05.ノイン視点
遅くなってしまったけど家族はいいのかと尋ねたら、あぁ忘れてた、と長方形の薄い板のようなものを取り出した。久しぶりの夢現界で人々が手に持っていたものと同じものの表面に指を触れると、色鮮やかな光が映し出される。魔法がない夢現界に魔法が存在するのかと驚くと、お前の無知は今も昔も同じなんだな、と頭を撫でられた。
夢現界には数百年ぶりに来たんだから、知らなくて当然なのに。幻想界と違って、時の流れが急速な夢現界。知らないことだらけなのは当たり前だ。
からかわれたわけではないと分かっていても、気分が悪くなってしまう。こんな感情は久しぶりだと驚いていたら、ラルフが顔を近付けてくる。
え……? 駄目!
唇と唇が重なりそうで、掌をラルフに向ける形で防御した。
何!? どうして!? どういうことなの!?
恥ずかしさから瞼を閉じて耐える。指先に、ラルフの唇が当たっていた。呼吸もできない。体を固くして耐える。
瞼を固く閉じていたたまれない状況が通り過ぎるのを待っていたら、手を掴まれて震えてしまう。次は何をするつもりなのかと怯える。ふっと、笑われた。
まさか、からかわれた?
「無知で無垢なことは長所だよ。いつかキスくらいはさせて貰いたいけどな」
キス、の意味は知らない。僕達神族には存在しない言語だから。掴まれた手の甲に口付けられる。淑女への挨拶で行われる、手の甲への口付けに似ていた。
ラルフだって社交界には関心がなかったはずなのに、どうしてこんなことを知っているのか。夢現界では当たり前のことなの?
一々過剰に反応している自覚はあったけど、人と密接に近付くということは僕にとっては簡単なことではなかった。神族として生きるようになってからは魔法さえあれば自分のことは自分でできてしまうからよかったけど、今でもこの不完全な体への拭えない恐怖を抱えている。
僕は一体どちらなのか。
ラルフは、この距離が当たり前だったのだろうか? 思えば前世でも、からかってきた友人を軽く小突くくらいのことは当たり前だったかもしれない。
子供の頃の僕だったら、こんなことで悩まずにできていたのに。僕とラルフでは、やはり社交性に大きな差がある。元からそうだったけど、神の巫女になってからはより一層だった。今でもそれは変わらない。
彼はからかうのをやめて、立ち上がりながら魔法みたいなそれを使って話し始める。誰かと会話をしているようで、その板を使うと遠くの誰かと話ができるもののようだった。幻想界でも似たようなものがあるそうだけど、夢現界にも存在することに驚く。
夢現界の進歩は目覚ましい。幻想界が数百年単位で進化していくのをものの数時で通り過ぎていくという。その代わりに自然を犠牲にしてしまうと言うけれど。
会話が終わると、僕達の言語で教えてくれながら立たせてくれた。お父さんに僕のことを話した、と。衝撃で固まってしまう。心配はいらない、と彼は言うけど、本当に?
急に僕のことを話して、理解できるものだろうか。僕の危惧を彼は一蹴する。昔から前世の夢を見ていたらしく、その内容をご両親に話していたから理解してくれた、のだと。
「もう一度ちゃんと話はしに行くよ。でも今はお前と離れたくない。今離れたら、また置いて行かれそうだからな」
「そんなこと、しない」
もう後戻りできないのに、置いて行くことはできない。前世での行いが彼を不安にさせたのだと、罪悪感に俯いてしまう。頭を撫でた拍子に引き寄せられた。
「分かってる。お前に置いて行かれるほど鈍足じゃないしな」
鈍足、それは僕が子供の時にラルフにからかわれた言葉だ。また、からかっているの?
「もっとお前といたい。どうしたらいい? どこに行けば、二度とお前と離れ離れにならずにすむ?」
切実な表情。彼の願いの強さが分かる。
夢現界にはクリス様のお手伝いで来ただけだから、この世界の生活の仕方は分からない。幻想界に戻って僕達のお城に連れて行くことはできるけど、それは戻りの機会を奪う牢獄に近い。一番いいのは、しばらくの間家族と過ごしてもらうことだけど……
言葉に詰まる。最良の手段が分からない。どうしていいか分からないでいると、だったら、と彼が提案する。
「余分に一人分の部屋代を払うから、このまま俺の仮住まいの部屋に来ないか? どっちにしても、親父達とはここで一旦別行動の予定だったし」
俺の観光にお前もついて来い、と言う。楽しそうにされては、拒否することが憚られる。元々二人部屋だったのを一人で借りていたから、二人部屋として増額すればいいだけだと説明してくれたけど、この世界の硬貨を持っていないから選択肢がない。
「クリス様に連絡してみるよ」
「クリス? まさか、クリス・クロイツェルか?」
心配しているだろうから、というつもりで言ったのだけど、彼はクリス様の名前に至極驚いていた。そう言えばさっきぶつかった少年か、と呟く。クリス様にぶつかった? どういうこと?
僕を追っていたようだったし、勢いよくぶつかったのならばクリス様が心配だ。思わず、クリス様大丈夫かなと呟いたのをラルフに指摘されてしまう。俺は蒸気機関車じゃないぞ、と。蒸気機関車、というのは一体何?
意味が分からなくて見つめると、避けながらぶつかってるから強くは当たってない、と居心地の悪そうな表情をしながら釈明された。大丈夫だったなら、いいのだけど。蒸気機関車というものは、ぶつかると無事では済まないものなのだろうか。
僕の死後、彼はクリス様とローガン様の両名に出会っている。一時期、同じ目的を持って行動を共にしていたことがあった。その過程で、クリス様が天翼族だと知ったようだ。
「天翼族は神の使いとされていたから、だから神に選ばれたのか。まさか、他にも天翼族がいるのか?」
「天翼族は、クリス様だけだよ」
他の天翼族がいる可能性に、ラルフは怒りの感情を見せた。彼が怒るのは無理もない。クリス様以外の天翼族への心証が良くないから。
否定を口にすれば、安心したようで、どれぐらいいるのかと聞かれた。二十人にも満たないことを告げると、そんなに少ないのか、と驚かれる。
神の御意思を知りながらも、手を取らずに輪廻の流れに身を任せる決断をした者は多い。神への信仰心がなくなったからではなく、前世の苦しみを抱えたまま生きることが辛かったから。彼等の決断を非情だとは思わない。それだけの苦痛を伴っていたから。せめて輪廻を繰り返す中で平穏であって欲しい、と思っている。
ラルフとの再会で忘れていた魔法を使う。神族の魔法は珍しいから、魔力を感知されにくい。多少魔法を使ったとしても、余程注視されていない限り気付かれないほど。
異世界の地で魔法を使うのは、幻想界で魔法を使うよりも精神の安定が欠かせない。心を落ち着かせなければ、悪影響を与えてしまうことがあるから。慎重に、魔法を使う。
クリス様に思念を送る。思念体を飛ばすよりも思考と思考を直接繋ぐ感覚の魔法で、決して難しいものではない。異世界にいる人に送るのは大変だけど、同じ星にいるのならば簡単だ。
なのに、何故か返事がない。どうしたのだろう、と思ったのは一瞬だけ。返答の代わりとして、白い小鳥が飛んでくる。クリス様の魔法だとすぐに分かった。
掌に乗った瞬間、手紙に変わる。二つ折りにされた手紙を開いたそこには、一言だけ。ゆっくりしておいで、と。
ラルフが覗き込んでくる。
「”ゆっくりしておいで”? じゃあ、時間はたっぷりあるわけだ?」
「たっぷりだなんて、今の幻想界はそんな悠長にしていられる状況じゃ」
猶予なんてないのに、どうしてクリス様は……?
幻想界は、刻一刻と危機が増している状況。例えあの御方が目覚める気配があったとしても、神族である僕達の力で抑え続ける必要がある。押し止められなければ、僕達の存在する意味もなくなってしまう。まさかクリス様は、僕の分も尽力なさるおつもりなのか。
「分かった。じゃあ、せめて4日くれ。な?」
深刻な雰囲気を察したラルフは、恐らく予定よりも少ない日数を口にしている。僕のわがままで。
「ごめんなさい」
「どうして謝る? 俺は今すぐにでもここを離れてもいいんだぞ? でもお前が家族との時間を大事にしてくれって言うから、観光がてら準備しようと思っただけなんだから」
準備? 一体何の? 家族との別れに向けての準備って一体?
「フォトウェディングだ」
それは何? 分からない僕に、彼は説明してくれた。日本に移住した友人が写真館を開いているらしく、元々海外の人向けだったのを日本人向けにも行っている記念撮影専門の写真館なのだそうだ。日本では結婚式を挙げずに写真だけで済ませるものがある、とのことだけど……
言っている言葉の半分も分からなくて、反応に困ってしまう。写真館? 記念撮影? 何のことだか分からない。
お前はただいるだけでいい、と彼は言う。一体何をするつもりなのかは最後まで教えて貰えなかった。ただ、慌ただしく誰かに連絡を取っている。
大丈夫なのかな? 何かを準備するにはあまりにも時間が短いのでは? けれど彼は、何とかなった、と笑った。何も心配しなくていい、と抱きしめてくれる。
本当に大丈夫なのかどうかなんて分からないけど、不安がってもどうしようもなかった。彼の決断を尊重し、彼の願いを叶える。それ以外に、僕にできることはなかったから。
ラルフが、僕を一番に考えて生きてくれたように、僕も彼のために生きていきたい。泣き虫で臆病な僕を愛してくれたあなたを今度こそ幸せにしてあげられるのならば、僕はすべてを賭けるだろう。
雨が降り出す。ラルフに庇われる形で来た道を戻って行くと、雨脚が強くなる。行き急ぐ人の波で逸れないように、繋いだ手を握り返した。今度こそ離れないように、強く強く。
貴方と見たかった夢の続きを……