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便器のデモクラシーと温もりの合理性

(数日後。人里離れた、クルトが以前から目をつけていた廃材置き場の一角。)

クルトはエルナを治療し、自宅の作業場から遠く離れた、人里から隔離された廃材置き場の一角を仮の拠点としていた。エルナは命を取り留めたものの、毒の後遺症で右足の神経が一部損傷し、杖をついて歩くようになった。

「お父さん。この地形図によれば、この土地は水はけが悪いのよ。家を建てる前に、まず排水の仕組みを組まないと、私の足にも良くないわ」エルナは杖を突きながら、設計図を広げ、鋭い視線を地面に向けた。

「その通りだ、エルナ。まずは基礎だ。しかし、人手が足りない」クルトが工具袋の重さを確かめた、その時だった。

廃材の陰から、清と茂が現れた。彼らは、小さな風呂敷包みを一つずつ抱え、汚れた顔は相変わらず無表情に近いが、その目に決意の光が宿っていた。

「クルトさん。エルナさん。」清が、無感情でありながら明確な意志をもって話し始めた。「僕たちは家を出た。父さんの『呪い(試練)』の下では、もう呼吸ができない。」

茂は手に持っていた古びたノートを見せた。「僕たちは、『父さんの望む立派な人間』になることを諦めた。僕たちは、『道具の法則が正しく作用する家』を建てたい。」

クルトは一瞬驚いたが、すぐに表情をメカニックの顔に戻した。「そうか。ならば、手を貸せ。ここでは信仰心よりも、実測と労働が唯一の価値だ。」

クルトはまず、基礎を固めるために地面の掘削作業を始めた。慣れない作業に、清と茂はすぐに汗だくになった。

エルナは杖を地面に突きながら、作業を見守っていた。「基礎の溝を掘るのには、時間がかかりすぎるわ、お父さん。それに、清と茂はまだ慣れていない。もっと合理的な道具が必要よ」

「わかっている」クルトは工具袋から、柄の長い鶴嘴つるはしを取り出した。「だが、これ以上の道具は…」

その時、清が口を挟んだ。「クルトさん。待ってくれ。僕の父が、たまに近所の山で石臼いしうすを回していた。あれが、廃材置き場の奥にある古い車輪と、クルトさんのジャッキと繋げられるんじゃないか?」

クルトは清をじっと見た。清の表情は無表情だが、その発想は驚くほど合理的だった。

「石臼…車輪…ジャッキ… 遠心力とテコの原理、それに増力機構か」クルトは即座に頭の中で設計図を描いた。

「エルナ、お前が足を引きずっているからこそ、この作業場には効率が求められる。清のアイディアを採用する。」

クルトはすぐに廃材置き場から巨大で重い石臼と、壊れた大八車の鉄製の車輪を回収した。

そして、工具袋から取り出したのは、普段は車の修理に使う油圧ジャッキと、硬質のクロームモリブデン鋼製のチェーンだった。

クルトは、ジャッキを倒立させて地面に固定し、チェーンで車輪と石臼を繋ぎ、ジャッキのレバーを引く力を回転力に変換する、即席の掘削・土壌破砕機構を組み上げた。

清は、クルトの正確な作業を見ながら、興奮を抑えきれない様子で言った。「これは…父さんの『仏の力』なんかじゃない! 人間の知識と、道具の組み合わせだ!」

茂は、今まで見たこともないクルトの作業に、わずかに目を見開いた。「…この仕組みは、父さんの言葉よりも、ずっと優しい…」

エルナは杖を突きながら、その機構を眺めた。

「お父さん。清のアイディアは、見事な逆転の発想ね。彼の心は、もう父親の呪縛から解放され始めている証拠だわ。毒親という不合理な機構は、新しい合理的な機構の前には無力よ。」

クルトがジャッキのレバーを操作すると、石臼がゆっくりと地面を掘り始め、硬い土壌を効率的に砕いていった。作業のスピードは格段に上がった。

清と茂は、自らのアイディアが、物理法則という揺るぎない正しさで作用するのを見て、初めて、古い父親の教えではない「真の喜び」を感じていた。

夕暮れ時、基礎の溝は完璧に掘られた。

エルナは杖をつきながら、掘削後の溝の上に立ち、清と茂に語りかけた。

「よくやったわ、清、茂。この家は、『理不尽な精神論』ではなく、『揺るぎない物理法則』の上に建つのよ。そして、私のこの足が不自由になったことが、私たちに『より効率的な道具』を使うことを教えた。不自由こそ、進歩の理由よ。」

クルトは、エルナの言葉を聞き、静かに頷いた。彼は、道具を綺麗に清掃し、工具袋に戻した。

清と茂は、彼らの「毒親」の下では決して得られなかった、自らの創造と協力による確かな達成感を、その場で深く呼吸していた。新しい家は、彼らの精神的な解放の象徴として、この廃材置き場の一角に建設され始めたのだ。


(廃材置き場の一角。基礎工事が終わり、家の骨組みが立ち上がり始めた。)

基礎工事が終わり、家の骨組みが立ち上がると、クルトは次の工程へと移った。

「よし。次は衛生設備だ。」クルトは設計図を広げ、指さした。「この家は、精神論ではなく、合理的かつ清潔な生活のためにある。だから、トイレは西洋式の構造を採用する。」

エルナは杖をつきながら、うなずいた。「当然よ、お父さん。昔ながらの非衛生的な機構は、私たちのデモクラシーな生活には相応しくないわ。排泄物の回収と臭いの制御には、水の合理的な流れが不可欠よ。」

清と茂は顔を見合わせた。彼らが知っているのは、穴を掘り、上に木板を渡した汲み取り式の便所だけだ。

「あの…クルトさん。西洋式のトイレとは、どういう仕組みなのでしょうか?」清が恐る恐る尋ねた。

茂は困惑した表情を隠さなかった。「便所が…家の中にある、というのは…仏罰が当たりませんか?」

クルトは彼らの戸惑いを予期していたかのように、工具袋から取り出した鉛筆で、設計図に絵を描き加えた。「お前たちが知っている便所ではない。これは、水を溜めた容器ボウルと、S字のトラップだ。排泄物を水で流し、S字管の水が臭気を遮断する。排泄の度に、清潔な水が補充される自浄機構だ。」

清と茂は、その「水が溜まる便器」という発想が全く理解できなかった。

「排泄物に水…? それでは水が汚れるだけでは?」清は合理的に考えて疑問を呈した。

「水で流す、だと…? 勿体ない。その水は、畑に使えぬではありませんか」茂は資源の無駄遣いに眉をひそめた。

エルナは笑みを浮かべた。「いい? 清、茂。これは『資源の有効活用』と『個人の衛生』、どちらを優先するかという文明の選択よ。私たちは、清潔と尊厳を選んだの。そして、その『汚れた水』も、最終的には合理的な排水設備で処理するわ。」

クルトは便器の制作に取り掛かった。西洋の便器に使われる陶器はここでは手に入らない。彼は周囲を見回し、廃材置き場に転がっていた、厚く丈夫な安山岩あんざんがんの塊を見つけた。これは、大正時代に基礎や石垣に使われる一般的な石材だ。

「便器の素材は、この安山岩を使う。陶器のような滑らかさはないが、耐久性はある。清、お前はこの設計図の曲面通りに、石を削り出すことに集中しろ。茂、お前はS字管の原理を理解し、この太い銅管を正確に曲げろ。便器の構造は、人間の尊厳に関わる、最も精密な機構だ。」

清は、クルトが描いた西洋式便器の曲線に戸惑った。日本の便器のように直線的ではなく、座って使うための複雑な曲面が必要だからだ。

「クルトさん。この曲線を、どうやって…?」

クルトは工具袋から、細い金属の定規テンプレートと、先端にダイヤモンドを埋め込んだ削岩用のチゼルを取り出した。

「これを使え。チゼルは曲面を荒削りするための道具だ。そして、この定規は、『最適な座り心地』という、個人の尊厳に基づいた計測値だ。感情ではなく、定規に従え。」

清は、その「座り心地」という個人的な価値観のために、精密な道具が使われることに、新しい自由を感じた。彼は黙々と安山岩を削り始めた。

茂は銅管とS字の原理図を見つめた。臭いを遮断する水の層を作るという発想が、彼には新鮮だった。

茂:「…S字管。水で臭気を止める…これは、父さんの言う『不浄なものには近づくな』という精神論よりも、ずっと確実で、優しい防壁だ。」

彼らの作業中、クルトはエルナの足元に視線を向けた。エルナは、杖を突きながらも、常に正確な角度で清と茂に指示を出していた。彼女の不自由な体は、合理的かつ効率的な道具の使い方を、より鋭敏に導いていた。

夕暮れ時、安山岩を削り出した便器のボウルと、銅管のS字トラップが組み上げられた。清と茂の顔には、疲労と共に、初めて味わう『文明建設』の達成感が浮かんでいた。

この「水洗式便器」の建設は、彼らが古い価値観と決別し、清潔さ、尊厳、そして道具による合理的な生活へと足を踏み入れた、象徴的な一歩となったのだ。

(彼らが作ったのは、石の便器ではない。それは、父の呪縛から解放された、新しい時代の個人のプライバシーと自由の基盤だった。)


(クルトとエルナ、清、茂が建設中の家。壁の取り付けが始まり、冬の寒さに備える時期となった。)

西洋式のトイレに続いて、クルトは暖房設備の問題に直面していた。

「問題は暖房だ、エルナ。この廃材置き場は夜になると底冷えする。暖炉もいいが、効率が悪い。」クルトは設計図を眺めた。「本来なら、電気コタツが最も合理的だが、ここでは電源がない。」

エルナは杖をつきながら、体をさすった。「ええ、今の私の足のためにも、全身を温める熱の集中機構が必要よ。電気がないなら、熱を逃がさない構造に焦点を当てるしかないわね。」

茂が、それまで静かに聞いていた口を開いた。「あの…クルトさん、エルナさん。僕の家では、冬になると掘りごたつを作っていました。母さんが、よく炭団たどんを作って、火持ちが良いように工夫していたんです。」

「掘りごたつ…炭団。」クルトの顔に、新しい回路が組み上がったような閃きが生まれた。「なるほど。床の断熱と熱源の集中。日本の伝統的な知恵だ。それをさらに合理化するぞ。」

茂は、自分が必要とされたことに、喜びを覚えた。彼は父親から、その知識を「女子供の瑣末な仕事」と貶されていたのだ。

「茂、お前は炭団の経験者だな。火持ちを良くする、その機構について詳しく教えろ。清、お前は土壌の断熱材となる素材の回収を頼む。」クルトは即座に指示を出した。

茂は胸を張った。「はい! 炭団は、木炭の粉に粘土などを混ぜて固めます。そして、空気を遮断して燃やすことで、長く、均一に熱を出せるんです。ただ、掘りごたつは、熱が上へ逃げてしまうのが難点でした。」

「そこだ!」クルトは手を叩いた。「現代のコタツは、熱源の上に反射板リフレクターを置き、熱を下に、そして横に集中させる。電源がないなら、断熱と反射の仕組みで対抗する!」

クルトは工具袋から、鏡のように光沢のある磨かれたブリキ板と、アスベスト(※当時一般的だった耐熱断熱材)のシートを取り出した。

「掘りごたつに、現代の知恵を組み込む。まず、掘った穴の内壁に断熱材を張る。清、廃材置き場の奥にあるガラス繊維の塊を探してこい。それが無い場合は、藁と粘土を混ぜたものを分厚く張る。熱を土壌に奪われないようにするためだ。」

清は、父が「穢れたもの」として見向きもしなかった藁や粘土が、「熱効率」という新しい価値を持つことに驚きながら、作業に取り掛かった。

茂は、火床の設計を担当した。彼は、クルトから渡されたブリキ板を見つめた。

「クルトさん。このブリキを、火床の四隅に角度をつけて配置すれば…熱が、コタツの内部で再帰的に反射して、ずっと温かくなるのではないでしょうか?」

「その通りだ、茂!」エルナが杖で地面を突きながら、興奮気味に言った。「熱の波は光と同じように反射する! それが熱力学の合理性よ! あなたの炭団の均一な熱と、このブリキの反射機構を組み合わせれば、電気コタツに近い効率が得られるわ!」

エルナは、自分の足が不自由であるにもかかわらず、その知性が、より高度な合理的な機構を生み出す原動力となっていることを感じていた。

クルトと茂は、ブリキ板を正確な角度に加工し、掘りごたつ内部の四隅と底面に設置した。そして、清が集めてきた断熱材を分厚く塗り固めた。

数日後、掘りごたつが完成した。

茂が自作した火持ちの良い炭団に火を入れ、天板を乗せた。コタツの内部では、熱がブリキ板に反射し、効率的に温かさを保っていた。

エルナは、掘りごたつの中に足を入れると、全身に広がる温もりに安堵のため息をついた。右足の冷えが、ゆっくりと引いていく。

「お父さん、茂。これは完璧よ。文明の進歩は、ただ電気を使うことじゃない。道具と知恵の合理的な組み合わせよ。」エルナは微笑んだ。

清と茂は、顔を見合わせた。彼らは、父親の家で受けていた「熱のない精神的な支配」とは全く違う、「物理法則に基づいた確かな温もり」を、この掘りごたつの中で感じていた。

この掘りごたつは、単なる暖房器具ではなかった。それは、古い日本の知恵と新しい科学的な合理性が融合した、彼ら四人の新しい生活と解放の象徴となっていた。


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