最終回 健太が走る意味
四周目に入った。健太の身体はボロボロになっていた。過去の思いが錯綜し、健太に襲いかかる。
最終回 ■ 四周目
ほとんどのランナーは走り終えていた。精鋭たちの表彰式もとうの昔に終えている。スピーカーで入賞者たちの名前が呼ばれるのが聞こえていた。走り終えたランナーたちは、完走したことの満足感と、苦行を終えた解放感を土産に次々と家路に向かう。だが、健太の走りはまだ終わらない。
朝方から吹いていた山根おろしは一段と厳しさを増していた。吹き曝しの河川敷では、枯れすすきは起き上がりこぼしのようだ。風の強弱に翻弄されて、目まぐるしく立たされたり寝かされたりしている。地面に押しつけられたときの枯れすすきの尾花は、虐められ、泣かされている。
大鳥川市民マラソン大会のような周回コースでは、風向きがランナーたちの敵にも味方にもなる。走る箇所によって、真正面から風を受けて前に進むのが大変になったり、逆に背中から押されて楽に走れたりもする。
いまは健太の正面から風が襲ってきている。
まるで壁と押し合いをしているように進まなかった。風は忘れていた耳の痛みを思い出させた。それは耳鳴りになった。狂おしい記憶が押し寄せてきた。
曇り空で、じめじめとした湿気の多い日だった。
健太がこの先、長い年月に渡って、癒しきれない痛みとなった父の葬儀の日。家族、親族が取り巻くなか、棺で父は最後の寝顔を見せていた。まもなく出棺だった。
学生服姿の健太は棺の前で白い菊の花を持って立っていた。父が病院で息を引き取ったときは大泣きしたが、葬儀で忙しく振り回される母のそばについていると、泣くことを忘れていた。
棺へのお別れの花入れが始まった。闘病生活の果て、父の顔は痩せ細って鋭角的になっていた。これまで堰き止めていた涙がいっきにあふれ出た。まるで幼い子どものように、大声を出しながら、その胸に花を置いた。
火葬までの間、父の三歳年上の伯父が健太に寄り添うようにしていた。父のことをとつとつと語ってくれた。
父は妹のほうは社交的で大丈夫だろうが、健太のほうは内向的な性格だから心配だといっていたそうだ。健太も伯父から聞くまでもなく、そうだろうとは思っていた。
つぎに父のランニングの話になった。伯父の記憶によると昔の父は内臓が弱く食が細かった。若い頃は運動をするタイプではなかった。走り出したのは、健太が生まれたのを機に、家族を守るためには、健康でなくてはいけないと思ったからだという。三〇歳を過ぎたころだ。
伯父は、年が若い父が、自分より早く死ぬのが無念でしかたがないと嘆いた。目を赤く腫らしながら健太にこういった。
「弟が大切な家族を残してこんなに早く逝ってしまって悲しい。……これからわたしにできることがあれば手助けもしたい。なんなりといってくれ。すぐにも車で駆けつけてやる。だが……、健太くんはこれからお母さんを支えながらやっていかなければならない」
伯父は隣の県に住んでいた。
健太は伯父の言葉にこたえて首を二度縦にふった。
しかし、月日がたとうと、父が亡くなってから、自分がなにをしていいのかが分からないままだった。悲しみは、時として日常の些事のなかでまぎれることがあっても、その痛みは日を追って増すばかりだった。
ゴールまであと半周のところまで来た。耳がひどく痛い。引きちぎったら楽だろうと思う。激しい呼吸で酷使した肺や胃袋は、これまで吸い込んだ冷気で、ざらざらに擦り切れている。
マラソンにはランナーズハイというものがある。走っているうちに苦しさが消えて、気分が高ぶってくるってやつだ。体には負担がかかっているのだが脳がそれを感じなくなる。健太はこれまでの練習で経験したことがなかった。あわよくば大会本番で、という気持ちがあった。
だが、走り始めてから六時間近く、こんなにも頑張ってもまだ来ないのだ。マラソンの教本で読んだだけの、そんなまやかしのプレゼントは健太のもとには届きやしない。
健太の口からいきなり悲鳴が出た。
ここにきて素足で砂利のうえを走っているように足の裏が痛い。神経に達した虫歯のように痛みが頭のてっぺんまで響いてくる。
もう走れない!
健太はよろけながらコースを外れると、河川敷の草のうえに尻もちをついた。
五年前の父の走る姿がちらついた。健太のシューズは、父がこの大会を走っていたときに履いていたものだ。靴のサイズが健太と同じだから、使うことにした。白地にグレイのストライプ。いま流行っているデザインに比べると、なんて地味で古臭いんだ。
怒りがこみあげてきた。このおんぼろシューズは長い距離を走るのに耐えきれなくて、かかとが剥がれてしまったのだ。
「ばかやろう! こんなの履いてくるんじゃなかった!」
毒づいて、父への当てつけのように、乱暴に両方のシューズを足から抜き取った。
こいつが! こいつが!
疲労困憊で激しい呼吸。波打つ肩は、怒りで震えた。
健太はシューズのかかとを裏から表から見て、なかに指先をつっこんだ。
息が止まった。
間違いじゃないのかと何度もシューズをひっくり返した。どこもどうにもなっていないのだ。父のシューズは少しばかりの汚れをつけただけで、まるで新品のように張りを保っていた。父が五年前ゆうゆうとこの大鳥川市民マラソン大会を走ったときのままだった。
健太は人目をはばからず、天を仰いで大声でわめいた。恥ずかしかった。堰をきったように涙があふれてきた。自分の力不足を父のシューズのせいにしたことが。
朝方から少しずつ色を変えていた空が黒くのしかかってきていた。勢いを増した山根おろしが小雪を運ぶ。
健太はTシャツの袖で涙をぬぐった。シューズを履きなおすと、かじかんだ指先できつく紐を結んだ。幸いにも風は追い風となって背中から押してくれている。片足を引きずったって、歩いたって前に進める。
立ち上がるとふらつく足で走り出した。
視界には一人、二人と、いまなお走っているランナーの姿があった。
妹が待つ堤防の斜面が見えてきた。妹は立ち上がって両手を大きく挙げている。何度も大声で声援を送ってくれている。
いきなり妹がヘッドフォンを取り去り、健太のほうに駆けよってきた。
「兄ちゃん。あと少しだ!」
「わかっている。ハァ、ハァ」
妹はゆらゆら走る健太の横を離れない。このままコースの脇を並走するつもりだ。
「兄ちゃん。まっすぐ走っていない」
「ハァ、ハァ……。なにいってんだ! おれはまっすぐに走っている」
妹が言葉をつまらせた。
「……うん。そうだね。兄ちゃん。いけるよ」無理に笑顔をつくっているようだ。
頭に十分に血液がまわっていないのか、なかなか返す言葉を思いつかない。
「ハァ、ハァ、それより、おまえ、ヘッドフォンなしで耳が冷たくないか?」
並走する妹の髪がなびいて、赤くなった耳が冷たそうに出ていた。
「もう英語は聞き飽きたわよ。それより、兄ちゃん、最後まで行けるの?」
「ハァ、ハァ、行けるさ。ハァ、ハァ、おれは……、おれはな……」
左右に体が大きくふらついているが倒れることはない。耳は痛みを通り越したら、ただの氷の塊みたいなもんだ。砂利が突き刺ささるように痛かった足の裏も、それが過ぎちまえば麻酔がきいたように感じなくなる。
次の言葉がなかなか出てこない。
風で倒された枯れすすきが、コース上に斜めにかぶさっていた。健太は走ったまま、体を前に倒すと、右手をつきだして尾花をむしり取った。握りこぶしのなかの尾花に飛んでほしかった。手のひらを開くと、つぶされた尾花が風に乗り、雪がちらつく空へと高く舞い上がっていった。
ようやく決め台詞が出た。
「……家のなかで、ハァ、ハァ、……たったひとりの……男だぜ」
妹は
「へんなの」
と笑うと、目を細めて健太の顔を見た。
父は大鳥川市民マラソンを真ん中より上位の成績で走った。そんな真似はとてもできない。
それでも、いま、ペタペタと足の裏がコース上で音を立てている。裸足で走っているようだ。それは父のシューズが自分の体の一部になったってことだ。ここで前に進むことができるのなら……、死んだ父に少し近づけるような気がした。
「がんばれ。兄ちゃん」
並走する妹が繰り返す。
シューズがペタペタと心地よい音楽のように音を奏でる。
父が健太にこのシューズを残してくれた。そして大鳥川市民マラソン大会を走らせてくれた。
小学生のころの、キャッチボールがうまくできなかった健太に、きっと父はこんなこともいっているだろう。
「あきらめるんじゃない。お父さんのグローブのど真ん中に、しっかりとボールを投げてこい」と。
ゴールが見えてきた。雪の粒が大きくなってきた。妹はもちろん健太の横にくっついてきている。
片手の指で数えられるほどのランナーを迎えるために、緑色の野球帽を被った係員たちがゴールに集まっていた。ゴール横では、人の背丈ほどある電光掲示板が、デジタルで経過時間を細かく刻んでいる。
もはや健太にとって、刻々と進み続ける無機質に光る数字は意味がなかった。すべての係員たち、残って走っているランナーたちも、ここにいる全員が健太と同じ思いに違いない。
すべてのランナーたちが、最後の力を振り絞って完走する。そのことだけを祈っている。
声援の数が増えていた。
役を終えたのだろう。中間地点の給水所にいた男女の二人の係員の顔も見える。もちろん一人は同級生の彼女だ。彼女も妹に負けないほどの大きな声で声援を送ってくれている。万歳をするように大きく手を振っている。風で緑の野球帽がいまにも吹き飛ばされそうだ。
彼女は隣のクラスの誰さんなんだろう? まだ名前を知らない。
ランナーズハイが、健太に降りてきた。
(完)
ゴールで倒れて、また立ち上がる。健太にはその先があるのだから