『ようこそ、大正レトロ!』~いきなり津波と狂気の目覚め~
2025年10月。日本で自営で働く優秀なボート整備士・技師のクルト・クラインフェルト(38歳)は、昼休憩中。愛用の帆布の工具袋を傍らに置き、妻ハル、娘エルナ(12歳)と潮風に吹かれていた。
エルナは、少し離れた場所で、海を背に座り込み、スケッチブックに何かを描いていた。その背中は、周囲の明るい景色とは異なり、どこか静かで孤立しているように見えた。
ハルが娘の隣に座り込み、声をかけた。「また難しい絵を描いているの? エルナ」。
エルナはスケッチブックを隠さずに見せた。そこには、現代の海岸線ではなく、「水面が黒く塗りつぶされた、古い木造船の残骸」が描かれていた。
「この船はね、ママ。この海に沈むの」とエルナは言った。
クルトが近づき、その絵を覗き込んだ。「そんなことないさ、エルナ。この海は、最新のデータでは穏やかだ。船も最新の技術で設計されている。水に負けたりしない」
ハルはクルトに寄り添った。「そうよ。パパの知識と技術は、完璧だもの。全ては正確な仕組みで動いているの」。
クルトは頷いた。「その仕組みを理解することが、私たちを危険から遠ざけるんだ。お前の想像は、時々、予測不可能すぎるな」。
エルナは真顔で返した。「ううん。仕組みは、ただの重いネジよ。すぐに錆びるわ」。
その瞬間、世界が裂けるような無音の断絶と共に、景色が塗り替わった。クルトが目を開けると、現代の風景は消え、見知らぬ木造の家々が並ぶ古めかしい漁村になっていた。人々は着物姿。そして、遠くの海が、異常なほど引いていた。
ハルは震える声で尋ねた。「クルト、ここ…どこなの? 夢を見ているみたいだわ…。街の様子が、まるで古い映画のセットよ」。
クルトは動揺しながらも冷静に返した。「違う。これは現実だ、ハル。私たち…私たちは、何か異常な現象に巻き込まれた。周囲の服装、建物の構造…」。
ハルは信じられないといった様子で問い返した。「過去…? なぜ…? なぜ私たちが?」。
「分からない。しかし、今は冷静になるんだ。ハル、あの海を見てくれ。波が異常に引いている。これは津波が来る前触れだ。早く高台へ!」クルトは叫んだ。
ハルは息を飲んだ。「津波…!?」。
クルトはさらに言葉を重ねた。「そうだ! 考えるな! 生きるための最優先の行動だ! 走るんだ、エルナ!」。
三人が走り出した直後、遠くから「ゴオオオォン、ゴゴゴゴゴゴゴォォォォン……キィン、ギィン、バッッッッチィィン!」という、岩盤が砕け、鋼鉄が引き裂かれるような、天地を揺るがす巨大な破壊音が響き渡った。それは、水の激流と、木造の家屋が抵抗虚しく砕け散る、死の軋みの集合体だった。
巨大な水の壁が全てを呑み込んだ。家族は瓦礫と共に水中を激しく流され、クルトの耳には、水の中で必死に息をしようとする「ゴボッ…ゴボゴボッ…」という、ハルとエルナの溺れる音が響いた。クルトは必死に二人の手を掴もうとしたが、水の力がそれを許さなかった。
水の勢いが引いた後、クルトは泥の中でエルナを抱きしめていた。周囲は瓦礫と泥にまみれ、まるで終末のようだ。妻ハルは、流された家屋の残骸の下敷きになり、息絶えていた。
クルトはハルを抱き起こし、その冷たくなった頬に触れた。「ハル…ハル! 目を開けてくれ! なぜだ…! なぜ、お前だけが…!」と、彼はうめいた。
「私はボートの整備士だ。船の構造も、海の知識も持っていたはずなのに、なぜ、この巨大な潮の流れを避けられなかったんだ!」クルトは自分を責めた。
エルナは、その様子をじっと見つめ、何の涙も見せずに、泥の中からハルの服の切れ端を拾った。「パパ、ママの身体は、重すぎるネジが外れたのよ。」。
クルトが「静かにしろ、エルナ! お前の言っていることは、今の状況を何も解決しない! ママは死んだんだ!」と声を荒げると、エルナは続けた。「分かっているわ」。
クルトは、娘の言葉を理解しようとすることを放棄した。彼の長年の経験と技術者としての自信は、「タイムスリップ」と「愛する妻の死」という二つの事実の前で、完全に無力だった。
彼は、冷たいハルを抱きしめたまま、自身の無力さに打ちひしがれた。「私は、この時代で、何者でもない異邦人だ…。ハルを失い、残されたのは、用途も分からない工具袋だけ。私の知識は、全て、この潮に流されてしまったのか…」
クルトは、絶望的な孤独と、この時代に残された理由を知ることもなく、泥の中に膝をつくしかなかった。
クルトは、妻ハルを失った絶望的な孤独と、飢えと疲労に苛まれていた。彼は、このまま瓦礫の中で感情に沈むわけにはいかないと、まずこの時代の情報を集める必要があると自身に言い聞かせた。
クルトはエルナと共に、高台の避難所の炊き出しの列に並んだ。
「エルナ、周りの人に、この津波がいつ頃起こったのか聞いてみるぞ。正確な状況が、私たちを生き延びさせる鍵になる」とクルトは娘に言い聞かせた。
エルナは列の前の男を見つめながら、静かに言った。「パパ。あの人たち、見て服装が変よ」。
クルトの前に並んでいるのは、ボロボロの着物姿の四人家族。その父親は、他の被災者と目を合わせようとせず、周囲の喧騒を遮断するかのように、小さな木札に熱心に口づけを繰り返す男だった。
クルトは声を潜めて尋ねた。「すまない。私たちは旅の者で、この辺りの者ではないのだが、この災厄について、何か知っているか?」。
その父親はクルトの現代的な服と顔つきを一瞥し、すぐに目を逸らした。「…知らぬ。我らは皆、仏の試練の中にある。何も知らぬ方が、清らかでございます」。
クルトは、現実的な情報が不可欠だと考え、冷静な口調で続けた。「仏の試練かもしれませんが、現実には多くの人が瓦礫の下敷きになっています。私はボートの技師として、力になりたい。被害の範囲、発生時刻…具体的な事実が必要です」。
「技師…事実…」その父親は鼻で笑った。「全ては虚構。見せかけ。この世のものは皆、水に溶ける脆いもの。あなたの言う『事実』も、仏様の水に流されたのでしょう」。
クルトが自分の工具袋を指差し、「だが、この道具は残った。正確に組まれたものは、簡単には壊れない」と言い返すと、その父親は突如、顔を上げた。
「お前は、亡霊だ! その道具は、仏の怒りの証だ!」その父親の瞳には狂信的な熱が宿っていた。「仏様は言われた! 『潮が引く時、海の上に炎が燃え上がり、この世の偽りの仏、すなわち、鉄と油の偶像を全て焼き尽くす!』と!」。
その父親はクルトの工具袋を指差して叫んだ。「その工具袋! それこそが、お前たちが拝む鉄の偶像だろう! お前たちの傲慢な『仕組み』が、この地を穢したのだ!」。
エルナがクルトの袖を強く引いた。そして、その父親の目をじっと見つめて言った。「おじさん。海の上に燃えたのは、鉄じゃなくて、とても薄くて脆いものよ。おじさんが拝んでいる水の仏って、塩辛い水の匂いがするのね」。
エルナの言葉は、その父親の内なる世界を乱した。その父親は激しく逆上し、周囲の目を顧みず多弁になった。
「黙れ! 愚かな娘! お前たちこそ、この清らかな試練を邪魔する異教の徒だ! 私は見たのだ! あの大津波が来る直前、空の鏡(水面)には、何かが燃え上がっていた! それは呪いだ!」
エルナは少し首を傾げ黙った。
その父親の顔は一瞬にして硬直し、血の気が引いた。彼の個人的な心の闇を突いたようだった。彼は声を震わせた。「…黙れ! 黙れ! 私はお前たちのような外国の人間に、心を暴かれてたまるか!」。
その父親は、再び目を逸らし、自己完結するように呟いた。「…お前のような亡霊は、この清らかな時代には必要ない。早く、その穢れた道具を捨てて、仏に許しを請うべきだ」
クルトは、エルナの言葉が、男の狂気を引き出し、同時にタイムスリップの瞬間という決定的な異常現象を目撃した唯一の証言を引き出したことに気づき、激しく動揺した。この男の証言こそが、クルトが自分たちのいる場所と状況を正確に把握するための重要な手がかりになる。
クルトは、冷徹な目でその父親を見つめ返した。




