端を切断した。中から白い紙を取り出した。

「声を奪われたカラスは死んだ。殺したのは、紛れもなくお前。お前は歌で一羽の鳥を殺した。その声で今日もお前は歌う。」白い紙にはそう印刷されていた。おそらくパソコンで作成したものだろう。

アルミナはその文面を見ていた。

「分からない、私は誰も殺した覚えなんてない…知らないよ…分からない…」

アルミナの両目からは大粒の涙がこぼれた。ミドリがアルミナを抱きしめた。アルミナはミドリの胸に顔を埋めた。シズカとレオンは二人を残して部屋を出た。

「シズカ、今から俺は市警に戻る。やらなきゃいけないことがある。終わったら合流だ。」

「ええ、分かっています。」

シズカはレオンと同じことを考えているようだ。レオンはよし、と言った。

「お前は引き続きアルミナの護衛だ。気を付けろよ。」

「はい。」

シズカは頷いた。レオンはエレベーターの方へ歩いた。


シズカはミドリとアルミナと共にアルミナのマンションに戻った。マンションのリビングでアルミナは力なくうなだれていた。ミドリはアルミナに紅茶を淹れた。アルミナはそれに口を付けた。

「アルミナ、大丈夫よ。今日はシズカさんが守ってくれるわ。」

ミドリはアルミナの頭を撫でた。シズカは黙って座っていた。

「…うん。ありがとう、ミドリ。もう帰って大丈夫だよ。」

「本当に? 泊まっていこうか?」

「ううん。大丈夫。」

アルミナはそう言った。

「シズカさん、万が一のこともあります。アルミナを守ってください。」

ミドリはそう言ってシズカに礼をした。

「分かりました。安心してください。」

シズカはそう言った。ミドリはマンションから出て行った。後にはアルミナとシズカが残された。シズカの目の前でアルミナはうつむいていた。シズカは黙ってアルミナの前に座っていた。明日アルミナは何も予定が無いと言っていた。シズカは今はただレオンの報告を待ちアルミナの傍にいよう、そう思った。


レオンは市警本部に戻った。時刻は既に夜の7時だ。刑事課のフロアに行くとリチャード警部が机で書類の整理をしていた。おそらく残業だろう。他にはジャックとフィリップが自分の机でパソコンに向かっている。

「レオン、どうかしたか?」

リチャード警部は訝しんだ。

「警部、アルミナ脅迫事件の犯人、多分分かりました。」

「根拠はあるのか?」

「今のところは状況証拠ですが。至急令状を取らせてください。鑑識にも協力を。」

リチャード警部は顎に手を当てた。

「分かった。まず順を追って私に説明してほしい。」


2月4日

レオンと先輩刑事のトムはB区にある一軒のアパートへ向かっている。時刻は朝の10時だ。空は雲に覆われ、今にも雨粒が落ちそうな天気だ。ギリギリの時間まで逮捕令状の手続きをしていたから昨日は一睡もしていない。リチャード警部と偶然居合わせたフィリップとジャックも同じく夜を徹してレオンの手伝いをした。レオンはトムの車でこの付近まで来た。車は近くの有料駐車場に停めてある。リチャード警部が一睡もしていない人間に運転させるわけにはいかないと言い、朝一番に出勤したトムに車の運転を頼んだのだ。レオンは小さいがしゃれたつくりの黄色いアパートの前で足を止めた。

「ここか、被疑者の家は?」

トムがレオンに尋ねた。

「そうです。103号室ですね。」

レオンとトムは103号室のチャイムを押し、用件を告げた。中から現れた女性は、ミドリだった。

「レオンさん、どうしましたか?今日アルミナはオフの日だから私も休みですよ。」

ミドリの首には昨日と同じ銀のクロスのペンダントが揺れていたレオンは背広の懐から警察手帳を取り出し、見せた。

「個人ナンバーD20492、ミドリさん。年齢は25歳で間違いないですね。」

「はい、一体どうしたんですか?」

隣のトムが一枚の紙をミドリに見せた。

「あなたにアルミナさんに対する脅迫罪の容疑が掛かっています。署までご同行願いますか?もっとも逮捕令状は法的効力がありますからあなたに断る選択肢はありませんがね。」

トムは淡々と話した。ミドリはうつむき、ため息をついた。

「…はい。」

ミドリは小さい声で返事をした。


シズカはアルミナのマンションでレオンから連絡を受けた。やはり、レオンとシズカの考えた仮説は立証された。アルミナに二通の脅迫状を送ったのはミドリだった。二通目の脅迫状の紙から一人の指紋が検出された。レオンはミドリがテレビ局の楽屋で使っていた紙コップを持ち帰り、本部の鑑識が指紋照合をした結果二つの指紋は完全に一致したのだ。二通目の脅迫状は手袋をはめたレオンしか触っていないため第三者の指紋が発見されたとすればそれは犯人のものに他ならないのだ。アルミナはまだ寝室で眠っている。昨日はおそらく寝付けなかったのだろう。シズカは引っかかる部分があった。二通の脅迫状はいずれもミドリが発見していた。それは不自然だと感じたのだ。そして第三者が誰にも見とがめられることなくテレビ局の楽屋に忍び込み、部屋に脅迫状を置く行動はほぼ不可能だ。それができるのはシズカとレオン以外に楽屋にいたミドリくらいにしかできない。シズカは昨日までのミドリの行動を思い出した。まるで本当の姉のようにアルミナに寄り添い、身の回りの面倒まで見ていたミドリ。そしてこの残酷な事実をアルミナにどう伝えればよいのだろうか。


R市市警刑事課の第一聴取室ではミドリの取り調べが始まっていた。聴取を担当するのはレオンだ。トムが横に立ち、後ろではラッセルが記録に入っている。ミドリは黙って膝の上で拳を握り、うつむいていた。

「あなたはアルミナさんに脅迫状を送った。間違いないですか。」

ミドリは黙っている。黙秘するつもりなのだろうか。ミドリの切れ長の瞳は机を見つめている。昨日までの明るく快活なミドリの面影はない。

「二通目の脅迫状を鑑識に回したところ一人の指紋が検出されました。それをあなたが使っていた紙コップの指紋と照合した結果、一致したんです。あなたが脅迫状を発見してから俺は手袋をはめて脅迫状を扱った。だから指紋がついているとしたら、それは紛れもなく犯人のものです。そして、脅迫状の騒ぎはあなたの自作自演だった。」

「…その通りです。」

ミドリは力なく呟いた。

「あなたのことを少し調べさせていただきました。あなたの妹さん、ヒカリさんは4年前から今あなたが働いている芸能事務所に歌手として所属していた。芸名はツグミ。そしてヒカリさんは一年前に自殺している。そしてヒカリさんは現在のアルミナさんの事務所に所属していた。そしてアルミナさんが事務所に入り、それと入れ違いでヒカリさんは事務所を辞め、家で毒物を飲んで死亡しています。その後あなたはその芸能事務所に中途採用された。これは単なる偶然ではない。」

「…そうです。」

ミドリは声を絞り出した。

「あなたの両親はあなたが歳の時に離婚している。」

「…私の母親は私が6歳の時に赤ん坊のヒカリを連れて家から消えました。残された私は父と生活していました。そして2年前に父の葬儀で初めて16歳になったヒカリに会いました。ヒカリを連れて消えてしまった母親はもう亡くなっていました。ヒカリは母の妹、私たちの叔母と暮らしていました。それから私たちは失われた16年間を埋め合わせるように時々会っていました。そしてヒカリは15歳の頃から歌手として芸能事務所で活動していました。初めはどんどん曲や歌のアイデアが出ていたけれど、1年半前に妹はひどいスランプ状態になっていました。そして精神的にも消耗していました。新しくシングルを出してもなかなかヒットしませんでした。そして、」

ミドリはそう言うと肩を震わせた。

「その頃事務所には期待の新星といわれたアルミナが入りました。事務所の人間はアルミナをもてはやした。そしてアルミナと入れ違いにヒカリを事務所から辞めさせました。そして去年の1月10日に妹は叔母の家で毒を飲んで死にました。」

レオンは黙ってミドリの言葉を聞いていた。ミドリは白い拳を机に叩きつけた。

「ヒカリが死にアルミナは無関係じゃない。アルミナが現れなければ、ヒカリは事務所を辞めさせられなかったかもしれないんです。アルミナがヒカリと同じように才能に枯渇し、ヒカリと同じように泥に沈む様子を見届けたかった。その欲求に駆られ当時働いていた会社を辞め、求人を出していた芸能事務所に中途採用されました。求人広告を見つけたとき神様が私に復讐のチャンスを与えてくれた、そう思いました。そして1年間彼女の傍にいました。そして、私は彼女に一つの質問をしました。ツグミという名の歌手を覚えているか、と。アルミナは、そんな人知らない。…聞いたことないわ、と言いました。知らないなんて許されない。彼女は妹の死も知らずにのうのうと生きている。だから私は彼女に脅迫状を送り、精神的な苦痛で歌が歌えなくなるように仕向けることを決めました。」

隣に立っていたトムが口を開いた。

「…妹さんの死とアルミナさんとは直接的に関係はない。…言い方が悪いがこれはあなたの逆恨みだ。」

ミドリは赤い唇を片側だけ引きつらせた。

「逆恨み、そう受け取りたいならそう受け取ってください。刑務所でも裁判でも構いません。結果的に私の計画は成功しました。約一年間姉のように親切にしていたマネージャーが本当は自分を妹の仇だと決めつけ、憎み、脅迫状を送ったと知れば彼女はどのみち潰れるわ。彼女は精神的に強い子じゃない。脆く、危うい弱々しい何も知らない子どもよ。」

ミドリはふふ、と笑った。その笑みは昨日までの自然なミドリの笑みとは異なり、いびつに歪んでいた。

レオンは両手を組んだ。

「…あんたは今も本当に心の底からアルミナを憎んでいるのか?」

レオンはミドリに語りかけた。ミドリは黙っていた。

「アルミナはプライドが高く、あんたの言う通り強い子じゃない。それはスランプに苦しんでいたヒカリさんも同じだ。二人は外見は似ていない。だが内面的に似た性格だったんじゃないか?あんたの様子を2日間見たがあんたの優しさは全て嘘なのか。俺にはそう思えないね。あんたは初めこそアルミナを潰すために近づいた。ただ、あんたは葛藤していたあんたの個人ナンバーから調べさせてもらったがあんたは2か月前から心療内科に通院している。精神を衰弱させていた。復讐とアルミナへの感情の相反する感情に心を引き裂かれそうだった。でもあんたは復讐を決めた。それは妹さんの一周忌が過ぎてしまったからだろう。このままアルミナと一緒に居れば嫌でも情が移る。いや、すでに情が移っていた。何の訓練も受けていないあんたがスパイの真似事が勤まるわけがない。だから、終わらせようとした。」

「…そんなのあなたの想像だわ。」

ミドリは胸のクロスのペンダントを強く握っていた。その拳は震えていた。

「だったら、なぜわざわざ脅迫状に自分の指紋を残した。指紋が刑事事件の証拠になることなんて今どき小学生でも知ってるよ。あんたは逮捕されることでアルミナとの関係を終わらせたかった。だから、指紋を残した。あんたは妹さんのために復讐者としてアルミナの前から消えようとした。…俺の想像だよ。」

ミドリの目尻から涙が見え、溢れた。

「…私はもう分からない、分からない。誰を憎めばいいのか、誰を恨めばいいのか、分からない…」

ミドリは机に伏せて叫んだ。レオンの目に映るミドリは美しい敏腕マネージャーでも鬼のような冷酷な復讐者でもない、弱く、もろい生身の若い女性だった。


アルミナのマンションのオレンジ色のデジタル時計の時刻は13時を回ったところだった。部屋のカーテンは閉まっていて外から太陽の光が漏れていた。午前中は雨が降っていたが午後になって空が晴れたのだ。シズカは一時間ほど前にレオンから事件の真相を電話で伝えられた。そしてその全てをアルミナに説明した。ピンクのソファの上でアルミナが頭を手で覆っていた。シズカはその隣に座り、アルミナに寄り添っている。昨日までの表情をころころと変え、観客に手を振っていたアルミナの面影はない。一年近く姉のように慕っていた人間が自分を憎み、殺害をほのめかす脅迫状を送っていたのだ。その事実はアルミナにとってあまりにも残酷だ。

「…ねえ、うそ、うそ…うそって言ってよ…!!」

アルミナは突然叫び、首を振った。シズカはアルミナの背をさすった。

「私が悪いの?私がヒカリさんの立場を奪ったの?私のせいでヒカリさんは死んだの?」

「それは違います。あなたは全く悪くない。」

シズカはアルミナの目をまっすぐ見た。アルミナはシズカから目を逸らし、うつむいた。

「…もう何も信じられないよ…ミドリは私を騙すために毎日世話をやいて…お姉さんみたいに…それも全部、嘘だったんだ…」

シズカはアルミナの背から手を離した。

「もう、辞める。歌も、音楽も、作曲も、全部、全部、辞める。もう、耐えられない…消えちゃいたいよ。」

アルミナの言葉の末尾は弱々しく消えて行った。アルミナは心を開いていた人間に裏切られたのだ。自暴自棄になるのも当然の感情だ。レオンの報告ではミドリはアルミナを脅迫し、裏切ることでアルミナに精神的ダメージを負わせることが目的だった。このままではアルミナはミドリの思惑通りに潰れてしまうだろう。シズカは昨日までのアルミナの姿を思い出した。自分には歌しかない、歌を聴いてくれる人たちのために歌うと話していたアルミナ。そしてファンに手を振り、笑顔を見せていたアルミナ。シズカはソファから立ち上がり、閉まっていたピンクのカーテンを開けた外から明るい陽射しが差し込み、青空が見えた。シズカは再びアルミナの隣に座り、口を開いた。

「今、アルミナさんはとても辛い気持ちですよね。私はあなたとはたった2日間過ごしただけです。だからあなたの悲しい気持ちの全てが分かるなんて私には言えません。ただ、アルミナさんは私にお話ししてくれましたよね。ファンのために歌い続けるって。」

「…ファンの…ために…」

アルミナは顔を上げた。その顔は涙で湿っていた。アルミナは手で涙を拭いた。

「昨日の番組でも、たくさんの人があなたの歌を聴いていました。きっとたくさんの人があなたのことを待っています。9日にライブがあるんですよね。ライブが中止になれば、いいえ、あなたが歌うことを辞めてしまったらあなたの歌を待っている人たち悲しみます。あなたは弱い人じゃない。アルミナさんが悲しみのままに歌うことを辞めてしまえば、今まであなたの歌に励まされて、あなたの歌を楽しみにしていた人はみんな道しるべを失います。」

アルミナはシズカの目を見つめた。アルミナは手で乱暴に涙を拭い、首を振った。アルミナの桃色を帯びた長い茶髪が揺れた。

「私は…私の歌を待っている人を裏切りたくない。悲しませたくない。それだけは、絶対に…だめなんだ。シズカさん、私、歌うよ。」

その瞳には悲しみでも、怒りでもない強い決意を映していた。


レオンはミドリの聴取と書類の作成を終え、市警の屋上のベンチに座り、缶コーヒーを飲んでいた。レオンは昨日から一睡もしていない。日は傾き夕日の光がビルに反射している。この一杯で眠気を醒ましたら家に帰ろう、そう思った。その時、屋上の扉が開き、シズカが現れた。

「先輩、今リチャード警部への報告を終了しました。明日から通常業務に戻れ、ということです。」

「そうか。アルミナお嬢の様子は?」

レオンはアルミナのことが少し気がかりだった。ミドリが脅迫状を送った犯人であるという残酷な真実をアルミナに突きつけたのは、紛れもなく自分とシズカだ。シズカはレオンの隣に座った。

「…相当落ち込んだ様子でした。アルミナさんは、ミドリさんを本当のお姉さんのように、慕っていた。」

シズカは両手を膝の上で組んでいた。

「そうだな。」

「…ミドリさんは妹のヒカリさんの自殺がアルミナさんのせいだと考え、アルミナさんに近づいた。でも、アルミナさんと一緒に過ごすうちに、アルミナさんに情が移り、その関係を断ち切り、妹さんのために復讐者として消えようとした。…復讐を忘れ、このままアルミナさんのマネージャーとして暮らすことは、できなかったんでしょうか。」

例えミドリにとってはかりそめの日々だとしても姉妹のように仲の良かったアルミナとミドリの毎日は、もう二度と戻ることはないだろう。二人の仲の良い様子を目の当たりにしたシズカはそれが、悔しいのだろう。レオンにもその気持ちは分かる。ただ、事件にもしも、はない。

「それでもミドリは復讐を選んだ。彼女の気持ちは最後まで揺れていただろう。シズカ、時間はもう戻らないよ。」

「…そうですね。それにたとえどんな理由があっても、ミドリさんの脅迫行為はれっきとした犯罪なんですよね。」

シズカは屋上のコンクリートの床を見つめていた。

「彼女は心療内科にも通院していた。それに今回が初犯だからおそらく執行猶予が付くだろう。その後どうするのかは、彼女次第だ。そういえばアルミナは9日ライブだったよな。大丈夫か?」

シズカは顔を上げた。

「アルミナさんにお願いしたんです。歌うのを止めないでほしいって。そうしたらアルミナさん、歌うって言っていました。」

「そうか。元気になるといいな。」

シズカはそうですね、と言った。レオンはあくびをした。レオンは思い出す。仲良く服を選んでいたアルミナとミドリの姿を。今から家に帰り、眠る。そうしたらこの渦巻いた消化不良の思いを整理できるだろう。


2月9日

シズカは自分の机でパソコンを使い、アルミナ脅迫事件の報告書を作成していた。シズカとレオンが本部を離れているうちに市内では特に事件が起きていなかった。パソコンの画面の端に写る時計の時刻は12時半を指している。シズカの隣の机で昼食にパンを食べていたフィリップが立ち上がり、刑事課の部屋の高い台の上にあるテレビの電源を点けた。フィリップはテレビのチャンネルを民放の番組にした。テレビからは女性アナウンサーの声と芸人たちのにぎやかな声が聞こえてきた。

「…現在、A区でシンガーソングライターのアルミナさんがライブを行っています。」

シズカはアナウンサーの声を聞き、テレビの方を見た。向かいの机のレオンもテレビの方を向いた。

「みんな、見てくださいよ。アルミナちゃんだ。」

フィリップがそう言った。同じ部屋にいる刑事たち全員がテレビの方を見ている。画面には青空の下で公園に設置されたステージの上でピンクのドレスを着てマイクを持ち、歌うアルミナの様子が映し出されていた。公園の芝生の上には千人ほどの観客がアルミナの歌に耳を傾けていた。アルミナの力強い歌声がテレビのスピーカーから流れる。癒えない傷はない 命尽きるまで歩み続けるんだ 明日を目指して その歌詞とメロディーは先週シズカの前でアルミナが歌っていた歌だった。一曲歌い終わり、アルミナは叫んだ。

「みんな、私のライブに来てくれてありがとう!今日は最高のステージにしようね!」

アルミナの呼びかけに観客たちは歓声を上げた。画面にアップになったアルミナの笑顔は冬の青空の下で、輝いていた。



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