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第26話 夫とは

 よくわからないけれど、ラルフはものすごく力を落としているようだった。


 何がいけなかったのかしら?


 出来る限り譲歩したのに。



 ラルフと話すのは楽しいし、本当はここから通って欲しかった。

 なぜなら、ここに閉じ込められていては、外の情勢がよくわからないからだ。


 情報だけでなく、ラルフの解説は重要だった。彼の見方は私の見方とよく似ている。父の見解より鋭いと私は思っていた。


 でも、わがまま言っちゃいけないわ。


「あなたがここに通うことで、本命の方の誤解を呼びこむのが怖いとお思いになるなら、情報はビンセントにお願いしてみましょうか?」


 提案してみた。


「ビンセントに何を頼むつもりなんですか?」


 いきなり、口調が激しくなった。バッと上げた顔がまだらに赤くなっている。めずらしい。


「本当はあなたからお聞きしたいのですけど、あなたはここには来たくないでしょうから、情勢を聞くのにビンセントとか……」


「ビンセントの出入りは許しません!」


 ラルフが怒鳴った。

 外国公館だからだ! しまった!


「申し訳ございません。立場を忘れていました」


「そうです」


「パロナ公国の公館でしたわ。外部の人間の立ち入りは禁止でしたわね」


「違います! 人妻でしょう、あなたは!」


「ああ、そうでした!」


 そっちか。しまった。


「私は夫です」


「そうでした! すっかり忘れていました。申し訳ありません! 外聞と言うものがありますわね!」


 バランスを取るのって難しい。外からは疑われてはいけないし、中ではきちんと距離を取らなくてはいけない。私はこっそりと、なんだか怒っているように見えるラルフを盗み見た。



 ************


 翌朝、猛烈に機嫌の悪いラルフは公館から出て行った。


 一体、誰が変な誤解をオーガスタに吹き込んだのだろう。



 聡明で勘がよく、空気を読むのに長けているはずの彼女が、どうしてこの問題に関してだけは、こうまで訳が分からないのだろうか。


「エレノア嬢の方が全然マシだ」


 思わずぼやいた。


 男と見れば自分に好意を持っていると思うタイプなので、オーガスタ嬢のような誤解は絶対にしない。


「それはそれで厄介だが」


 しかし、焦ることはない。あと一月ある。


 いや、焦らなくてはならない。あと一月しかないのである。相手が、あのオーガスタだ。


 姉の持つ外国公館に閉じ込めておくことにしてよかった。本人は気付いていないが、立派な監禁だ。


「出来るだけ早く帰って、真面目に口説こう。それしかない」


 公爵邸では口説く環境がないことを痛感していた。

 


 自分は今まで真面目に接してきた。

 いつでも仕事で否応なくお話しています、というスタンスを崩さなかった。


 当たり前だ。彼女は王太子殿下の婚約者筆頭だったのだ。変な噂が立たないように公爵家が必死でガードしてきた。


 自分もその陣頭指揮を執ってきた。当然、疑われるような行動は絶対に取らない。むしろ冷たいくらいにふるまってきた。


 オーガスタ嬢はすっかりその調子に慣れている。いまさら、どの面を下げて恋人役に変身できると言うのだ。


 それに、オーガスタ嬢は誰からも好きだなんて言われたことがなかった。ラルフの必死の努力の結果である。

 ビンセントが心を込めて、あなたが好きだとアピールしていたが、全く反応がなかった。


 その上、彼女は婚約者に裏切られているので、どうも、男性が話しかけること自体が悪印象のようだ。


「でも、今は夫だし」


 教会の式の時、キスしようとベールを上げた時のことを思いだした。


 完全に不意を突かれたようで、ビックリしてこちらを見ていた。その純な瞳がたまらなかった。


「まったくの初めてっぽかった……」


 どうしたらいいのか全然わからず、戸惑い、されるがままになっていた。


 それを思い出すと意欲がわいてきた。とめどなく。俄然、ヤル気がわいてきた。


「どうとでも、なんとでも。手段は選ばない」




 パロナ公家の家紋をかたどった鋳鉄製の重厚な門を馬車で出て行く時、ラルフは知らなかったが、彼の形だけの妻は心配して窓から彼の姿を目で追っていた。

 もしラルフが知ったら、狂喜乱舞したことだろう。


 だが、ラルフを見ていたのはオーガスタだけではなかった。


 超有能な古参のハウスキーパーと執事長が、今、がっちりとタッグを組んで、公妃様お気に入りの弟のために、オーガスタ嬢再教育の支援体制を組もうとしていた。


「マリーナ夫人、これはいけませんな」


「ええ。ヴィスコンテ卿、見過ごせませんわ」


 主人のいない館に、常にこれだけの数の使用人が必要なわけがない。


 当然ながら、全員がパロナ公家の派遣した、優秀な秘密情報諜報員スパイなのである。


「おまかせくださいませ。リッチモンド公爵家との結びつきは、ルフラン王家より重要でございます。ええ、下手な貧乏くじよりもずっと」


 笑うといかにも柔和でお人よしそうに見えるマリーナ夫人が、ぽっちゃり気味の口元をへの字に曲げて、ヴィスコンテ卿と呼ばれた男に宣言した。


 黒いほおひげと口ひげを威厳たっぷりに生やした分、頭頂の毛が少々お留守になったように見受けられるヴィスコンテ卿はうなずいて腕組みをした。


「女性のことは女性に。なれば私は男性の問題を扱いましょう。下手な貧乏くじにはそれなりの運命を……」



 オーガスタ嬢が、図書室を見つけて、パロナ公家代々の系図と年代記と、各時代の当主の逸話を夢中になって読みふけっている間に、買い物に行くふりをした女中が手紙を届け、ウマに蹄鉄を付けに出かけた下男はそのままなかなか帰ってこなかった。


 そして、ソフィアはマリーナ夫人にお茶の淹れ方について教わると言う口実で呼び出され、見事に洗脳されていた。


 *************


「お嬢様……ではなくて、オールバンス夫人」


「なんなの? その呼び方」


「ええと、やはり、お嬢様はよろしくないそうで……それはとにかく、明日は、ババリア夫人がお越しになるそうです」


「ババリア元帥夫人が?!」


 叫ばないわけにはいかなかった。


 ババリア元帥は超有名人。

 国王陛下すら、ご機嫌を伺うと言う。

 そして、愛妻家としても知られていた。


「ラルフ様のすぐ上のお姉様だそうです」


 社交界にはあまり出てこないと聞いていた。


 結婚したのは十年以上前のはず。


「弟の電撃結婚の話をお聞きしたいと」


 さあ、困ったわ。


 馴れ初めとか、どんなふうにラルフを思っているとか、結婚のきっかけとか聞かれたらどうしたらいいのだ。


 本当のこと、言っちゃっていいのか。


「明日ですか。だけど、私、公爵邸に戻らないと歓迎出来ませんわ。まさか客分の身の上でおもてなしをするなんて無理です。公爵家に帰ってから……」


 私は身をくねらせた。困る。


「ここはババリア元帥夫人の実姉のおうちなので、大丈夫だとマリーナ夫人はおっしゃるのですが……」


「ラルフは今晩いつ頃帰って来るのかしら?」


 あまり迷惑をかけたくなかったけれど、ラルフに聞くしかなかった。


「なに? クレアが来る?」


 一緒に夕食を食堂でとっていたラルフにその話をすると、彼は怪訝(けげん)な顔をした。


(まるで自分の家のようだわ)


「呼んでもないのに?」


「あの、公爵家に戻ってもいいでしょうか? 私の家でなら、いくらでもおもてなしできますので」


「とんでもございません。そんなことでリッチモンド公爵家にご迷惑はかけられません」


 給仕をしていたマリーナ夫人が割って入った。


「お茶をご一緒になさるだけですもの。なにを気を使うことがございましょう」


 マリーナ夫人の前では話にならない。聞きたいのはそこではないのだ。仕方がないので、私は夜分男性の部屋を訪ねる羽目に陥った。


「ごめんなさいね、ラルフ」

 私はしょんぼりとラルフの寝室のドアをノックした。


「こんなことがマリーナ夫人にバレたらどうなることやら」


「こんなことって?」


「こんな夜更けにラルフのお邪魔をすることですわ」


「喜ぶと思うよ。喜ぶ以前に当たり前だと思ってると思うが」


「事情は話してあるっておっしゃってましたでしょう。はしたないですわ」


 だって、ラルフはすっかりくつろいだ格好をしていた。

 寝巻きを着て、スリッパを履き、上からローブを着ていた。

 湯を使った後なのか、黒い毛先はまだ乾き切っていなくて、クルクル巻いていた。


 これでは、目のやりどころに困ってしまう。


 しかし、仕方ない。


「やはりお姉さまに嘘はいけませんわ。偽装結婚の話をしないといけませんわね」


 ラルフが何か不満そうに膨れ上がった。


「いいですか、オーガスタ嬢」


 ラルフは真面目だった。


「偽装結婚したいのはあなたで、私はちっとも望んでいません」


「は?」


 どういう意味?


「ずっとあなたと結婚したままで構わない」


「え? でも、あなたのその想い人は、その場合どうなるのですか?」


「だから、誰ですか? その想い人って?」


 ええと、言っちゃっていいのかしら?


「あなたはとても女性に人気があるそうで、あちこちで女性に告白されて……」


「は?」


 ラルフがすごいしかめ面に変貌した。


「そんなにモテた覚えはないんですがね?」


「そんなことはないですわ。社交界ではうわさになってるそうです」


「いや、そこはとにかく、好きな人って誰のことなんですか?」


「本人にしかわからない、誰にも言わなかったそうです」


 だんだん、誰の話をしているのかわからなくなってきた。目の前の「本人」は今まで見たこともないくらい機嫌が悪くなっていて、氷のように冷気を発していた。


 私は、夫に愛人がいてもいいって言っているレベルの寛容さなのよ? 評価して欲しいわ。


 嫌なことを聞くと思ってるんでしょうけど、今聞いてるのは、明日、お義姉さまのババリア夫人に私たちの結婚について、どう言えばいいかってことの確認なんだから。最低限の打ち合わせなのよ。


「あなたの恋人の説明を私がするのはおかしいし、第一、私にそんな権利はないわ。それは家族でも秘密でいいと思うので」


 ラルフの茶色の目が真剣なのがわかって、怖くなってきた。


 私、変なこと言ってる?


「家族ならね。でもね、私たちは夫婦なのですよ?」


「夫婦?」


 私は目を丸くした。


「偽装結婚に夫婦なんて概念ないでしょう?」


「偽装結婚したかったんじゃない。偽装結婚にしたかったのはあなただ」


 私は考えてみた。


「あなたの提案ですわ。私にはそれしか選択がなかったのです」


 ラルフが大きなため息をついた。


「でないと、王太子殿下と結婚しなくてはならなくなりますしね。それは、公爵家としても困るのです。ラルフ、あなただってよくお分かりのはずです」


「その部分はね。もちろんわかっています」

 ラルフはうなずいた。


「ですから、父は一番手近にいて、お願いしやすかったあなたに頼んだと思うのです」


 ラルフの目がどんよりしてきた。


「そこも当たってはいますけどね、でも、間違っているのは私はあなたと結婚したかったのです」


 私はラルフの顔を見つめた。


 何時だって仕事で接してますよ?みたいな態度だった。冷淡で、皮肉くらいなら言うけれど、ほとんど笑い顔なんか見たことがない。


「なぜですか?」


 ラルフの長い指が頭の毛の中に突っ込まれて、毛がぐしゃぐしゃになった。


「一度言いましたよね? 初めて会った時からあなたが好きだったと」


 ええと?


「ダンスパーティの時に。勇気を振り絞って伝えた」


「そう言えば……どうしてあんなことをおっしゃったのかよくわからなかったわ」


「どうしてですか? 思ったままの真実ですよ?」


 ラルフが怒っているのが伝わってくる。私はあわてた。


「だって、直前に、きちんと注意されたのですもの」


「何を注意されたのですか?」


「ラルフには、昔から思う人がいるって。その人のことを真剣に愛しているらしいって」


 ラルフは急に真っ赤になった。

 あら。

 この人赤くなれるんだ。


「それで? あなたはそれを聞いてどう思ったのですか?」


 今だ。今こそ、私の誠意を伝えるべき時が来た。


 私は顔を上げてまっすぐにラルフの顔を見た。


「私は、絶対に邪魔をしないようにしなくてはと思いました。ラルフ、あなたにはお世話になった。あなたの恋に協力は惜しみません。だから、今日もあなたがどうして欲しいか聞きに来たの」


 ラルフの表情が死んで、腐った魚の色の目になった。


 彼はしばらく眼をしょぼしょぼさせてから、聞いた。


「オーガスタ嬢、あなたはそんな男に嫁ぐのは嫌ではなかったのですか?」


「だって、だから偽装結婚だったのですよ」


「偽装結婚じゃなかったらどうだったのです?」


 私は少し考えた。


「いやかも知れなかった。私は私を大事にしてくれる人と結婚したかったの。だから、偽装結婚ならいいと言ったの」


 ラルフは椅子から立ち上がって、私の目の前に立った。


「私には大事に思っている人がいます」


 その目が私の目を見つめてきた。


「とても大事な人だ。大切にしたい、守りたいと思っている。オーガスタ嬢に注意した人は本当のことを言ったのです」


 私はうなずいた。エレノアのあの話し方は嘘を言っている時の様子ではなかった。


 私は正しいことをしてきたのだ。


 ただ、どこかで寂しい気はしていた。この人にも、大事な人がいる。でも私にはまだ見つかっていない。


「でも、あなたにそのことを教えた人は、私の大事な人が誰だか知らなかったのでしょう」


「ええ」


 私はうなずいた。


 ラルフの目が異常なほど私を見据えている。彼はゆっくり言った。


「その大事な人はあなたですよ、オーガスタ嬢」


 ん?


「その大切な恋人はあなたですよ」


 ?


 次の瞬間、結婚式の時以来の惨事が起きた。


 ラルフは私の腕をつかんで、唇にキスした。


「あ、……」


「叫ばない! 助けを呼ばない!」


 腕をつかまれたまま、私は一生懸命逃げようとした。柔らかな唇の感触から。がっちりつかんで離さない腕から。


「いいですか? 助けなんか来ませんよ? かっこ悪いだけですからね」


 助けてくれない? 怯えたウサギかなんかのように私は追い詰められてラルフを見た。


 ラルフがうなずいた。


「夫ですから」


「夫?」


「結婚しましたよね? 結婚の意味、分かっていますよね?」


そのうち成長します。生暖かく見守ってください。

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