7 怨讐と復讐
マリアが振り下ろしたグラスの破片は、私の顔と肩をかすった。幸い怪我は大したことなく、治癒魔法で治してもらえて跡も残ってない。
あの後、大暴れするマリアを押さえるのに向こうの護衛がすごく苦労していた。足までばたつかせるから、ドレスがめくれて太ももどころか下着まで見えていたから……。
すぐに城の魔法士が睡眠魔法をかけて、そのままどこかに連れていかれた。
会合は、後日改めて場を設けられた。
あの後からマリアは、『聖女』だからと貴族を幽閉する部屋に入れられたそうだ。ずっと私に対する恨みの言葉を吐いているらしい。私が悪い、私が力を奪ったせいだ、と。
宰相や裁判官が何回も確認したけど、私に謝罪するつもりも罪を認めるつもりもないという。
インフィ国王は、マリアが『聖女』という立場を正しく理解して、私に謝罪することを期待していたみたいだけど、マリアという人間を一番わかってる私から見たらそれは、手で海水をすくって海の水を抜こうとする行為と同じだ。
途方もない期待。叶いそうで、叶わないこと。
最終的に、予め国同士で交わしていた「今回の会合で『聖女』からサニーへの謝罪がない、または虚言を認めない場合、インフィ国は今後一切サニーの身柄の引き渡しを要求、強要しない」という約定に従い、私は正式にメイフィア国民として暮らせるようになった。
インフィ国王は、マリアが謝罪の意を示したら再度考えてほしい、と言っていたけど、そんな日は来なそうだなと思い、返事はしなかった。
インフィ国からは、マリアの虚偽の疑いがあるのをわかっていながら調査しなかったこと、マリアの暴挙を最後まで止められなかったことを正式に謝罪された。
国王の対応には失望していたけど、大体はマリアが原因だったから、謝罪を受け入れた。だけどマリアのことは一切許していないから、マリアは『聖女』の力を失ったままだ。
その後は、インフィ国民に向けて私の罪状の撤回と名誉の回復、マリアの罪状の公開と断罪を約束して、会合は幕を下ろした。
行きは別だったけど、メイフィア国王に命じられて帰りは同じ馬車に乗る。
その理由を、私はなんとなくわかっていた。
「あれは、わざとだったんだろう?」
斜向かいに座る国王が私に問いかける。
なんのことを言っているのかすぐ理解して曖昧に笑みを返すと、国王は呆れたような顔をした。
有り得ないとは思っていたけど、それでも、もしもマリアが『聖女』の立場に固執して、形だけでも私に謝るか嘘をついたと認めたなら、この国のためにマリアを許すつもりでいた。本当に。
自分が間違いだったと認めること。それはマリアにとって、一番堪えがたい屈辱だから。
私が今までされてきたことを、それで相殺するつもりでいた。
その反面、どんなに言葉を尽くしても自分本意に考えて、正しく理解せずに、絶対に抵抗するとも思っていた。
だから私とメイフィア国は、それを利用した。
マリアが謝罪をしなかったら、そのときは、と。
マリアのことだから、少し煽れば絶対に手を出すとふんだ。
だから詰め寄ったけど、あそこでグラスを投げてくるとは思わなかった。ちょっと手が滑ればメイフィア国王に当たるかもしれないから、さすがにやらないだろうと思っていたのに。
城での贅沢で自由気ままな暮らしと、それが起因で思い通りにいかなくなった欲求不満のせいで、直情的な性格が増長したらしい。そういう意味では以前の方が少しましだった。
平手打ちがせいぜいだと思っていたから、グラスの破片を向けられたのも予想外だった。
だけど私は、敢えて避けずに、急所に当たらないように受けた。
そう。国王の言うように、わざと受けて、わざと怪我を負った。
マリアが殺意を持って私を攻撃した、と見えるように。
だって、マリアは自分がしたことを忘れて、私の両親のことを我が物顔で語ったから。それは許せなかった。
二人が天国で悲しんでいるなど、死んだその日に吉報のように吹聴してたくせに、どの口が言うのか、と。
だから、マリアの存在意義を、周りから愛されているという絶対的な自信を、へし折った。
マリアが「自分は愛されている」と口にしたら村長夫妻の話が再生されるように、事前に石を細工してもらっていた。
マリアを追い詰める手段ではあったけど、マリアが両親のことをなにも言わなければ使おうとは思わなかったし、もし言葉を口にしなかったらあの真実は伏せたままになっていた。
それもいいと思っていた。
村長夫妻を訴えても、両親はもういないから。
それに両親は生前、夫妻を避けていたけど決して彼らを悪く言ったことはなかった。
許したのではない。関わって、思い出して、何度も傷付きたくなかったのだと、今ならわかる。
マリアを断罪するのに両親の過去を使ったことは、後ろめたく思うけど、それ以上に私がマリアを許せなかった。
私は一生両親に対する罪悪感を抱えて生きていくだろう。
メイフィア国で話を聞いたとき、マリアと血の繋がった双子の姉妹ということに絶望したけど、同時に村の人たちや村長夫妻の話で、多少はマリアに同情した。
あんなに周囲から愛されてると自信を持っていたのに、マリア自身は愛されていなかった。それを本人は知らずにいるなんて。
なんて、哀れで、滑稽なんだろう、と。
だから謝罪するか認めるかしていたら、両親のことを言わなければ、あそこまでマリアを貶める気はなかった。
でも最後まで、否、今でも拒否しているのだから、自業自得だと思うことにした。
予定とは違ったけど、マリアは第三者が見ている公の場で、私を攻撃した。
しかも『聖女』という立場で許されるとでも思ったのか、自分が「正しい」という意識からだったのか。グラスの破片を、私の正面から、私の後ろのほうに、わざわざ取りに行って、私に振りかぶった。
そして、このマリアの凶行を、インフィ国側はなかったことにはできない。
なにせ『独裁の禁止』以前に、他国の王族に対する反逆の可能性だってあったのだ。
私を冤罪で追放したのとはわけが違う。
日常的に暴力を受けていると打ち明けた侍女の証言や、花瓶を投げつけられて失明した先生の存在を隠すのとはわけが違う。
国際問題に繋がりかねない、重罪だ。
しかもあの会合は正式なものだったから映像記録がされていて、後で国際機関に提出しなければならないという。隠蔽は不可能だ。
インフィ国は、国のために、絶対に『聖女』マリアを断罪しなければならなくなった。
国のために『聖女』の罪を隠していたのに、国のために『聖女』の罪を暴かなければいけない。
インフィ国の信用やイメージは一気に落ちるだろう。
メイフィア国の狙いは、それだった。
* * *
メイフィア国最後の『聖女』は、今から三代前の王が治めていた頃に現れた。平民の娘で、燃えるような赤い目が印象的な少女だったという。
インフィ国では『聖女』を妃にするという決まりがあるため平民であっても城で保護するが、メイフィア国では『聖女』は国民に尽くす存在として身分に関係なく教会に預けられ、独身の生娘であることを生涯強いられる。
自国との待遇の違いを知った『聖女』の心は次第にメイフィア国から離れていった。それでも『聖女』がこの国に心を傾けていたのは、大好きな家族や友人がいる、という思いだけだった。
同じ頃、当時のインフィ国王は、天然資材の豊富なメイフィア国を自国に吸収しようと、国力を削ぐために画策し、そして潜んでいる間者に命令した。
メイフィア国の『聖女』に「我が国の『聖女』として迎えよう」と言って連れてこい、と。
『聖女』は、優遇される未来と、大好きな家族や友人を天秤にかけて、優遇される未来に心が傾いてしまった。
『聖女』は、国ごとの魔力を使って、国を加護する。
『聖女』が国から出てしまうと、魔力の流れが途切れて加護が機能しなくなる。
それでも『聖女』が戻る前提で国を離れたなら、加護は『聖女』が再び戻ると機能する。
ちなみに『聖女』が亡くなった場合は、次の月に必ず産まれる『聖女』が加護を引き継ぐ。力を安定して使えるようになるのは十六から十七と言われているが、その間は彼女たちが制御できず溢れた魔力で加護を維持しているから、問題はない。
問題は、『聖女』が国を出る際に、二度と戻らないと考えていたとしたら。
『聖女』が見放した国と認識されて、『聖女』は二度と現れなくなる。
メイフィア国はインフィ国の策謀により、二度と『聖女』が現れない国になってしまった。
国を離れた『聖女』も、インフィ国の魔力に適応はしてたが、『聖女』にはならなかった。
既にインフィ国に『聖女』が存在していたこともあったが、そもそも『聖女』は産まれた国の加護を担う。移り住んでも、その国の『聖女』になることは、最初からできない。そのことを彼女は知らなかった。
王から『聖女』として迎えられたのに、と叫んでも信じる者はいない。
彼女は『聖女』と偽った罪人として刺青を入れられ、国外追放され、そのまま行方知れずになったという。
この事実を後に知った当時のメイフィア国王は激怒したが、国際的に禁止されている戦争を起こせば、双方の国が滅ぼされる。だが溜飲を下ろすことはできない。
国際機関が間に入った話し合いの末、インフィ国側からの多額の賠償金と、メイフィア国の名誉回復のため事の顛末を公表することで、和解とした。
当時のインフィ国は大陸で一番力のある国だったため、逆に『聖女』を奪われたメイフィア国側が周辺国から不当に責められた。インフィ国に余計な刺激を与えるな、と。
これ以来、インフィ国とメイフィア国の間には明確な亀裂が入り、国交は最低限になる。
メイフィア国はその後、周辺国から孤立するが、豊富な天然資材と『聖女』不在であっても魔物災害にも対応できる兵力で荒れた国内を立て直し、現在では『聖女』がいた頃とそう変わらない。
そして先代の功績で、インフィ国以外の周辺国とは現在友好関係にある。
その後勢いの落ちたインフィ国と逆に、メイフィア国は『聖女』不在であっても滅びることなく栄え続けている、世界的にも稀有な国になった。
『聖女』と、彼女と同等の存在の『聖女の片割れ』は、いまだに不可解な存在だ。
『聖女』は国を映す鏡とも言われていたり、荒んでいるからこそ清廉な『聖女』が現れて正そうとする、とも言われている。
不在になったことで瞬く間に滅び去った国もあれば、我がメイフィア国のように国力で生き延びている国もある。
『聖女の片割れ』であるサニーが「インフィ国」から蔑ろにされたことも、『聖女』マリアが悪辣すぎたのも、まるで見えない大きな力がインフィ国を貶めたような、そんな錯覚さえする。
今回の件で、サニーは国王の謝罪を受けて許したが、サニーにはインフィ国に戻る意思はない。
インフィ国王は今後も自国に『聖女』が現れると思っているだろうが、『聖女』と同等のサニーはインフィ国を出る際、二度と戻らない、と決めて出ていってしまった。今もそうだ。
これが今後、インフィ国にどう影響してくるのか。
『聖女』ではないから次代も現れるか、『聖女』という認識がされて二度と『聖女』が現れなくなるか。
それを理解しているか否かで今後の対応が変わってくるのだが、それをインフィ国王は一切確認しようとせず、影響はないと思い込んでいる。
浅はかな王だ、と、もう溜め息も出ない。
だがインフィ国は今後、その報いを受ける。
『聖女』を害すると二度と『聖女』は現れなくなってしまう。そのためインフィ国は、マリアを今までと同じように生涯養わなければならない。勤めも果たさずに、税金で贅沢に暮らしていたことを国民に公表されたうえで、だ。
国民の感情は果たして、好意的なままか、否か。
仮に、サニーへの謝罪がなくとも、マリアが『聖女』として真摯に努めれば、国民がマリアを『聖女』と認める可能性はまだあった。
だが今の状態を見れば、それも無理だろう。
彼女はいまだに自分の罪も立場も理解していない。
牢屋と言っても貴族用なため、内装はこれまで使っていた部屋とそう大差がない。食事も変わらずきちんとしたものが出され、入浴も侍女が手伝って毎日される。要求もある程度は受け入れられる。
『聖女』を不当に扱うことができないため、そうせざるを得ない。
故にマリアは自分は無罪だと、許されたと勘違いしているらしく、以前の部屋に戻せ、と暴力的に要求しているそうだ。そのたびに看守が説明するが聞く耳を持たないそうだ。
あのマリアの態度を思うと、看守の心労が窺える。
一縷の希望として国税で養う『聖女』マリアは、罪を認める気がない。
彼女の死後に次代の『聖女』が現れるか、現状不明。
真実から目を背け、都合の悪いものを隠蔽しようとするインフィ国王に相応しい罰だろう。
唯一の救いは、彼の息子が、父と今回の件を反面教師にした聡明な青年であることだろう。
国民の信頼を再び得ることは難しいだろうが、『聖女』に惑わされず、真実から目を背けず、こちらの思惑に協力した豪胆さがあるから、あるいは将来我が国との関係に変化をもたらすやもしれない。
国境を越えてメイフィア国に戻ったことで、サニーの持っていた映像保存の石が、サニーの魔力に反応して起動する。
現れたのは、サニーの両親の亡骸を最初に発見したという、村にある森の中で魔物退治と薬師を生業にして暮らしている老夫婦だった。
「ひどいもんだったよ……呼ばれて駆け付けたら、あちこち魔物に食い千切られていて……。だけど、すぐ追い払えたからまだジェイニとアリアドネだってわかる状態で……。まぁ、そんなこと、サニーにはなんの慰めにもならんのだろうけどな……。
……人を呼んで遺体を運んでたときに、二人の足跡ともう一人の足跡を見つけてな。それがある箇所でまるで争ったように足跡が乱れていたんだ。もう一人の足跡はそこから、二人の遺体があったのと反対側、村の方に向かっていたんだ。
後であの子も森にいたと、こいつから聞いて、尋ねたら、両親に内緒で森に入ったから内緒にしてほしい、って言われてな。だが、サニーの両親には会ってないという。足跡のことを言っても知らないの一点張りで、とうとう村長に訴えると言われてしまって、私ではそれ以上は訊けなくなってしまったんだが……。
あまり考えたくないし、ジェイニとアリアドネは優しい子たちだったから有り得なくはないと思うが……まさかあの子が……マリアが……二人を囮にして……と……」
「私もあまり疑いたくないけどね。二人とマリアがなにか言い合っていたのも、どうしても気になって……。何を言ってたかまでは遠くて聞こえなかったよ。
ただ、私も仕事があったから、気にせずそのまま畑に戻ったんだ。そうしたら奥から魔物の吠える声と二人の悲鳴が聞こえて、すぐにマリアが村の方に走っていったのが見えて……私も慌てて家にいたこの人を呼んできて……。間に合わなかったがね……。
マリアは村に助けを呼びに行ったと思ってたんだが、そのまま家に戻って、村長にもなにも言わずにいつも通りに過ごしてたっていうじゃないか。この人が訊いても知らないと言うし、私が見たと言っても知らないと言うし……。挙げ句、耄碌してたんじゃ、とまで言われてね! 腹が立ったよ!
だけどあの村じゃ、村長に逆らうと生きていけないんだ……口をつぐむしかなかったけど……あの家でサニーがひどい扱いを受けていたと知ったら……もう黙っていられないよ……!」
映像が終わる。
今回の会合でこの件についてもマリアに言及するか、最後までサニーは悩んでいた。
「証言のみで、状況証拠はもうない」
「……そうですね」
「お前が、虐げられていたと主張していたのと同じだ。例え真実であっても、大きな力で、簡単にねじ伏せられる」
老人が言っていたように、夫妻が囮になってマリアを逃がした可能性もある。反対に、囮にされられた可能性も、言い合ってたということから夫妻のせいで魔物に襲われそうになったから逃げた、ともマリアは言える。
結局は死人に口なし。マリアは自分の都合のいいように言うだろう。そのせいで夫妻まで罪人にされるかもしれない。そう言ってサニーは訴えることを諦めた。
だからといって、なかったこと、にはならない。
メイフィア国とインフィ国との間に残る禍根のように。
サニーとマリアの間に生まれた軋轢のように。
だがサニーも私も、人知れず復讐を果たした。
相手に、相応の罰を与えて。