第五十一話 開戦
朝焼けが雪原を赤く染めていた。
グランフォートの城壁には、これまでにない緊張が漂っている。
敵軍が動き始めた。
その報は夜明け前に届いていた。
作戦室では北方一帯の地図が机いっぱいに広げられ、各砦の位置と補給路が細かく記されている。
アスターは地図を見つめたまま口を開いた。
「敵は西ではありません。」
将校たちが顔を上げる。
「では東か。」
アスターは首を横に振る。
「敵は私たちが東を見ることを望んでいます。」
レオンハルトは腕を組んだ。
「続けろ。」
「ヴァルクスは兵を削る戦いをしません。」
「狙うのは補給でも砦でもない。」
「軍全体の動きです。」
部屋は静まり返る。
アスターは一本の街道を指差した。
「この峡谷です。」
「ここで敵の先遣隊を止めます。」
「なぜそこだ。」
「狭い。」
「兵数の差が消えます。」
レオンハルトはしばらく地図を見つめ、静かに頷いた。
「任せる。」
初めてだった。
戦場の主導権を、アスターが預けられたのは。
昼過ぎ。
二百名の兵を率いたアスターは峡谷へ到着する。
切り立った岩壁。
細い一本道。
雪解け水が流れる冷たい沢。
ここなら大軍は展開できない。
兵士たちは倒木を運び、岩を積み、即席の防壁を築き始める。
「副隊長。」
若い兵士が尋ねる。
「敵は来るでしょうか。」
アスターは雪に残る轍を見つめた。
「来る。」
「必ず。」
夕暮れ。
見張りが声を張り上げた。
「敵影!」
谷の向こうに黒い影が現れる。
三百ほど。
先遣隊だった。
敵兵は防壁を見て足を止める。
互いに距離を測るような静けさが流れた。
「弓、構え。」
アスターの声が響く。
しかし放たない。
敵が十分に谷へ入るまで待つ。
雪を踏む音だけが近づいてくる。
「今だ!」
矢が一斉に放たれた。
谷に木霊する悲鳴。
前列が崩れ、後列が押し寄せる。
狭い谷では隊列を立て直せない。
アスターは深追いを禁じた。
「前へ出るな!」
「守り切れ!」
兵士たちは防壁を崩さず、敵を押し返す。
一刻ほどで敵は退却を始めた。
谷に静けさが戻る。
「勝った……。」
誰かが呟いた。
兵士たちの間に歓声が広がる。
負傷者は少ない。
防壁も残っている。
完璧な勝利に見えた。
その夜。
グランフォートへ帰還した兵士たちは歓迎を受ける。
「初陣で敵を退けたぞ!」
「副隊長のおかげだ!」
酒こそないが、久しぶりに笑顔が戻っていた。
しかし、アスターだけは浮かない表情をしていた。
「何か気になるか。」
レオンハルトが尋ねる。
アスターは机の上へ一枚の地図を置く。
「敵兵が少なすぎます。」
「三百では、この谷を抜ける意味がありません。」
レオンハルトの表情が変わる。
「囮か。」
「……分かりません。」
「ですが。」
「ヴァルクスが、この程度の戦いで終わるとは思えません。」
同じ頃。
北方連邦軍本営。
焚き火の前でヴァルクスは副官アルドの報告を受けていた。
「先遣隊は予定どおり敗走しました。」
「損害は。」
「軽微です。」
ヴァルクスは静かに地図へ一本の線を書き込む。
「王国軍は峡谷へ兵を集めた。」
「はい。」
「ならば第二段階へ移る。」
アルドは地図を見つめる。
そこには峡谷ではなく、王国軍の補給路へ向かう新たな矢印が描かれていた。
「勝たせて、動かす。」
ヴァルクスは炎を見つめながら呟く。
「勝利ほど、人の視野を狭くするものはない。」
焚き火が静かに揺れる。
一方、グランフォートでは兵士たちが勝利を祝い、束の間の安堵に包まれていた。
その中で一人だけ、アスターは眠れなかった。
勝った。
それなのに胸騒ぎが消えない。
その違和感だけが、静かな夜の中で少しずつ大きくなっていた。




