01.ラルフ視点
色とりどりの野花が咲く緩やかな丘を駆け回り、花を摘む少年がいる。左手いっぱいに摘んだ花を自慢するように駆け寄ってきて、頭を撫でてやると照れたように笑った。
彼の視線が、木陰の下で涼みながら見守っていた女性に向く。彼女の元へと駆け寄り、勢いを殺さないまま抱き着いた。優しい眼差しで受け止めた彼女は、慈愛に満ちた表情をしている。
親子、いや姉弟。絵画のような光景。ずっと見ていられる気がした。
古代の神殿のような内観を歩く自分がいる。どこまでも続く道の先に、侍女を従えたトレーンスカートの服を着た人がこちらに歩いてきた。
彼女達に道を譲るため脇に寄り、身分の差を表すかの如く首を垂れる。目の前を通り過ぎていく一向に、悔しさとも焦燥とも取れない感情がせめぎ合う。
健康的に笑っていた笑顔を完全にしまい込み、悲しみを封印した少年が通り過ぎていく。その歩みを止められない自分が不甲斐なかった。
彼の決断を止められなかった自分が悔しい。永遠に自由のない人生を生きていくことになる背中を見送る。
自由に生きたかったはずの彼の夢が、完全に断たれてしまった瞬間だった。
建物の外から歓声が聞こえる。城下町を一望できるバルコニーに立った彼に寄せる、民衆の歓喜だ。皆、彼の賛美歌に酔いしれ、希望に満ちている。彼の身に置きた悲劇を知りながら、万物の温かさを感じる美声に心奪われていた。
神の祝福は続いていると、誰もが口にする。我々は神の恩恵をこれからも受け続けられるのだと、有難がっていた。
一人の犠牲の上に成り立つ祝福や恩恵など、俺には理解できない。
彼はもう二度と、あの野花の丘を自由に駆け回ることはないだろう。人生のほとんどを神殿の中で過ごし、神の声を聞く巫女として相応しい振る舞いを求められるのだ。
心臓が、悲鳴を上げる。この先へ進んではいけないと、本能が告げている。分かっていても、全力で駆けていく。
入り組んだ洞窟の奥へ奥へ。青白い光の灯る空間で足が止まる。心臓を捻り潰されるかのような、息もできない光景。最愛の人の亡骸が、何故祭壇に縫い付けられているのか。
氷の槍が心臓を一突きし、水晶の祭壇が血に染まる。震える足で近付く。冗談だと信じたかった。
氷の槍を叩き折って、冷え切った体を抱きしめる。閉じられた瞼は開くことはなく、血の気の引いた身体だけが死の事実を突き付けた。
駄目だこんなの。絶対に信じない。永遠に失うなんて、そんなことは信じない。目を覚ましてくれ。いつものように微笑んでくれ。頼むから!!
声を限りに叫ぶ。悲鳴に似た声で縋っても、決して瞼が開くことはなかった。
「っ!?」
また、あの夢。子供の頃からよく見ていたものだ。脈略もなく場面展開する夢。幸せな夢かと思われたが、次第に悪夢に変わっていく。毎回、同じ内容。昔はあまりの恐怖に両親に泣きついたりもしていたが、今や見慣れた夢となる。それでも、この苦しみだけは一生慣れないだろう。
最愛の人を失う夢。母を病気で亡くしたから、この苦しみは痛いほどに分かるようになる。
子煩悩な両親の一人息子として生まれるが、程なく母の病気が発覚し、父親はそれまでの仕事を止めて、看病しながらひっそりと暮らせる田舎生活に支障のない仕事に転職した。幼かった俺でも、母の病気が芳しくないことは感じていた。看病と家事と仕事を熟す父親の苦労も見てきた。
母が亡くなり、子育てだけが生きがいとなった父親を見て育ったから、彼が新しい人生を新しいパートナーと生きることを決めたことに至極ホッとしている。一生独り身なんてことになったらと、ずっと心配していたから。
ただ、せっかくのハネムーンを二十歳も過ぎた息子を伴ってということだけが心底信じられない。新しいパートナーであるミキコの実家訪問を両家家族全員の顔見せの場にしよう、という名目で行う理由も。
日本に来たことがないから丁度いい、なんて理由で俺まで連れ回すことはないだろうに。そりゃあ、日本には興味があったけど。こんな機会でもないと来ることなんて一生ないとはいえ、ハネムーンはパートナーと二人でやってほしい。
スコットランドとは違う文化の国への興味は、確かにあった。俺の知っている日本なんて、寿司、ラーメン、おにぎり、マウント富士、忍者、侍ぐらいだけど。
前に、万里のなんちゃらだろと言ったら、それは中国だよとミキコに訂正されたっけ。異文化への興味が深くないと誤認されるものだから、とあっけらかんと笑ってくれたからよかったけど、後で親父にナイーブな問題だから気を付けろよと注意された。
東洋には違いないのに、何故ナイーブなのか分からない。近くて遠い隣国、といった問題は何処にでもある問題なのだろう。
初めての顔見せで歓迎してくれたミキコの家族だが、日本語が分からない俺は終始愛想笑いしかできない。普段使わない愛想笑いで表情筋が釣りそう。不愛想だと思われないように気を付けたが、大丈夫だっただろうか。
ミキコの兄妹の年頃の娘が、近くに住んでいたということで毎日来ていた。初めは人見知りしていたのに、数日ほど泊めて貰っている間に打ち解けて、そのうちに彼女の感情が手に取るように分かってしまった。
親戚の集まりという大所帯になった時、酔った勢いでおじさんに日本語で何か言われた彼女は、顔を赤くして反論する。恐らく、好きなのかとかお似合いだとか何とか言われたのだろう。
十代の女の子に手は出しませんと英語で言ったのをミキコが日本語に直し、彼女は拙い英語で二十歳だと宣言した。一瞬、信じ難いほど若く見えるな、と衝撃を受けた後、悪いけど心に決めた人がいるから、というのを日本語に直してもらう。彼女は、目を潤ませながら離れの家に駆けていった。
英国紳士たる者、女性に優しくあれ。分かってはいるが、俺には向かない言葉だった。昔から、付き合う女性に誠意を尽くせない男で、愛のない付き合いなんて嫌、と振られてばかりだった。自分から近付いておいて俺に愛されないからと振るなんて、とは言わない。俺の努力が足りなかったのだから。
お前は恋愛には向かない、というのは友人の言葉である。否定できなかった。
胸の奥に引っ掛かって抜けない棘がある。何度も見ているせいで、夢に引きずられているだけなのかもしれない。
それでもずっと、探し続けている。あの笑顔を。
絶対に取り戻すんだ、と魂が叫んでいる。
ミキコの実家を出て、日本旅行という名のハネムーンが始まる。俺はどこか適当に巡るからと言っても、二人は全く聞きやしない。いい年した子供を伴うハネムーンほど、違和感のあるものはないだろう。
ジャパニーズキャッスルに連れ回され、ジャパニーズシュラインにも連れて行かれた。テンポ―との違いは分からないが、凄い物を見た気はする。ミキコはわざわざ、シュラインは神社、テンポ―は寺だと教えてくれたが、宗教観の混ざった日本人の日常を理解するのは困難だと思い知らされた。
生まれは神社、結婚はキリスト教、葬儀は仏教という謎の宗教観。普段信仰を持っていない人も、神社や寺で祈るというのだから更に謎だ。
神や仏は、都合のいい時だけ祈る彼等を受け入れるというのか? 信じられない。
神への信仰心の強い国にいながら無宗教であるということはマイノリティだ。母の死を切っ掛けにマイノリティになったことを初めは訝しんだ友人達も、俺の苦しみに寄り添うようになってくれた。片田舎で暮らす以上煙たがられる価値観だが、マイノリティを排除するより無視する方が楽だと思ったのか気にも留められなくなったのは朗報と言える。
陰で、そのことを理由に親父が苦労させられていたことは分かっている。母の死と夢で経験した死。神を信じることができなくなるには充分だったが、それを理解してくれる人達ばかりではない。
日本人の宗教観は不可解だが、マイノリティを否定しない心地よさがある。宗教の自由があり、傾倒しすぎないいい所取りの信仰。ここには、神道の教えを基盤とした、無宗教という名の宗教があるのだろう。
振り回されることに疲れ、木陰のベンチで二人がゴンドラに乗っているのを待つことにした。親父曰く、ゴンドラではなく小舟ということらしいが。
見たこともないものを見て、経験することは楽しい。異文化の風に吹かれることも息抜きになる。結局、西洋風の噴水広場で涼んでしまうあたり、異文化体験ばかりでは気疲れしてしまうが。
いくつもの目が、こちらを意識していた。己の容姿がそこそこいいことは自覚している。異国の地だからこそ、視線を向けられることにも慣れた。
ペアであったならばそこまでではなかっただろうが、一人でいれば当然目を引くだろう。放っておいて欲しい。今朝もまた見たあの夢が尾を引いているのだ。構われたくない。
視線から逃げるように、膝に置いた手で髪を掻き上げる。俯くような姿勢になるから、少しは逃れられるだろうと期待して瞼を閉じた。
心に決めた人がいる、という言葉が突き刺さってくる。今までの不誠実さと無関心さを知る人が聞いたら驚くような言葉だろう。
俺は、夢の中の誰かを求めて一生叫び続けるつもりなのか。
両親以外に、話したことのない夢の話。親父と結婚するからと、ミキコにも軽く話したら親身になって聞いてくれた。ミキコもまた前の夫と死別だったから、母の死と夢で見た死に囚われ続けていることに理解を示してくれる。
忘れる必要はない、いつの日か誰かと共に背負える日が来るから、と。母の死を乗り越えた親父と、夫の死を乗り越えたミキコが出会ったように、俺にもいつかそんな出会いがあるのだろうか。
ふと、瞼を開けて横目で路地裏を見たのは偶然だった。腰より長いストレートの銀髪が風になびく。履いている靴が辛うじて見える長さのマキシ丈の真っ白なワンピース。あの佇まい、歩き方、横顔。すべてが、夢の中から出て来たかのように同じだった。
『ラルフ、待たせたな。お昼にし』
親父の声が聞こえたが、駆け出していた。
どこだ!? どこにいる!? 路地裏から見えた道はここのはずだ。あのスピードならそう遠くへ行っていないはずなのに見当たらない。銀髪は目立つ。絶対に見つかるはずなのに!
どこまで来たかも分からない。必死に駆け回って、人にぶつかってしまう。
『悪い!』
日本人でも分かる謝罪をする俺に、ぶつかった相手の少年は無言で右を指さした。誠意が足りなかったのかと一瞬怯んだものの、彼は怒ってはいなかった。
『あっちだよ』
英語ではない。日本語でもない。何故知っているのか、彼が言った言葉が理解できた。知っている言語だ、と。英語以外話せないはずなのに何故分かるのか、なんて疑問に思うよりも驚きの方が大きい。
彼は再び、その言語で言った。
『支えてあげて』
誰のことを言っているのか。彼は何者なのか。少なくとも日本人の顔立ちではない。でもどうでもよかった。誰も寄り付かなそうな急勾配な階段を駆け上がる。廃れた神社、或いは寺の類だ。誰一人いない場所だったが、ふと甘い香りが漂ってくる。
獣道とまでは行かないまでも、人の侵入を阻む歩道の先に人影があった。銀髪の髪の後ろ姿。街並みを見下ろせる柵の傍に立っていた。
『ノイン!』
口をついてできた名前。今まで、一度たりとも夢の中での会話を聞いたことがないのに、すんなり出てきた。彼等の……いや、”俺達”の言語で。
驚いたように、銀髪が振り返る。あぁ……やっと、お前に会えた。
視界がぼやける。体が痺れて感覚が遠のいていく。ゆっくりと距離を縮めて、抱きしめた。離れ離れだった時間を埋めるように、強く強く、ノインを抱きしめる。
どうして今まで、名前すら思い出せなかったのか。こんなに愛おしくて堪らないのに、なぜ今まで傍にいられなかったのか。二度と、失ったりしない。失わないために、温もりを匂いを存在を確かめる。
祝福の光が体を包んだ。俺が求めたいたものが、探し続けていたものが、やっと戻ってきたと感じる。
お前は俺のすべてだった。お前の幸せが俺の幸せだった。お前さえ笑っていてくれるなら、苦労なんて厭わなかった。あの時すり抜けていった幸せが、今腕の中にある。
もう離さない。絶対に。今度こそ、お前を護ってみせる。