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前編


 ゾーキンを固く絞るとは、即ち己自身を絞る事と同義である。

 水に浸したゾーキンを絞り切る事は、意外に難しい。己に甘えがあれば水は絞り切れずに滴が手を伝い、腕を伝い、己自身へとその未熟さを知らしめるのだ。ああ、げに恐ろしきはゾーキン道である。


「こんなもんで許してやるですよ」


 ぎゅぎゅっと、水桶に浸したゾーキンを絞ると、私はむんっと少し長めの袖を肘まで折り曲げた。目をキリッとさせて、これから挑む事になる庭に面した長い廊下を見やった。

 縁側と言うらしい廊下は、家の外側にある大変珍しい造りである。ニッポンの伝統らしい。ニッポン人の魂らしい。無駄に横に長い家のせいで、何部屋にも接した長い縁側だ。

 早朝の陽光が庭の水をやったばかりの草木に反射して、眩しい。何となく、縁側は陽光とお似合いな気がする。


「めんどくせーですよ」


 外側にあるせいで、毎日ゾーキン掛けをしないと埃まみれになってしまう。本来は雨戸なるものが必要らしいが、雨戸はない。網戸もない。


「どっこもかしこも手入れが大変なんですよ」


 ぷりぷり怒りながら、私は身に付けているエプロンの端をスカートごと縛って、ゾーキン掛けの準備にはいる。背中までの髪もしっかり縛っている。ゾーキン掛けは、長いエプロンも髪も邪魔になるのだ。

 縁側の端に行くと、ゾーキン掛けの四つん這いに近い体勢に入る。犬猫になった気分。ご褒美が欲しいところだ。


「ほあああああっ!」


 ぐっと両腕と両脚に力を入れて一気に駆け出します。ゾーキンが廊下を綺麗にしていくのだ。これを何往復もするのだからゾーキン道は厳しい。痛い、疲れる、腰にくる。




 はんっ、一時間も経てば家中の掃除も完璧ですよ。ハタキやホウキを駆使して、ゾーキンで乾拭きまで完璧ですよ。

 畳の掃除は年に二回、虫干しもしてるし、完璧ですよ。屋根瓦や諸々の設備には職人の手が必要ですがね。障子の張り替えは楽しい。


「もう、動きたくないんですよ。こんちくしょー」


 縁側に仰向けに倒れ込んでぜえはあ虫の息。独りでほぼ全部の掃除と家事もこなしてるんだから、仕方ない。

 縁側から見上げる青空には、薄い雲があって陽光を和らげている。

 ぼんやりとしながら、ふと私が外からはどんな風に見えているのか考えてみた。


「……とっても、しゅーる」


 そんな風に言われた事がある。メイドのお仕着せのびすくどーる幼女と縁側の組み合わせはとっても、しゅーるらしい。絶対に悪口だ。だったら、替われ。このめんどくせー仕事を替われ。

 もう、幼女じゃないけど。もう十三歳ですから、幼女じゃない。


「しぇすたしてやる。今日はもうしぇすたしてやる」


 私は不貞腐れた体でごろんと身体の向きを庭側に変えると、目を閉じた。





 ーー管理人は重要なお仕事なんだよ。


 立派な白髭の貴族の爺はそう言って、私の手に南京錠の鍵と、メイドのお仕着せとエプロンを手渡した。私はまだ五つだった。正直、このじいさんは変態だと思った。貴族の中には特殊な性癖を、暇を持て余した貴族のたしなみとかほざく変態もいるらしく、このじいさんがそうだと思った。思ったまま声に出していて、じいさんにすりっぱでばしんと頭を叩かれた。

 じいさんに室内履きの靴だと言われ、私の敵となったすりっぱをそのまま手渡されて、不思議な屋敷へと連れて行かれた。

 みょうちきりんな屋敷だった。平坦で、横に長い印象の屋敷だった。貴族の住む屋敷は縦にも長いのが基本だが、建物が木製で石みたいな物を連ねた屋根は不思議な雰囲気を持っていた。屋敷の周りは生け垣と言う木で覆われた囲いがあり、防犯的にどうなんだろうと思った。まあ、杞憂なんだけど。庭はなかなかに広いのだが、小さな池と苔と言う植物があって、なんだか緑っぽい。針葉樹が等間隔に植えられていた。なんと言うか、渋みがある。

 灯篭と言う石造りの置物も、見た事がない風情を漂わせる。


 ーー良いかな。君はこれから、この屋敷を管理するんだよ。


 屋敷の玄関に掛けられた南京錠を私に開けさせながら、爺はにっこり笑った。死ねって思った。




 ふと、頭に柔らかいと見せ掛けて硬い感触があって、目が覚めた。庭を見る形で縁側に横になっていたはずが、微妙にしぇすた前と視界が違う。視界の下にふじ色の布に覆われた脚が見える。着物と言うみょうちきりんな民族衣装に覆われた脚だ。心許ない造りに見えて、帯で固定されたひと繋ぎの服は、簡単にははだけない。着物に覆われた膝をもみもみしてみる。明らかに着物の主に膝枕をされている訳だが、いかんせん硬い。少し筋肉質で硬いのだ。揉めば柔らかくなるだろうか。

 もみもみしていたら、その手を取られた。私に覆い被さる様にして、膝の持ち主が私の顔を覗き込んでいる。黒色がさらりと音を立てて、その人の頬をくすぐっていた。


「痴漢」


 秀麗な顔に、優しげな笑みを浮かべてその人は言う。黒いさらさらの髪が陽光に輝いて綺麗だ。逆に黒茶の瞳は陰って真っ黒。真っ黒な瞳に憮然とした私の顔が浮かんでいる。


「やべー、このひと、女の子にちかんされて悦ぶ変態か」


 言った直後に扇子で頭を叩かれた。すりっぱよりえげつない。


「下働きを頑張る女の子を労ろうと、膝を提供した優しい青少年に何を言うかな」


 先にえげつない事をやらかしたのはその優しい青少年である。優しいの定義は随分昔に崩壊した。

 むうと頬を膨らませて彼を見上げると、彼は楽しげに目を細めて、私の頭を撫でた。ついでに捕まれたままの手はもみもみされている。


「ははは、相変わらずぷくぷくした手だねえ」

「もうぷくぷくじゃねえですよ。立派な淑女ですよ」

「淑女は縁側で寝たりなんかしないよ」

「しぇすたですうー」

「シエスタね。使いどころも惜しい」


 私の反論に、彼は密やかな笑い声を漏らした。彼は、静かだ。生きているのに静かとは、摩訶不思議。黒茶の瞳は私を映したまま、静かに瞬きを繰り返した。




 黒髪の彼は、いつも着物を身に付けて、この屋敷の中で自由気ままに暮らしている。ほったらかしていた庭には、二年前から小さな菜園が出来ていて、彼が世話をしていた。良い肥料がないと、時々愚痴をこぼしている。

 彼は三年前に、この屋敷に連れて来られた。この屋敷は三年前から彼のものだ。彼を連れて来たのは、じいさんの跡継ぎのおっさんだった。じいさんは、彼が来る少し前に死んだ。年だったから、しょうがない。

 じいさんに連れて来られた私と、おっさんに連れて来られた彼。彼は当時は少年だった。今はさらりと揺れて耳が隠れる程度に髪を伸ばしたけど、当時は凄く短かった。黒いズボンと白い長袖のシャツを着ていた。

 私と少年は境遇が似ていたのに、全然違う生き物だった。私はじいさんに死ねって思ったけど、少年はおっさんに死ねって言わなかった。変態とも言わなかった。俯いて、曖昧に笑ってた。だから、少年が変態なんだと思った。この時の事を後に正直に話したら、今は少年から青年になった彼に私の湯呑みの中身を、茶葉の茎まみれにされた。茶柱が一杯で良かったねと言われた。優しい青少年とは幻やったんや。

 少年が来てすぐに、ほとんど人の訪れのない屋敷にたくさんの人が来た。仕立て屋が少年の為に反物をたくさん持って来て、暫くしたらたくさんの着物が運び込まれた。着付けが面倒そうで、私はうへえと嫌な顔をして見学した。そんな私に少年はしばしば視線を寄越したものだ。

 後にあの時の事を聞いたら金髪びすくどーる幼女のする顔じゃなくて滑稽だったらしい。お返しに味噌汁に塩分を大量に投入したら、彼にしこたま説教された。私も塩辛い味噌汁に泣いたのに、ひどい。

 人の出入りも、少年の住まいが整えられれば落ち着いた。

 私と少年の二人暮らしが始まったのだ。

 私は十歳、少年は十五歳。子どもだけの暮らしに疑問を抱かない大人は、大人を名乗る資格がないと思った。




「しかし、良い天気だね」


 青年になった彼が、ぼんやりと呟いた。私は回想から浮上した。私の頭はまだ彼の膝を枕にしている。


「しぇすたする?」

「しないよ。そろそろお昼ご飯を作らないと」


 そう言いながらも、彼は動かない。空を見上げながら、私の頭を撫でている。優しい青少年は幻だったが、彼の手には優しさが満ちていた。私も、動かずに欠伸を噛み殺す。チリンチリンと軒に吊るされた風鈴が鳴った。良い風が吹く。きっと、午後も良い天気だから、後で薪割りをしてもらおう。

 雲に絶妙に遮られた太陽が真上に向かって移動している。そう言えば朝食を食べてから随分経っている。お腹が空いたかもしれない。だけど、ここから動きたくない気もする。優しい手の動きは、眠気を誘うのだ。


「お昼は素麺で良いかな?」

「ういー……」

「つゆは作ってあるし、葱も良いのが来てたし、そろそろ支度するよ」

「あいー……」


 欠伸混じりの私の返事に、彼はまた密やかに笑った。

 硬い膝枕も、存外役に立つ。


 食事の用意は、一年前から彼が半分くらいやる様になった。男の料理になるかと思ったけど、出汁をしっかりとる料理は私以上に美味しかった。お出汁くらいテキトーで良いと思う。でも、たまに手抜きとかする姿は主婦に見える。言うと報復されるから言わないけどね。

 さっきまでしぇすたしていた縁側のすぐ隣の部屋で、私達は食事をする。ちゃぶ台と言う丸くて脚の短いテーブルの上には大きな木製の桶があり、その中に二人分以上の素麺が盛られている。本来は飯切(はんぎ)りらしいんだけど、スシを食べたりしないから、ただのお皿扱いだ。

 大量の素麺はきっちり食べきる。彼は大食いだ。痩身なのに、意味が分からない。

 ちゃぶ台には椅子は使わずに、座布団と言う平たいクッションに座るのだ。正座は武士の心意気、らしい。よく分からん。


「素麺って、暑い日に美味しいですけどー、作るのは地獄ですなー」

「それを体験した俺の目の前で、大量に啜りながら言うのやめてくれる?」

「細けぇ事は気にすんなですよー」

「箸で人を指さない。箸をかちかちさせない。葱避けない」

「ぐぬっ」


 びしびしと指摘され、細けぇなあとうんざりとした顔をする。


「箸の持ち方は覚えられたんだから、それ以外も出来る様になりましょう」


 先生か。

 横を向いてこっそりと舌打ちしたつもりが、ちゃぶ台で向い合わせで座っていたせいで丸見えだった。箸置きがこめかみにくりてぃかるした。箸置きは投げて良いのか。解せぬ。

 チリンチリンと風鈴が鳴る。昼間は障子は開けているから、外はよく見える。すいっと、彼の目が吸い寄せられる様にして風鈴に向かう。彼の細めた目は何かを懐かしむ様に見えて、同時に絶望を見つめている。私は知っている。


 ーーいくら真似ようと、紛い物は紛い物だ。


 もう随分と聞かなくなった爺の声が頭の中を反響して、私は舌打ちした。箸置きが飛んでくる事は、無かった。それが何だか嫌だった。


「……スイカ」


 彼がぽつりと言う。大袈裟と言える勢いで、弾かれた様に彼を見た。でも私に見えたのは彼の白く美しい横顔だった。舌打ちは堪えた。


「井戸でスイカを冷やしてるから、後で食べようか」

「…………………………うん」


 こっちを見ないその(かんばせ)が憎たらしく思えて、すぐには返事はしたくなかった。長い間への彼からの反応は、ただこちらを向いて儚く笑うだけで。

 こういう時の彼は、本当に、すごく、大嫌いだ。




「ぷぷぷっ」


 縁側で足をぷらぷらさせながら、冷たいスイカの果肉を貪り、口の中の種を勢いよく庭に飛ばした。運よく根付いたら面白いのに。


「すっかり上手になったよね」

「とーぜんですよ! 私に不可能はねえですよ」


 彼も私の隣でスイカを頬張り、種を飛ばす。種の飛ばし方を教えてくれたのは彼だけど、彼はここに来るまではこんな事をした事は、なかったらしい。縁側と広い庭に恵まれなかったそうだ。ふーん、よく分からん。

 庭を見ながら、菜園に目をやる。小ぶりの野菜が水を浴びてきらきら輝いていた。トマトがそろそろ収穫出来るらしい。趣味の域を出ていないから、本業の農家に比べれば出来はそんなによくない。だけど、彼は楽しそうに世話をする。

 ずっと先にある生け垣に目を向けそうになって、すぐに反らした。広い庭は、実際には凄く窮屈だ。あの生け垣から内側にしか存在出来ないのだから。当たり前の事実が、息苦しく思えた。

 しゃくしゃくと、皿に乗せられた小さく切られたスイカを平らげようとしたら止められた。


「お腹壊すよ」


 私の倍以上食べてる人間には言われたくなかった。

 子ども扱いに不満なんですけど。すとらいきするぞ。



 まあ、すとらいきなんかしたら、おまんまの食い上げなんですけど。

 午後のおやつのスイカの後は、またお仕事だ。洗濯もお掃除も終わってるけど、夕食の準備の前に食材の受け渡しがある。買い物に行く必要が無いのは良い事なのか悪い事なのか。判断がつかない。

 パタパタと床板をすりっぱで踏みながら、屋敷の中を歩いて行く。基本的に、この屋敷の中の戸は開いていて、風通しが良い。私と、彼の部屋だけは閉じている。屋敷を移動中に、書斎で本を読む彼を見た。彼は眉間に皺を寄せて、難しげな面持ちだったが、多分読めない文字と格闘していたんだろう。いつもの事。着物と本は視覚的に相性が良い気がする。格好良く見える。

 勝手口に着くと、靴を履き替えてから裏庭へと出て、裏門に向かった。裏門には既に人影があった。


「こっちのが日持ちするやつ。こっちは明日の昼までしか持たないから注意しろ」


 二つの木箱を交互に指差して、食材を運んで来た男が言う。男の身なりは一見すればただの商人の使いだが、実際は違う。ごつごつした手には、剣だこがある。男は、城に仕える騎士だ。


「……じゃあ、まあ、頑張れ」


 いつも帰り際にそう言って、男は帰って行く。この屋敷で頑張る事などほとんど無いのに、男はそれを知らない。私は男に対して、言葉を返した事は、一度も無いから。

 馬を連れた男の消えて行く先を見つめて、私は目を反らしたくなった。

 男の向かう先は、鬱蒼と大樹の生い茂る巨大な森。どこを見ても大樹しか見えない。

 あの中庭の生け垣の向こうに見える景色と同じもの。この屋敷を囲む様にしてそびえる巨大な森は、真っ黒に色付いて見えて、まるで巨大な牢獄の様に見えた。


 木箱を順番に勝手口に運ぶと、一息つく。食材の受け取りは、彼がしてはならない仕事の一つだ。薪割り用の丸太も、外から運ばれたもので、彼は外には出られない。ーー条件を満たさない限り、彼はこの屋敷の主のまま。


「……まあ、私はずっと出られないんですけどもー」


 血が悪すぎた。諦めはついている。

 だけど、彼と私とでは、絶対的に違いすぎる背景がある。私は出られない不満をぶちぶち言えば良いが、彼は違うのだ。不満を不満として、認める事が出来ない。

 認めたら、彼はどうなってしまうのだろう。


「世界を越えるとか、そーだいすぎて笑えねーですよ」


 しかし、それが真実なのだから、世は無情だ。情が無いのではない。情を与える事が出来ないのだ。

 この木箱の中には、生きていく為に必要な糧があり、それを育むのもこの世に生きる数多の命だ。枯らすも育むも、情を持つ誰か次第。綺麗事を語れば、命は心によって育まれ繋がっていく。しかし、それは繋がる側が望まねば簡単に絶たれるもの。求め合えと、神は言う。


「……詭弁じゃねーですか」


 ぐっとこみ上げてくる何かを飲み込んで、頭上の夕焼け混じりの空を見上げた。無償に、あの優しい手が欲しくなる。頭を撫でて貰えたら、それだけで生きる赦しを与えられた気がするのかもしれない。

 だけど、私は、今この時に望んだ手を与えられたとしても、喜びを感じる事はないのだろうと言う事も、分かっていた。

 ままならないのだ。何もかも。


 ぼんやりと突っ立っていた私の耳に、ガコンと言う大きな音が届いた。のろのろと裏庭を横切って中庭近くの薪置き場に行くと、彼が勢いよく斧を降り下ろして丸太を割っていた。書斎からいつの間にか出てきていたらしい。


「……読書は飽きたんですかー」

「飽きたね」


 薪割りをしながら、彼は答える。そう言えば、薪割りを頼もうと思っていたのに、まだ頼んでいなかった。えすぱーか。


「ここの文字は単語だと単純なくせに、熟語が難しすぎるよ」


 見かけた時の直感は正しかった様だ。音を上げて、薪割りで気分転換か。

 そう考えた時、ふとした違和感に、彼の姿を見つめた。彼の見目は、おやつの時間から何も変わってはいない。なのに、感じるこの朧気な差違は何だろう。妙な胸のざわめきに、少しだけ鼓動が跳ねる。


「……? どうしたの?」


 私の様子に気が付いた彼が怪訝な顔をした。私は答えられずに、曖昧に首を傾げた。馬鹿な。この反応は彼の専売特許だったはず。いつもの私はどうした。

 彼はそれ以上は追及せずに、薪割りを再開した。その姿を見ながら、違和感の正体に気付く。


 ーー……『ここの』って、言った?


 まるで雷に打たれたかの様な衝撃。

 彼は先程、『ここの文字』と言ったのだ。

 それは、昨日までの彼が決して口にしなかった言葉。胸がぎゅっとしてきて、意味なく視線をさ迷わせる。動揺を悟られたくなくて、必死に頭を働かせた。

 いつから? 唐突な変化ではないはず。前兆は? ただの気まぐれ?


「……ありえねーです」


 小さな呟きは、丸太の割れる音と重なった。

 背中を伝う冷や汗。震えそうになる喉は唾を飲み込んで抑えて、彼の顔をもう一度見た。

 彼の平素通りの様子に、不安は増していく。

 落ち着け、落ち着け。自分に言い聞かせた。


「……お!」

「え?」


 突然私が大声を上げたので、彼が驚いた顔で私を見る。怯むものか。


「親子丼もどきが食べたい!」

「なんで……ああ、届いた食材に卵があったのかな」


 こくこく頷く私に、少しだけ戸惑いを見せたものの、彼は普段と同じ儚げな笑みを浮かべた。


「ん、分かった。じゃあ、薪割りが終わったら作るよ」

「玉葱は多めが良い」

「……何で、葱は駄目なのに玉葱は良いのかな」


 玉葱は炒めたら甘いもん。


 いつも通り。同じやり取り。笑って呆れて、子犬がじゃれあう様な日常。ほっとした。ほっとしたけど、すぐに不安が這い上がる。

 夕陽に照らされたせいだろうか。彼の浮かべる表情は、いつもよりずっと大人びて見えた。



 親子丼もどきとは、肉なしの玉子丼である。ずっと前に鶏肉が手に入った際に、彼が作ってくれた時から私は親子丼の虜なのである。親子丼、お汁いっぱい、美味しい。

 でも鶏肉はなかなか運ばれて来ないので、滅多には食べられない。卵もそんなに届かないし。なので、卵に余裕がある時にだけ、肉なしの親子丼もどきが作られる。ただの玉子丼と称さないのは、私の気分を盛り上げるためである。名称ひとつで、だいぶ違うのだよ。


「君は、よく食べるよね」

「おまいう」

「……ちょっといらない教育しちゃったかな」

「食う子は育ちますよ」

「……育つと良いね」

「おい、貴様、今どこを見やがりましたか」


 親子丼もどきと、茸の味噌汁を平らげて満足感に浸っていたと言うのに、気分ぶち壊しだ。

 夜の涼やかな風が、心地好い。風鈴が小さく存在を主張している。

 こんな何気ない穏やかな瞬間に、嵩を増し始めた不安が鎌首をもたげるのだ。

 ……きっと、風鈴を含めたこれらがいけなかったのだ。どんなに真似たって、紛い物は紛い物。本物には、なれやしない。


「ーー明日は、何が食べたい?」


 不意に振られた問いに、頭がついていかず、思考が停止した。彼には、私がびっくりして固まった様に見えたかもしれない。珍しくそっぽを向いた彼を、私は凝視した。


「ほら、たまには、リクエストを聞くのも、良いかなって」

「りくえすと」


 三年間一緒に暮らしたが、初めて聞いた言葉。おまいうとか覚えさせられた時点で、私達の会話がいかにあほらしいものか、よく分かると言うもの。

 要望は、いつも互いが主張しあってばかりで、聞き合う事はなかった。りくえすとは、多分、要望の事かなと考え至った瞬間、ぼぼっと音がしそうな勢いで私の顔に熱が集まった。


 ーー嬉しい。恥ずかしいくらいに、嬉しい。


 自分自身、意味が分からないくらい歓喜に満ちている。先程までの嫌な気持ちが嘘のように霧散した。何か言わねばと焦れば焦る程、言葉は消えて行く。

 そして、焦った私が誤魔化す様に視線を遊ばせた先には、彼の真っ赤になった耳が見えて。

 私の思考は爆発した。


「てぃ、てぃーけーじー、が良い!」

「勿体ぶった末に卵かけご飯とか! あるよね? 他にもっと手の込んだレパートリーあったよね?」


 爆発した結果がこれである。

 彼の耳は普段の肌色に戻り、私の方を向いた彼は普段通りの苦笑を浮かべていた。何だか勿体ない事をしでかした気分である。

 そう言えば、彼が言うには「りあじゅう」は爆発するらしいのだが、爆発した私は「りあじゅう」なのだろうか。今聞いたら凄く怒られそうだから、明後日くらいに聞いてみようかな。

 ぷりぷり怒っていた彼だったが、翌日の朝食は卵かけご飯だった。これがつんでれと言うやつだろうか。



 あれ以降、彼から私にとっての不穏な気配を感じる事はなかった。



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