第四十六話 届かなかった命
夜明け前、北方第一要塞グランフォートに伝令の鐘が鳴り響いた。
城門を駆け込んできた斥候は泥だらけのまま膝をつく。
「敵軍が動きました!」
「北の渓谷です!」
作戦室には各部隊の指揮官が集まり、地図の上へ次々と駒が置かれていく。
敵は補給路へ向かっているように見えた。
「補給隊が襲われれば、この砦は十日ともたん。」
補給官が青ざめた顔で言う。
一方、別の伝令が叫ぶ。
「第三砦より救援要請!」
「敵軍が集結を始めています!」
部屋の空気が張り詰めた。
補給隊を守るか。
第三砦を救うか。
両方へ兵を送る余裕はない。
レオンハルトは地図を見つめたまま口を開く。
「アスター。」
「お前ならどう動かす。」
部屋中の視線が集まる。
アスターは静かに地図へ歩み寄った。
「補給隊を守ります。」
将校たちがざわつく。
「第三砦を見捨てるのか!」
王都軍の将校が声を荒げた。
「違います。」
アスターは落ち着いた声で答える。
「補給が尽きれば第三砦だけではありません。」
「国境全体が崩れます。」
沈黙が落ちる。
レオンハルトはゆっくり頷いた。
「補給隊護衛を任せる。」
その一言で命令は決まった。
アスターはすぐに兵を率いて砦を出る。
荷馬車の列は細い渓谷を進み、左右の岩壁が視界を狭めていた。
嫌な静けさだった。
「止まれ。」
アスターが手を上げる。
兵士たちが足を止めた、その瞬間。
岩の上から矢が降り注いだ。
「伏せろ!」
悲鳴が響く。
敵兵が岩陰から飛び出した。
補給隊を狙った急襲だった。
「盾を前へ!」
兵士たちが荷馬車を囲む。
矢が木箱へ突き刺さる。
馬が暴れ、荷車が傾いた。
アスターは剣を抜かない。
「荷を守れ!」
「敵を追うな!」
その命令だけを繰り返す。
兵士たちは荷車を盾に押し返し、敵は攻め切れず退き始めた。
短い戦いだった。
補給は守られた。
荷車も無事だった。
兵士たちから安堵の息が漏れる。
「やりました、副隊長。」
若い兵士が笑う。
アスターも小さく頷いた。
「急いで砦へ戻ろう。」
その時だった。
遠くの空へ、黒い煙が一本立ち上る。
誰より先にレオンハルトの副官が顔色を変えた。
「……第三砦だ。」
全員の動きが止まる。
黒煙は一本では終わらない。
二本。
三本。
やがて砦全体を覆うように立ち上った。
誰も声を出せなかった。
帰還したグランフォートは異様な静けさに包まれていた。
負傷兵が次々と運び込まれる。
担架には泥と血にまみれた兵士たちが横たわっていた。
医官が叫ぶ。
「こちらへ!」
「水を!」
誰も顔を上げない。
その中に、一人の兵士がいた。
第四十四話で補給倉庫の前で話した若い兵士だった。
娘が生まれたばかりだと照れくさそうに笑っていた男。
彼は腹を押さえながら、アスターを見つけると微笑んだ。
「副隊長……。」
アスターは駆け寄り、その手を握る。
「無事だったか。」
兵士はゆっくり首を横に振った。
「第三砦は……駄目でした。」
呼吸は浅い。
それでも兵士は笑っていた。
「でも……。」
「補給は守れたんですよね。」
アスターは言葉を失う。
「それで……良かったです。」
兵士は震える手で胸元から小さな木彫りを取り出した。
粗末な人形だった。
「娘に……。」
そこまで言うと、力なく手が落ちた。
医官は静かに目を伏せる。
アスターはその木彫りを拾い上げた。
軽かった。
あまりにも軽かった。
その夜。
作戦室にはアスターとレオンハルトだけが残っていた。
机の上には第三砦の報告書。
戦死者九百八十三名。
生存者百二十七名。
数字だけが並んでいる。
アスターは報告書を閉じた。
「私の判断です。」
レオンハルトは何も言わない。
「補給隊を守らなければ全軍が危なかった。」
「頭では分かっています。」
「ですが……。」
木彫りを強く握り締める。
「あの兵士は帰れませんでした。」
長い沈黙が流れた。
やがてレオンハルトが静かに口を開く。
「お前は間違っていない。」
アスターは首を振る。
「でも、負けました。」
レオンハルトは窓の外を見る。
第三砦の方角には、まだ黒煙が残っていた。
「覚えておけ。」
「戦争には、正しい答えなどない。」
「あるのは。」
彼は静かにアスターを見る。
「選んだ責任だけだ。」
その夜、アスターは眠れなかった。
机の上には一体の木彫り。
その隣には第三砦の戦死者名簿。
名前を一つ読むたびに、胸の奥が締め付けられる。
地方で学んだのは、人を守る方法だった。
だが国境で突きつけられたのは、誰かを守るために、誰かを失う現実だった。
夜明け前。
窓の外に一筋の星が流れる。
アスターはそれを見上げながら、小さく呟いた。
「……次は、誰も見捨てない方法を見つける。」
それは誓いではなかった。
自分自身へ課した、あまりにも重い問いだった。




