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かくれんぼをしていた

作者: 扉野ギロ

ジワジワと蝉が鳴いている。

風はなく、少ししたことでがなる木々も今はやけに静かだった。


全体的にしらっちゃけて見えるほど強い日差しに焼かれている庭は、あえて黙っているのか、それとも死んでしまっているのかと思う。


私は、そんな庭の姿と同じく縁側で横になっていた。

部屋に満ちた熱気を、扇風機が捻じ曲げて私の背中によこす。生ぬるい風が私を通り過ぎて灼熱の庭へと帰っていく。


何度目か、背後で紙の捲れる音がした。


「退屈だろ」


ふいに叔父さんが言った。

たしかに暇だけど、何とも言いようがなくて私は「うーん」と曖昧に返事をして体を起こした。


「田舎なんてな、こんなもんだ。大概やる事がなくてぼーっとしてんのさ」

「うん」

「暑いなら、ばあちゃんの部屋で寝たらいいぞ。うちはあそこにしかエアコンないから」


涼しいぞ。と叔父さんが脇にあるテレビの方を目線で促す。


古い日本人形やお土産みたいな置物と、湯のみ茶碗が入った茶箪笥。その脇の開口に手編みの暖簾が掛けられていて、その向こうには廊下がある。

廊下を北に進んだ一番奥、トイレに近い部屋がおばあちゃんの部屋だ。


私は、テレビが置かれた壁の方をなんとなく見つめた。


「大丈夫」


なんとかそう伝えて、私は立ち上がった。


「川がもっと近ければいいんだけどな。ここからだと少し遠いよなあ」


そういえば、と思い出した。

昔、遊んだ記憶がある。

向こうの山とこっちの山の間にある川だ。コンクリートの橋がかかっていて、その周囲の底が浅い。

深さはたしか膝くらいまでで、透き通っていて、丸い石が敷き詰められていて、冷たくて気持ちよかった。


「でも、水着ないもん」


ここに来ると決まった時、遊ぶことなんて考えていなかった。

もし、川遊びのことを思い出していたら、水着を持ってきたのに。


カワイイ水着を着て自撮りをアップしたら、きっと……。

本当に残念だ。

後悔する私をよそに、叔父さんは、ハハ、と笑った。


「なんだ、入りたかったのか。だったら、そのまま入ったらいいんだよ。これだけ暑ければすぐに乾くだろうし、川遊びはプールで泳ぐのと違うからな」

「このまま入るの?」


気がつくと汗で湿っていたTシャツの胸元を引っ張ってみる。

パジャマ代わりに持ってきた部屋着のものだ。濃い青色で、胸の真ん中にアンディーウォーホル風のバナナがプリントされている。


別に普段着ではないからどうなってもいいけれど、なんとなく濡れることには躊躇してしまう。


「汚れるのが嫌なら、俺のを貸してやるよ」

「でも……」


それとなく叔父さんの服を見る。

ベージュと黄色のチェックの半袖シャツは、やっぱり叔父さんぽくて可愛くない。

叔父さんのセンスには期待できないけど、でも、Tシャツなら変な柄じゃない限り、着こなしでいくらでも可愛くすることができる気もする。


「いいの?」

「ああ、ちょっと待ってな」


新聞を折り畳んでテーブルに置くと、叔父さんは二階へ上がっていった。


ギッ、ギィ。

叔父さんが一段踏むたびに音が鳴る。

そうして叔父さんの気配が完全に二階に移動した途端、私はどこか落ち着かない気分になった。


部屋はずっと静かなのにもっと静かになったような。

扇風機が空気に触れて震える音とモーター音、首が回って擦れる音だけが妙に大きく聴こえて、それ以外の音が何もかも消えてしまったかのように感じられた。


何かが起こる、とそう感じた。


――――よ


壁の向こうから、した。

思わず目を逸らしたけれど、体はテレビと向き合ったまま動くことができなかった。

嫌なのに、その向こうにある姿を想像してしまう。


おばあちゃん。

寝たきりの。


ふと喉の奥が熱くなり、胸が苦しくなった。鼻の奥がツンとして、目頭から何かが込み上げてくるのを感じる。


「やめて」


喉の熱に焼かれて掠れた声が言葉になる。

反動で後ずさり、扇風機が倒れた瞬間――。


カッ、カッ、カッ、カッ。


「…………」


音が戻った。

ジワジワ、と蝉のなく声も、扇風機が風を生む音も。

首筋を汗が伝う違和感を感じた。

触れると。首元がびっしょり濡れている。


今の静けさは何だったのか。

漠然と感じた引き込まれるような悪寒を忘れたくて、私は庭の方へ近づいた。

すぐ脇で倒れて首の回らなくなった扇風機が、まるで痙攣でもしているかのように首を鳴らしていた。


ギッ。

背後で音がして慌てて振り返ると、叔父さんが暖簾を潜って居間に入ってくるところだ。


「これが一番まともだと思うんだけどさ。どうせ汚れるんだからいいだろ?」


叔父さんが畳まれたままの焦茶色のTシャツを差し出す。


「ありがとう」


叔父さんを見て、これほど安心するとは思わなかった。

涙が出そうになるのをこらえて、私はTシャツを受け取ろうと手を伸ばした。

すると、


「……どうかしたのか?」


そう言って叔父さんが私を見る。


「んーん。なんでもない」


笑ってみせたけれど、いまいち顔の感覚が鈍くてちゃんと笑顔になっているかわからない。

叔父さんは、一瞬訝しげな顔をしたけれど、


「じゃあ、出かけるか」


何事もなかったかのようにそう言った。


「うん」


私は、今すぐにでもこの家を離れたくてしかなかった。

スマートフォンだけをポケットに仕舞って、先に家を出た。


庭に停まっている軽トラックのそばで叔父さんが出てくるのを待っていると、太陽の暖かさもあってかだんだん気持ちが落ち着いてくる。

空を見上げて、今日初めていい天気だと思った。


「ユウリ」


声をかけられて振り向くと、叔父さんは少し得意な顔で、


「乗ってくか?」


と、私の向こう側を顎で示した。唇まで尖っていて、叔父さんの顔はちょっとドラえもんみたいだ。また少し、心が和らぐ。


何かと思って見てみて、私はすぐにその意味を理解した。


「うん」


これはもう完全に――だけど少しだけ、気分が回復した。

私がすぐ荷台に飛び乗ると、叔父さんは微笑んで、


「あんま身ぃ乗り出すなよ。危ないから」


言いながら車に乗り込んだ。


川までは、たしか車で十分くらいだった。

叔父さんのいう、少し遠い、を逆算してみるとだいたい二、三キロだろう。

その通り、歩くには少し遠い。


私の街では、ここよりたくさんバスも電車も走っているから、自転車は近所を移動するのに使う程度だ。何キロまでも行かない。

徒歩だとすればせいぜい五分先のコンビニか、十分で着く駅までだ。


だから実は、歩いて二、三キロがどのくらいなのか正確にはわからない。

運転席に背をもたれて、次々遠ざかっていく生垣と家を眺めていると、なんとなく近いのかも、と思う。


家族で車に乗って出かける時は、大概回転寿司かファミリーレストランかスーパーに行くことが多くて、多分それも十分くらいの距離だ。

だったらやっぱり、川までも案外早く着くのだろう――。


生垣が途切れ、辺りは田んぼばかりになる。

ここへ来た初日、アップする田園風景ってやつのためにここまで歩いてきた。


遠くに見える山と田んぼの緑が一面に広がり、風が吹くと一斉に逃げるように去っていく音、稲が風の足跡みたいになびく風景は、想像通り完璧だった。


これが田園風景なんだ、と何枚も写真に撮り、私はその中の自撮りのいい感じのものをアップした。

さっき確認してみたら、早速あしあとが四十も付いていた。

幸先はいいと思ったけれど、ここにはそれ以上のものが何もない。


気づいたのは、次の日にいい感じの景色を探し始めてすぐだった。

駅からおばあちゃんの家までの道のり、それから田んぼまでの道、どこを思い返してもそんな場所はなかった。


寂れた商店街とやたらに広い土地と家。

せめて家が、っぽければよかったけれど、どれもこれもよく見る普通のものだ。

いわゆる純和風っぽいものもなかったし、っぽい庭もなかった。


結局私は縁側と風鈴と空を写したけれど、アップするならもうちょっと何か足りない。

たとえば、スイカとか。氷の溜まった桶に浮いていたりしたらかなり、っぽくていいと思う。瓶のラムネなんかも添えてあればもっといいかもしれない。


それを縁側に置いて、風鈴と合わせたら最高かも。


「今日の晩ごはん、なんだろう……」


朝出掛けていった叔母さんが言っていたことを思い出す。


『お昼はそうめんとおいなりさんが冷蔵庫にあるからね。晩ごはんはなにがいい? 食べたいものがあったら連絡して』


スマートフォンを取り出し、私はすぐに叔母さんへ『スイカと瓶のラムネってある?』とメールした――。


それまで眩しかったのが、突然薄暗くなり、気温もぐっと下がった。

スマートフォンから顔を上げると、いつの間にか周囲が木々に囲まれている。

遠くに見えていたあの山に入ったのだ。


軽トラックのエンジン音がやけに大きく聴こえる。

無数の葉っぱがざわめく感じ、見かけた彷徨う蝶々は鮮やかな色ではなくて黒っぽい大きなやつだ。


ほとんど一直線に進んでいた車も、山に入った途端カーブが多くなった。

体が大きく左右に振られて、私はそのたび振り落とされないようにトラックの縁にしがみついた。


車が右へ左へ揺れるせいで、登っているのか下っているのかわからない。

ただ、私の視線の先に遠ざかっていく道はほとんど平らに見えた。

なんだか、本当に、田舎は思っていたのと違うことばかりだ――。


体が冷えて肌寒さを感じ始めた頃、今度は急に日差しが強くなった。

同時に車が減速する。


「おう、着いたぞ」


叔父さんが窓から顔を出して、そう言った。

思わず立ち上がり、私は運転席に手をついて前を向いた。


「おー、川だあ」


前に見て以来、久しぶりに見る川は、はっきりいって絶景だ。

向こうの山との谷間にあるここだけまともに日があたっていて、橋の手前から上から見ても川の底が見える。


綺麗だったとは記憶していたけれど、ここまでだったのは嬉しい誤算だ。

車が停まるとすぐに、私は荷台から飛び降りた。


「戻るな」


窓から顔を覗かせて叔父さんが言った。


「わかった。ありがとう、叔父さん。あとで連絡する」


私が言うと、叔父さんは片手を上げて答えて、それから車を切り替えして来た道を戻って行った。

木立の中に軽トラックが隠れるまで見送ってから、私は早速橋の上まで走った。


とろとろとろ、とどこからともなく響く水の流れる音、角が立って跳ね上がった飛沫が日の光にキラキラと輝く。底に敷詰まった丸い石、その間を緑色の水草が流れに沿って揺れている。

柔らかく漂う冷たい空気、酸っぱく感じる石の、濡れた土の、青く茂る木々の。いろいろな匂い。


「やば……」


思わず顔がニヤつく。

すぐにこの景色を閉じ込めようと思った。

ポケットからスマートフォンを取り出して、ぐるりとカメラを回すと、


「へえ……。こんなだったんだ」


画面に閉じ込められていたのは、記憶にはない風景だ。

橋の先にある向こうの山が、思ったより離れたところにあることも。そして、山の始まりと橋までの間は平らな広い土地が広がっていて、何軒も家が建っていることも。


当時の記憶では川のことと、そこで遊んだ覚えしかなかったから、ちょっと意外だ。


橋の向こう側で川に沿って伸びる一本の通りには、お店が並んでいる。

釣り具屋、食事処、駄菓子屋。

もしかすると、当時私はそこでお菓子を食べたりしたのかもしれない。


――きゃはははっ


お店に近づこうとすると、笑い声が聴こえた。続けて、ばしゃばしゃ、と水の音がする。

覗き込んだのとは反対側から下を覗き込むと、そこで子どもが遊んでいた。


見た感じ、みんな小学生くらいだ。

たぶん私も、ヨシちゃんとあんなふうに水を掛け合って遊んだ、とぼんやり思い出す。

私は、その楽しげな姿を一枚カメラに収めた。


「ねえ」


突然、脇から声がして、私は驚いて橋の向こう側を見た。

だけど橋の向こうには誰もいない。周りを探すと、土手の斜面に立っている男の子が私を見ていた。


「おばさん、どこの人?」

「お、おば――っ……。私、お母さんの実家に遊びに来ただけだから、この辺じゃないよ」

「そんなのわかってるよ、だから訊いてんの。もしかして、東京のひと?」

「ううん。東京じゃなくて、仙台」

「センダイ、ってどこ?」

「どこ……って。宮城県だけど」

「なにそれ、聞いたことねーっ!」


そう言って、男の子はいきなり大声で笑い出した。

つられて、他の子たちも笑う。

なんだかムカつく。


心の声を押し込めて、私は子どもたちに背を向けた。

橋を渡り、子どもたちとは反対側の土手を下って川に近づく。

流れる水に手を入れてみると、想像以上に冷たい。

これがプールだったら、生暖かさを感じるくらいの気温だというのに、自然はすごい。


靴を脱ぎ、両足を入れてみる。

足首あたりに当たって流れが変わった水が、ちょろちょろ、と新しい音を奏でる。


足が少しずつ冷たさに慣れてくると、照りつける日差しに麻痺させられていた体がようやく暑さを忘れたのか、汗が引いていくのがわかる。


私は、近くの大きな石のそばまで川の中を歩き、そこに腰掛けた。

顔を上げると、視線の先に子どもたちが遊んでいるのが見える。

さっきのやり取りなんてなかったかのように遊んでいる。


ふと時間が気になってスマートフォンを見てみると、まだ午後一時半になったばかりだ。


このまま水に浸かっているのも悪くないとは思ったけど、せっかくなら記憶の更新をしておくのもいい。

私は一旦土手を上がった。


上りきると、まず一番近い駄菓子屋を覗いた。


店の手前側、左右の棚に挟まれて出来た道は人がすれ違うのにギリギリの幅しかない。そこに、箱のままだったり、カゴやボトルに詰め込まれたお菓子がぎっしり並んでいる。

奥には、古く安っぽいおもちゃが、ぎっしりではないにしてもそれなりにある。


私は、奥の棚に知っているものを見つけて近づいた。

段ボールより断然薄い紙の箱。疾走感をやたらと強調した文字で、小学生の必殺技みたいな名前が書いてある。

ミニ四駆だ。


私はやったことがないけれど、ヨシちゃんが作ったのを見せてもらったことがある。

スイッチを入れると、キュンキュンうるさく鳴って吹っ飛んでいってしまう。

私は、ラジコンの方がいいと思った。


お菓子の棚に、チョコバットを見つけた。

久しぶりに食べたかったけれど、残念なことにお金を持っていない。


ないと分かっていながら、全部のポケットを探していて、そういえば、と思った。


財布、どこに置いたっけ。

そういえば……。


ふと顔を上げると、店の外の遠いところから、あの男の子がこっちを見ていた。

指を差して、キョロキョロと周りの子どもたちに何かを言っているようだ。


これほどの田舎なら、外から来た人間が珍しいんだろう。ちょっと目立ってる感じに、優越感を感じる。


――ガタ


物音がして振り返ると、おもちゃの棚のそばにあるカウンターのさらに奥から、腰の曲がったおばあさんがゆっくりと姿を現すところだ。


私は、思わず身構えた。


「ん?」


カウンターまで出てくると、おばあさんは訝しげな顔で私を見つめた。


「あら、お客さんが来てたのねえ。ぜんぜん気がつかなかったわ。なんだか最近耳が遠くてねえ」


微笑みながら、「ゆっくり見ていってねえ」、とおばあさんは言った。


もう特に見るものはなかったけれど、そういうふうに言われてしまった手前、さっさとは帰りづらい。

お金もないのに、なんとなくお菓子を覗いていると、


「最近は暑いもんねえ。ワタシはエアコンっていうのが苦手なのよ」


おばあさんが、ふふ、と笑う。


「そうですね」


私は適当に相槌を打って、気まずさに耐えきれなくてもう店を出ようと思った。

すると、


「ところで、あなた。どこからいらしたの?」

「えっと……仙台です」


反射的に答えてから、ここらへんの人には、東京、と言っておくべきだったと後悔する。


「仙台、へえ……。遠いところから、こんな辺鄙なところまでいらしたのね。お墓参り?」

「いえ、違います」


否定してから、そうだったかも、と不安になる。


「そう。もしかして、山地さんちのお嫁さんかしら?」


山地さん?

知らない人だ。


「いえ、違います。戸塚です」

「あー、戸塚さんとこの。そういえば、お孫さんができたって言ってたわね。お子さんは、そこの川で遊んでいるのかしら?」

「え?」


微妙に話が噛み合わない。

おばあちゃんの孫は、私だけだ。


「あの、お子さんって……」


質問すると、また、今度はドタドタと忙しない音が奥からした。


「おかあさーん」


ハツラツとした声を張り上げて、太ったおばさんが顔を覗かせる。


「お店はわたしがやるから、エアコンの部屋でおとなしくしてて。今日は特別暑いから、倒れたら大変だよ」


おばさんは、そう言っておばあさんを奥へ上げてしまった。


「ごめんなさいね。エアコンは嫌だって、勝手に出てきちゃうの。もう足し算も上手くできないんだけどさ」


相変わらず忙しない口調で言うと、おばさんは私を見て、「それにしても、暑いよねえ」とそこにあったうちわで自分の顔を仰ぐ。


「お墓参り?」


また同じ質問。


「いえ、違います」

「そうなんだ。この辺じゃ見かけない感じだけど、どこのうち?」

「私、ここに住んでいません。あっちの山の向こうに親戚がいて、遊びに来ていたんです」

「へえーっ」


おばさんは、大げさに目を見開き、驚いた顔をする。


「わざわざ県境を越えてこっちまで来たのかあ……ってなんで?」

「あ、川で遊びに。暑かったので」

「川で……ふーん……」


納得しているような、していないような。おばさんの反応に、なぜかはわからないけれど疑われている気がした。


「はい」


頷いてはみたものの、いったい何が疑問なんだろう。

車でたった十分そこそこの道のりにわざわざも何もない。

それなのに、おばさんが首を傾げている。そうしたいのは私の方だ。


妙な空気に耐えられなくなって、私は店を出た。

釣具屋も覗いて見たかったけれど、また同じような目に合う気がしてやめた。

仕方なく、また土手を下って川に浸かる。


やっぱりここは綺麗だ、とは思うのに心がもやもやしてさっきみたいには落ち着いていられなかった。

スマートフォンを見ると、まだ二十分しか経っていない。


「もういいよ、飽きちゃった……」


涼んだし、写メも撮ったし、もう帰ろう。

叔父さんに連絡しようとアドレス帳を開く。


「見つけた! ほら、あそこ!」


ふいに叫び声がした。声を聴いただけでわかる。あの子だ。

外から来たのが珍しいのはわかるけれど、わざわざ探してまで今度は何を言いにきたのか。

もやもやがイライラに変わって、最初から睨むつもりで土手の上を振り返った。すると、


「うそ……」


驚いた顔をした女の人が立っていた。

すぐそばにはあの男の子が立っていて、その友達も。


何が起きているのかわからない私をよそに、心地よかった自然の音に紛れて人のざわめきが耳に入ってくる。


「どれどれ」

「本当だ」

「うそでしょ」


聴こえてくる声と、続々集まってくる見知らぬ顔。

みんなの興味が、外から来た人間に向けられるものではない、と感じた。

頭の中がぐるぐる回る。わけがわからなくて、どうしていいかもわからなくて。

ただ、私はここにいちゃいけない気がした。


咄嗟に立ち上がり、人気のない上流に向かって走り出す。


「あっ!」


一斉に誰もが声を上げた。

この場を去ろうとする私に、なぜか声たちは「待って」と訴える。

どうして。

どうして。私が、なんで?


ばしゃ、ばしゃ、と水を蹴る音だけが聴こえる。

相変わらずする私を意味もなく制止しようとする声、激しく水を蹴る足音。


「来ないで!」


わけもわからないまま、私は叫んだ。


「ユウリちゃん!」


え?


「待って、ユウリちゃん!」


誰、私を呼ぶ、だれ?

振り返ると、ショートカットの女の人が躓きながら私を追ってきている。

知らない人だ。それがなぜ、私の名前を知っているの?


「だ、だれ……。どうして私を?」

「ユウリちゃん――友理ちゃん、だよ、ね」


息を切らしながら、女の人が言った。


「どうして、知っているの?」

「本当に、そうなのね? 友理ちゃんなのね?」


話が噛み合っていない。だけど、私は頷いた。

そうするしかなかった。

女の人は、信じられない、と言ってゆっくりと私に近づいてくる。

顔をぴくぴくとひくつかせながら、笑おうとしているんだ、とわかった。


「ずっと、ずっと探してたの。あなたのご両親……ずっと、ずっと探していたの……」

「私を、おかあさんとおとうさんが……?」


なぜ?


「わたし、わかる? 昔一緒に遊んだの。ヨシキにいと一緒に、わたしも」

「あなたと、一緒に? ヨシちゃんと?」

「そう。覚えていない? 他にも、ヤッシーとかキョウちゃんとかヒデくんとか――みんなで遊んだんだよ」


ヤッシー?

キョウちゃん?

ヒデくん?

誰、それ。私はわからない。知らない。


頭の中がぐちゃぐちゃになって、何もかも、どうしようもなくめちゃくちゃだ。

知らない人が、知らない人と私が知り合いだって言う。

でも、だったらどうしてこの人はヨシちゃんのことを知っているのだろう。


「やめて……頭が……」


自分を守りたくて、咄嗟に私は頭を抱えた。

だけど、私を苦しめるものは私の頭の中にあって、どれだけ強く頭を抱えても辛さは消えようとはしない。

いったい私に何が……。


苦しむ私に向かって、女の人はまた「友理ちゃん」と呼んだ。


「それ……それって――」



二○二一年八月十三日午後二時頃、石川県某市谷郷地区で二○○八年八月十三日から姿が見えなくなっていた戸塚友理とつかゆうりさん(当時一五)の身柄が同所で確保された。

友理さんは、失踪当時と同じ格好をしており、外傷などはないものの、記憶に一部欠損がみられるなど、精神的に不安定だという。

また、その間友理さんが生活していたという家について、車で十分ほどのところであり、駅、広い田んぼ、といったものがある土地の一軒家のことを話しており、さらに「おばあちゃんがまだだって言うから、そこにいた」と証言しているようだ。

しかし、谷郷地区西側の山の先の集落までは、県境を越えて約二十キロ先まで行かなければならず、また線路も通っていないうえ、田畑はあるが小規模であることなど、他にも友里さんの証言と矛盾している点があるとのこと。そこで警察は何らかの目的で友理さんは誘拐され、彼女が虐待されていた可能性があると考え、当該集落に焦点をあて、怪しい人物を目下捜索中である。


なお、友理さんを谷郷地区に送り届けたという「叔父さん」について、友理さんの父方の兄に当たる親戚は現在も谷郷地区に住んでおり、彼女のいう「叔父さん」とは別人だと言っているようだ。

また、その人物が乗っていたとされる軽トラックを近くで遊んでいた小学生らも目撃しており、彼がなんらかの事情を知っているとみて、それについても警察が捜査している。


失踪当時友理さんと遊んでいたという友人らの証言によれば、友理さんとは「かくれんぼ」をしており、その時友理さんが山中を走っているところを、同じく山中に入った友人ら数名が目撃していた。しかし、二十分ほど探しても友理さんを見つけることができず、改めて山中に入って呼びかけたものの返事はなく、そのまま友理さんは消息を断った。それが、一三年経った今見つかったのは奇跡としかいいようがない。


また、友理さんは発見時、当時彼女を探しに出たと思われ未だ消息不明となっている日村芳樹ひむらよしきさん(当時二三)が着ていたとされる半袖シャツを持っており、どこかしらで芳樹さんと会っていたと思われるが、本人の健康状態が芳しくないこともあって、決定的な証言は得られていないという。

今は、一刻も早い友理さんの回復を待つしかない。後に彼女の持つ情報とその証言とに整合性が認められれば、十三年前に生じた連続失踪事件の解決に向けた大きな一歩を期待できるだろう。



――うー、うー、うー、うー


呻いて悶え、それは唐突に目を見開いた。

声無き声が、暗い室内を薄く照らす光の中に浮かび上がる。


『スイカと瓶のラムネ買ったよ。早くおいで』


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