さよならアグディスティス
「本当に美しいわ、ウァリウス。母様の誇りよ」
かあさまはいった。だいきらいなその名でよびながら。
「あなたは民の上に立つ者となるのです、マルクス」
お祖母様は言った。欲しくもない名前を付けて。
「ヘリオガバルス帝、万歳!」
皆は言った。そんな名前、誰も望んじゃいないのに。
「オプス」
その人は私をそう呼んだ。その美しい容姿に違わぬ美しい声で、慈しむように。
伸びていく骨を隠すようにうつむき、肉が厚みを増さぬように食事を減らし、誰に笑われようとも髪を伸ばし、低くしわがれていく喉を潰した。
そうまでしても、私の意思とは裏腹に、私は大人になっていく。
あの人が羨ましかった。神から認められ、誰からもその純潔を汚されず、何人たりともその精神を侵される事なく、自分の足で大地に立つ人が。
だから奪った。神の元から攫い、矜持も尊厳も踏みにじり、死ぬ事も許さずに。
それなのに、彼女はただ微笑んでいた。初めこそ私と己の罰の有無を問うていたが、神官であり皇帝たる私と私の伴侶となった彼女を罰せる者などいないと告げれば、黙って私に従った。
ある者は純潔を奪われたと同情し、ある者は巫女の風上にも置けないと非難した。その度にそいつらを殺し、いつしか私達について、誰も何も言わなくなった。
彼女は今も清らかなままだ。そんなの、私は望んでなんかいない。だが世間の風評にも関わらず、彼女がいつも心配していたのは、自分ではなく私の事だった。
「可愛いオプス、あなたはそのままでいいの」
シーツに二人でくるまりながら、彼女のたおやかな腕の中で、抱えられた頭を私より細い指で撫でられる。ただ伸ばすがままにしていた髪を、彼女は薔薇の花びらを浸した湯で優しく洗い、傷を癒やすかのように香油を塗り込んだ。他愛もない会話の途中、ふと目が合ってしまったのがやけに恥ずかしくて、壊れ物を扱うように髪を撫でる手がくすぐったいと笑ってごまかした。
そんな風に触れなくても、壊れやしないのに。壊される前に壊してきた私を、それでも優しく抱きしめる彼女の温もりと共に眠る夜は、確かに幸せだったのに。
「オプス、どこにも行かないで。お願いよ」
どれだけ願っても、彼女みたいにはなれなかった。この体は余計なものと欠けたものばかりで、美しく清純な彼女には相応しくないと、気付いてしまった。
おしろいを叩き、紅をさし、派手な装身具と薄い布をまとう。彼女が美しいと、そのままでいいと言った体を、自分自身で汚して。
どれだけ快楽に溺れても、貞淑に尽くしても、殴られた痛みを上塗りされても、満たされる事はないのに。
私が、私でいる限り。
どうしてこうなっちゃったのかな。先程まであんなに泣き叫んでいたのに、物言わぬ体となって横たわる母を同じ目線で眺めながら考える。
きっと彼女は知っていたのだろう、私が自ら破滅に向かおうとしている事を。だけど差し出されたその手を拒んだのは、他でもない私自身だ。
私が『私』として生まれた事を、誰よりも許せなかったのは私だったから。
マルスのようになれたなら、彼女をまっすぐに愛せただろうか。カイルスと同じ罰を与えられたなら、私の望みも叶ったのに。どれだけ太陽に焦がれようとも、自分の進む先すら見えなかったから、手綱を失いティベリス川まで落とされてしまうのだろう。
熱狂的な民衆の声が遠くなり、自分の呼吸音が鮮明に聞こえる。跳ねるようだった鼓動が、いつの間にか穏やかになっていく。
ああ、彼女の腕の中で聞いた音を思い出す。禁忌を犯し、人の身に落とされてもなお、同じ安らかさで囁く言葉と共に。
「愛しているわ、オプス。そのままのあなたをずっと、誰よりも愛している」
ごめんね、アクウィリア。
私の名前は、きっとどこにもなかったんだよ。
思春期とトランスジェンダーと百合と共依存と醜形恐怖と自傷とマゾヒズムとイオカステーコンプレックスとローマ神話をぶちこんだ性癖のごった煮。
元ネタは自己責任でググってください。