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蠅のアヤメ帝国  作者: 星駿平
第1章 アヤメの人間になる前の日々
3/22

第3話 自分は何を持っているのだろうか?

「来たんすね」

菊名はバットを振りながら三浦に語り掛けた。三浦は制服の袖をまくりながら彼に近づく。

「バット貸して」彼にとってバッティングをするのは二か月振りだったが、全然スイングは衰えていなかった。バットの風切り音でそれが分かる。前方に緑色のピッチングマシンを見据える。

ごおごおと音を立てながら二つのホイールが回転している。そのホイール同士が接する点に向かって上からスロープのが続いている。このスロープは三つの黒い鉄で出来ていて、ボールはこの中を通りホイールへと向かい、そして放出される。投手の投げる球と同じ速度で。

三浦はヘルメットを借りてバッティングゲージの中に入った。

ブルペンの中でバッティング練習を行うのが自主練習での常だった。広いグラウンドは他の部活に使用権があるからだ。

三浦はバットを構える。そして放出された球に合わせて金属バットをスイングする。

「!」しかし当たらない。

後ろでネット越しに菊名が笑っている。「全然だめじゃないすか」

三浦はむきになる。「まだまだ」

しかしそこから十分程のバッティング練習で彼は惨状を晒しただけだった。結果ヒット性のあたりは一球も打てず、疲弊しただけだった。

バッティングゲージを後輩に譲り、彼はその場を後にした。

残ったのは屈辱に似た感情だけだった。汗を額に浮かべ帰路につく彼は自然と足早になる。

(そんな筈は無い……ついこの間までばりばり現役だったんだぞ?)

なぜここまで衰えてしまったのか。彼は身分の上では受験生であったが、精神的にはまだまだ野球選手だった。しかし体は既に変化していた。

部に所属していた頃ならここでなにくそと、練習に励んでいたのであろうが今はそんな事出来ない。喪失感だった。彼は自分の衰えに喪失感を覚える。そして自分にできる事が他に何かあるだろうか、と考える。勉強は人並み、芸術の才能がある訳でもない。人と接するのも苦手。

とするならば、これから一体自分はどう人生を歩めばいいのか。


誰でもそうだが気分が乗らないとやるべき事を遠ざけてしまう。彼は非常に気分が落ちていたので、受験勉強をする気なんてさらさら起きなかった。

ベッドに両足を放り出して漫画を読んでいる。窓から差し込む夕日が彼の顔を半分だけ染める。

何度か読んだ漫画。内容は知っている。彼は展開を目で追うだけで没入している訳ではない。どこか浮ついた気分の彼に必要なのは情報を得る事ではなく、知っている物に触れて安心感を得る事だった。

しかしそうしてリラックスしていると当然のように眠気が襲ってきて…・…

結果彼はそのまま眠りこけてしまった。顔の上に掲げていた漫画は落下して、胸のあたりに開いたままの状態で着地する。その衝撃にも気づかない程、彼は安らかな眠りについた。

だがちょうどその時、しばらく家を空けていた母親が帰宅した。

彼女は荷物を置き手を洗った後、しばらくしてから彼の部屋にやって来た。

そこで見たのは受験期にも関わらず漫画を読んでいて、挙句の果てには寝落ちしている息子の姿だった。

「おい!粕!」

母親はドアを勢い良くて怒鳴る。「勉強しろよ!」

三浦は眼をこすりながら体を起こす。「ごめん……母さん」

そしてそのまま勉強を始める。やる気なんて出ないけど、手を動かさないと母親に怒鳴られる。彼はとりあえずそれを避けたかった。

問題集を解いてはめくりの繰り返し。

子供の頃からそうだった。母親には抗えない、それは大人になろうと変わらないんだろうなと彼は思う。


翌日、朝のホームルームで模擬試験の結果が返却された。

彼の前の席の男が結果の書いてある用紙を持ったまま振り返った。

「どうだった?」

その男は三浦と同様に部活を三年の夏までやっていた男。しかしその男の成績は彼より遥かに上だった。その事がまた、三浦を傷つける。

彼は愛想笑いしながらその男に言葉を返す。

三浦は覚えていた。その男が一年前までは自分より下の成績しか取れていなかった事を。その時期は随分心の中で見下した物だった。しかし今となってはどうだ?

見下していた筈のその男は確かに実力を付け、彼よりも地頭が良いと自負していた三浦の成績は下降線の一途を辿る。

ホームルーム後に唯一クラスメイトの元野球部員に話し掛けにいく。席に座ったままの彼の机に腰かけて三浦は口を開く。

「あいつあんなに成績良かったっけ?」

その元野球部員、別所は頬杖をついたまま答える。「知らないの?あいつ部活現役の時から予備校通ってたんだよね。だから成績良くなって当然だろ」

それは知らなかった。三浦は動揺を隠しながら言う。

「でも元々馬鹿の部類だったろ」

「それでも勉強してる奴の成績は上がんだよね。俺らみたいに何の準備もしてない怠け者とは違うの」別所は笑うが三浦はそこまで自分を卑下できなかった。

何であいつが、こんなにも―――

そんな嫉妬に襲われる。

三浦は深いため息をつく。「笑えねえ」

重い空気になった所で、別所が話を変える。

「そういやお前行くの?」

「何に?」

「いや、今日の放課後に受験勉強のリフレッシュの名目でご飯行こうって誘われたんだけど」

「誰に?」

「高橋さん。10人くらいで行くって言ってたけどお前は入ってないのか?」

三浦は顔をしかめる。「てかこの時期に飯行くって、危機感なさすぎだろ」

別所は頭の後ろに両手を当てて言う。

「別に24時間勉強する訳じゃないんだから」

「そうだけど。俺は行かないな、誘われても」

しかし三浦が言ったちょうどその時。高橋さんが彼に近づいてきた。普段はあまり喋りかけてくる方ではないのだが、その時は笑みを浮かべて彼の肩を叩いた。

「ねえ、三浦君。今日の放課後って暇?」

「え」三浦は思わず固まってしまう。高橋さんは天使のような笑顔で三浦の瞳を見つめている。

三浦は言い淀む。目の前で別所がニヤニヤしているから。彼は言動の矛盾を楽しんでいるようだった。しかし例え矛盾した男だと思われたとしても、彼女の誘いには乗る理由がある。

高橋さんの事を三浦はクラスで一番かわいいと思っていた。そんな人が直接自分を誘ってくれた。嬉しいという以上に光栄だった。この誘いを断るなんておこがましい事を彼は出来なかった。


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