03.ノイン視点
随分と涙を流すことがなかったから、頭痛に悩まされるという感覚は久しぶりだった。瞼が腫れている。しっかりしなくちゃと、魔法で治癒を施し、頭痛と瞼の腫れを取る。体に残る悲しみの余韻は消えても、心に残る痛みは私を締め付けた。
重く沈む心を抱えたまま、自室を出る。クリス様が、待っていた。
「ノイン」
申し訳なさそうな顔をされる。クリス様は何も悪くはありません。私が、臆病者だからいけないのです。
クリス様は、それ以上何も言わなかった。ただ、妹君であるアナスタージア様の捜索のお手伝いをお願いされる。クリス様にとって、どれほど大切な方なのかはよく分かっているから、協力は惜しまないと快く引き受けた。
人の波に埋もれてしまう中で、微かに溜息をついたのをクリス様に気付かれる。息抜きをしてくるといい、とクリス様は気遣って下さった。大丈夫ですと遠慮したけれど、休息は必要だと頑なだった。
それでは、とクリス様と別れて歩いていると、視線を感じる。魔法の力で髪を黒に近い茶色に染め、衣服は夢現界の事情に詳しいクリス様の見立てに任せたけれど、真っ白な服は目立つのか、視線が痛かった。
普通にしているつもりでも、人目を引いてしまったのだろうか? 魔法が効かない人でない限り、私の本来の髪色を視認できるはずもないのに……
人の波の中を歩いて、仲睦まじい人々の光景に後ろめたさを感じてしまう。私には一生縁のない幸せな光景。見ていられなくて、人気のない場所に移動していく。
人の営みを眼下に望む静かな場所で、風を感じながら瞼を閉じて、深呼吸をする。清らかな風が、僅かに湿っていた。日が沈む頃、雨が降るのだろう。
泣きそうなほどに美しい光景。幻想界とは違う夢現界も、とても美しい。命が愛に満ちている。
瞼を開いた。吹きすさぶ風が、私を慰めようとしている。ありがとう。ごめんね。
これから先の人生は、大切な人を持たないと心に決めた。あんな形であなたを一人残してしまった報いをこれからの人生の中で受けていく。
私はあなたを探さない。だからあなたも私を探さないで。僕はこれからも一人で生きていく。あなたとの思い出を胸に、一人で。
「ノイン!」
聞こえるはずのない懐かしい声。幻聴? いいえ、これは!
振り返った先に、懐かしい人が立っている。新しい人生を生きているはずなのに、記憶のままの姿で目の前にいた。
気付けば抱きしめられていて、身じろぐこともできない。肩より長い髪は現代に合わせて短髪だったけれど、顔も声も全く同じ。どうして……?
ラルフの体が徐々に光を帯びる。あぁ、駄目。元に、戻れなくなってしまう! ラルフを想う僕の気持ちと、僕を求めるラルフの願いが、彼を神族へと昇華させていく。
何故? どうして? 神よ、どうして神族として生きる覚悟も決めていない者を否応なしにこちら側へと連れてきてしまったのですか?
彼の人生が、歪められた。悲しむべき出来事だというのに……
決して喜んではいけない。彼の温もりに包まれて、歓喜の涙を流してはいけないと分かっているのに、喉の奥が痙攣して、痛む。彼に出会えた喜びと、彼の人生を縛り付けた後悔が渦巻いて声が出ない。いくら言葉で否定しても、心は誤魔化せない。望んではいけないと、願ってはいけないと目を背け続けたのに、いざ目の前にすると決意は簡単に揺らぐ。
ずっと、あなたに会いたかった。
見守る愛でありたいと、自分の心をいくら偽っても渇望する。求めてはいけないと思う度に、手を伸ばしたくなる。突然目の前に現れた幸運に縋りついて、二度と離れたくないと心が叫ぶ。
溢れる感情で痺れた指で、彼の服を掴んだ。視界は歪んでいく。
視界の奥、ラルフの肩越しに、木の下で佇むクリス様がいた。暖かな微笑みを浮かべているような気がする。踵を返して森に消えて行く後ろ姿が、僕の幸せを心から願っていると言っているかのようで……
再会へと導いたのがクリス様だと悟る。それを余計な計らいだと思うことはない。クリス様が、どれほど心配してくれていたのかを知っているから。身勝手にもラルフとの繋がりを断とうと、孤独を受け入れてきた私がいけない。
心配ばかりかけて、ごめんなさい。
ラルフの想いが流れ込んでくるかのように強く抱きしめられる。忘れ去って生きて欲しいと願っていたけど、私を覚えていた。探さない、という選択肢が逆に彼を苦しめたのだと、痛いほどに伝わってくる。
すっかり日が沈み、街灯のない場所は一層冷え込んだ。魔法でどうにかするということも忘れて、身震いしてしまったのをラルフに気遣われる。
着ていた上着を脱いで肩に掛けられ、微笑む。薄い服一枚になったラルフの方が心配だと返そうとするけど、受け取ってくれない。
「体が冷えて病気になったらどうする? 着てろ」
「でも……」
遠慮する僕を心底愛おしいと言いたげな表情で見つめるラルフ。視線を合わせていることが恥ずかしくなり、俯いた拍子に頷いた。鼓動が忙しなくて、苦しい。あの頃に戻ったかのようだ。
髪の毛越しに額に口付けられる。力強い腕に引き寄せられて、逃げることも叶わない。いいえ、もう引き返すことはできない。記憶を完全に取り戻してしまった彼は、神族になってしまったから。
永遠の命を生きる、異種族に。
掛けるべき言葉が見つからない。神族になるということは、たくさんのものを諦めなければならないということ。彼にも家族がいるはず。それを捨てさせなければならないなんて……
どう伝えれば、傷付けずに済むのだろう。
「ノイン」
額を突き合わせて見つめられる。恥ずかしさから顔が熱くなって顔を背けるも、元の位置に戻された。ラルフって、こんな人だった? 随分と昔のこと過ぎて忘れていることもあるけど、気持ちが通い合った後の前世では確かにこんな感じだったかも知れない。
口付けされただけで火を噴きそうなほど真っ赤になって、背中を撫でて安心させてくれたなんてこともあった。男女の情というものを経験することもなかったから、彼は僕の不完全な性別を知る由もなかったのだけど。
「お前が、男でも女でも愛してる」
それは、前世でも言われた言葉。でも何故だろう。何か、今までと違うような……
「男でもあり、女であっても愛してる」
「!?」
ど、うして……? 喉が、冷える。
「知ってたよ。言われなかったから、知らないふりをしてた」
知って、た? 喉が張り付いて、声が出ない。
「簡単に打ち明けられる秘密じゃないと分かっていたから、寂しかったけど、それでも構わなかった」
知っていたって、一体いつから? 僕が打ち明けるまで、待つつもりで? それなのに、何も告げないまま、僕は……?
あぁ、僕の罪はあまりにも深すぎる。
視界が霞む。そんなにも、あなたを苦しめてしまっていたんだ。立っていられなくて崩れ落ちる体を支え、優しく背中を撫でてくれる。暖かな手が、あなたの心のように大きくて……
「怖がりで泣き虫だった頃のお前が帰って来たみたいだな」
違う。これは、そんな簡単な言葉では言い表せない。
あなたを信じていなかったわけではない。ただ、誰よりも僕自身が、僕のことを恐れていた。何者でもない体への恐怖。愛する人にだけは知られたくないと、告げる機会を失ったまま、最後まで……
言い訳でしかないけど、異端な自分を知られたくなかった。僕のような性別の人が他にはいなかったから。どう見られてしまうのかと怯え、口を噤むことでやり過ごしてきた。心を通わせたあなたにすら打ち明けなかったのに、それでも僕を許してくれると言うの?