ありがたき幸と不幸
翌朝、清と茂の母親であるイネが、二人の息子(清と茂)を伴って作業場に現れた。イネは地味な着物姿だが、表情にはどこか夫に怯えるような緊張と、神経質な高揚が見て取れた。
「クルト様、エルナ様。昨日は、この(父の教えに染まりきっている)ろくでなしの息子たちをお助けいただき、本当にありがたき幸せでございます。」イネは深々と頭を下げた。
「気にすることはない。技術屋の仕事だ。」クルトは工具の清掃をしていた手を止め、淡々と言った。
イネは風呂敷包みを広げた。そこから現れたのは、質素な作業場には不釣り合いな、見事な米料理の数々だった。秋の海で獲れた鮎の塩焼き、松茸と銀杏を炊き込んだおこわ、蒸し鮑の握り寿司、栗の渋皮煮を散らしたぜんざい。
エルナは目を輝かせた。「お父さん。この米と海の恵みの合理的な配置、感服するわ。すべてが正確な手順で作られている」
イネはエルナに、小さな茶碗を差し出した。
「エルナ様。特にこの鮑の握りを。主人が、『文明開化の道具を使う者には、穢れた海のものこそ相応しい』と申して…いえ、私の心からの礼儀でございます。」
エルナは静かに鮑の握りを一つ取り、口に運んだ。
その瞬間、エルナの顔から冷静な理性が消えた。亡き母が作ってくれたご馳走と酷似していたのだ。彼女の瞳の奥で、無表情が崩れた。一筋の涙が、頬を伝った。
「…なんでもないわ、お父さん。ただ…この料理の調味料の配合が、あまりにも合理的で…」エルナは言葉を濁し、再び鮑の握りに手を伸ばした。
そのとき、父親が障子の向こうから姿を現した。彼は両手を後ろに組み、不機嫌そうな顔でテーブルを睨みつけた。
父親:「ふん。鉄の偶像の信徒が、皇国の大米を食らうか。食えば食うほど、精神の穢れが深く刻まれるぞ。(自分の価値観に従わない者を罰する)仏罰は常に、人の善意の裏にあるものだ。」
「お父さん!」エルナは立ち上がり、父親を睨みつけた。「あなたのその古風な嫌がらせはそろそろやめたらどう? このご馳走は、お母さんの真心を込めた善意の機構よ!」
父親は冷笑した。
「真意? 真意など、仏の試練の深奥にしかない。エルナ。お前が食らったのは、仏罰を込めた、伝統の米料理だ。デモクラシーを唱えるお前のような人間には、この地の穢れを清めるための毒こそ相応しい。ありがたき幸せに、死ね!」
クルトは瞬間的に立ち上がった。エルナは激しい痛みに顔を歪ませて崩れ落ちた。「…毒…!」
父親:「ぐふふふ…どうだ! デモクラシーの合理的思考も、神聖なる毒の前には無力よ! お前のような、西洋かぶれの女など、この地から絶滅するのが、(私が定めた)国家の秩序というものだ!」
クルトは怒りを理性へと変換し、即座にイネに指示を出す。「イネさん! 炭と酢、そして油だ! 急げ!」イネは凍りついている。
クルトは工具袋から真鍮製の電動ドリル、乳鉢、濾過用の金網を取り出し、キッチンの木炭を粉砕して即席の活性炭を製造した。
「信仰は道具にならない! 炭は吸着剤、水は溶剤だ、おじさん! 万人に平等に、実用的に作用する法則だ!」クルトは練った活性炭をエルナの口に流し込んだ。
その瞬間、今まで無表情で立ち尽くしていた清が、初めて感情を露わにした。彼の目は、恐怖や驚きではなく、静かな、しかし激しい怒りに燃えていた。
清:「父さん! 父さんは、いつもそうだ!」
その声に、茂も顔を上げ、震える声で続いた。
茂:「そうだ…父さんの『試練』は、いつも誰かを傷つける! 仏罰なんかじゃない!」
父親は息子たちの反抗的な態度に驚愕した。「な、何だと! 国体精神を履き違えた、このろくでなしどもが! お前たちを、あの泥水から抜け出させたのは、仏の慈悲を教えるためだったはずだ!」
清:「違う! あの時、僕たちは自分の足が悪いなんて、一言も言ってない! 父さんはいつも、僕たちが失敗するのを待っている! そして、それを『仏の試練』と呼んで、僕たちを縛りつける!」
「そうだ! エルナさんを助けたのは、道具だ! 僕たちを泥から出したのも、道具だ! 父さんの『愛』なんて、ただの呪いだ!」茂が、普段のぼんやりとした表情をかなぐり捨てて叫んだ。
クルトは、エルナの処置を続けながら、その光景を横目で捉えていた。
(クルトは理解した。この父親が強要する「古い思想」は、単なる頑迷さではない。それは、自身の絶対的な権威と、他者、特に子供たちの自由な成長を許さない、歪んだ支配の機構だ。彼にとって、クルトとエルナの合理主義は、清と茂が持つべき個人の尊厳そのものだった。だからこそ、彼はその象徴であるエルナを、最も卑劣な手段で排除しようとしたのだ。)
クルトはエルナの痙攣が治まったのを確認し、最後の処置として、イネが持ってきた菜種油を少量飲ませた。
クルトはエルナを抱き上げ、立ち上がった。彼の目は、冷徹なメカニックの理性に、強い憤りを乗せていた。
「おじさん。お前がやったことは、人間としての基本構造を破壊するものだ。息子たちの言う通り、お前の『信仰』は、ただの呪いでしかない。」
父親は、息子たちの決別宣言と、クルトの冷たい論理に打ちのめされ、その場に崩れ落ちた。「…嘘だ…わ、私は…正しい試練を…」
クルトはエルナを抱いたまま、作業場から外へ出た。救助を求める声は上げない。彼の頭の中には、この後エルナを安全な場所へ運び、父親の毒親としての支配から清と茂をどう切り離すか、次の『複雑な仕組み』が既に組み上がっていた。
清と茂は、泥まみれの服と、涙で濡れた顔のまま、静かにクルトとエルナの後ろ姿を見送った。彼らの瞳には、自らの意志で選び取った、新しい解放の光が微かに宿っていた。




