最終話 大切なもの
昨日は眠れなかったが眠気は感じない。なぜかは自分がよくわかっている。彼女の家に入ると彼女はソファに座っていた。
僕と目が合うとどのか神妙な顔つきで目を反らした。どういう話し合いになるか。僕には想像がついていた。
「あのね。今日時間をもらったのは話がしたかったからなんだ。なんとなく想像つく?」
彼女はソファの上で膝を抱えながら、前後に小さく揺れている。彼女は瞼をたるませ、床をじっと見つめていた。
「なんとなくね・・・。」
彼女の家に着くまでは他のことも考えていた。仕事を辞めたいとか。別のところに引っ越したいとか。そんな相談もあるかもしれないと思ったが、彼女の一言目で想像していたことが現実となった。
「本当に色々悩んで、苦しいくらい考えたんだ。このままずっと一緒にいるのもなんか惰性みたいっていうか。好きだけど、それだけで一緒にいれる年齢でもないし・・・。どうしたい?」
彼女は今にも泣きだしそうな表情でこちらを見つめる。そして、僕の答えはもう決まっていた。
「別れよう。」
その言葉を吐き出したとき、僕の心はすっと軽くなった。本当ならばよくないことかもしれない。弁護士になるという目標をずっと支えてくれていたのは彼女だ。恩を仇で返すなんてしてはいけない。あの時も約束したはず。
僕は耐えられなくなっていた。その重さにつぶされかけていた。だからどこか安心している自分もいる。
「私もね。ずっと支えてあげたいと思ってる。でもそれであなたの人生を縛り付けているって思うの。私のせいで自由でいられない・・・」
僕は勘違いしていた。自分だけが押しつぶされそうになっていたわけではなかった。彼女もまた自分に押しつぶされそうになっていたのだ。
「幸せにしてあげられなくてごめん。」
彼女は黙って首を横に振った。
「幸せだったよ。だから謝らないで。」
「何か言いたいことはない?」
彼女は前に別れ話をした際に見せた時と同じ顔でこちらに言葉を投げかけた。
「・・・実はね。人生で初めて死のうかなって思ったんだ。いろいろ耐えきれなくなって。」
その言葉はだれにも言えなかった。しかし、彼女には言えた。もしかしたら誰かに言いたかったのかもしれない。
「ごめん。負担かけたよね。」
彼女はまた大粒の涙をこぼした。
「違う違う。悪いのは僕だから。君はなにも悪くないよ?」
100人が100人この状況を見ても彼女が悪くないのは明白だ。それでもそう言ってくれるのは彼女の大きく温かいやさしさだろう。
そこから僕たちは思い出を語り合った。思い出すのは楽しかった思い出。ただそれだけで、悪い思い出なんて出てこなかった。そのたびに涙を流し、ティッシュで涙を拭きとった。
別れた後でも友達みたいな関係でもいい。僕は初めてそう思えた。だからこそ、申し訳なさがぬぐえない。しかし、昨日まであった胸の痛みはどこかへ飛んで行った。
「じゃあ。そろそろ行くね。」
長年付き合った彼女との最後の時。彼女の家の扉を超えた瞬間に僕たちは恋人ではなくなる。ドアノブに手をかけた時、彼女が言った。
「ねぇ。私のこと好きだった?」
「今まで付き合ってきた人の中でダントツで好きだったよ。」
「私も同じ!」
互いに涙をこらえながら、まっずぐに綺麗な瞳で視線を交えた。後悔はあるかもしれない。でもそれでも道は一つではない。いくつもの道があって、違う道に進むだけだ。だから大切だった思い出は捨てる必要はない。ただ相手の幸せを願う。それがこの世で最も美しいから。
「じゃあ、幸せになってね。」
「うん。あなたもね。」
扉を開けた空は澄んだように青く大きく広がっていた。僕は振り返らず、明日の自分へと足を進めた。