第1話 アヤメが彼を呼んでいる
“アヤメ”には近づかない方がいい。近づいたら二度と帰ってこれない。
子供の頃から親にそう言われてきたけど、それが何なのか17歳になった今でもわからない。
授業終わりの鐘が鳴る。三浦粕はまだ化学のノートを写し終えていなかった。
「あの、片山さん。ノート見せてもらってもいいですか?」
隣に座っているロングヘアの女子は少し嫌そうな顔をしてから、取り繕うように愛想笑いを浮かべた。
「うん、終わったら机の上に置いといて」
三浦は急いでノートを写す。写しながら彼は耳を傾けていた。
「3組の大和が行方不明らしい」
それを聞いて三浦は驚いた。大和とは知り合いでもなんでもなかったが、それでも衝撃を受けた。
「どうやらヤクザが関わってるらしい。あいつはそっち方面と繋がりあるって噂されてたけど本当だったんだな」
これにも三浦は驚いた。そんな噂聞いた事もなかったが、それでも衝撃を受けた。
「警察が探してるらしいけど、もう三日学校に来てないからな。どっかに逃げたか死んでるかだろ」
三浦はノートを写し終えたので隣の机に返却する。彼は驚きながらも、自分とは関係の無い事だと受け止めていた。
三浦の通っている佐竹高校には使われていない部室がいくつかあって、その中の一つに鍵のかかっていない部屋があった。知っている者は恐らく彼だけだろう。彼には鍵を見ると施錠されているかどうか確かめる癖があって、それが理由でそこが使えると知った。
毎日放課後に、彼はそこで一時間ほどまったりとスマホをいじる時間を取っている。
特にする事を決めている訳ではないがSNSを見たり、動画を見たりしながら5畳程のその部室でリラックスをする。
壁には知らないバレーボール選手のポスターやアニメキャラクターが貼られている。元バレー部の部室だろう。用具らしき物も床に放置されている。
パイプ椅子はぎこぎこ音が出る程に年季の入った物だったが、彼にはそれでも良かった。リラックスさえ出来れば。
しかしその時、男の声が聞こえた。
「大和さん、なんでここにいるんですか」
それを聞いた三浦は部室の中で息を止める。この旧部室棟に人が来る事はほとんどなかったので、人が来た事にまず驚いた。しかしそれ以上に大和という名前に驚いた。
(いや、違う大和だろうな。珍しくはない名前だし)
だが続けてこんな声が聞こえてきた。
「警察も探してるって話ですよ。早く警察に行って、捜索願を取り下げてもらった方が……」
流石にこれはあの大和に違いない。彼は静かに息をしながら窓を開ける。部室の前の狭い空間に二人の男がいた。一人は坊主で、一人は長髪。
長髪の方が口を開く。
「捜索願を出してるのが誰か分かるか?俺を殺そうとしてる奴らだ」
「え?」
「俺なアヤメの人間だったんだよ、元々」
三浦は息をのむ。アヤメ、久々に聞いた名前。彼は興味をそそられた。
「あそこはガキが平然と殺され、道を歩いてれば突然殴られる。自分の弱みを見せても付け込まれる。そういう世界だった。俺はそれに嫌気がさしてあそこを飛び出し、新しい生活を手に入れた」
「アヤメ出身だったんですか。そんなの初めて聞きました」
「言いたくなかった。まあ察してくれ、そこらへんは」
アヤメとは地名か?三浦は顎に手を当てて聞き入る。
「だがもう潮時だ。俺はこのまま北海道に逃げる。流石にそこまでは追ってこないだろう」
(なんだこれは、一体こいつはどんな世界にいるんだ?)
三浦は眼を見開いて長髪の男を見つめる。確かに修羅場をくぐってきたような落ち着きを感じる。男は長い髪を掻きあげて言った。
「彼女の叔母さんがさ、札幌に住んでて。その近くに家借りて暮らすって話になってさ。まあ、要するにこっちにはもう帰ってこないから」
坊主の男はつらそうな顔をしている。「そうなんですか……」
「でもお前に挨拶なしに行くのも悪いと思ったからちょっくら寄ったわ。お前が一番慕ってくれてただろ?俺の事」
「マジで行っちゃうんですか?」
「うん。行かないと殺されるし」
「そんなの……受け止められないです」
三浦はずっと聞いていた。その会話を。奇妙な話だなと思った。
まるでドラマのワンシーンかのような、自分とは切り離された出来事のように思えた。
彼はそのまま窓の隙間からずっと見ようと思っていた。しかしその時だった。
「ん?」
「!」
長髪の男が突然三浦の方を見てきた。三浦は慌ててしゃがみ込む。
(やべえ!目が合った!)
長髪の男が独特な世界に属していることは会話で分かった。関わってはいけない、そう思った三浦は素早く、しかし足音が出ないようにその部室の裏側の窓から出て行った。
そして旧部室棟を走って出ていく。
目が合った長髪の男、大和という名の男。彼の瞳は引き込まれるような黒だった。あの目を三浦は見た事があった。今は別居している彼の父親の目だ。すなわち異常者の目だ。
(大丈夫だよな……ばれてないよな……)
窓からは眼から上だけしか覗かせていなかった。だから顔は見られていない。
多分すぐに忘れるだろう。三浦はそう自分に言い聞かせる。
家に帰った彼はそのまま自室へと直行する。
心臓はまだ高鳴っているが、ベッドに寝転んでなんとか落ち着かせようとする。
彼は天井を見つめて思い出す。
大和の言っている事はろくでもない世界の話だったが、それでも自分の人生と比較すればましだなと思っていた。
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